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2022年4月30日 (土)

井草観音堂(杉並区井草)

西武新宿線下井草駅前を南東から北西に横切る踏切の道は所沢道と呼ばれた古道。いわゆる旧早稲田通りで、石神井を経て保谷に至る。踏切のすぐ近くにあるのが井草観音堂。観音堂の創建は江戸時代初期。現在の建物は昭和56年(1981)に改築されたものである。

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別名「久保の観音様」とも呼ばれたが、これはこの地域が江戸時代今川氏の所領であった頃、下井草村字久保というところだったためである。今川家は静岡県の駿河、三河、遠江を支配していた今川義元の家系で江戸時代は旗本。菩提寺は観音寺で、1645年頃からの領主であった。ただしこの井草観音堂は今川家ではなく近隣の農民による建立らしい。

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お堂の中に祀られているのは2基の舟型光背型の石仏で、左が如意輪観音像、右が地蔵菩薩像である。どちらも造立年は寛文7年(1667)2月で同じ時に造られたもの。如意輪観音の方が通称井草観音と呼ばれているものである。地蔵菩薩の方には同行16人と刻まれており、下井草村字久保と字向井草の16軒の農家が講中を作って建立したという。昭和初期までは念仏講も続いており、百万遍の儀式なども行われていたそうである。

場所  杉並区井草1丁目3-14

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2022年4月29日 (金)

駐車場の地蔵尊(杉並区下井草)

旧早稲田通りの角にある庚申塔から東へ歩く。15mも行くと広い駐車場があり、その手前の一画に地蔵菩薩が屋根付きで祀られている。平成初期に編纂された杉並区の資料では木造住宅の垣根の手前に地蔵が立っているが、今は広々とした駐車場の一画である。

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地蔵菩薩は丸彫の立像で、高めの基壇に載っている。この月輪の見事な地蔵菩薩の造立年は文化9年(1812)10月だが、大正4年(1915)5月に再建之とあるので再建されたもの。文化年間の紀年には四谷忍町 石工 本橋吉兵衛とある。本橋家はこの辺りに多い苗字だが、江戸時代に近辺の出身者が名石工になって四谷忍町(現在の四谷三丁目辺り)に居たのだろうか。大正年代の再建は当村附合中 石工 伊藤寅吉とある。

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台石の竿部分には四面に道標が刻まれている。正面が「南 ほりのうち道、右は「東 ぞうしがや道」、裏は「北 志んかうや道」、左が「西 とりゐさき道」とある。この辺りは下井草村と下鷺宮村の村境で、道が東西南北に延びていた。雑司ヶ谷村は今の目白台、堀ノ内村は善福寺川沿いの堀ノ内、松ノ木辺り、新高野は角の庚申塔にも出てくるが練馬高野台の長命寺のこと、ただ「とりいさき」が分からない。その下の基壇には「武州多摩郡念佛講中 井草村」とある。

場所  杉並区下井草2丁目33-2

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2022年4月28日 (木)

下井草の地蔵堂(杉並区下井草)

現在の早稲田通りは中野から西へ向かうと井草八幡前で青梅街道にぶつかる。しかし元々の早稲田通りは本天沼二丁目から北へ向かい、下井草駅前で駅を迂回して石神井川の北側を西進し石神井の三宝寺へ向かっていた。この旧早稲田通りに並行した南北の耕地整理後の道路で、永久橋の交差点から北上する道すがらの民家に堂宇がある。

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堂宇には他の木像が納められているらしいが、手前の塀の影には左側に角柱型の地蔵菩薩、右側に角柱と櫛型角柱の2基の江戸時代の石塔がある。右の地蔵菩薩の彫られた角柱型の石塔は石橋供養塔である。造立年は宝暦8年(1758)9月で、右上に「奉造立石橋供養塔」とあり中央に地蔵菩薩が陽刻されている。文字を読んでいくとどうやら墓石も兼ねているようだが、信男信女講中とあるので地蔵講か念仏講のものだろうと思われた。

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この地蔵堂は3坪ほどの敷地に堂宇があり、正徳3年(1713)6月に今川の観泉寺持として旧下井草村字向井草に創建、それが現在地である。天保5年(1834)には観泉寺が下井草村の田中惣兵衛に堂宇の管理を任せるようになったが、天保13年(1842)に焼失してしまった。惣兵衛は翌年に村人と協力して、鳥見役(御鷹場、鷹匠の管理者)に願い出て再建したらしい。平成の初め頃まで約30人で組織された地蔵講中があり、定期的に地蔵講を行っていたという。

場所  杉並区下井草3丁目5-9

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2022年4月27日 (水)

妙成寺の石仏(大田区西蒲田)

大田区西蒲田にある妙成寺だが戦前の地図を見るとそこに妙成寺がない。というのも戦前は蒲田駅東口付近にあったらしく、明治5年(1872)の鉄道の敷設で境内が線路によって分断されて境内は殆どなくなり、昭和になって第二次世界大戦で強制疎開の為、昭和19年(1944)に西蒲田の現在地に移転したからである。

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江戸時代の西蒲田は女塚村(をなづかむら)と呼ばれており、明治になっても水田の広がる農村地帯だった。昭和時代の移転の為、本堂もすっきりしたもので、近代的な寺院という感じがする。山門の右手に題目塔があるように、日蓮宗の寺院で、創建年は不詳ながら江戸時代初期と伝えられている。

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山門左手にある笠付角柱型の題目塔は、文政12年(1829)8月の造立。日蓮の五百五十遠忌の報恩塔、かつ読誦塔である。対になっている向かって右手の角柱型の題目塔は、寛政9年(1797)1月の造立。どちらも蒲田駅の旧地からの移転だろう。

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境内には墓所入口に庚申堂があり、駒型の大きな庚申塔が祀られている。元禄3年(1690)10月の造立で、日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、コンクリート製の基壇にも三猿が載っている。これは近年のものだろう。庚申塔の右脇には「奉造立庚申二世安楽」と刻まれている。

場所  大田区西蒲田6丁目1-10

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2022年4月26日 (火)

蓮華寺の石仏(大田区西蒲田)

東急池上線蓮沼駅の北にある真言宗の寺院蓮華寺は寛弘年間(1004~1011)の創建という古刹である。蓮沼法師が鎌倉時代前期(13世紀前半)に中興したと伝わるが、この蓮沼法師は俗名を荏原兵部有治といい荏原郡の地頭(中世の荘園で、租税徴収・軍役・守護に当たった管理者で後に権力を増して領主化した)で狩猟が大好きな人物だったという。

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ある時鴛鴦(おしどり)の番がいて、雄を撃ったところ、その夜雌が夢に現れ恨み歌を詠んだ。翌朝現場に行ってみると雌もそこで死んでいたのを見て、生き物への憐れみを痛感し仏門に入ったという。その後、近郷が兵火に焼けた時、この寺にも火がかけられたがすぐには燃えなかったので、本尊を奉じてそばの蓮沼へ移した。すると火は燃え広がり寺は焼け落ちたという。土地の人々は、それ以来この本尊を火除観音呼んで崇め、村内に火災の患はなくなったと伝えられる。昭和の戦災に於いても本尊を除いて全焼したらしい。

