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2022年4月 2日 (土)

源長寺の石仏(足立区千住仲町)

浄土宗の源長寺はかつての日光街道千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)に面した寺院で、日光街道が整備される以前の慶長15年(1610)にこの地を開拓した石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が菩提寺として建立、後に江戸の街作りの先駆けとなった人物郡代伊奈備前守忠次を尊敬しその法名に因む寺号を付けたらしい。

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旧日光街道からきれいになった山門をくぐるが、その手前北側に地蔵堂がある。「掃部宿門旧跡延命子育地蔵堂」と書かれた石碑が立っている。源長寺の南側には掃部堤という用水路が東西に延びており、門前よりも南側が河原町、北側が掃部宿であった。日光街道を北上するとこの子育地蔵が千住宿への入り口だったようだ。造立年等は分からない。

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石出吉胤は江戸時代初期の名主で、元和4年(1618)に85才で亡くなっている。当時は相当な長寿で、長寿として知られる徳川家康ですら73才だからそれよりも一回り生きたことになる。吉胤が生まれたのは徳川家康よりも10年早く、亡くなったのは2年後である。元々は千葉氏の一族で、武蔵国足立郡本木村で土地を開墾した。当時は荒川は存在していないので、北千住と本木は地繋がりでほぼ同じ地域だった。

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山門をくぐると左手(墨堤通り側)に2基の馬頭観音がある。左の自然石型の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」と書かれているが造立年等は分からない、下部「世」のところで折れた痕跡があるのは戦災だろうか。右の駒型の馬頭観音も「馬頭観世音」と書かれている。これも紀年は不明だが、左側に「世話人 代々来嶋庄兵衛 千住壹町目馬持中 通新町馬持中」とある。いかにも街道筋である。

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近くには良好な石材で見事に彫られた舟型光背型の聖観音菩薩像や地蔵菩薩像があるがどちらも墓石であった。聖観音像は特に見事で、延宝9年(1681)5月に没したであろう女性の供養。地蔵菩薩像は享保10年(1725)7月で男性の供養仏である。

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参道の反対側には竹の林立する中に3基の庚申塔がある。一番本堂側は駒型の庚申塔で、造立年は元禄9年(1696)5月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻されている。下部には願主名が記されているがほとんど読めない。

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真ん中にあるのが大きな笠付角柱型の庚申塔で、正面に彫られているのは珍しい阿弥陀如来坐像。その上には日月の陰刻と文字「奉造立庚申供養」があり、阿弥陀像の下には願主名らしきものが7名。三猿は正面最下部に一猿、左右にそれぞれ一猿の計三猿が陽刻され、正面の猿の脇に二鶏が描かれている。側面の猿の上は蓮華蓮葉が大きく描かれている。造立年は寛文4年(1664)10月と古く、まだ主尊が定まらない時代のものである。

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一番山門側にはかなり摩滅の進んだ駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、両脇には「渡部氏母 願成就所」とあるが、造立年は見当たらない。五街道のひとつ日光街道の最初の宿場町の入口の寺院として当時から盛況だった雰囲気の残る源長寺である。

場所  足立区千住仲町4-1

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