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2022年3月31日 (木)

さかえ幼稚園の道祖神(練馬区高松)

練馬区高松の富士街道沿いにある大きな幼稚園。昭和46年(1971)認可だが、400人を超える園児が集う大規模な幼稚園で、富士街道に面した園舎と運動場の裏、道を隔ててもう一つ第二運動場と園舎がある。

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第二運動場の入り口にあるのが写真の道祖神である。おそらくは新しいものだと思われる。幼稚園児にとってはなじみの深いものだろう。幼い頃にこういうものに親しむことはとてもいいことだと思う。造立年等はまったく不明。本来ならば取り上げる対象ではないかもしれないが、いろんな想像が浮かんできたのであえて書き残すことにした。

場所  練馬区高松4丁目7-8

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2022年3月30日 (水)

幼稚園脇の庚申塔(練馬区高松)

かつてのふじ大山道(現在の都道池袋谷原線)に面した大きな幼稚園「さかえ幼稚園」の西側の辻向かいに堂宇があり、唐破風笠付角柱型の庚申塔が祀られている。

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庚申塔が面している通りが富士街道(ふじ大山道)である。昔は多くの参詣者が前を通っていただろう。庚申塔の造立年は元禄5年(1692)12月だから、富士講が盛んになって人通りが増えたのはおそらく庚申塔が出来てから100年以上先のこと。

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日月、青面金剛像、三猿が描かれており、右側面には「奉造立庚申石塔一基二世安樂祈所 敬白」とあり、左には「上練馬江高松結衆  施主廿五人」と書かれている。上練馬江は上練馬村の誤字だろう。江戸時代この辺りは上練馬村で、特に村境という場所ではなかったようだ。おそらく純粋に農村の庚申講中によって造立されたものだろう。

場所  練馬区高松4丁目9-22

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2022年3月29日 (火)

小沢家の庚申塔(練馬区高松)

かつてのふじ大山道であった都道池袋谷原線沿いには石仏が多いが、豪農の敷地内にあるものもいくつもある。区立高松小学校の北にあるこの小沢家も現在でも裏の畑を合わせて1000坪ほどの広い家で、その敷地内には堂宇があり庚申塔が祀られている。

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小沢家の南東には御嶽神社があり、北には八雲神社がある。おそらくどちらにも深い関係があるのではないだろうか。堂宇内の庚申塔は駒型で、比較的新しそうな雰囲気だったが、確認すると明治25年(1892)正月の紀年が刻まれていた。

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青面金剛の頭上には馬頭のような感じで人面が載っている。比較的珍しいタイプである。日月はなく、青面金剛像が邪鬼を踏みつけているだけで三猿も見られない。ただ左手にはショケラを下げている。側面には「小沢又ウエ門建之」と刻まれており、小沢家の家主による建立であることは間違いないだろう。

場所  練馬区高松3丁目21-8

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2022年3月28日 (月)

上原家の馬頭観音(練馬区高松)

練馬にはかつての豪農のお宅がいくつも残っている。光が丘の再開発地域に隣接するこの上原家は裏の畑を合わせると5,200㎡ほどある貴重な農家である。その南西角に堂宇があり、とても立派な馬頭観音が祀られている。

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北に隣接する光が丘公園跡地だが、昭和初期までは土壌を生かして練馬大根の生産が盛んだった。ところが第二次世界大戦になると軍の計画で農地は奪われ軍の飛行場が建設された。成増飛行場(あるいは高松飛行場)と呼ばれたこの飛行場は昭和18年に工事開始したが、昭和19年に本土爆撃が始まると翌年には爆撃を受け1年ほどしか持たなかった。戦後は進駐軍の住宅「グラントハイツ」となり、住民のもとに戻ることはなかった。そんな歴史を見てきたであろう貴重な馬頭観音である。

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とても背の高い石仏で高さは187㎝ある。上部に載っている馬頭観音像は三面六臂の見事な彫りで、台石の正面には「馬頭観音」、右面には「右 所さわみち」、左面には「左 大山 東加うやさん道」とある。東高野山(長命寺)への参詣道の意である。その下の基壇には、文化6年(1809)8月の造立年があり、武列豊嶋郡上練馬村高松の銘がある。きっと上原家には沢山の牛馬がいて練馬大根の栽培や運搬に活躍していたのだろう。

場所  練馬区高松4丁目19-12

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2022年3月27日 (日)

谷原の馬頭観音(練馬区谷原)

谷原交差点から僅か100mほどふじ大山道を東に進んだ丁字路の角に馬頭観音が祀られている。民家の敷地の一角を1坪ほどきちんと整備してこの馬頭観音をお祀りしてある。かつてこの辺りは練馬でも箕輪と呼ばれた地域で、現在の笹目通あたりを境に西箕輪、東箕輪という小字だったようだ。この場所から150mほど北には区立の箕輪公園があり、その南には821㎡の自然保護林「みのわ街かどの森」がある気持ちのいい空間。

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馬頭観音の前から西を望むと谷原交差点の歩道橋と信号待ちの車が見える。この辺りには上原姓のお宅が多いが、ここも上原家。馬頭観音があるということは中農から豪農の家柄だったのだろう。シンプルな馬頭観音で正面には「馬頭観世音」と刻まれ、右側面には明治▢とあるが、下部が折れているため年が消えている。凹みをなぞってみるとどうも明治十年(1877)とあるように思えた。

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折れている痕跡は正面の文字でいうと「音」の部分で、ここから折れるのはおそらくは自動車に突っ込まれたのではないかと推測した。辻にある石仏石塔はハード面で未熟な昭和のモータリゼーション期に衝突で傷んだものが結構ある。左面には「施主 四代目 上原定五郎」と刻まれているが、こちらはきちんと読めるので、右側から突っ込まれたのではないだろうか。

場所  練馬区谷原1丁目11-1

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2022年3月26日 (土)

民家の道標(練馬区谷原)