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山門前にならぶ石仏石柱の内、この背の高いものは天和3年(1683)春に建立された標石で「火除観世音菩薩」とある。この寺の本尊の火除観音を表している。右の角柱は出羽三山供養塔。安永7年(1778)11月の造立で、山岳信仰供養塔としては区内でも最古らしい。湯殿総講中が建立したとある。

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少し左には駒型の庚申塔がある。造立年は享保5年(1720)9月。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で尊像は左手にショケラを下げている。下部には願主名が9人ほど刻まれており、高瀬姓3、次木姓2、原田姓2、あとは松本、吉田姓。この庚申塔は元は寺の南側の区画(蓮沼3丁目13番地)にあったらしい。

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庚申塔の隣にあるのが珍しい十一面観音を彫りこんだ角柱型の巡礼供養塔。造立年は安永6年(1777)4月。中央に戒名があるので元々墓石でもあったのだろうか。しかし脇には西国坂東秩父順礼所、光明真言百万遍果誦とある。

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道路側に背を向けて立つ二基の石仏は、右の舟型光背型の地蔵菩薩が地蔵では珍しい順礼供養塔。寛延4年(1751)10月の造立で、「奉順礼秩父坂東西国四国」とあり願主原田次郎兵衛の銘がある。左脇に戒名もあるのでこれも墓石として造られた可能性がある。左の丸彫の地蔵菩薩像は、享保13年(1728)晩冬の建之で、願主は密門入道覚山とある。古川薬師百日参詣成就の記念に造立されたもののようだが、「六郷之保内蓮沼村」という地名も刻まれている。

場所  大田区西蒲田6丁目13-14

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2022年4月25日 (月)

摩耶寺の石仏(品川区荏原)

摩耶寺は小山八幡神社の隣にある。荏原台のこの土地は、立会川の右岸の段丘にあたり、崖線下の標高は22m、崖線上は36mとかなりの段差がある。その為か、摩耶寺の参道も自然な階段になっており、寺社は概ね好立地に立っていることに感心する。

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摩耶寺の創建は不詳ながら、日蓮宗の寺院なので池上本門寺を中心とする数多くの寺院のひとつであろう。この辺りは立会川右岸にあった小山向井という字名の土地である。現在は荏原七丁目になっているが、昔は平塚村の一画。

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山門脇に堂宇があり、新しめの庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、足元には二邪鬼、三猿、左手には小さなショケラを持っている。造立年は昭和34年(1959)5月で、自分より若い庚申塔は極めて珍しい。小山庚申講と側面に彫られている。「大崎本町 石銀刻」とあるのは石工の名前だろうか。

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境内に入ると笠付丸柱型の題目塔が立っていた。ずいぶんと立派なもので、造立は明治14年(1881)5月。台石に「壇方中」(だんぼうちゅう)とある。あまり見ない表現である。正面には「南無妙法蓮華経」の題目があり、裏には當寺二十一代住職の名前と、芝伊皿子町 石工 和田五兵衛の銘がある。

場所  品川区荏原7丁目6-9

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2022年4月24日 (日)

旗の台一丁目庚申(品川区旗の台)

中原街道は古くからの街道である。東海道が開かれるまでは中原街道が東海道の役目を果たしていた。通説では福山雅治の大ヒット曲で有名な桜坂を下り、丸子の渡しで多摩川を越え、相模国に渡っている。旗の台という地名は駅の東側にある旗岡八幡神社が由来で、頼朝が関東武士を纏めるよりも50年ほど前に、源頼信が平忠常の乱の平定時に立寄り戦勝祈願に源氏の白旗を掲げた地とされる。頼信は系図を見る限りでは源頼朝の6親等の曽祖父の曽祖父とあるが、一代が短すぎないだろうか。

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堂宇は中原街道側に向いている。裏の道は中原街道から分岐して小山に至る道。この先中原街道を下ると昔は立会川が流れており、昔の街道が迂回していたところ。堂宇の中には中央に一部欠損のある板碑型庚申塔、右に地蔵菩薩、左に宝輪(法輪)をかたどった石柱がある。この辺りは池上本門寺が近いことから日蓮宗の色が濃く、庚申塔でも「帝釈天王」や「妙法」の文字を刻んだものがある。

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この庚申塔も、中央には「南無妙法蓮華経」とあり、脇に「為庚申供養」「奉建立石塔也」と刻まれている。造立年は古く寛文5年(1665)10月で、旧中延村の庚申講中が建立したものとされる。品川区内では三番目に古いもの。旧中延村は全村が日蓮宗であり、その中での庚申信仰の在り方が見てとれる。右の舟型地蔵菩薩は享保6年(1721)5月造立だが墓石。左の花に隠れているのは角柱型の法輪(宝輪)で、仏教では①車輪となってどこにでも行ける⇒四方八方に仏教を広める、②武力を用いず仏法による平和をもたらす転輪聖王(てんりんじょうおう)の宝とされるが、石塔の目的は分からない。

場所  品川区旗の台1丁目1-23

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2022年4月23日 (土)

深沢庚申(世田谷区深沢)

住居表示深沢の東部、目黒区(八雲)との区境近くの深沢学園通りの一画に路傍の庚申塔群がある。「深沢庚申様」という新しい石柱がある。近年地面は慣らされてかつての微細な高低差は分からないが、この庚申塚の東側には小さな流れが北から南へ通っていた。さらに東側へ進むと昔の道は化坂で標高を下げ、呑川の駒沢支流を渡って八雲氷川神社へ続いていた。

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庚申塔のある場所は深沢村と衾村(碑衾村)の村境にあたる場所で、少なくともこの近辺に塞ノ神としての庚申塔が昔からあったと想像できる。化坂下の呑川駒沢支流には水車があって、深沢村の三田家と碑衾村の栗山家が出資して村々の役に立っていたが耕地整理で無くなったという。

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庚申塔は4基あり、すべて駒型の庚申塔である。左側に一基だけ向きの違う庚申塔があるが、この庚申塔だけが造立年が分らない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、尊像の左手には小さなショケラが下がっている。基壇の台石に「庚申講中」とある。その右隣りの庚申塔は明和6年(1769)12月造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。

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右から二番目が最も大きな庚申塔になる。造立年は安永6年(1777)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げる。ゼニゴケがかなりついているが、下の方にはないのは何故だろうか。三猿の下には願主名が25人あり、森田姓が12人、三田姓が13人である。右端の庚申塔は正徳5年(1715)11月造立で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。「奉造立庚申講中」とあり、「武刕荏原郡世田谷領深沢村施主」の銘と共に三田姓13人の願主名が刻まれている。三田家は深沢の大地主というのがわかる。

場所  世田谷区深沢2丁目8-3

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2022年4月22日 (金)

阿弥陀三尊像板碑(世田谷区深沢)

深沢の道筋は大正時代と昭和期では全く異なる。耕地整理が行われたこともあるが、大正時代までは地形に素直に従った道筋だったが、昭和に入ってからの道は直線の碁盤目である。耕地整理後の主要道である駒沢通りと目黒通りの間に、上野毛通りを深沢学園通りが平行に走っている。深沢学園通りという名前を何度も走っていたのに知らなかったが最近付けられた名前だろう。

