« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »

2022年5月31日 (火)

慈光院の庚申塔(墨田区立花)

北十間川の北側、東武亀戸線の西側の一帯は巨大な団地で、墨田立花団地という。その団地の東南に隣接するのが曹洞宗の慈光院という寺院である。訪問時は寺の改築中で養生された状態だったが、本堂手前の石仏の拝観は可能だった。

Cimg5546

慈光院は鎌倉幕府でも活躍した葛西氏の子孫が開基となり、永正11年(1514)に開かれた。葛西氏は「鎌倉殿の十三人」でも出てきた頼朝が千葉を廻って軍を集めた折に、上総氏~千葉氏~葛西氏と回って行った坂東武者の頭領である。ただこの辺りは第二次世界大戦でもほとんどが焼け野原になってしまった地域で、寺にも戦災殉職者の供養塔がある。

Cimg5549

供養塔の傍には笠付角柱型の立派な石仏が2基あり、左は三界万霊塔。造立年は寛政3年(1791)8月で、三段笠の重厚なものである。右の笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏(陰刻)、三猿が描かれており、造立年は元禄6年(1693)5月中旬で、施主は谷口氏の銘がある。青面金剛像脇には「奉待庚申供養塔」と刻まれていた。

場所  墨田区立花1丁目29-3

| | コメント (0)

2022年5月30日 (月)

祐天堂(江東区亀戸)

江東区亀戸と墨田区文化の間にある北十間川に架かる境橋。江戸時代は南西(柳島村)、南東(亀戸村)、北西(請地村)、北東(小村井村)の四村の境であった。現在では墨田文花のオリンピックという大きな商業施設がある。

Cimg5537

この境橋の南詰の柳島村側に堂宇があり、北十間川を背にして立っている。この堂宇は祐天堂と言われ、江戸時代初期の高僧で幕府から帰依を受け増上寺のトップに立った祐天上人(墓所は祐天寺)にまつわるもの。堂内にあるのは「六字名号供養塔」というものである。

Cimg5542

堂宇の手前脇にある石碑は道標。「木下川やくしみち道標」と呼ばれ、ここ境橋から木下川薬師堂(葛飾区東四つ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居堀通り)を示している。正面には「木下川やくしみち」とあり、左には宝暦11年(1761)孟春の造立年と「本石町」の案内、見えない右側には説明板によると「あつまもり」とあるらしい。本石町は日銀本店のある日本橋の地名で、あつまもりというのはこの北西にある吾妻権現社(吾嬬神社)をさすという。

Cimg5544

堂内の塔は南無阿弥陀仏という六文字の刻まれた角柱で、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中に多くの水死体が浮かんでいるのを見て心を痛め、亡骸ごとに戒名を付けて自ら石塔に記したとされる。それ以来付近での溺死水死は無くなったという。後の人がこの石柱を堂宇に納めてお祀りしたのがこの祐天堂である。

場所  江東区亀戸3丁目39

| | コメント (0)

2022年5月29日 (日)

正観寺の庚申塔(墨田区押上)

正観寺は北十間川に架かる十間橋の北にある天台宗の寺院。創建は天正20年(1593)というから、豊臣秀吉の全盛期。勿論当時の江戸は片田舎の村で、湿地帯に囲まれた低地だった。住宅の中にひっそりと立つ寺院で本堂の裏手に墓所が広がっている。

Cimg5530

山門を入り本堂の脇に立つと、左手に真新しい水子地蔵が立つ。造立年は昭和56年(1981)3月と石仏としては最近のものである。その右側、本堂の階段を背にするように自然石の石仏がある。

Cimg5534

石の正面には「青面金剛」とあるが、裏にも基壇にも文字はまったく見当たらないが自然石による庚申塔である。寺の案内によると江戸時代に流行した庚申信仰の本尊だとあるが、上部にうっすらと日月が描かれているだけで、講中の情報などは不明である。

場所  墨田区押上3丁目32-4

| | コメント (0)

2022年5月28日 (土)

法性寺門前の石塔(墨田区業平)

北十間川沿いからは空高くそびえる東京スカイツリーが見えて、ある意味圧巻なのだが、私の世代にとってはウルトラマンの怪獣ダダとかジャミラとかを想起させる一面があって東京タワーのように素直に好きになれない。もっとデザインセンスを高くすればよかったのにと今でも悔やまれる。そんなスカイツリーを見るベストポイントが北十間川に架かる十間橋である。

Img_3991

実はこの十間橋は有名な撮影スポットで橋の交通の邪魔になるほど人が溜まることもある。しばらくは忘れられて空いていたが、最近またTVでインスタグラムおすすめスポットなんてやっていたので当分は混雑するかもしれない。この化け物のような建造物が石仏のように300年、400年経っても存在するなんて誰も思ってはいない。100年先にはおそらくないだろう。そう考えると石仏石碑は凄いのである。

Cimg5528

十間橋の南側に法性寺という寺院がある。看板によると葛飾北斎に深く信仰された寺院らしい。寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と書かれた石塔がある。紀年は宝暦2年(1752)6月とある。傍に説明板があるが内容が繋がらないのでいささか困惑。「この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑…」とあるがこの石碑のことではないようだ。法性寺は日蓮宗の寺院で、1492年の開山。ここの妙見堂をテーマに葛飾北斎が多くの作品を描いているのでその妙見堂の石碑と思われる。

場所  墨田区業平5丁目7-7

| | コメント (0)

2022年5月27日 (金)

龍眼寺の石仏(江東区亀戸)

現在の住居表示は亀戸3丁目だが、亀戸三丁目は江戸時代、東側は亀戸村、西側は柳島村という別々の村だった。墨田文化オリンピックの前の境橋から南に下る道が東西の境でもあったので、北十間川南側にわずかにあった町人区域は道の東側が亀戸境町、西側が柳島境町と言った。龍眼寺は柳島村にあり、寺の西側には横十間川が南北に流れる。

Cimg5510

龍眼寺は応永2年(1395)の創建で室町時代の千葉氏の一族で新田義興の家臣であった澤良和尚の開基。諸国を回り、この地で柳の樹の下に草庵を結んだのが始まりという。また寺は萩寺として江戸時代から有名で、多くの文人墨客が訪れたので誌碑も多い。本堂は八角堂になっており夢殿を模したようだ。創建当時は柳源寺と名付けたらしいが、いつからから龍眼寺となった。