普通に歩いていたら見逃してしまいそうな石塔がある。今では珍しい平屋の戸建で庭が広く辻側が庭で200坪以上ある。庭が敷地のうち7割ほどあり、辻の角に大きなケヤキの樹がありその足元に石塔が立っている。

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写真右の道路はふじ大山道である。ここから160mほど西に行くと谷原交差点に出る。現在このふじ大山道は路地っぽい見た目だが都道として管理されているようだ。この都道441号線、都内の起点は池袋六又交差点で終点は谷原交差点(六又)と起点終点共に六差路。そしてこの石塔のある交差点は昭和初期までの谷原交差点のような交通の要衝であった。

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残念ながら摩滅がひどくて文字は殆ど読めない。練馬区の資料によると、正面は不明、右面に「西 田無▢▢ 二里、府中宿▢ 五利、東 練馬宿▢ 一里八丁、▢▢▢▢ 三里半」とあるようだ。三里半が気になって調べてみたが、距離的には岩槻街道の川口朝日町辺りだろうか。昔の表現であれば浮間渡しとか岩淵の渡しなどとあってもいいのだが距離が合わない。石塔の正体は地元の話では馬頭観音だということになっているようだ。近くには他にも馬頭観音がいくつもあるのでおそらくそうだろう。それだけ明治大正時代には牛馬の往来があったことが想像できる。

場所  練馬区谷原1丁目9-16

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2022年3月25日 (金)

谷原延命地蔵尊(練馬区谷原)

練馬区谷原と言えば長年の間笹目通りから目白通りに入り関越自動車道練馬インターへ向かう交通の要衝である交差点として知られている。しかしこの二本の大通りを斜めに切るように横切る古道を含めての六差路であることを知る人は多くない。この古道は「ふじ大山道」と呼ばれて来た道で、板橋や埼玉から相州の大山や富士登山に向かう山岳信仰の人々の参詣道である。

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谷原交差点よりも500mほど東にこのふじ大山道が分岐する辻がある。左がふじ大山道、右は橋戸道である。現在は北原通りと呼ばれており、関越自動車道練馬ICのある三軒寺交差点で目白通りに合流している。橋戸というのは現在の外環自動車道と関越自動車道のジャンクションの下にある公園「大泉橋戸公園」にその名を残している地名で、白子川を越える橋戸橋にも名が残る。このふじ大山道と橋戸道の分岐点に堂宇があり、地蔵(谷原延命地蔵)が祀られている。

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丸彫の地蔵尊で顔の脇に修復の跡がある。造立年は安永4年(1774)10月で、台石正面には「武州豊嶌郡谷原村 念仏講中 二十人 惣村中」とある。側面には横山、宮部、保土塚姓の4名の願主名があり、「みぎ はしど道」「左 たなし道 二里 ふじ大山道」とある。横山、宮部、保土塚の姓は後ろに掲げてある延命地蔵堂新築資金奉納者の氏名にもみられる姓であり、この再建年度は昭和55年(1980)2月。「車に突入され<平成6年(1994)壊される」と記されており、完成は8月とある。こういう新旧の歴史もまた興味深い。

場所  練馬区谷原1丁目17-6

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2022年3月24日 (木)

小沢家の馬頭観音(練馬区高松)

清戸道の説明板のある庚申塔から清戸道を西に100mほど歩くと、レンガ風の共同住宅の一画に馬頭観音が祀られている。実は庚申塔の場所も小沢家の土地で、ここもまた小沢家だったらしい。

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小沢家だったときは植込みの垣根の中に埋もれるように立っていた馬頭観音が、10年ほど前に共同住宅になった時に写真のようにきれいなスペースになったようだ。

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馬頭観音は上部が少し盛り上がったかたちの角柱型で、正面には「馬頭観世音」とある。脇には、大正13年(1924)4月の紀年が刻まれ、「施主小澤彦太郎」の銘がある。大正末期というと荷車、馬車、一部に自動車だったろうと推測されるが、まだ大半は人力、馬力の時代。古い街道沿いにある馬頭観音は過去に思いを寄せる良いきっかけだと思う。

場所  練馬区高松3丁目13-1

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2022年3月23日 (水)

清戸道と庚申塔(練馬区高松)

清戸道という古道は現在の文京区江戸川橋から西へ伸びる街道である。松尾芭蕉が水道工事の監督をするのに住んでいた関口芭蕉庵の近くから、目白坂を上り椿山荘前で現在の目白通りの筋が清戸道の始まり。ほぼ目白通りと同じ道筋で西へ向かい、南長崎で小石川道を分ける。やや北東に向きを変えて、千川上水筋を通り、練馬区役所辺りからは再び目白通り筋になる。練馬区貫井で目白通りから北に斜めに分岐する道があるがそれが昔の清戸道で、その後は石神井川左岸を西進、やがて保谷、(東)久留米を経て清戸(清瀬市)に至る街道で、主に農産物の輸送ルートであった。

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練馬区高松の旧清戸道傍らに清戸道の説明板があり、その脇に屋根付きの庚申塔がある。この前の道をかつてのお百姓さんは早朝から穫れたての野菜をもって江戸へ向かい、昼前には帰途につき下肥(堆肥)を運んで帰ってきた。中農以上は馬の背で、小農は天秤棒で担いで運んだという。文京区の日本女子大北側に清戸坂があり当時の逸話も残っている。

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庚申塔は笠付角柱型で日月、青面金剛像、三猿のシンプルな正面図柄だが側面には蓮葉が描かれている。造立年は元禄11年(1698)11月。尊像脇には「奉造立庚申石像一基諸願成就祈所」、右側面には「願主 高都重左衛門 同行二十人」、左側面には「武州豊嶋郡上練馬之内高松村」と刻まれている。

場所  練馬区高松3丁目12-2

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2022年3月22日 (火)

大日如来虚空蔵菩薩下の堂前墓所の石仏(練馬区高松)