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その通りの途中南側に極めて広い屋敷があり屋敷森に囲まれている。裏手に玄関があるが「三田」の表札が出ている。深沢の大地主三田家のお屋敷である。その三田家の敷地の脇に「阿弥陀如来」という石柱があり、樹木の中に入っていくと祠がある。

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あたりは暗くてストロボを焚かないと撮影できなかったが、格子の中には阿弥陀三尊像の板碑が祀られている。室町時代のものらしいが、下部が欠損していて年代特定ができないそうだ。もとは深沢字下山(現在の深沢3丁目あたり)の阿弥陀塚と呼ばれるところにあり、江戸時代は小児の百日咳が治ると信仰されていたようだ。

場所  世田谷区深沢1丁目40-20

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2022年4月21日 (木)

砂利場の地蔵(世田谷区駒沢)

深沢不動交差点から駒沢通りを医王寺とは反対方向に進むと最初の信号のある辻に砂利屋さんがある。大正時代までは駒沢通りはなく、駒沢公園通りの筋に明治になって出来た道(現在の駒沢公園通り)があったのと、少し西に北に向かう江戸道という秋山の庚申塚を経て新町に向かう道があった。

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したがってこの地蔵堂(祠)はずっと後の時代、おそらく昭和に入ってからつくられたものではないかと思う。残念ながら、区の資料を調べてみても何も該当するものはない。

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地蔵もかしいでいるし、堂宇も今にも崩れそうな様相である。舟型光背型の地蔵菩薩像には文字が見当たらない。というよりも一部あったけれども削れたか摩滅したかという感じがする。深沢村では昭和30年代末まで念仏講が盛んにおこなわれており、複数あった講中のひとつが造立したものかもしれない。

場所  世田谷区駒沢5丁目15-1

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2022年4月20日 (水)

医王寺の石仏(世田谷区深沢)

駒沢通りと駒沢公園通りの交わる深沢不動交差点の近くにある真言宗の医王寺。開基は谷岡又左衛門による寛永2年(1625)の創建。又左衛門は深沢村の旧家であったらしい。深沢は呑川の源流で、もともと深い沢地の意味でついた地名である。また深沢周辺には湧水が多く、飲める水が流れるという意味で呑川の名が付いた。

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昭和30年代に鉄筋コンクリート造に改築された本堂はしゃちほこのついた立派なものだが、個人的には質素な古い山門が好みである。医王寺は呑川源流でも複数の支流が集まる台地際に立っている。現在の駒沢公園通りは明治になってから出来た道を広げたもの。深沢不動の辺りには何軒もの店が明治時代には集まっていたようだ。現在深沢坂とされている坂道は明治時代にはお茶屋坂と呼ばれた。その辺りまで店が広がっていたようだ。

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駒沢通りに面した山門脇にあるこの背の高い地蔵は「雷地蔵」と村人に呼ばれた地蔵様。昔、この地蔵は本堂の前辺りにあり、当寺近辺の農家の屋敷林に雷が落ちて家が焼ける事故が続いた。そこで村人はこの地蔵にお線香をあげ、その燃え残りの線香を持ち帰り縁側に立てるようにしたところ、その後深沢村に雷が落ちることは無くなったと伝えられる。ちなみにこの地蔵は正徳5年(1715)4月の造立で、正面には「奉造立延命地蔵」とあり、「武蔵國荏原郡深澤住」という地名が刻まれている。

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雷地蔵の近くに2基、山門の左に1基の庚申塔がある。右側の道路側にあるのが上の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄の駒型庚申塔で、造立年は享保17年(1732)9月。施主は三田平左衛門とある。

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その隣には少し背の高い頂部の尖がった駒型の庚申塔。こちらも日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、造立年は延宝8年(1680)11月と古いもの。下部に9人の願主名が彫られている。姓は田中、角田、田村、秋元3人、牧野、大関、浅野とバラバラ。

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山門左側の駒沢通り脇には上の駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にショケラが下がっている。向かって右面には「庚申講中」の大きな文字。左面には紀年が彫られ、造立年は天明5年(1785)9月である。

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本堂前には燈籠と丸彫の地蔵菩薩像が並んでいる。燈籠は比較的新しいもので正面に「奉献常夜燈」とあるが、裏手の地蔵座像脇に対の片方がありそちらはゼニゴケが付いていて古そうな雰囲気を醸し出している。右の丸彫地蔵菩薩は巨保17年(1732)の造立。正面に「奉造立地蔵尊為二世安楽也」とあり、願主谷岡儀左衛門、妻、他講中45人とある。

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本堂右に進むと墓所があり、その入口には立派な宝篋印塔がある。享保18年(1733)4月の建立で、武陽荏原郡世田谷領深沢邑の銘がある。こちらも願主には谷岡又左衛門の名前があり、谷岡家はさぞ名家だろうと調べてみると、明治時代には深沢坂上の深沢神社周辺に谷岡姓の家が沢山ある。医王寺の南側である。北側には秋山家、浅見家、田中家が多い。

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同じく墓所入口には六地蔵があり、6基のうち4基の造立年が分ったがすべて貞享4年(1687)の造立。造立月は2月、7月、8月、霜月(11月)である。願主名にはやはり谷岡家、秋山家が多かった。

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六地蔵の裏には無縁仏塔があり、その前に3基の石仏が並んでいる。左の駒型庚申塔は、明和8年(1771)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。かつて深沢5丁目18-12の日体大斜向かいにあったもので、マンション建設で医王寺に移設されたもの。中央の舟型の聖観音像は延宝9年(1681)3月のものだが墓石らしい。右の舟型光背型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は延宝8年(1680)8月と古いもので、「庚申供養建之」「二世安楽深澤村」と刻まれている。この庚申塔は元は深沢6丁目1-10にあったというから寺の近くにあったようだ。

実は、後で知ったのだがもう一基庚申塔があるらしい。再訪して追記したいと思う。

場所  世田谷区深沢6丁目14-2

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2022年4月19日 (火)

自性院の石仏(新宿区西落合)

自性院はどちらかというと豪徳寺と並んで猫寺として知られている。赤門があるのは路地の方の東側で、その前の通りは八千代通りというが、この近辺は殆どの道に〇〇通りと付けられている。赤門を入ってすぐ右に猫地蔵堂があり、その前に猫塚がある。私は丸い旧来の猫塚(昭和8年建立)よりも駒型の猫塚碑が好みかもしれない。こちらは歌碑風である。

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猫塚の先に本堂がある。一般的には赤門の東側よりも門柱のみの北門が新青梅街道に面していて正門の感じがあるが、普通北門は作らない。しかし明治時代の地図を見ると、なんとこの北門が正式の山門参道のようである。現在の通りは新青梅街道だが、昔も椎名町の西で分岐して江古田に向かう主要道だった。自性院の北西には昔は川が流れており、葛が谷と呼ばれていた。元からあった細流に千川上水の水を分水して用水としていたようだ。