Cimg5511

本堂の近くに古い角柱型の庚申塔がある。どうも江東区では最古の庚申塔らしい。上部に三猿が陽刻されており、その下に「奉造立庚申影像一基二世安楽所」とある。夫婦10組の願主名が刻まれ、彼らが現世来世の安楽を祈願したもので、造立年は万治2年(1659)12月(区の推定)。この時代は柳島村が成立したばかりの時代で、荒れ地と湿地のこの辺りを彼らは開墾して生活していたのだろう。

Cimg5520

客殿前にあるのがこの頂上部分にくぼみのある石塔。正面には「日本六十余刕大小神祗」とあり、神祇とは広義では天地の神々の意、狭義では土地の神様を指すようだ。左面には「融通念佛供養像」、裏面には造立年が正徳5年(1715)4月とあり、右面には「梵天帝釈四天王▢」と書かれている。一体何の供養塔なのかは分からない。

場所  江東区亀戸3丁目34-2

| | コメント (0)

2022年5月26日 (木)

光明寺の石仏(江東区亀戸)

荒れ果てた普門院の北側裏手にあるのが天台宗の光明寺。創建は弘治元年(1555)だという。江戸時代後期、光明寺の西側は現在の青森県の陸奥弘前藩津軽家10万石の抱屋敷だった。屋敷の広さは16,500坪もあったという。光明寺のすぐ北には臥竜梅の亀戸梅屋敷があり賑わっていた。

Cimg5498

山門を入ると正面に本堂、右手に地蔵堂が立っている。普門院に比べてこちらはきれいに手入れされている境内。別説ではもっと古い創建という話もあるが、おそらくは安土桃山時代で間違いないだろう。

Cimg5500

地蔵堂の前に舟型の庚申塔が一基立っている。三猿のみがくっきりと陽刻されたシンプルな庚申塔である。バランスが極めて素晴らしいと思う。造立は延宝4年(1676)8月。三猿の下に願主名が10名ほどあるが苗字はない様子。上部には「奉造立庚申供養一結成就二世安楽攸」と書かれている。

Cimg5506

地蔵堂の中を拝見。 新しい丸彫の地蔵菩薩が三基祀られている。どれもおそらくは昭和の年代のものだろうと見えた。中央は子育地蔵尊。門前の道は新しい道かと思ったら江戸時代からある古い道だった。少し北に歩くと北十間川があり、境橋で江東区から墨田区に入る。江戸時代はこの境橋が亀戸村と小村井村の村境だった。

場所  江東区亀戸3丁目42-1

| | コメント (0)

2022年5月25日 (水)

普門院の石仏(江東区亀戸)

真言宗の普門院は訪問時は草木が生い茂り、本堂前の草木も伸び放題でまさか廃寺かと思ったほどだった。しかし本堂屋根にも樹木が生えている状態だからほぼ廃寺なのかもしれない。普門院は大永2年(1522)三股城(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたりで現在の足立区千住から橋場あたりにあった)城中に創建された。元和2年(1616)に現在地へ移転している。三股城を調べてみたが分からない。

Cimg5481

寺伝によると、三股からここに移転する際に梵鐘を隅田川に落として沈めてしまったので、その場所が鐘ヶ淵という地名になったという伝説を持つ。亀戸七福神の毘沙門天でもあるのだが、寺の様子は如何に。

Cimg5484

本堂手前の墓地入口に数基の石仏が並んでいる。目立ったのは舟型光背型の地蔵菩薩2体。左の大きい方は寛文3年(1663)の造立で、月は削れていて補修されており読み取れなかった。上部に「念佛講結衆」とある。右の地蔵菩薩も寛文3年(1663)で仲秋彼岸初日の造立である。こちらも「念佛講願主逆修」と書かれている。

Cimg5488

その隣には角柱型の庚申塔がある。上部に日月が描かれており、下部には各面一猿、計三猿が陽刻されている。造立年は寛文8年(1668)10月で、中央には「奉造立庚申結衆二世安楽所」と記されている。境内も広く立派な寺院なのだが、どう見ても住職不在の廃寺に見えてしまう。生い茂った樹木の向こうには住職の住まいと思われる建物もあるようなのだが。

場所  江東区亀戸3丁目43-3

| | コメント (0)

2022年5月24日 (火)

東覚寺の石仏(江東区亀戸)

江東区北十間川の南にある香取小学校、その南にあるのが真言宗の東覚寺。創建は享禄4年(1531)だが当時は現在の猿江恩賜公園の南端の東京ガス深川グラウンド辺りにあったという。しかし明治34年(1901)覚王寺を併合して現在の場所に移転した。

Cimg5460

門前の石柱にあるのは「不動明王」という文字。東覚寺の本尊は不動明王木像。しかも相模国の大山寺と同木の作と言われる。「享禄4年(1531)に玄覚法印が住む草庵に笈(おい:修験者が仏具を入れて背負う足付きの木箱)を背負った敬虔な女性信者がやってきた。翌朝、一人の男が立ちすくんでいるのに玄覚が気づき、どうしたのかと聞いても何も答えない。すると女性信者が自分が背負ってきた不動尊の罰だろうと言って、その男の前で祈ると男は回復した。法印が不思議に思い女性に尋ねると、良弁僧正が大山寺を開いた時、女性の先祖が手伝いをし、良弁は感謝してこの不動尊を渡し、ご利益で難から逃れられると言ったという。その後25代にわたり不動尊は守られたという。玄覚は女性にこの場所に不動尊を留めることを提案し、女性は同意したのでこの寺に大山寺と同じ木の不動尊が残った」という経緯らしい。

Cimg5463

大山寺の開山は縁起によると天保勝宝7年(755)であり、その時代の木造が今に伝わるというのは凄い事である。本堂前には大きな宝篋印塔や燈籠がある。この燈籠は延宝9年(1681)5月のもので、江戸時代初期の見事なものである。写真は省略したが向かいに立っている宝篋印塔は細やかな彫りこみが素晴らしいもの。