住宅地にある70坪あまりの墓地だが、民間墓地なのか境外墓地なのかは分らなかった。敷地の西側にお堂があり「大日如来虚空蔵菩薩下の堂」という扁額が掲げてある。下の堂というからには上の堂があるのではと思ったが、周囲には山もないしそれらしいものもない。

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堂宇の中には曼荼羅風の掛軸と大日如来と虚空蔵菩薩の木造が納められているようだ。堂宇手前には2基の笠付角柱型の石仏が立っており、そのうちむかって右の石塔はどうやら供養塔らしい。かなり文字が摩滅しているので読むのに苦労する。正面中央には「南無阿弥陀仏」とあり、側面には「三界万霊」と刻まれている。造立年は寛文9年(1669)7月とある。

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向かって左の石塔は笠付角柱型の庚申塔である。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、右側面には「奉待庚申供養 」に紀年そして講中十一人とあり、左側面には「武列豊嶋郡上練馬之内高松村 願主小沢傳右衛門」と書かれている。造立年は享保18年(1733)10月である。

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東側の入り口脇には地蔵が並んでいるが、摩滅とゼニゴケでほとんど文字が読めない。おそらくは墓石として造られたものだろう。一番右にある舟型光背型の地蔵菩薩像は区の資料に記載があった。「西心法士 享和2年(1802)七月廿八日没」とあり、左脇には「信州小市之生」とあるようだ。信州生まれのお坊さんの墓石かもしれない。無縁墓石は堂宇の裏手にもたくさん並んでいる。江戸時代中期のものが多いが、その手前に数枚の板碑がある。紀年が確認できるものには天文20年(1551)のものがある。

場所  練馬区高松3丁目9-2

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2022年3月21日 (月)

耳塚(練馬区春日町)

昔、上練馬村の中ノ宮に信仰の厚い老婆が住んでいた。老婆は村人に「もう生きていくのがつらいので私を土に埋めてくれ」と頼むので、村人は「そんなことはできない。婆さん、長生きしてくれ。」と説得したが、婆さんは言い張って聞く耳を持たない。仕方なく、相談した結果村人たちは言うことを聞くことにした。

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親切な村人たちは、土の中は苦しいだろうと心配して、大きな桶を用意し、その中に食物を十分に入れ、蓋に穴を開け節を抜いた竹を差し込んで息が出来るようにした。老婆は身を清め鐘を持って桶に入り、厚く礼を述べてから「鐘の音が聞こえなくなったら、死んだと思って、線香をあげておくれ」と言った。村人は竹筒の先が塚の上に出るように周囲から土を盛りあげ周りに木の苗を植えた。

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村人はその後も心配して、代わる代わる竹筒に耳を当て音を聞いていたが、そのうちついに聞こえなくなってしまった。しかし、不思議なことに、耳の悪い人が竹筒に耳を当てると耳がよく聞こえるようになり、また花立ての竹筒にたまった水で耳を洗っても耳の病気がよくなるので、たちまちこのことが近郷近在に知れ渡り、遠くから参詣人が来るようになって、誰いうとなく耳塚といわれるようになった。明治44年(1911)4月、篠田粂太郎ほか7名が発起人となって、盛大なお祭りをして仏を供養し、「円浄法師之位」の石碑を建立した。塚は昔の村道沿いにあって、高さ約2m、カシやケヤキの大木が茂り、法師のご命日(26日)には、篠田粂五郎家で供養を行っている。

(練馬区の資料より引用)

場所  練馬区春日町5丁目34-11

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2022年3月20日 (日)

寿福寺の石仏(練馬区春日町)

春日町の由来春日神社に隣接するのが真言宗の寺院寿福寺。開山は江戸時代初期だが詳細は不明。本堂は明治26年(1893)に焼失したが、明治43年(1910)に再建されている。本堂前の境内は2022年年初現在改築工事を進めており、工事現場にことわってから境内に入る。

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本堂の左手から回り込むと末社などがあるところにいくつかの石仏がある。舟型庚申塔と敷石供養塔があるが、右の敷石供養塔は角柱型で大正5年(1916)の建之とある。

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左の舟型光背型の庚申塔が年代物で、造立年は延宝3年(1675)10月。この年代でこの図柄は珍しい。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、「奉造立庚申供養石像為二世安楽也」「武列豊嶋郡上練馬江海老ヶ谷戸村 結衆十三人」と刻まれている。いくつかの区で調べてみると1670年代の寛文後期~延宝年間に流行し始めたようだ。

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墓地にももう一基の庚申塔がある。ゼニゴケで真っ白だったが、舟型光背型で日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄に主尊の左手にはショケラがある。造立年は宝永4年(1707)11月。「奉造立庚申石像に誠意祈攸」とあり、「牛込築地 結衆十六人 石屋茂兵衛作」とあるので、ここ海老ヶ谷戸村のものではなさそうである。左の舟型光背型の地蔵半跏像は基壇に偈文(げもん)が刻まれているが年代等については分からない。

場所  練馬区春日町3丁目2-22

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2022年3月19日 (土)

円通寺の石仏(墨田区押上)

正円寺の南にあるのが飛木稲荷神社と円通寺。神社と寺院がツーペアという珍しいパターンである。円通寺は正円寺と同じ天台宗の寺院。創建は応仁元年(1467)で正円寺の創建の前年である。高木神社の鳥居と円通寺の門はほぼ直角に接している。この高木神社には御神木の銀杏があるが、「身代り飛木の焼け銀杏」と呼ばれ、昭和20年3月10日の東京大空襲で銀杏の樹盛によって火災の延焼を防いだと伝えられている。

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焼け銀杏は意外に各所にあり、麻布善福寺などが有名である。とても生命力の強い樹種でおそらく人類が滅んだ先もずっとありそうだ。山門をくぐると正面に本堂があり、右手に2基の石仏が並んでいる。