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本堂を墓所側に回り込むといくつもの石仏が並んでいる。ただしほとんどは墓石で、数基のみの紹介になる。上の写真は角柱型の馬頭観世音菩薩で、造立年は不詳。文字は読み取れないが江戸時代後期から明治初期のものだろう。

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右の丸彫の座像は大日如来像である。寛文6年(1666)2月の造立で、落合村の長五郎らの願主銘がある。左側の舟型光背型の座像は菩薩だろうか、しかし墓石のようである。造立年は寛文3年(1663)8月とある。

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その近くには角柱型の庚申塔。造立年は宝暦11年(1761)11月。武州豊嶋郡葛ヶ谷村講中と西江古田村講中の銘がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、中折れしているが補修されている。青面金剛像の顔が人間っぽくて面白い。

場所  新宿区西落合1丁目11-23

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2022年4月18日 (月)

最勝寺の石仏(新宿区上落合)

最勝寺は都営大江戸線中井駅前にある真言宗の寺院で、創建は鎌倉時代という古刹。都心にあるにもかかわらず7500㎡ほどもある広大な境内と墓所を持つ。門前には拡幅した山手通りが通っている。拡幅前の境内は1~2割広かったようだ。

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山門は山手通りに対して20度ほどの角度で面しているが、当然ながら山手通りは昭和に入って戦前戦後に通された道で、もともとは山手通りを斜めに横切る路地が主要道でそれに面していたからである。山門を入ると本堂前には立派な宝暦9年(1759)建立の宝篋印塔がある。

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本堂脇から西の墓所に向かうと広めの地蔵堂がある。3体の地蔵菩薩(丸彫)が並んでいるが、どれも造立年は分からない。中央の子育地蔵は新しそうだが、両脇はそれなりに時代を経ている。右の地蔵の基壇には「講中臺村為二世安楽」とある。臺村の意味が分からない。

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墓所の手前を南に行くと石塔石仏が沢山ある一角がある。上の写真の左の大きな角柱型石塔は出羽三山秩父西国坂東巡拝供養塔である。正面には「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 巡拝供養為二世安楽也」と刻まれている。造立年は文化8年(1811)2月で、「武州豊嶋郡▢落合村 行者宇田川友蔵」の銘がある。右の舟型光背型の観音立像は十一面観音で、元禄5年(1682)7月の造立。月見岡八幡神社の富士塚が山手通りと早稲田通りの交差点近くにあった頃、この像が浅間神社との関係で建之されたらしい。

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向かいにはかなり摩滅しているが、比較的新しい慶応3年(1867)7月造立の角柱型庚申塔。 江戸末期から明治にかけては質の低い石材に彫られたものが多い。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、左手にはショケラがある。施主は當村願主高山伊兵衛とある。

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隣りにある近年の墓石のような石柱は馬頭観世音菩薩。造立年は明治35年(1902)、左側面に「俗名 故畜牛廿四頭」とあるが、その前の年にリュンデルペストという家畜の伝染病が蔓延流行した為に死亡した牧畜牛の供養のために建てられたという。街道筋の馬頭観音とは少し異なるストーリーを持つ。

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山門に少し近づくと上の2基の見事な石仏がある。左の舟型光背型の石仏は七面八臂の観音像を描いた墓石。墓石だが珍しい石仏である。「覚性了本信女 霊位」とあり、造立年は正徳4年(1714)12月。右の舟型光背型は地蔵菩薩立像で、「奉千體参詣供養為二世安楽建之」と記されている。造立年は不詳だが、「上落合邑 施主 佐治左衛門」とある。

P1020104更に山門近くに戻るとゼニゴケで白くなってはいるが舟型光背型の地蔵菩薩像があり、書かれた文字を読むと庚申地蔵であった。造立年は寛文8年(1688)2月、「奉納庚供養」と刻まれている。下半分には願主名がいくつも彫られているようだ。

場所  新宿区上落合3丁目4-12

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2022年4月17日 (日)

月見岡八幡神社の庚申塔(新宿区上落合)

月見岡八幡神社は新宿区上落合にあり、神田川の左岸と妙正寺川右岸に挟まれた舌状台地上にある。かつての上落合村の鎮守で源頼家が立ち寄ったとされ、旧境内地に湧水があり、その水面に月がきれいに映ったので月見岡の名前が付いたと伝えられる。旧境内地は上落合1丁目7の八幡公園(南東80mほど)で昭和37年に移転した。そこはまさに神田川左岸の段丘の崖地で湧水の存在は間違いないだろう。

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左右の狛犬は左の吽形が享保6年(1711)8月建之で武州上落合村講中の16人が奉納、右が慶応元年(1865)9月に奉納されたもの。この阿形は子犬を連れている。その他境内地には本殿の左奥に富士塚があり、これは昔、山手通りと早稲田通りの交差点傍らにあった富士塚を昭和2年に移築したもの。

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富士塚の隣には新宿区最古の宝篋印塔型の庚申塔がある。囲いが作られており傍に寄ることはできない。造立年は正保4年(1647)で、基礎部に「大願成就 奉造立庚申待講之結衆」とあるようだ。高さは180㎝を超える大きなもの。宝篋印塔型の庚申塔は珍しい。杉並区永福の永福寺西門にある五輪塔型の庚申塔は正保3年(1646)造立で、1600年代前半の庚申塔はいろいろな形があったようだ。

場所  新宿区上落合1丁目26-19

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2022年4月16日 (土)

観音寺の石仏(新宿区高田馬場)

神田川に架かる小滝橋の少し北、左岸にあるのが真言宗の寺院観音寺。創建年代は不詳。かんこう坊というお坊さん(俗姓 中村氏)が開いたという。東大久保の人らしいから鉄砲組との関係もあるかもしれない。

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一間近代的な建築だが、石仏の多い寺院である。山門脇には向かって右手に2mを遥かに超える丸彫の地蔵菩薩立像。造立年は享保2年(1717)1月。左にはかなり新しいものだが、聖観音菩薩像の座像がある。寺院の御本尊も聖観音らしい。

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訪問時はちょうど法事が行われていて、山門前から写真を撮るのにしばらく待っていたら、副住職だろうか若いお坊さんが親切かつ明確に少しお待ちくださいとお声がけくださった。法事が終わると、目的を達したかどうかまで確認されたのには感心した。

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石仏は墓所の手前と奥にバラバラにある。奥のフェンスの近くには数基まとまっている。その中にあるのが板碑型の庚申塔で、造立年は寛文6年(1666)2月とかなり古いものである。「奉待庚申満願成就所」の文字の下に三猿が陽刻されている。その三猿が面白いのはそれぞれに性器が付いていることである。左から雄雌雄の順で、女猿が男猿を二匹従えているようだ。

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その近くには笠付角柱型の庚申塔がある。唐破風の笠の下には、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫られている。青面金剛は三面六臂ではなく八臂である。造立年は正徳4年(1714)2月。右面には「武刕豊嶋郡 奉供養庚申 上戸塚村」とある。

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更にその脇には角柱型の馬頭観世音がある。造立年は明治19年(1886)4月の角柱型である。願主名は港熊五郎と刻まれている。