Cimg5466

墓所の中央を西側の隅に進むと「舎利塔」と書かれた台に古くてきれいな石仏が並んでいる。どれももとは墓石のようだ。中央左の聖観音像は寛文9年(1669)2月の造立。右隣りの少し破損が目立つ方はもっと素晴らしい彫り技術の聖観音像で、2月という文字は見えるが年が不明。おそらく同じ年に造られたのではないかと思う。

Cimg5468

舎利塔の向かいにあったのが駒型の庚申塔。造立年はどこにも刻まれていなかった。駒型で、前面下部に三角フォーメーションで三猿が陽刻されている。その他の情報は何も記されていなかった。

場所  江東区亀戸4丁目24-1

| | コメント (0)

2022年5月23日 (月)

常光寺の石仏(江東区亀戸)

江戸時代の大川(隅田川)と江戸川を結ぶ東西の運河の中で浅草へ出るルートが北十間川。総延長3.2㎞程あり、江戸時代に開削された。川幅が10間(約18m)であることに由来する川名である。この北十間川の南岸にあるのが曹洞宗の古刹常光寺。

Cimg5423

本堂は近代的な形だが、創建年不詳ながら縁起によると天平9年(737)の行基による創建と伝えられる。天文13年(1544)に曹洞宗に改宗という記録もあるようで、奈良時代聖武天皇時代の創建、室町時代後期に改宗したという気の遠くなるような古い話である。またこの寺は江戸六阿弥陀の順礼六番霊場である。

Cimg5422

本堂前には大きな六阿弥陀道標が立っている。延宝7年(1679)2月の造立で、六阿弥陀信仰は明暦の大火(1657)後に江戸で流行している。正面には「南無阿弥陀佛」、側面には「自是(これより)右六阿弥陀道」と彫られている。江戸新材木町(現在の日本橋堀留町)の同行六十人によって建立された。

Cimg5427

本堂と墓所の間には数基の石仏があるが、上の写真の左は正面金剛像(別述)で、中央の宝篋印塔、右の地蔵菩薩像ともに見事なものである。右の丸彫の地蔵菩薩像は延享3年(1746)7月の造立で、基壇正面には「六阿弥陀第六之精舎 西帰山常光禅寺 奉納石地蔵尊像 …」とある。中央の宝篋印塔は宝暦9年(1759)8月の造立で、こちらも右側面に「六阿弥陀六番目 西帰山常光禅寺」とある。また下部の台石には「万人講中 六十六部 供養仏」ともある。

Cimg5431

左にあるのがとても珍しい丸彫の青面金剛像による庚申塔。造立が天和3年(1683)5月で、台石側面には二鶏が大きく線刻されている。頭部は後年の再建らしい。腹部には「住所下総国葛飾郡 南横川」、右腰には「▢市瀬勘六▢▢」などとあるが、基壇には「庚申願望圓 奉待 満以伸供養  亀戸村西帰山常光寺」と刻まれている。

Cimg5451

墓地の奥にはもう一基の庚申塔がある。角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏の図柄。元文2年(1737)6月の造立で、「右さかさい道 六阿みだ六番目」と右面に、左面には紀年がある。なぜこの庚申塔だけが墓地の奥にあるのかは分からない。

Cimg5453

本堂前にはもう一基の宝篋印塔がある。文化元年(1804)10月に建立されたもので、正面には「西国坂東秩父 四国八十八ヶ所 霊場順礼供養」とあり、側面にはこちらも「六阿弥陀六番目 西帰山常光禅寺」の銘がある。

場所  江東区亀戸4丁目48-3

| | コメント (0)

2022年5月22日 (日)

観蔵院境内の石仏(練馬区南田中)

観蔵院の境内にもたくさんの石仏がある。すぐに目につくのは堂宇の中の2基の石仏。木製の立札が立っており、「この供養塔は筆子供養塔といって、教えを受けた生徒が亡くなった恩師の菩提を祈り建立したものです」と書かれている。かつて観蔵院で寺子屋が開かれ、近隣の子どもたちが学んでいた記録でもある。

Cimg5397

右の舟型光背型の石仏には「権大僧都法印日傳 施主 筆子中」とあることから先生であった僧侶に生徒たちが祈る様子がわかる。造立年は宝暦12年(1762)11月とある。左の角柱型の石仏はかなり剥離が進んでいるが、文化5年(1808)6月の造立。「施主 筆子中」と側面に記されている。

Cimg5406

本堂前の植込みの中にもいくつか石仏があり、この舟型光背型の地蔵菩薩像もそのひとつ。上部が欠損しているが、明和7年(1770)9月の造立で、「天下和順大乗妙典日本廻国中供養仏」とある。以前は北門前にあったらしいがいつしかこちらに移されたようだ。

Cimg5410

本堂裏手の墓所に入るところにぎっしり石仏が並んでいる。その中に角柱型の庚申塔が2基、ぴったりとくっついて立っていた。左の背の高い方には、「庚申供養塔」とあり「天下泰平 日月清明」とある。資料によると右には天保4年(1833)2月の紀年があり、左には「豊嶋郡 願主 當村中」と書かれているらしい。右の角柱型も庚申塔だが、殆ど文字が読めない。下部にかろうじて「為庚申供養也」とあるのみである。

Cimg5413

庚申塔のてまえには背の高い地蔵と五輪塔。地蔵は背中に「奉造立地蔵菩薩尊像一躯」とあり、享保11年(1726)8月の紀年が刻まれている。右の五輪塔は元和年間(1614~1624)のものでかなり古い。

Cimg5415

その近くで見つけたのがこの舟型光背型の聖観音像。資料には載っていない無名の石仏だが、延宝2年(1674)11月の造立。願主名には西誉宝念というおそらく僧侶の名前が刻まれている。もしかしたら墓石かもしれない。

Cimg5418

本堂前に戻り、その脇の薬師堂側に進むとこの石塔がある。正面には「日出薬師尊」とある。これが薬師堂の説明のための石塔になっており、薬師堂の由来が背面に刻まれている。造立年は明治26年(1893)だが、記載によると明治25年(1892)に色々な経緯で移転した旨のことのようだ。当時のこの辺りの表現を「山林」としているのが興味深く、100年余り前はそうだったのだろうと想像した。

場所  練馬区南田中4丁目15-24

| | コメント (0)

2022年5月21日 (土)

観蔵院門前の石仏(練馬区南田中)