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左の舟型光背型の阿弥陀如来像には「三界万霊」と刻まれており、享保7年(1722)10月の造立。右の舟型光背型の地蔵菩薩が有名な地蔵で、錫杖の一部が欠損しているが、墨田区内で最古に近い地蔵と言われている。造立は明暦2年(1656)2月。「奉造立地蔵大菩薩為寒念仏供養也」「殊者當村結縁衆為菩提也」とある。説明板によると、寺嶋村新田の地蔵講中による寒念仏を修めたことと記念して造立されたもの。

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本堂の左手に入っていくと無縁仏が無数に並べられている場所がある。その右列の最後部に庚申塔がある。駒型の庚申塔で、元文5年(1740)の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で左手にはショケラを持っている。

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さらに先に回ると再び無縁仏の小集団がある。その右後ろに「庚申尊石燈籠」の文字が見える笠付角柱型の石塔がある。造立年は享保14年(1729)9月で、「願主 請地村上講中 十二人」とある。寺島村の石仏が多い中で、請地村は珍しい。

場所  墨田区押上2丁目39-6

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2022年3月18日 (金)

正円寺の石仏(墨田区押上)

墨田区押上にある天台宗の正円寺は応仁2年(1468)の創建。京都ではこの前年に起こった応仁の乱が向こう10年続くという乱世である。隣接する高木神社も同年の創建であることから、ここが旧寺島村新田の中心であったことがうかがえる。明治には富士講が盛んになり、神社には山王向島講社という富士講の碑がある。

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正円寺は高木神社に比べるとひっそりした感じで路地に面している。本殿迄の参道が少し曲がっているのは何か意味があるのだろうか。江戸時代の切絵図を見ると、正円寺は第六天社の別当寺、となりの円通寺は飛木稲荷の別当寺となっている。

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本堂左手には石仏が並んでいる。上の写真の右の角柱型石塔には「奉納大乗妙典六十六部日本回国供養塔」とある。造立年は文化14年(1817)11月。武刕葛飾郡寺嶌邑 行者仁兵衛の銘がある。中央は駒型の庚申塔で正徳3年(1713)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、「奉納庚申供養講中 寺嶋新田村」の銘がある。左の少し小さな駒型庚申塔は、享保19年(1734)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄で、青面金剛は左手にショケラを持つ。脇には「寺嶋新田村 講中拾五人」とある。

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その横の堂宇にも3基の石仏が祀られている。右は舟型の地蔵菩薩で、寛文2年(1662)2月の造立。光背部分に「奉造立地蔵菩薩…武刕寺嶋村念佛同行」とある。中央の丸彫地蔵菩薩は台石の文字がほとんど読めない。「新田」の文字のみが判別できた。左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は宝永7年(1710)2月の造立で、脇には「奉造立地蔵菩薩尊像」「地蔵講供養為二世安楽也」「寺嶋新田村講中四十人三回▢▢」とある。

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近くの三界万霊塔の無縁仏塚の中央には写真の地蔵菩薩があった。造立年は元禄16年(1703)と読めるが、その他の偈文などは削られたのか確認できない。江戸時代の切絵図を見るとこの辺りより東が寺嶋村、西は請地村となっている。

場所  墨田区押上2丁目37-4

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2022年3月17日 (木)

牛嶋神社の石仏(墨田区向島)

国道6号水戸街道言問橋のたもとにあるのが牛嶋神社。貞観2年(860)に慈覚大師が創建したと言われる。隣接している隅田公園を含めた23,000坪が江戸時代は水戸藩の蔵屋敷だった。関東大震災で焼失する以前は墨堤常夜燈の東側にあったらしい。弘福寺の裏手の墨堤側が牛嶋神社である。江戸時代は牛御前社と言ったらしい。

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現在の境内は東の大通り側が入口になっているが、配置に若干の無理を感じた。牛嶋神社の由来は、建長3年(1251)に牛鬼が現れて社中を走り回り、落としていった牛玉(ごおう)を神宝にしたというような伝説が残っている。牛は古代インドでも神とされる動物で、その牛の胆石を包んで牛玉としたのが日本にも伝わってきたようだ。

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本殿右にある撫で牛は文政8年(1825)に奉納されたもの。それいぜんは牛の形に似た自然石が撫で牛とされていたらしい。撫で牛は湯島天神やその他多くの神社にあるが、この風習は江戸時代から続くもの。自分の身体の悪い部分と同じ部分を撫でると病気が治るという信仰である。

場所  墨田区向島1丁目4-5

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2022年3月16日 (水)

三囲神社の石仏(墨田区向島)

言問橋で隅田川を渡る道は国道6号水戸街道。橋を渡ってすぐに左に入る道があり見番通りという。長命寺前で墨堤通りに繋がっている。元々はこっちの方がメインルートだったようだ。墨堤と見番通りに挟まれた一角に三囲神社がある。「みめぐり」と読む。弘法大師が祀ったという田中稲荷がはじまりとされる。当初は現在よりも北の田んぼの中にあった。

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文和年間(1352~1356)に近江の三井寺の僧源慶が社を改築すると、土中から白狐にまたがる老翁の像が出た。どこからともなく現れた白狐が像の周りを三度回って消えたことが「三囲」の縁起となったという。神社の狛犬の先に対の狐像がある。左の狐像は享和2年(1802)の奉納で「三囲のこんこんさん」と長らく呼ばれてきた。

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三井家が江戸に進出してきたときに、三井寺との関係性やその名にあやかって守護神としてからは三井に支援された。境内には不似合いなライオン像があるが、これは三越池袋店にあったものである。三越とライオンの関係は、大正3年に当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオン好きで三越本店に一対のライオンを置いたことが始まりらしい。

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社殿の裏に回ると、珍しい三角鳥居がある。井戸を囲むように立っている。京都の太秦にある木島(こじま)神社に祀られている鳥居の写しで、かつて三井家にあったものらしい。

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その奥には老翁老婆の石像がある。元禄の頃、三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいた。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼ぶ。すると狐が現れて話を聞き去っていくという言い伝えがある。右の老翁像の造立は元禄14年(1701)5月である。老婆の方は不詳。