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もう1基の馬頭観音は墓所の中央にあった。自然石型で明治36年(1903)11月の造立である。裏側に紀年や願主名が刻まれている。発起人村越留吉、世話人比護弥助、長谷川篤三、その他願主名12人銘が読める。右の聖観音菩薩像は墓石である。延宝4年(1676)9月と古いもの。

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本堂の近くには六十六部供養塔がある。笠付角柱型は比較的珍しい。享保9年(1724)10月の建立で、願主は須貞氏。このほか丸彫の地蔵菩薩立像などが周辺には何基かあるが割愛する。

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興味深いのは他の寺院では見かけない供養塔があることである。上の写真の左は「牛馬飲料水石標」と書かれており、年代不詳だが明治の初め頃と推定される。郊外から都心へ農産物を運搬する牛馬の水飲み場が小滝橋辺りにあったのだろうか。右の角柱には「蛇霊供養塔」とある。蛇の供養塔は真っ先に倶利伽羅不動を連想させるが、これはシンプルな角柱型である。

場所  新宿区高田馬場3丁目27-26

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2022年4月15日 (金)

薬王院の石仏(新宿区下落合)

神田川左岸の崖線にある寺院が瑠璃山薬王院医王寺。通称「東長谷寺」らしいがやはり薬王院で通っている真言宗の寺院である。創建は鎌倉時代と伝えられるが詳細は分からない。

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山門から傾斜が始まる。境内を上っていくという感じの寺域である。山門前にはまっすぐに点に突き刺さるような背の高い杉が並び外苑前の銀杏並木のようである。山門をくぐってもすぐには本殿に届かない。

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山門を入って右手には「南無遍照金剛」と刻まれた角柱が立つ。基壇には「佐賀講」とある。明治43年(1910)に深川佐賀講によって造立されたものである。その左の小さな石塔(角柱型)の方は弘法大師霊場の石塔で、文久3年(1863)2月に奉納されたもの。そして左の宝篋印塔は宝暦9年(1759)に寺で建立したもので、かなり立派な宝篋印塔である。

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本堂に向かって左方向に上り道がある。その手前に精緻な彫りの舟型光背型の大きな庚申塔が立っている。この庚申塔は石工の腕を十二分に発揮したものだろうと思う。庚申塔の向こうには清水の舞台のような豪華な造りの本堂が見える。

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造立年は宝永3年(1706)5月。富士山の宝永大噴火の前年である。幅も凄いが高さも151㎝ある。上部に瑞雲がありその中に日月、そして青面金剛と二童子、さらにかなりデフォルメされたような邪鬼があり、その下に三猿が描かれている。江戸時代中期の江戸文化華やかなりし時期の名作だと思う。

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大地の上まで登りきる直前に角柱型の馬頭観音があった。造立年は明治26年(1893)5月。高田村、下高田村、下落合村、戸塚村の講中による建立である。ここから数段登ると薬師堂に至る。

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薬師堂下にはいくつもの石仏があるが多くは墓石。それでも高い質のものも多く、取り上げたいがやはり墓石でない方が民間信仰に寄り添っている気がする。この如意輪観音像は舟型の光背に特に戒名などは記されていない。元禄6年(1693)5月の造立年がくっきりと確認できる。ただ他の文字が消えているので、どのような信仰に基づいたものかは分からない。

場所  新宿区下落合4丁目8-2

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2022年4月14日 (木)

七曲坂上の庚申塔(新宿区下落合)

坂下に地蔵のある七曲坂を上っていくとやがて右前方に落合中学校のグラウンドが見える辻に出る。この辻は江戸時代から辻で、おとめ山から上ってきた道と、氷川神社裏手から上ってきた七曲坂が交差する。

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七曲坂は今は多少のカーブで勾配も平均的に続く坂道だが、昔は斜面に入ると急に標高を上げ文字通り七曲に上っていくかなりの急坂だったらしい。ちなみに坂上の辻から左に曲がるのが昔からのメインルートで、それを進むと目黒通り(清戸道)に出合うところに今でも地蔵が祀られている。

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庚申塔の敷地はおそらくは落合中学校の敷地内だと思う。ただこの区画は昔から庚申塚があった場所。戦前は木造の祠の中に庚申塔が祀られていたという。庚申塔の造立年は元禄3年(1690)10月3日と記されている。上部には日月の痕跡、下部には三猿があり、その下には6人の願主名が彫られている。中央の文字は「成▢庚申」と一部読めない文字がある。普通「成」ときたら、成就か成願だとは思うがその文字ではなさそう。この庚申塔はなぜか新宿区の資料にも載っていない。

場所  新宿区下落合2丁目24-16

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2022年4月13日 (水)

七曲坂下の地蔵尊(新宿区下落合)

下落合氷川神社から西へ50mほど進むと台地の上に上る坂のひとつ「七曲坂」の坂下になる。この坂下の角に3基の地蔵尊が祀られている。

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右から月輪のある丸彫の地蔵菩薩像、左が舟型光背型の地蔵菩薩像、そしてその足元に小さな舟型光背型の地蔵菩薩がある。右の地蔵の台石には文字が刻まれているが摩滅が進んでいてどうにもはっきりとは読み取れない。

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資料を調べてみたがこの地蔵については何も見当たらない。この地蔵尊の存在については数年前の七曲坂の紹介にも記載したが、時代と共に摩滅で文字が読めなくなる気がする。坂道も民俗的な痕跡であるし、石地蔵や庚申塔はもっと具象的な痕跡である。かつて神田川の農地に下ったり台地上に上ったりする人々の息吹を感じられる辻の石地蔵である。

場所 新宿区下落合4丁目9-1

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2022年4月12日 (火)

氷川神社前の庚申塔(新宿区下落合)

神田川は西新宿と中野坂上の間で急に北流し高田馬場から再び東流している。今は比較的まっすぐな流路だが、つい最近までくねくねで度々洪水を起こす川だった。下落合で西から流れてきた妙正寺川を合わせて東に向きを変えるのだが、この合流点の北側にあるのが下落合氷川神社である。なんとこの神社の創建は伝承の時代第5代考昭天皇の時代だという。西暦で表せないのはそれがいつのことなのかわからない為で、考昭天皇は83年在位して113才で崩御というあり得ない伝承である。

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この辺りは明治時代まで落合村で、北側が長崎村、南が戸塚村であった。高田馬場周辺が農村だった時代の話である。氷川神社には文政7年(1824)9月の手水鉢や慶應元年(1865)の対の狛犬があるが、特に民間信仰の石仏などは見当たらない。ただ氷川神社の鳥居から10mばかり東には路傍に一基の庚申塔が立っている。

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この庚申塔はおそらく駒型で日月の有無は上部が摩滅していて不明。青面金剛像、邪鬼があり、三猿の上部がわずかに残る。造立年は文化13年(1816)8月。右側面には「右 さか下道」、左側面には「左 ぞうしがや道」とあり道標を兼ねている。ぞうしがや道は雑司が谷だろうが、さか下道はよくわからない。

場所  新宿区下落合2丁目8-2

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2022年4月11日 (月)

