駒沢通りと駒沢公園通りの交わる深沢不動交差点の近くにある真言宗の医王寺。開基は谷岡又左衛門による寛永2年(1625)の創建。又左衛門は深沢村の旧家であったらしい。深沢は呑川の源流で、もともと深い沢地の意味でついた地名である。また深沢周辺には湧水が多く、飲める水が流れるという意味で呑川の名が付いた。

昭和30年代に鉄筋コンクリート造に改築された本堂はしゃちほこのついた立派なものだが、個人的には質素な古い山門が好みである。医王寺は呑川源流でも複数の支流が集まる台地際に立っている。現在の駒沢公園通りは明治になってから出来た道を広げたもの。深沢不動の辺りには何軒もの店が明治時代には集まっていたようだ。現在深沢坂とされている坂道は明治時代にはお茶屋坂と呼ばれた。その辺りまで店が広がっていたようだ。

駒沢通りに面した山門脇にあるこの背の高い地蔵は「雷地蔵」と村人に呼ばれた地蔵様。昔、この地蔵は本堂の前辺りにあり、当寺近辺の農家の屋敷林に雷が落ちて家が焼ける事故が続いた。そこで村人はこの地蔵にお線香をあげ、その燃え残りの線香を持ち帰り縁側に立てるようにしたところ、その後深沢村に雷が落ちることは無くなったと伝えられる。ちなみにこの地蔵は正徳5年(1715)4月の造立で、正面には「奉造立延命地蔵」とあり、「武蔵國荏原郡深澤住」という地名が刻まれている。

雷地蔵の近くに2基、山門の左に1基の庚申塔がある。右側の道路側にあるのが上の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄の駒型庚申塔で、造立年は享保17年(1732)9月。施主は三田平左衛門とある。

その隣には少し背の高い頂部の尖がった駒型の庚申塔。こちらも日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、造立年は延宝8年(1680)11月と古いもの。下部に9人の願主名が彫られている。姓は田中、角田、田村、秋元3人、牧野、大関、浅野とバラバラ。

山門左側の駒沢通り脇には上の駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にショケラが下がっている。向かって右面には「庚申講中」の大きな文字。左面には紀年が彫られ、造立年は天明5年(1785)9月である。

本堂前には燈籠と丸彫の地蔵菩薩像が並んでいる。燈籠は比較的新しいもので正面に「奉献常夜燈」とあるが、裏手の地蔵座像脇に対の片方がありそちらはゼニゴケが付いていて古そうな雰囲気を醸し出している。右の丸彫地蔵菩薩は巨保17年(1732)の造立。正面に「奉造立地蔵尊為二世安楽也」とあり、願主谷岡儀左衛門、妻、他講中45人とある。

本堂右に進むと墓所があり、その入口には立派な宝篋印塔がある。享保18年(1733)4月の建立で、武陽荏原郡世田谷領深沢邑の銘がある。こちらも願主には谷岡又左衛門の名前があり、谷岡家はさぞ名家だろうと調べてみると、明治時代には深沢坂上の深沢神社周辺に谷岡姓の家が沢山ある。医王寺の南側である。北側には秋山家、浅見家、田中家が多い。

同じく墓所入口には六地蔵があり、6基のうち4基の造立年が分ったがすべて貞享4年(1687)の造立。造立月は2月、7月、8月、霜月(11月)である。願主名にはやはり谷岡家、秋山家が多かった。

六地蔵の裏には無縁仏塔があり、その前に3基の石仏が並んでいる。左の駒型庚申塔は、明和8年(1771)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。かつて深沢5丁目18-12の日体大斜向かいにあったもので、マンション建設で医王寺に移設されたもの。中央の舟型の聖観音像は延宝9年(1681)3月のものだが墓石らしい。右の舟型光背型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は延宝8年(1680)8月と古いもので、「庚申供養建之」「二世安楽深澤村」と刻まれている。この庚申塔は元は深沢6丁目1-10にあったというから寺の近くにあったようだ。
実は、後で知ったのだがもう一基庚申塔があるらしい。再訪して追記したいと思う。
場所 世田谷区深沢6丁目14-2
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