場所  墨田区向島2丁目5-17

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2022年3月15日 (火)

弘福禅寺の石仏(墨田区向島)

長命寺の南隣りにある弘福禅寺は黄檗宗(おうばくしゅう)という珍しい禅宗の寺院。黄檗宗は中国色の強い禅寺で、かつて臨済宗から分かれた宗派である。弘福禅寺の創建は延宝6年(1673)の創建で、かつて墨田村香盛島(高森島)にあった小庵を始まりとして鉄牛道機禅師が創建したとされる。江戸時代この辺りの墨堤は桜の名所でたいそう賑わっていたという。

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山門をくぐると正面にさらに迫力のある本堂がある。本堂手前の右側には咳の爺婆尊の堂宇がある。手前には対の大きな燈籠があり、堂宇を覗くと丸っこい二体の像が祀られている。

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堂宇前には風邪除けとともにコロナ封じという張り紙も見られた。口中に病のある者は爺に、咳を病む者は婆に祈願し、全快の折には、煎り豆と番茶を添えて供養するという風習が伝わっている。関東大震災で焼失してしまった七堂伽藍は再建されなかったが、本堂と山門は昭和8年(1933)に再建されたものである。

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その再建時の経緯を刻んだ石塔が本堂手前に立っていた。下部には霊亀が石塔を支えている。古くからこの空想上の動物はしばしば石仏石塔の基壇になっている。造立年は昭和9年(1934)11月で、本堂再建の翌年である。

場所  墨田区向島5丁目3-2

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2022年3月14日 (月)

長命寺の石仏(墨田区向島)

隅田川の左岸にある向島の長命寺は天台宗の寺院。創建年代は不詳だが、元々宝寿山常泉寺という寺名だったが、寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りに行く際、急に具合が悪くなりここで休息を取り、境内の井戸水で薬を服用したところ快癒したので、この井戸水を長命水、寺の名を長命寺とせよとしたという言い伝えがある。

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写真の井戸がそのままの井戸かどうかは分からないが、左脇に長命水の謂れを書いた石碑が立っている。ちなみに浅草方面から来ると、江戸時代は長命寺の近くに今戸の渡しがあり舟で隅田川を渡っていた。

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長命寺の隅田川側にはポツンと長命寺桜餅の山本やがある。桜餅は主に関東風の長命寺、関西風の道明寺があり、それぞれの地域の主流になっている。桜餅が作られたのは江戸時代、長命寺の門番山本新六が落ち葉を掃除している時に、隅田川沿いに積もっている桜の葉を活用できないかと、塩漬けにした桜葉で餅を巻いて売り出したのが始まりとされている。

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山本や脇から長命寺に入ると(勝手口から入るような感じである)、右の植込みに出羽三山の碑が異彩を放っている。出羽三山は山形県の月山、湯殿山、羽黒山の三山の山岳信仰で、この石碑の造立は文政11年(1828)4月とある。江戸時代にはこの三山の講中が盛んになり、みちのくのこの三山への登拝を行う人がかなりいたらしい。

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同じく境内には万治2年(1659)霜月(11月)造立の庚申地蔵尊がある。江戸時代初期は地蔵を主尊にした庚申塔も多い。右脇には「奉供養庚申地蔵大菩薩二世安楽」とあり、左脇には「同行六人」とある。

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石碑や石仏のある小山の中に駒型の庚申塔があった。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、最初に造立されたのは宝永3年(1706)だったが、今残されているこの庚申塔は文化11年(1814)9月の再建である。石工の腕も江戸時代末期にしてはかなり高いレベルだと思われた。

場所  墨田区向島5丁目4-4

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2022年3月13日 (日)

密厳院の石仏(大田区大森北)

大森駅東口から八幡通りを海側に向かって歩くと10分ほどで密厳院に着く。八幡山密厳院祈念寺は真言宗の寺院で、文安5年(1448)に法印雲誉が創建。以前は磐井神社の別当寺であった。この地域は不入斗村(いりやまずむら)の一画だが昔は大きな寺院で、駅前の鷲神社の辺りに大門があったと伝えられる。

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山門をくぐると右側に3基の石仏が祀られた堂宇がある。右は聖観音菩薩像で「帰元浄還禅定門」「厳西入遺宝永6年(1708)正月」とあるのでもとは墓石だった可能性が高い。中央にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像で沢山の千羽鶴が掛けられている。「お七地蔵」とよばれ造立年は貞享2年(1685)2月。

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お七地蔵は明暦の大火<天和2年(1682)12月>を引き起こしたとされた八百屋お七の霊を慰めるために建立されたもの。お七が処刑されて亡くなったのは天和3年(1683)で、その三回忌に小石川村百万遍の念仏講中によって造立されたため、造立年は貞享2年(1685)2月である。元は鈴ヶ森刑場に祀られていたが、ある夜突然ここに飛んで移ってきたという伝説がある。左の舟型光背型の定印阿弥陀如来坐像の造立年は寛文2年(1662)霜月(11月)とある。「奉修庚待供養所」の文字が見える。この時期の主尊はさまざまである。

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地蔵堂の左には2基の石塔がある。右は「南無遍照金剛」とあり光明講中による供養塔らしい。左の自然石は「森本霊神碑」と刻まれている。造立は明治33年(1900)11月でそれほど古いものではない。木曽御嶽講のひとつで、明心講という講中によって建立されたものらしい。いろいろな講中があったことがわかる。

場所  大田区大森北3丁目5-4

 

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2022年3月12日 (土)

鷲神社の庚申塔(大田区大森北)

大森駅周辺はディープな街である。路地裏の雰囲気を持つ通りが多い上に、東海道線がかつての海食崖沿いに走っており、駅の海側の標高は3m程度なのに対して反対側は22mほどの崖上になっている。海側から階段を上って改札に行くのに、山側からは階段を下ってホームに降りる感じである。大森駅の海側も新橋ー横浜間の陸蒸気が開通してからの新しい街である。