東山稲荷神社の石仏(新宿区下落合)

高田馬場駅の北側を神田川が東流している。川面の遥か上を山手線や埼京線が走っている。その谷の深さは電車の車両1両の長さよりも深い。高田馬場駅は高架上の駅なのに隣りの目白は切通しの駅、そしてこの神田川は南北の標高30m以上の台地に刻まれた高低差22mの谷底である。神田川の北側の崖地にはいくつもの坂道がある。近衛坂相馬坂七曲坂などどれも急坂である。

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この崖地に近くの住民以外にはほとんど気づかれない神社がある。東山稲荷神社である。清和源氏の皇孫源経基が延長5年(927)に創建したと伝えられる古い稲荷神社である。神社は周りをおとめ山公園に囲まれている。おとめ山公園は江戸時代は徳川将軍鷹狩場で御禁止山と書いた。明治になって福島県相馬中村藩主の相馬家が屋敷地として購入したのでそこに上る相馬坂という坂名が残った。

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鳥居脇にある手水鉢には「東山稲荷明神」とあり、造立は寛延3年(1750)5月と刻まれている。水鉢は内藤新宿の松尾忠兵衛他9名が奉納している。傍には天保9年(1838)4月の水鉢もあり、その上にある舟型光背型の地蔵菩薩像は寛延4年(1751)9月の造立で、願主柏木氏の銘がある。全く目立たないが時代と由緒のある神社である。

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稲荷神社の標高は崖の途中で25mだが、参道の階段の下は17mほど。この参道下には小さな区画があって不思議な丸柱があるが、これは天保7年(1836)に建てられた旧社地を標した祈念碑である。おとめ山に食い込むように崖上に移った理由は分からない。ちなみに東山藤稲荷神社という社名もある。かつて境内に大きな藤の木があったことから藤森稲荷(藤稲荷)とも呼ばれたのでそれが合わさったのだろう。

場所  新宿区下落合2丁目10-5

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2022年4月10日 (日)

元宿神社の庚申塔(足立区千住元町)

千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光街道が開発される以前の鎌倉街道時代の街道筋の宿場町である。江戸時代にはまだ荒川は存在しなかったのでこちらが奥州路の主要道だったが、さすがに大権現家康の墓参り街道には主役を奪われた。かつての元宿はほぼ現在の荒川の河川敷になっているが、元宿神社(八幡社)は江戸時代からこの地にあったようだ。

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神社の前には里道が走っていたが、これは桜土手と呼ばれ、元和2年(1616)に石出掃部助吉胤が構築した堤防の跡に敷設された道路で、明治時代に桜が植樹され桜土手とよばれて親しまれた。江戸時代は現在の隅田川の湾曲外側の位置にあって洪水に苦しめられたのだろう。関東大震災で桜土手は衰え廃れていったが、旧掃部堤西側は千住桜木町という町名になり桜の名前が残ることになった。

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氷川神社のところで書いた丸石の庚申塔がこの元宿神社にある。こちらは石の裏側に紀年があり、天保9年(1838)2月の造立年が分る。台石には元宿同行とあるが、それぞれが似すぎていて関連性を期待してしまう。元宿神社には「感旧碑」なるものが本殿前にあり、甲府からやってきた人々が安土桃山時代に現在は荒川に含まれる川田耕地を開墾して良田を得たが、明治末から昭和初期にかけての荒川開削で故郷をうしなってしまったという旨のことが記されている。

場所  足立区千住元町33-4

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2022年4月 9日 (土)

氷川神社の庚申塔(足立区千住大川町)

千住大川町は東京府南足立郡千住町大川町が荒川の完成後周辺の町村と共に東京市に編入され、昭和初期に足立区千住大川町となった。永仁2年(1294)に創建したのが大川町氷川神社だが、明治44年に始まった荒川掘削の為に大正2年に移転を余儀なくされ、その後現在地に鎮座した。本殿脇には千住川田浅間神社富士塚があるが、氷川神社とともに荒川がある場所にあった川田耕地にあったものを大正5年(1916)に現在地よりやや西に移転。その後水道幹線工事の為昭和43年(1968)に今の場所に落ち着いた。

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この富士塚は高さが約3mほどで山頂の石祠は天保2年(1831)のもの。この富士講講社は高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、千住大川町から荒川対岸の埼玉県の町村まで含む農民中心の講社だったという。氷川神社の境内は鄙びた雰囲気のいかにも村の神社という雰囲気だが、それが逆に歴史を感じさせてくれる。

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本殿前には石の布袋像があるが、これは千住七福神の布袋尊。千住七福神は平成20年(2008)に構成寺社が変更され現在は神社のみとなっている。変わることがあるんだという率直な感想である。布袋尊の左下に丸い力石のような大きな石に「庚申」と書かれた石碑がある。間違いなく庚申塔だが、元七福神のひとつだった不動院と新たな七福神のひとつである元宿神社にはよく似た丸石の庚申塔がある。この氷川神社の庚申塔の造立年等は一切記されていないが、3つの丸石庚申塔には関連性がありそうな気がしてならない。

場所  足立区千住大川町12-3

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2022年4月 8日 (金)

安養院の石仏(足立区千住)

2022年の大河ドラマは『鎌倉殿の十三人』で人気だが、足立区千住5丁目にある真言宗の安養院はドラマの主役である北条時政の曽孫である第五代執権北条時頼が創建したと伝えられる。当時は千住元町(現在地よりも1㎞程西)に創建したが、慶長3年(1598)に兵火の災いに遭い焼失して今の場所に移転した。

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山門の手前に立派な庚申塔が3基並んでいる。左は唐破風笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻されている。造立年は元禄15年(1702)9月。右側面には「奉造三尸之毒虫二世願満孕」とあって興味深い。道教の教えで、人体には3匹の虫がいて60日毎(庚申)の夜に人体を抜け出し天帝に罪状報告をするという庚申信仰の話をこれほどストレートに記している例は稀である。

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中央は舟型光背型の地蔵菩薩像だが、右脇に「奉納庚待供養二世安樂攸」とあるので庚申講中によるものと思われる。その下および左側下部に合わせて12人の願主名があり、基壇には三猿が描かれているので庚申信仰によるものとして間違いない。造立年は寛文4年(1664)10月で千住町の銘がある。右の笠付角柱型は面白い形である。青面金剛像、邪鬼、三猿は判別できたが日月と鶏はなさそうである。造立年は資料によると、貞享3年(1686)建立、寛延2年(1749)再建、安政2年(1855)再建、明治6年(1873)再建と4つの紀年があるがその経緯は不明。

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本堂の南側へ回り込むと3基の地蔵菩薩像が並んでいる。どれもとても大きなもので、右端は庚申地蔵。造立年は寛文10年(1670)8月。脇に書かれているのは「右志者為念仏供養男女三十一人二世安楽所」「左志者為庚申供養同行三十二人二世安楽所」とあり、庚申講中と念仏講中による共同制作のようだ。中央は寛文4年(1664)9月の地蔵菩薩。こちらの脇には「右志者為念仏供養男女▢人二世安楽所」と人数のところが読めない。2基合わせて「仲直し地蔵」と呼ばれている。左の溶けたような地蔵尊は「かんかん地蔵尊」と呼ばれ、元禄12年(1699)の造立と書かれているが、摩滅が著しい為ほとんど読めない。