観蔵院は石仏が多いので門前と境内に分けることにした。観蔵院は真言宗の寺院で、創建年代は不詳。三宝寺の塔頭だったようだが、文明9年(1477)に現在地へ移転したという記録。本堂脇に薬師堂があり日出薬師とよばれている。現在も石神井川には練馬高野台駅前に薬師堂橋があるが、大昔には薬師堂がその辺りにあり、後に現在地へ移転した名残りと言われている。

Cimg5364

本来こちら側は山門ではなく通用門(北門)。右のお城のような壁の建物は曼荼羅美術館である。本来の山門は南側になる。この北門の前にたくさんの石仏が並んでいる。

Cimg5366

一番手前にあるのは櫛型角柱型の馬頭観音。ゼニゴケと汚れで文字が読みづらい。正面には「馬頭観世音」とあり、造立年は明治24年(1891)3月。左側面に施主銘があり「鴨下▢五郎」と読める。

Cimg5372

継にあるのは先のやや尖った角柱型の庚申塔。正面には三猿が陽刻されている。その上には「庚申供養 奉待 一結成就所」とあり、左面には宝永2年(1705)10月の紀年と「田中村」の銘がある。右面には「武刕豊嶋郡たなかむら」とあり両方に地名があるのは珍しい。下部には三面に合計12人の願主名がある。

Cimg5379

隣りに笠付角柱型の立派な僧侶の墓石で文政8年(1823)の造立。その隣にはさらに二回り大きな笠付角柱型の庚申塔がある。庚申塔の造立年は宝永元年(1704)11月。正面には「奉待庚申供養所願成就所」とあり、基壇に三猿が彫られている。右石面には「武刕豊嶋郡田中村 本願」の文字が刻まれている。三猿の下にずらり刻まれた願主名は13名あったが、平井姓3人、蓮見姓2人、坂本姓2人のほかはバラバラ。

Cimg5383

壮観なのはこの六地蔵とその中心主導の7体の地蔵菩薩。六地蔵は元文2年(1737)の造立で右端の台石に「奉造立 地蔵菩薩尊像六躯」とあり、右から二番目には紀年が記されている。その他には偈文らしきものが書かれているが、左から三番目には「田中村 地蔵講中 四十六人」とある。中央の主尊は享保12年(1727)11月の造立で「武刕豊嶋郡田中村 講中三十三人」「願主 平井次九衛門」「奉造立地蔵菩薩尊像一躯」と基壇には書かれていた。

Cimg5391

一番奥にあるのは2基の角柱型の馬頭観音。左の背の高い角柱は中折れしていて文字が欠損しているので確実ではないが上部尊像の頭部の膨らみなどから推量するにおそらく馬頭観音だろう。造立年は文政6年(1823)で、これもゼニゴケで文字が読み取れない。右の小さな櫛型角柱型の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」とあり、裏面には昭和17年(1942)3月の紀年が刻まれている。施主名は瀧澤▢▢で下部には名前があるが土汚れで読めなかった。

場所  練馬区南田中4丁目15-24

| | コメント (0)

2022年5月20日 (金)

愛宕権現(練馬区下石神井)

禅定院前の道は旧早稲田通り(所沢道)で、禅定院前からは南東に向かって下井草に至る道だが、石神井川を渡って100m余りのところで交差する東西の道もまた古くからある道で、所沢道から十善戒寺を経て南田中の天祖稲荷神社から石神井川流域に戻る道である。現在は東行の一方通行の道として車も多いルート。

Cimg5361

その道を100mほど進むと斜め左に分岐する路地がある。実はこっちの道が昔からの道で、その分岐の傍に小さな祠が立っている。中を覗くと小さな舟型の地蔵菩薩坐像がある。

Cimg5362

実はこの地蔵、愛宕権現と呼ばれとても珍しいものだという。造立年等は全く読み取れない。しかし愛宕権現とされている。愛宕権現は京都の愛宕山の山岳信仰と修験道が結びついて起こった山岳信仰で、地蔵菩薩を本地仏としたようだ。神仏習合の中で育まれた愛宕権現信仰も明治になってからの廃仏毀釈でほぼ絶滅状態になったという。

場所  練馬区石神井町3丁目16-4

| | コメント (2)

2022年5月19日 (木)

禅定院の石仏(練馬区石神井町)

石神井池の南にある禅定院は室町時代からの真言宗の古刹で創建は600年前と伝えられるが正確な年号は不明。南北朝時代の至徳年間の板碑などもあり、600年は偽りではないだろう。山門前には真新しい六地蔵とその中央に大きな光明真言講中による延命地蔵座像が鎮座する。

Cimg5347

境内に入ると本堂手前に大きな宝篋印塔がある。この宝篋印塔は安政6年(1857)造立で多数の願主名が記されていたが、それらは光明真言講中の209名だという。彫りも豪華で財力を注ぎ込んでつくられたものとみられる。

Cimg5348

鐘楼の脇を廻るといぼ神地蔵なるものがあった。丸彫の地蔵座像でゼニゴケがあまりに酷くて文字の読み取りが難しい。造立年は宝暦12年(1762)で施主は江戸新橋井筒屋長兵衛とある。井筒屋は個人的には北九州と山口県にある百貨店だが関係はないだろう。この地蔵は疱瘡(いぼ)の治癒に御利益があると信じられていたようだ。

Cimg5358

本堂前には笠付の石幢六面地蔵菩薩がある。造立年は享保元年(1716)10月。武州豊嶋郡下石神井村の銘があり、「奉造立地蔵菩薩 講中二世安楽処」とあり36人の願主名が刻まれている。

Cimg5357

すぐそばにあるのが6枚の板碑。実は中央の大きな板碑の後ろに1枚隠れている。手前左は「康正」の年号が見えるので西暦では1455年~1457年の間のもの。室町時代後期で間もなく応仁の乱が起こる時代。大きな中央の板碑は紀年が見えない。右手前の板碑は至徳3年(1386)とあり、その後ろの上部欠損した板碑は慶安3年(1370)の造立である。残りの2枚は分からない。寺の起源にも関係があるのではないかと思われる。