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鷲神社は海側にある。標高は3mほどの所で、八景坂の海側の低地は根岸と呼ばれた地区。その南側が向という小字で、ここに江戸時代には鷲神社があった。当時は不入斗(いりやまず)村と呼ばれたエリアで村として年貢を納めるまでには至らない小集落をそう呼ぶことが多かったようだ。多くは寺社の領地だったのだろう。この鷲神社の創建は不詳ながら江戸時代中頃には既にあったらしい。神社から南へ500mほどの所に不入斗パークという公園があるのが数少ない地名の痕跡。

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西参道の鳥居脇に庚申堂があり、舟型光背型の庚申塔が祀られている。青面金剛像に邪鬼のみという図柄で邪鬼が異様に大きいのが珍しい。大田区の文化財資料にも年紀不詳とあったが、昭和36年(1961)造立という説がある。元の位置は神社の南数十mの向かい側の区画(大森北1丁目27)にあったらしいが詳細は不明。

場所  大田区大森北1丁目15-12

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2022年3月11日 (金)

根岸地蔵と石碑(大田区山王)

かつて池上道から入ったところにあった薬師堂が再訪したらマンションになっていて驚いた。薬師堂の前回の訪問は2016年だから数年の間に消えてしまったわけだが、探してみると馬込文士村資料展示のある区立山王会館の崖下の一画に薬師堂の前にあった石碑等が見つかった。

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上の写真は薬師堂の前に立っていた仙元大菩薩と桃雲寺再興祈念碑である。後ろに少し移りこんでいるのが薬師堂で、その右側は空き地になっていた。そのすべてがマンション化されてしまっていたのである。たまたま路地をうろついていてこれらの移転先を見つけたが、そこには地蔵が加わっていた。

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右の石塔が食行身禄の没後百年をを記念して造立されたもので、角柱の下には亀が彫りこまれ、上の角柱の株には二猿が陽刻されている。食行身禄は富士講中興の祖と言われる人物で、新井宿村をはじめとする大森近辺では江戸時代末期から明治にかけて富士講が盛んだった。この富士講碑は天保3年(1832)3月に造立されたもの。素晴らしい石工の技が見られ、石工名は池上在住榎本甚五郎、藤原栄▢と刻まれている。左の妖怪ぬりかべのような石碑は桃雲寺再興祈念碑で寛文4年(1664)11月の造立。桃雲寺はかつて薬師堂のあったところにあった曹洞宗寺院だが、明治13年に廃寺となり戦後薬師堂だけが再建されたという経緯。

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根岸地蔵が中央に配置されていたがこの地蔵は地蔵菩薩坐像で現地では情報皆無であった。どうも以前から根岸地蔵はこの場所にあったようだ(事実関係未確認)。その地蔵のある場所に薬師堂の文化財が移されたのだろう。

場所  大田区山王3丁目26-8 (元の薬師堂の場所は山王3丁目29-7)

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2022年3月10日 (木)

熊野神社の石仏(大田区山王)

荏原台の海食崖線の上にあるのが山王熊野神社。善慶寺の境内から鳥居をくぐり急な石段を登るが、裏から入ると平坦に思える。創建年は不詳。平将門の乱(935~940)の鎮圧に下校した武将熊野五郎武通が当社に戦勝祈願をしたという言い伝えがある。

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善慶寺の山門の標高が6mで熊野神社の社殿の標高が20mだから高低差は14mほどある。右の女坂と思われる側の中腹には稲荷神社がある。寺の境内から上る神社というのもまた雰囲気が違って面白い。神仏習合の名残りが何となくうれしい。

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石段の8合目辺りにあるのが2基の供養塔。大きい方が石坂再建供養塔で、文政10年(1827)3月に氏子中世話人間宮源治郎ら10人によって奉納された。その隣にある小さな石塔も石階建立供養塔とあり、享保17年(1732)8月の紀年がある。新井宿村講中が「他力を以て石階建立」とあるので、江戸時代中期に石段を整備した時に小さい方の供養塔、江戸時代末期にそれを再整備した時に大きい方の供養塔を建てたのだろう。

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石段途中の稲荷神社の近くに手水鉢がある。しっかりした材質の石で、新井宿村の庚申講中町田惣右衛門らによって奉納されたもの。造立年は文政9年(1826)とあるがその下の月日の文字が削れてしまっている。

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本堂の左脇にあるのが狐塚と庚申塔。庚申塔はシンプルな墓石のような角柱型で、文化14年(1817)8月の造立。手水鉢と同じく松田惣右衛門らが建てたものである。左の狐塚は上部に「狐碑」と刻まれ、「此狐人に害をな須古と久し、民之願是を悪む今茲に、文久元歳辛酉御嶽靱矢、市正埋禦萬世堀事南可連」とある。この辺りは木原山と昔は呼ばれていて将軍の御狩場であった。ウサギやキツネなどが沢山棲み、碑は狐の害に悩まされた農民たちによって建てられたという。

場所  大田区山王3丁目43-11

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2022年3月 9日 (水)

善慶寺の石仏(大田区山王)

大田区山王は大昔の荏原台の波打ち際。現在東海道線が通っている辺りから先は海だった。江戸時代の東海道は京浜急行線の近くを通っていたが、中世以前は荏原台に相模方面へ行く道が通っていた。大森駅の西側を通る池上通りはかつての鎌倉街道。この鎌倉街道から参道を持つ寺院が善慶寺である。

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創建は古く、正応4年(1291)当地の増田三郎右衛門が日蓮宗の日法上人に帰依して創建したと伝えられる。江戸時代には裏山にある山王熊野神社と環七の向こう側にある新井宿春日神社の別当を務めていた。