場所  足立区千住5丁目17-9

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2022年4月 7日 (木)

清亮寺の石仏(足立区日ノ出町)

長円寺の先で常磐線の線路をくぐると東武伊勢崎線のガード手前にあるのが清亮寺。寺の北側はすぐに荒川の堤防になる。清亮寺は日蓮宗の寺院で開山は元和5年(1619)。とうぜん大正時代よりも前は荒川は存在しないわけで、清亮寺の門前の道は水戸佐倉道という古道で、清亮寺のすぐにしで日光街道から分岐していた。もちろん千葉県の佐倉を経て水戸へ繋がる道で、現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にもその辺りの関東武士が登場する。

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山門は昭和6年(1931)の再建だが、手前の供養塔は安永8年(1779)3月の造立である。かつてこの山門脇には古い松があり、水戸藩主の徳川光圀が槍を立てかけたという「槍掛けの松」が有名だった。音で聞くとやりっぱなしみたいで面白い。樹齢350年を全うして、昭和20年頃に枯死してしまった。

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本堂手前の参道から左を見ると大きな如来像がある。施無畏印を結んだこの石像はプロポーションがいささか漫画チックで面白い。造立年が分からなかったが、手前の香炉台にあったのは安政2年(1855)4月という紀年であった。

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如来像の後ろに隠れるように傾いて置かれているのが、笠欠の角柱型庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。左手にはショケラが下がる。最初に造立されたのは貞享3年(1686)だが、現在あるのは安政2年(1855)に再建されたもののようだ。途中二ヶ所折れた痕跡があるのは戦災によるものかと思ったが、足立区の資料を見ると、安政2年の大地震で上下に割れたものを繋いだのではないかと書かれていた。その時に如来像も建てられたことになる。

場所  足立区日ノ出町42-1

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2022年4月 6日 (水)

長円寺の石仏(足立区千住)

北千住駅から500mほど北の線路沿いにある真言宗寺院の長円寺。寛永4年(1627)に出羽湯殿山の行者雲海がこの地に庵を結んだのがはじまりとされる。その後延享年間(1744~1748)には殊に栄えたという。

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境内に入ると、右手奥には「八十八ヶ所巡り毛彫石碣(せっけつ)」という自然石に線刻をした石仏があり、珍しい民俗信仰の一面が見られるが、あまりに広がりすぎていて写真にきれいに納める術がなかった。

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山門脇には小堂があり、めやみ地蔵尊がある。めやみというのは「目病み」と書き、いわゆる眼病に御利益のあるお地蔵様ということである。小堂の周りには「め」というかな文字をふたつ書いた絵馬がずらりと並んでいる。本体のめやみ地蔵様は小堂の奥にあり、右足を立てた半跏像である。通常左足を立てた半跏像が多いのだが、珍しいと思う。

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境内の八十八ヶ所巡り毛彫石碣の手前には3基の石仏が祀られている。左は貞享3年(1686)8月造立の駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、右脇に「庚申待供養二世安樂攸」と書かれている。中央の舟型光背型は珍しい大日如来像で、足下にいるのは邪鬼だろうか。庚申塔の可能性もわずかに残るが不明。造立年は寛永4年(1627)と行者が庵を編んだのと同じ年。右は舟型光背型の阿弥陀如来像で、寛文4年(1664)8月の造立。「奉▢念佛供養尊道行二十四人」と刻まれている。

場所  足立区千住4丁目27-5

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2022年4月 5日 (火)

金蔵寺の石仏(足立区千住)

金蔵寺は真言宗の寺院。創建は建武2年(1333)と鎌倉時代末期に後醍醐天皇が隠岐に流された翌年という古刹だが、立地は北千住駅前という地上げ屋垂涎の場所にある。ただし山門は駅とは反対側の路地にあり、駅前の喧騒を忘れられる空間になっている。

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山門を入ると左側に大きな石仏石塔が3基並んでいる。寺院の説明板によると、手前の角柱型の供養塔は千住宿の遊女の供養塔らしい。かつての千住宿には、本陣脇本陣のほかに55軒の旅籠屋があり、そのうち遊女がいた食売旅籠が36軒であったという。また江戸時代後期には町全体が遊里のようになって発展したようだ。当時の遊女は病死すると無縁仏のように扱われたという。ひどい話である。

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中央の舟型光背型の阿弥陀如来像は庚申講中によるもの。上部の文字が摩滅して読めないので、造立年は分からないが、江戸時代前期の可能性が高そう。阿弥陀如来の足元には三猿が陽刻されている。また千住弐町目の文字も見える。右の角柱の石塔は天保9年(1838)の造立で、前年の大飢饉による餓死者の供養塔である。

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少し先に進むと自然石の大きな石塔がある。巡拝塔で、正面には「神仏霊所巡拝」とあり、富士山、日光山、月山、湯殿山、羽黒山をはじめ、全国各地の山岳信仰の地が刻まれている。また並列して、四国、西国、坂東、秩父、をはじめとする全国の巡礼地の名前が刻まれているなんと欲張りな巡礼塔であろうか。下部には僧侶の姿が線刻されている。造立年は見当たらなかったがおそらく江戸末期から明治時代のものだろう。

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山門近くにある舟型光背型の六地蔵はあまり目立たないが、天保3年(1832)7月の造立と刻まれている。好立地にありながらも訪れる人の少ない寺院だが、雑然とした北千住西口にあってホッとする存在である。

場所  足立区千住2丁目63

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2022年4月 4日 (月)

不動院の石仏(足立区千住)

慈眼寺に隣接するのが不動院。江戸時代から隣り合わせで慈眼寺と同じく新義真言宗のお寺。元弘2年(1332)に開山というから慈眼寺開山から18年後である。寺院とはいえ700年近くお隣さんというのは凄い事である。もとは吉祥院(足立区本木西町)の末寺で白幡八幡神社(現在の国道4号線の西側にある)の別当であったとされる。

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境内には立派な包丁塚があるが、千住宿の川魚料理人たちが魚類の冥福を祈るために建立したもの。そういう風習は日本独特のものでもあるかもしれない。

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山門から参道を進むと左側に3基の庚申塔が並んでいた。中央の駒型(頂部が一部欠損)以外は特殊な像形をしている。左端は櫛型と呼ぶべきだろうか。安永6年(1777)2月の造立である。正面には「庚申供養塔」と書かれている。右面には「千寿弐町目講中世話役 島田伊兵衛」とあり他の願主の名前もある。左面には「同所西耕地石橋七ヶ所掛之」とあるので石橋供養塔を兼ねているのだろう。

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中央の駒型庚申塔の造立年は元禄15年(1702)9月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫られている。右肩には「奉建立庚申尊像為菩提」とあり、三猿の下には資料によると「供養之講中 掃部宿 五兵衛」とその他7人の願主名があるようだ。右は力石のような庚申塔で、文化11年(1814)1月の造立。足立区の資料の写真を見ると7割がた土中に埋まっているが、一体どこに埋まっていたのだろうか。