Cimg5360

最後は練馬では珍しい織部燈籠(キリシタン燈籠)である。造立年は寛文13年(1673)10月と古いもの。竿部の陰刻のようすは目黒区辺りの代表的な織部燈籠と同じである。「奉祈供養石燈籠為惣檀那 逆修菩提也」とある。仏教もキリスト教もあの世での幸せを祈願している点では共通している。江戸時代の流れを見ると、1612年(慶長年間)には天領でキリスト教が禁じられ、その後迫害が広がり、寛永14年(1637)には島原の乱で天草四郎が蜂起。この燈籠の造立時期にはほぼ隠れキリシタンの世界だったのだろう。

場所  練馬区石神井町5丁目19-1

| | コメント (0)

2022年5月18日 (水)

野草観察園裏の庚申塔(練馬区石神井町)

石神井公園のふるさと資料館の東側にあるのが野草観察園、その東が野球場とテニスコートになっているが、テニスコート裏の階段を下ったところに庚申塔がある。庚申塔前の道は旧早稲田通り(所沢道)に出られそうだが行き止まり。北側の石神井川の流れは、現在は石神井池になっているが昔は石神井川支流の上流域であった。北側(左岸)を池淵と呼ぶが、南側のこちらは根河原と呼ばれた地域。かつてはこの細道が所沢道だったが大正時代から車道がまっすぐに敷かれた。

Cimg5342

今、野球場やテニスコートになっているところは台地上だがこれは三宝池からの流れと南側の石神井川の流れの間に出来た舌状台地である。ここにポツンと庚申塔が祀られている理由が分からない。不思議な場所の庚申塔である。

Cimg5336

日月、青面金剛像、三猿の図柄で、三猿の下に二鶏が立体的に描かれている。右側面には元禄4年(1691)、左側面には11月の紀年がある。その下には17人の願主名が刻まれている。富岡姓が8人、栗原姓が4人、宇田川姓3人、あとは小林姓、本橋姓である。

場所  練馬区石神井町5丁目15

| | コメント (0)

2022年5月17日 (火)

郷土資料館裏の石仏⓶ (練馬区石神井町)

資料館裏の石仏の後編。池淵遺跡の広い緑地帯の中にポツンポツンと移設された石仏が立っている。池淵遺跡は縄文時代中期の遺跡で深鉢型の典型的な縄文土器などが出土している。その中にある残りの石仏(庚申塔)は5基、前編で紹介したものを加えると庚申塔7基、馬頭観音3基、道標1基となる。以前にあったもので如意輪観音像などが見当たらなかったので再訪は必至。

Cimg5317_20220512163701

写真の駒型の庚申塔は元禄16年(1703)11月の造立。紀年の下には「施主十一人 左方 はやせ道」とあり、尊像右には「奉造立庚申尊像二世安楽所 武刕徳丸村 右方 とく丸道」とある。日月、青面金剛像、三猿のシンプルなデザインである。

Cimg5320_20220512163601

次の駒型の庚申塔は「庚申塔」と大きな文字が彫られたもので、上部に日月が描かれている。下部の模様に三猿があるのではと凝視したがどうもなさそうである。右側面には天保12年(1841)3月の紀年があり、左側面には「今神 篠原久左ヱ門」の銘がある。今神は当時の下練馬村の字名で、現在の氷川台二丁目の諏訪神社の辺りである。

Cimg5322_20220512163601

東側の奥に回り込むとフェンス近くに3基の庚申塔が並んでいた。右端は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は明和2年(1765)11月。左側面には「武州上練馬村 中田から 講中拾人」とある。「中田から」というのは中田柄ということだろう。中田柄は現在の田柄3丁目にあたる。

Cimg5326_20220512163601

中央の庚申塔。シンプルな駒型の石の正面には、「奉造立青面金剛心願成就祈所」とある。その両脇には文政元年(1818)9月の紀年と、「願主 本村 並木九左ヱ門」の銘がある。

Cimg5329_20220512163601

左の庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、二鶏は線刻である。右側面には享保12年(1727)10月の造立年があり、「同行廿人  奉供養庚申塔石橋一ヶ所諸人快樂祈処」とあり、「武州豊嶋郡中新井村  願主 田中半左衛門」の銘がある。中新井村は現在の豊玉と中村の辺りの村名である。

場所  練馬区石神井町5丁目13-30

| | コメント (0)

2022年5月16日 (月)

郷土資料館裏の石仏① (練馬区石神井町)

石神井池の脇にある練馬区立石神井公園ふるさと文化館(郷土資料館)の裏手に茅葺屋根の古民家(旧内田家住宅)がある。周囲は公園になっていて同時に池淵遺跡でもある。古民家は明治20年頃の建築家屋らしい。もとは練馬区の中村にあったものを平成19年(2007)に移築し復元したもの。その裏手に沢山の移された石仏石塔がある。数が多いので二回に分けることにした。

Cimg5298

反時計回りに歩くとまず背の高い馬頭観音と庚申塔が並んでいる。この2基は近年こちらに移設されたもので、もとは練馬区田柄4丁目35のむつみ台団地にある児童館の近くにあったもの。馬頭観音の造立年は享和3年(1803)2月。道標を兼ねており、右には「ねのごんげん道」左には「こぐれ道」とある。正面には「武州豊嶋郡上練馬村神明ヶ谷戸 講中廿八人」ときざまれている。右の舟型の庚申塔は享保5年(1720)11月の造立。日月はなく青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。尊像脇には「奉造立庚申供養二世安樂処」、左側には武刕豊嶋郡上練馬村神明ヶ谷戸 講中十三人」と書かれている。

Cimg5304

その先右手には笠付角柱型の庚申塔がある。造立年は元禄9年(1696)霜月(11月)。日月、青面金剛像、邪鬼の図柄で三猿はない。正面には「武刕豊嶋郡土志田村」の銘がある。右側面には「奉造立石塔庚申供養二世安樂祈所 欽言」と記されていた。この庚申塔は元は練馬区朝日町2丁目9の稲荷神社の西側の堂宇にあったもの。2019年頃に堂宇が消え、ここに移されたようだ。隣りにあった摩滅の進んだ明治14年の馬頭観音は不明である。

Cimg5306

次は角柱型の馬頭観音で、造立年は文化10年(1813)2月。文字が沢山刻まれている。正面には「南無馬頭観世音菩薩」と紀年、右面には武州豊嶋郡下石神井村観音経講中とある。基壇には正面が「東 ぞうしかや道」、右面(北)には「ほうや」、左面には「南 ほりの内 さぎの宮」とあり道標を兼ねている。また願主名も刻まれているがほとんどが本橋姓である。