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善慶寺で有名なのがこの墓である。「新井宿義民六人衆の墓」で、江戸時代前期の延宝4年(1676)に過酷な領主の年貢の収奪に耐えかねた新井宿村の農民代表6人が幕府(将軍徳川家綱)に直訴を決行しようとしたが、事前に領主に見つかり捕らえられ現在の内神田である神田橋門外の木原内匠邸で斬首されたという話である。この話は村人に語り継がれ、縁故筋にあたる間宮藤八郎が両親の墓を作ると申告して延宝8年(1679)正月にこの墓を建てた(正月なので西暦は1年少ない)。正面には両親の名、裏面に六義民の名が刻まれている。

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義民衆の墓の後ろにひっそりと板碑型の供養塔が立っている。こちらは延宝8年(1680)11月の紀年が入っているが文字が読み取れず、正面中央の南無妙法蓮華経と紀年のみ確認できた。義民六人衆との関係は分からない。大田区の資料によると、日蓮宗の供養塔で題目講によるものらしい。ちなみに義民六人衆の名前(俗名)は、間宮新五郎、間宮太郎兵衛、酒井権左衛門、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎とあるが、農民でも既に姓があったのかと驚いた。

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本堂横にある大きな供養塔は開基供養塔。善慶寺の開基である日法を供養したもので、弘化4年(1847)9月の造立。施主は品川本宿池田屋捴左衛門、石工は古市場石工巳之助の銘がある。

場所  大田区山王3丁目22-16

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2022年3月 8日 (火)

妙雲寺の庚申塔(大田区池上)

池上本門寺下の寺域の東の端にあるのが日蓮宗玄性山妙雲寺。元和年間(1615~1623)に長勝寺と同じく日正上人が創建した。妙雲寺の東側で台地に上っていく坂道がめぐみ坂だが、その坂上にある堤方神社の別当寺である。ちなみに現在の池上一丁目辺りは以前は堤方町という町名だった。

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妙雲寺の本堂はもっと西側にあるが、東側の駐車場入口脇に庚申堂がある。傍にある説明板にはここにかつて曙楼門柱跡があったとある。ここには明治初期に創業された料亭曙楼がありレンガ造りの門柱があったが老朽化で撤廃した。江戸時代後期から明治時代にかけては全国の寺院が廃仏毀釈で境内地を失ったり廃寺になったりした時代である。

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なかなかの彫刻を持つ堂宇の中には舟型光背型の庚申塔が一基祀られている。最上部には「妙法」と書かれ、その下に青面金剛像、三猿、二鶏が描かれている。造立年は延宝8年(1680)1月である。この庚申塔は、水を掛けて祈願すると足腰が丈夫になると信じられていたようだが、現在はその行為は行われていないようだ。江戸時代前期だが青面金剛像としては初期型で、シンプルな水玉形をしている。

場所  大田区池上1丁目19-40

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2022年3月 7日 (月)

養源寺の柔心地蔵(大田区池上)

本門寺下から呑川沿いを下流に歩くと、妙見堂、照栄院、養源寺があり、養源寺の角で路地に入ると路地奥に谷根千っぽいカフェがあり、その脇には堂宇があって柔心地蔵が祀られている。『バカ殿様』の桑マンもお参りするらしい。30数年前に若くして子供を亡くされた親御さんが供養のためにと建立したものらしい。1990年頃だろうか。

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とてもやさしい表情のお地蔵様である。最近発足したという馬込六地蔵巡りの筆頭になっている。馬込六地蔵とは、①柔心地蔵、②市野倉長勝寺の地蔵、③佐伯山公園角の子育地蔵さっちゃん、④中央の五ツ又の交通安全地蔵、⑤臼田坂上の金剛地蔵尊、⑥長遠寺の六地蔵、を呼ぶらしい。長遠寺にはとても沢山の石仏があったので六地蔵は認識が薄かったのを反省。

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柔心地蔵のすぐ先に階段坂があった。どうも「養源寺坂」という名前があるらしい。坂道探訪の時にはこの坂は認識していたのだが、坂名がついているとは知らなかった。おそらく文献には載っていないと思う。坂下標高5mから坂上23mまでを一気に階段で稼ぐ坂道である。坂上をさらに進むと妙見堂裏を通って本門寺境内に入っていく。

場所  大田区池上1丁目31-1

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2022年3月 6日 (日)

文化8年の題目塔(大田区池上)

池上駅から池上本門寺へ向かう道筋、は元禄9年の道標のある藤乃屋前で平間街道(池上道)にあたると一旦右に折れて本門寺前の交差点。左を望むと広くて長い参道の階段が遠くに見え、萬屋酒店の文化財家屋前からの展望は圧巻である。古民家の商店で明治8年(1975)の建築で登録文化財になっている。

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山門に続く長い階段は比経難持坂。詳しくは坂道のところで記している。山門迄の高低差は約20mあり、台地は武蔵野台地の突端である荏原台の先端で、周辺の久が原台(標高17m)、目黒台(標高22m)に比べてもここがなぜか一番標高が高い。地質学的には成り立ちが若干異なるらしい。日蓮が本門寺を開く前は、池上宗仲(いけがみむねなか)という鎌倉時代の武士の館城があった。本門寺の創建は鎌倉幕府が開いた100年程後のことである。

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巨大なこの題目塔は南側面には「南無妙法蓮華経」の題目が大きく刻まれている。道路側は「一天四海皆歸妙法」、蕎麦屋のあるマンション側の面には「天下泰平国土安穏」、そして本門寺側が裏面になるのだが、文化8年(1811)10月の紀年が刻まれている。発願主は江戸馬喰町妙禅院で、池上周辺の講中をはじめ、江戸市内にも及び多くの題目講中の名前が刻まれている。この題目塔の先は霊山橋で本門寺という別の世界に入っていく標としての役割であろう。

場所  大田区池上4丁目20-6

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2022年3月 5日 (土)

元禄9年の道標(大田区池上)