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写真が不鮮明で左端の庚申塔が上手く写っていないので、別途上の写真を付け加えた。一見玉垣の一本のような角柱で、めずらしい庚申塔である。

場所  足立区千住1丁目2-2

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2022年4月 3日 (日)

慈眼寺の石仏(足立区千住)

慈眼寺は真言宗の寺院で創建は正和3年(1314)2月に行覚上人によるものと伝えられる。鎌倉時代の創建で、位置関係でいうと武蔵国の東の外れで下総国との国境近くである。ただ行覚上人についてはどのような人物なのかは分からない。慈眼寺は旧日光街道から少し離れているが、むしろそれが日光街道整備以前にあったことを物語る。

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山門は南側で大踏切通りに面している。興味深い通り名で、東の方に行くと常磐線、上野東京ライン、つくばエクスプレス、日比谷線、東武伊勢崎線と交差するが、現在は7線が踏切で、踏切の区間は約100mもある。それが交通量の多い大通りだから質が悪い。さて、慈眼寺には千住町消防署の慰霊顕彰碑があるが、江戸時代は纏に「千」の文字を載せていたようだ。

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本堂脇には1基の板碑がある。寺の説明板にある貞治6年(1367)の板碑だろうか。王貞治との関係はおそらくない貞治という年号で、1362年~1368年の和号である。板碑に書かれている文字がほとんど読めないので、この板碑がそれかどうかはいささか自信がない。

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墓所入口には大きな舟型光背型の地蔵菩薩像が並んでいる。これはどちらも庚申地蔵で、左の頂上がやや欠けている方が寛文7年(1667)9月の造立。地蔵菩薩の尊顔の脇には「庚申待供養」とある。尊像の袖脇には願主名が多数彫られている。右の背の高い方の庚申地蔵は万治3年(1658)10月の造立。上部に「奉納庚申待供養」とある。左下には「本願下川三郎左衛門」の銘がある。そして基壇には蓮葉と三猿が陽刻されている。

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斜め前の屋根付で祀られている自然石の石仏は線刻の日限地蔵。 造立年は明治6年(1873)10月。線刻は時代と共に傷んで見えなくなってしまいがちだが、明治時代にしてはよい彫りだと思われる。下脇には比丘海如和尚とあり、下には和刕豊山能梢院とあるが法名だろうか。裏側にある造立の明治六年遷化とあるのでこのお坊さんの命日ということになる。

場所  足立区千住1丁目2-9

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2022年4月 2日 (土)

源長寺の石仏(足立区千住仲町)

浄土宗の源長寺はかつての日光街道千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)に面した寺院で、日光街道が整備される以前の慶長15年(1610)にこの地を開拓した石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が菩提寺として建立、後に江戸の街作りの先駆けとなった人物郡代伊奈備前守忠次を尊敬しその法名に因む寺号を付けたらしい。

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旧日光街道からきれいになった山門をくぐるが、その手前北側に地蔵堂がある。「掃部宿門旧跡延命子育地蔵堂」と書かれた石碑が立っている。源長寺の南側には掃部堤という用水路が東西に延びており、門前よりも南側が河原町、北側が掃部宿であった。日光街道を北上するとこの子育地蔵が千住宿への入り口だったようだ。造立年等は分からない。

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石出吉胤は江戸時代初期の名主で、元和4年(1618)に85才で亡くなっている。当時は相当な長寿で、長寿として知られる徳川家康ですら73才だからそれよりも一回り生きたことになる。吉胤が生まれたのは徳川家康よりも10年早く、亡くなったのは2年後である。元々は千葉氏の一族で、武蔵国足立郡本木村で土地を開墾した。当時は荒川は存在していないので、北千住と本木は地繋がりでほぼ同じ地域だった。

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山門をくぐると左手(墨堤通り側)に2基の馬頭観音がある。左の自然石型の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」と書かれているが造立年等は分からない、下部「世」のところで折れた痕跡があるのは戦災だろうか。右の駒型の馬頭観音も「馬頭観世音」と書かれている。これも紀年は不明だが、左側に「世話人 代々来嶋庄兵衛 千住壹町目馬持中 通新町馬持中」とある。いかにも街道筋である。

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近くには良好な石材で見事に彫られた舟型光背型の聖観音菩薩像や地蔵菩薩像があるがどちらも墓石であった。聖観音像は特に見事で、延宝9年(1681)5月に没したであろう女性の供養。地蔵菩薩像は享保10年(1725)7月で男性の供養仏である。

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参道の反対側には竹の林立する中に3基の庚申塔がある。一番本堂側は駒型の庚申塔で、造立年は元禄9年(1696)5月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻されている。下部には願主名が記されているがほとんど読めない。

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真ん中にあるのが大きな笠付角柱型の庚申塔で、正面に彫られているのは珍しい阿弥陀如来坐像。その上には日月の陰刻と文字「奉造立庚申供養」があり、阿弥陀像の下には願主名らしきものが7名。三猿は正面最下部に一猿、左右にそれぞれ一猿の計三猿が陽刻され、正面の猿の脇に二鶏が描かれている。側面の猿の上は蓮華蓮葉が大きく描かれている。造立年は寛文4年(1664)10月と古く、まだ主尊が定まらない時代のものである。

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一番山門側にはかなり摩滅の進んだ駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、両脇には「渡部氏母 願成就所」とあるが、造立年は見当たらない。五街道のひとつ日光街道の最初の宿場町の入口の寺院として当時から盛況だった雰囲気の残る源長寺である。

場所  足立区千住仲町4-1

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2022年4月 1日 (金)

氷川神社の庚申弁天(足立区千住仲町)

北千住駅から南へ700mほどのところに仲町氷川神社がある。社伝によれば元和2年(1616)の創建とされる。日光街道の千住宿の宿場町の鎮守のひとつで、この辺りは千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)と呼ばれたところ。日光街道の整備は寛永元年(1624)に始まり千住宿もその直後の開発なのでその前に鎮座したことになる。また交通量増加により千住宿が千住掃部宿まで広げられたのは万治元年(1658)以降であるから、まだ当時は野中の社だったことだろう。

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氷川神社の鳥居は日光街道を向いて西向きである。境内社のひとつに弁財天がある。「千寿弁財天」といい千住七福神のひとつ。弁天様と庚申を結び付けた江戸時代の自由さが何とも言えない。

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富士の溶岩のような築山があり、その中央に洞がくり抜いてある。弁財天はその中に鎮座している。弁財天は女性の神様で、水との関係が深いが、特にこの地に水とのかかわりはなく、なぜこの場所に弁財天なのかはわからない。

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舟型光背型の弁財天像は中央に弁天座像、尊顔の両脇に二鶏、足元に三猿が描かれている。上部には、「天尊奉立弁財像一躰 結衆欽言」とあり、両脇には10名ほどの願主名が刻まれている。造立年は元禄2年(1689)重陽(ちょうよう=9月)とある。弁財天の庚申塔は東京ではこれ一基らしい。

場所  足立区千住仲町48-2

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