Cimg5309

次にも同じような角柱型の馬頭観音。造立年は嘉永3年(1850)8月。正面には大きく「馬頭観世音」、右には紀年と「右 所沢道」、左には「武刕新座郡片山  左 田なし大山道」とある。基壇正面には「向 白子道」左には「中沢邑 上片山村 辻村 願主 孫右衛門」とあった。一体昔はどこにあったのだろうか。

Cimg5312

前半の最後はこの角柱型の道標。造立年は不詳。正面には「是より 石神井弁財天」とある。右面は「施主 當所 高橋勝五郎」、左面は「三宝寺 江四町」とある。そういえば石神井池に岩窟があって弁財天があったのを思い出した。穴弁天という妙に湿っぽいところだった。湖畔の厳島神社の傍で、「宇賀神社 穴弁天」と書かれていた。あの辺りにあったものなのだろうか。

場所  練馬区石神井町5丁目13-30

| | コメント (0)

2022年5月15日 (日)

道しるべ地蔵(練馬区石神井台)

三宝寺の山門の東側、道場寺側の角に一基の地蔵菩薩が立っている。普通ならどちらかの寺院に移設されるのだが、ここに残されているのは何かの理由があるのだろうと思われた。

Cimg5292

丸彫の地蔵菩薩立像で、高さは180㎝だが、土台が高いので見上げる形になる。この前の道路は現在は旧早稲田通りとされているが、昔は所沢道という街道であった。ただこの地蔵尊が元あったのはふじ大山道沿いだったという。この場所からは石神井池を越えて北の方になる。

Cimg5296

基壇には享保6年(1721)9月の造立年があり、正面には「奉造立地蔵大菩薩」と書かれている。右面には「下石神井村 講中三十一人 上石神井村 三人」、左面には「江戸 武州豊嶋郡  一蓮托生」と刻まれている。みちしるべというのはただ江戸の方角を標していることだろうか。であればこの地蔵は富士街道の南側に立っていたと考えられる。

場所  練馬区石神井台1丁目16-7

| | コメント (0)

2022年5月14日 (土)

三宝寺の石仏(練馬区石神井台)

三宝寺には沢山の石仏がある。とうぜん墓所も広いので墓石が多いのだが、歴史があるだけにその数も凄い。本堂を左に行くと四国八十八ヶ所お砂踏霊場というエリアがあり、八十八ヶ所それぞれの石仏があってここを廻るだけでご利益があるという。その奥には奥の院(大師堂)があり、左手には根本大塔、その脇の壁には数百の墓石石塔がずらりと並んでおり圧巻である。

Cimg5275

この中の99%は墓石だが一部馬頭観音が混じっていた。それを確認していくのが大変なのだがこれまた面白いもの。如意輪観音、聖観音、地蔵菩薩の中に稀に馬頭観音が見つかる。

4

まずは櫛型角柱型の馬頭観世音。造立年は明治41年(1908)6月とある。側面は詰まっているので確認できない。もう一つは角柱型の馬頭観音で、造立年は明治39年(1906)8月。こちらも側面は見られない。

5

少し奥に進むと目立っていたのが自然石で造られた馬頭観世音。造立年は明治11年(1878)4月。その先にも角柱型の馬頭観音があったがこれは側面確認できず、右側面には何も書かれていなかった。造立年も不詳である。

6

奥側の列にはひときわ背の高い目立つ馬頭観音があった。造立年は安永9年(1780)3月。正面には大きく「南無馬頭観世音菩薩」と彫られている。右の写真は本堂の手前にあった手水鉢で使われていないもの。側面に享和3年(1803)2月の造立年が刻まれ、「豊嶋郡上石神井 西村氏子中」の銘がある。

Cimg5247

本堂前に並ぶ舟型光背型の六地蔵は享保18年(1733)の造立。脇に移設の経緯が書かれた石碑が建っている。もとは下石神井1丁目626に7の本橋紹作家にあったが、耕地整理が進み住宅が密集してきたため、昭和35年(1960)4月に三宝寺に移したと書かれている。庚申塔と同じような経緯をたどっているようだ。

Cimg5233

山門から外に出た脇にあるのがこの亀乗地蔵である。基壇と地蔵の間の敷茄子部に亀の彫刻があるためだと思われる。造立年は寛政3年(1791)7月。「施主  武刕多摩郡上井門村? ▢▢八右衛門 婦」と記されている。石仏に関しては奥から手前の順になってしまった。

場所  練馬区石神井台1丁目15-6

| | コメント (0)

2022年5月13日 (金)

三宝寺の庚申塔(練馬区石神井台)

真言宗の三宝寺は室町時代の応永元年(1394)に鎌倉大楽寺の大僧都法印が創建した古刹。石神井城落城の頃、文明9年(1477)に太田道灌により現在地に移転したと伝えられる。元の場所は「武蔵豊島郡石神井郷小仲原の地が、石神井川の清流を前にし、三宝寺川の谷を後にする、霊亀状丘陵の頂点たる景勝を嘉し、此所に真言の道場として一宇の浄舎を建立した。」とあるので、それほど離れてはいない場所だったと思われる。

Cimg5238

三宝寺は室町時代以降何度か焼け落ちているが、現存の建物の中ではこの山門が文政10年(1827)築で最も古いようだ。この山門は元々徳川家光が鷹狩りの際にやってきた門ということで御成門と呼ばれたらしい。三宝寺にはもうひとつ山門があり「長屋門」と呼ばれている。それは山門の東側にあり、もともとは勝海舟邸にあった門で、区内朝日町兎月苑に移築されていたものを昭和35年(1960)に移築したもの。

Cimg5287

その長屋門の前に大型の駒型庚申塔が建っている。造立年は元禄13年(1700)12月で、日月、青面金剛像、三猿の比較的シンプルな図柄である。脇には「奉造立庚申講」「武列豊嶋郡」とあり、本願は栗原金左衛門。下石神井道場寺村 願主同行八人、上石神井大門村 同行廿四人とあるので、2村による共同の造立である。