池上本門寺の門前には有名な老舗の葛餅屋さんが3軒ある。浅野屋(創業宝暦2年:1752)、池田屋、相模屋だが、相模屋さんはいつの間にか藤乃屋さんという屋号に変わってしまったようだ。2018年頃のことである。相模屋さんはどうやら倒産してしまったようだが、江戸時代の元禄9年(1696)の創業から320年が過ぎての閉店はさぞ辛かっただろう(享保年間創業説もある)。ただすぐに藤乃屋という屋号で引続き葛餅を売る店舗になったのはよかった。

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その藤乃屋さんの玄関前にあるのが元禄9年の道標である。相模屋さん創業時からここに300年以上立っている石柱の正面は店の玄関側で「南無妙法蓮華経 題目講中三十人」とある。写真正面になる手前側の面が本来の右面で「是よりひたり かわさきみち 古川道」、裏側になる左面には「是よりみき こすきみち 新た道」とある。(武蔵)小杉や(武蔵)新田を意味している。

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この元禄9年(1696)造立の尖頭角柱型の道標は、この前の細い方の道がかつての平間街道(池上道)であったことを示している。さらにそれ以前は鎌倉街道だったと言われている。

場所  大田区池上4丁目25-7

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2022年3月 4日 (金)

池上警察署裏の題目塔(大田区池上)

池上は日蓮宗本門寺の街である。あちこちに末寺や石碑がある。こんなところに何故と思ってしまう題目塔のひとつがこの池上警察署裏の駐車場にポツンとある。

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この題目塔の前は現在は道路だが実はかつての六郷用水北堀が流れていた。さらに鵜の木からこの六郷用水北堀沿いに通っていたのは鎌倉街道でもある池上道(平間街道)。つまり古くは鎌倉時代から街道筋だったのである。この題目塔は馬頭観世音菩薩を兼ねている。地元の徳持村永野宗右衛門が本願主となり、題目講中により文政13年(1830)3月に建立された。石工甚五郎作で彼も池上の人らしい。

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題目塔の脇にある自然石の石碑は、御嶽神社への道標である。御嶽神社は池上線御嶽山駅前にある古い神社。この石碑は明治45年(1912)5月の建立。「是ヨリ左拾五町」とある。神田佐久間町の見冨藤右衛門が建立したとある。

場所  大田区池上3丁目19-6

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2022年3月 3日 (木)

特別出張所下の庚申塔(大田区久が原)

特別出張所下というのは交差点名である。しかし周りに特別出張所はない。調べてみると西に300mほど行った久原小学校の傍に大田区久が原特別出張所がある。交差点の標高が7m、出張所と小学校の標高は17mだから10mを上っていくわけである。久が原は耕地整理で碁盤目に整備された街だが、この東西の道は昔のままの曲がりくねった道で風情がある。

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民家の塀の凹みに堂宇があり、その中には駒型の庚申塔が祀られている。昔は草履も奉納されていたらしい。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、珍しいのは青面金剛像が四臂でも六臂でもない八臂である点である。おそらく大田区内にはない。造立年は正徳3年(1713)2月。

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「久川原村(久が原村の誤字)石橋の施主」とあるのでこの辺りにも細流があったのだろうか。呑川の支流が流れていたのはここから200mほど南である。

場所  大田区久が原2丁目19-13

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2022年3月 2日 (水)

本光寺の石仏(大田区久が原)

久が原にある本光寺は日蓮宗の寺院。慶長14年(1607)に没した日能上人が開山となり創建した。おそらく徳川家康が江戸に入城した前後ではないかと思う。当時から現在まで当然ながら池上本門寺の末寺である。境内の七面堂が有名らしい。

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前面の道路から少し階段を上って山門がある。久が原台を呑川の支流の小沢が削った斜面に寺院が立っており、その為に数mの高低差がある。西側にある宮坂上の八幡神社の別当寺である。

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山門手前にある2基の石塔は左の大きい方が高祖大士六百回御忌塔とある。明治11年(1878)10月の建立である。気になって明治11年の600年前を調べてみたが高祖大士が誰なのかわからない。日蓮ならば没年は1282年だが、まあアバウト4年誤差でその意味だろうと解釈。右の角柱は題目供養塔で奉唱百部成就とあり、造立年は享保20年(1735)7月。

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山門をくぐると宝篋印塔の脇に古い板碑型の庚申塔がある。造立年は寛文9年(1669)1月で、もとは隣の八幡神社の境内にあったものらしい。昭和後期には本光寺に移されている。正面には「龍共待大帝釈天王」とあり、10人の願主名が刻まれている。ここでも三木姓、平林姓、篠沢姓、天野姓が見られる。

場所  大田区久が原2丁目19-17

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2022年3月 1日 (火)

久原小学校下の庚申塔(大田区久が原)

久原(くがはら)小学校、久が原、久ヶ原と3つの表現があるが、どれも読みは「くがはら」である。しかし小学校は昭和26年まで「きゅうげん」と読んだらしい。それがなぜなのかは分からない。小学校の東を北から南に下る坂道は昭和に入る頃に出来た道で、それ以前は小学校の東にある久が原東部八幡神社の前の坂「宮坂」を通っていた。

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小学校の坂下は緩やかな谷になっていて呑川の支流がこの短い谷を形成したようだ。現在は川の流れの痕跡も分らない。谷頭は平間道(中世の東海道)が尾根筋を通っていた。耕地整理が行われさらに宅地開発で坂道が均されて平坦になってくると気づかなくなるがこういう微地形に敏感になると街歩きの世界が広がる。

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おそらく細流が流れていたであろう低地に庚申堂がある。堂内には角柱型の庚申塔が祀られている。文字塔で正面には「庚申供養 南無妙法蓮華経 久ヶ原村」と書かれている。造立年は享保20年(1735)12月。願主10人銘が刻まれており、松永姓が3人、平林姓、中嶋姓、野口姓が2人、青木姓が1人だが、この堂宇の前にあるのは平林家である。堂内には平成29年に堂宇を再建した折の協力者名があるのだが、その中にエステベス・ミゲルさんという名前があったのには思わずうれしくなった。

場所 大田区久が原2丁目28-28

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