Cimg5243

三宝寺には2基の庚申塔があるがもう一基は本堂前に六地蔵と並んでいる。こちらも駒型の庚申塔で、造立年は元禄9年(1696)11月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、施主名は八方勘次郎、同行十八人とある。傍には庚申塔移転由来(昭和47年)という石碑があり、それによると下石神井1丁目604番地より移転したとある。おそらく東通りの地蔵に向かう旧道の辺りだろう。

※三宝寺はその他の石仏も多数あるため二部に分割していることをご了承いただきたい。

場所  練馬区石神井台1丁目15-6

| | コメント (0)

2022年5月12日 (木)

東通りの地蔵尊(練馬区上石神井)

石神井公園三宝寺池から南に走るバス通りは都道444号下石神井大泉線だが、この道は昭和中期以降の新しい道。本来の南北の道は三宝寺の門前から南に向かい、松ノ木橋を渡って当時は和田の坂と呼ばれていた急坂を上っていた。一方下石神井天祖神社から西進してきた道は都道の下石神井小西交差点以西は東通りという通り名が付いている。都道西の最初の辻に地蔵尊があるが、この南北の道が旧道である。

Cimg5223

練馬区の古老の話として記録されているのは、この旧道の坂は今よりもはるかに急な坂で人通りも少なくしばしばおいはぎが出たらしい。平成以降の世代においはぎと言っても分らないかもしれないがいわゆる路上強盗である。どうも坂道と橋と民家がまばらという三点セットが揃うとおいはぎが出るという話が残っていることが多い。

Cimg5225

地蔵は丸彫の地蔵菩薩で、台石には享保13年(1728)8月の造立とある。正面には「奉供養地蔵菩薩」と書かれ、「武刕豊嶋郡」の銘がある。右面には「下石神井村 念佛講中 七十三▢」、左面には「上石神井村 講中」とあるので、ここが下石神井村と上石神井村の村境だったのだろう。現在の町境は都道になっている。

場所  練馬区上石神井3丁目6-36

| | コメント (0)

2022年5月11日 (水)

丸彫青面金剛像(練馬区下石神井)

下石神井天祖神社の鳥居前で北西と南西に分岐する道は江戸時代からの道。南西の道を進むと千川上水に出る。北西の道(と言ってもほぼ西)を進むと旧字名上久保から伊保ヶ谷戸へ向かう。300mほど西進すると丁字路の角にちょっと変わった石仏が堂宇に収まっている。この丁字路も江戸時代からの道で、千川上水から北上し、この丁字路から20mほどで再び東西の道と分岐して北に向かい石神井川を渡る。

Cimg5217

この辺りの古い地名を伊保ヶ谷戸と呼ぶが、不思議に思ったのはここは台地の上であって谷戸ではない。北側に石神井川の谷があり、その向こうには今は石神井公園がある。ブロックで囲まれた1坪ほどの区画の真ん中に丸彫の石仏が建っている。最初は聖観音像かと思ったが、傍に青面金剛像と書いた説明板がある。

Cimg5219

珍しい丸彫の青面金剛像である。足元には邪鬼を踏みつけており、その下には三猿と二鶏がある。造立年は享保12年(1727(6月で、基壇には「武刕豊嶋郡下石神井村」「奉待庚申 願主 小川八兵衛 講中三十四人」と刻まれている。ちょうど胴の部分に補修跡があるが戦災で折れてしまったのだろうか。

場所  練馬区下石神井5丁目7-11

| | コメント (0)

2022年5月10日 (火)

天祖神社の石仏(練馬区下石神井)

下石神井にある天祖神社の創建年代は不詳。延宝2年の庚申塔の存在から江戸時代初期には存在したと考えられている。今は天祖神社と呼ばれるが当時は神明社と呼ぶのが普通であった。近年は「天王様」と呼ばれている。下石神井村の時代は村の鎮守で、社域は坂下、上久保、向三谷、伊保ヶ谷戸、原久保を含んだという。神社のある地域は上久保と呼ばれていた。

Cimg5194

境内に入ると古い燈籠があり、紀年を確認すると安政4年(1856)とある。基壇には世話人の名前が多数刻まれており、半数程度が本橋姓。下石神井村川南講中とあるのは、石神井川の南側(右岸)領域を指している。境内の隅には3基の大型の石仏石塔が立っており、左から二十三夜待供養塔、庚申塔、地蔵菩薩である。

Cimg5209

二十三夜待供養塔は文化13年(1816)2月の造立で角柱型。正面上部には勢至菩薩坐像が刻まれている。その下には「廿三夜待供養」とあり、右側面には「武州豊嶋郡下石神井村」の銘がある。二十三夜待というのは、月待信仰の中でも数多いもので、その月齢の晩に当番の家に集まり月の出を待つ会合を行う行事で、江戸時代中期以降に流行した。二十三夜待は勢至菩薩、十九、二十一、二十二夜は如意輪観音が殆どである。

Cimg5204

中央の笠付角柱型は庚申塔で、この中では最も古い延宝2年(1674)11月の造立。日月、二鶏、三猿が陽刻されている。右側面には「武列豊嶋郡石神井郷神明村」とあり、下部には29人の願主名があり、小林、小川がそれぞれ6名、加藤5名、本橋、小泉が各2名とこの時代では意外と本橋家が少ない。右の舟型光背型の地蔵菩薩像は享保2年(1717)11月の造立で、武刕豊嶋郡下石神井村の銘に「奉造立地蔵菩薩二世安樂所」と刻まれている。

場所  練馬区下石神井6丁目1-6

| | コメント (0)

2022年5月 9日 (月)

辻の馬頭観音(練馬区下石神井)

路地と路地の辻の垣根の端にひっそりと佇む石柱がある。この辺りはもともと本橋家一族の農地だったようで、大きな農家には本橋姓が多い。東西の道は新しいが南北の道は江戸時代からの道である。

Cimg5186

写真では駐車場になっているが昭和の時代には民家が建っていた。馬頭観音はそれよりもずっと前から立っていた。造立年は明治5年(1872)9月。櫛型角柱型で正面に「馬頭観世音」と刻まれており、右側には「四人関」、左側には「小泉市五郎 本橋惣治郎」の銘が入っている。

Cimg5191

明治初期の地図を見るとあたりは一面の畑になっている。明治の終わりも同様。昭和に入ってようやくこの辺りに数軒の民家が建ったようだ。「四人関」というのが何を意味しているのかは分からないが、昭和初期の地図では家形が4軒見える。

場所  練馬区下石神井1丁目18-10

| | コメント (0)

2022年5月 8日 (日)

本橋家の庚申塔(練馬区下石神井)

千川通り沿いにある住宅公園の裏手、広い庭の御屋敷の一画に2基の石仏が並ぶ窪みがある。LEDライトも付けられていて、おそらく時によってはライトアップもされているのでは。このお宅は石神井近辺に多くある名家本橋家のひとつ。当然ながら石仏にも名前がある。

Cimg5185

左の大きな石仏は駒型の庚申塔。 造立年は元禄13年(1700)10月。 日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で比較的大きなものである。下部には、「下石神井村 施主 本橋権左ヱ門」とありその横に同行十二人と刻まれている。

Cimg5183

右側の舟型光背型の石仏は残念ながら上部が欠損している。その部分を補ってみると「(馬頭観世)音二世安樂▢」となる。その下には「願主 本橋権左衛門」とあるが庚申塔と同一人物かどうか気になった。造立年を見てみると宝永3年(1706)11月とほぼ同年代だと分かり納得。ちょっと気になったのが、庚申塔の青面金剛像の左手に魚が握られていることで、殆ど例がないのではないだろうか。武蔵野台地の真ん中でショケラ代わりに魚とはいったいどういう意味があるのだろうか。

場所  練馬区下石神井1丁目9-5

| | コメント (0)

2022年5月 7日 (土)

マンション内の庚申塔(練馬区下石神井)

新青梅街道と千川通りが斜めに交差する六差路の井草四丁目交差点。そこから千川通りを少し上ると石神井住宅公園(住宅展示場)があり、その隣に4階建のマンション(メゾンアゼリア)が建っている。このマンションの敷地内を千川通り側から覗くと、近代的な鉄筋コンクリート造のマンションとは異質な庚申塔がある。

Cimg5174

変質者と思われるといけないのでちょっと覗くだけにしておいたが、こういう場所に残されているのは極めて珍しい。もともとここは付近の名家である本橋家一族の家が建っていたらしい。今のマンションは1984年の建築である。当時はまだあたりは農村の風景だったようで、バブル期になってようやく民家が増え始めたその頃の建築である。この南にはかつて機械技術研究所があった。現在の日本の頭脳でもある産総研(国立研究開発法人産業技術総合研究所)の前身である。今はその敷地は井草森公園になっている。

Cimg5173

庚申塔は駒型で立派なもの。元禄9年(1696)11月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が迫力を以て描かれている。下部には「本橋忠左エ門  同 伊右エ門  同行 十一人」の銘がある。これだけの庚申塔を作れるのはかなりの豪農だったはず。そして今もマンションの庭でひっそりと立っているのは時代を超越した感じがして面白い。

場所  練馬区下石神井1丁目8-27

| | コメント (0)

2022年5月 6日 (金)

上久保不動尊(練馬区下石神井)

上久保という地名はかつての石神井村下石神井の字で、現在の地名は下石神井だが江戸時代後期は上石神井村、後に石神井村となった。少し南を東西に流れる千川上水よりも南は上井草村で、不動尊前の道は千川上水から天王社(現在の天祖神社)に向かう道筋である(写真はその道から側道側を写している)。

Cimg5164

立派な玉垣に囲まれた不動堂には地蔵尊と不動明王が祀られていた。練馬区の資料によるとかつてこの二体の石仏はここから100mほど南の路傍にあったという。ほぼ新青梅街道に近い辺りになるが、痕跡はない。右側の不動明王像は享保16年(1734)9月の造立。基壇に記された文字には「庚申待講中」とあり、庚申講中による不動明王は珍しい。その脇には「武列下石神井 本願 本橋吉之丞」とある。

Cimg5170

左の地蔵菩薩はさらに古く元禄11年(1698)11月の造立。舟型光背型で地蔵尊の右側には「とり立主七良右衛門 施主廿一人」とある。堂宇内には絵馬などが飾られ、地元の人々によって守り続けられてきた様子が伝わってくる。

場所  練馬区下石神井5丁目2-4

| | コメント (0)

2022年5月 5日 (木)

富士見台の庚申塚(練馬区富士見台)

石神井公園辺りから都心に向かって千川通りに合流する古い道は前述の南無地蔵大菩薩の辻に出る道と、もう少し先で千川沿いの道に合流する道があった。この先の道が千川上水に出る辺りには水車もあったようだ。この辺りの古い字名は西原という。現在の南田中一丁目あたりを原と呼んでいたのにその東側のこの辺りが西原というのはちょっと不思議である。

Cimg5156

そんな古い道の脇にブロックに囲まれた広い庚申塚がある。この古い道は北側が谷原村、南側が田中村であった。ということは道そのものが村境ということになるので特にこの場所が塞ノ神というわけではない。この少し東では千川上水から北に分水があり、貫井川となって石神井川に流下していた。上水(用水)は峰を走り、川は谷を流れるその間を繋いで農業用水に用いられていたのである。

Cimg5160

庚申塔は舟型光背型のようである。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、右には「為二世安楽父母菩提」、左には「武列豊嶋郡谷原村 願主 大野七兵衛」とある。下部には「同行十五人」と刻まれており、造立年は享保15年(1730)11月である。小さな庚申塔だが、庵が立ちそうなほど広い境内(塚)にあるのでいささか極端な感じもある。

場所  練馬区富士見台2丁目14-6

| | コメント (0)

2022年5月 4日 (水)

南無地蔵大菩薩(練馬区富士見台)

練馬区南田中辺りの千川上水は現在千川通りになっているが、かつては川筋のみで南側に土手の道が付いているだけで、人馬の通る道路は少し北側を通っていた。その道筋は現在も道路筋になっていて、千川通りと違って微妙な曲がりをしているのが昔の痕跡である。

Cimg5146

千川上水から少し離れた北側の道筋は現在の富士見台1丁目と南田中1丁目、南田中2丁目が点で境をなす鋭角な辻に至る。北西から出合うこの道も古くからある道で、この三角形の角地に地蔵堂がある。扁額には「南無地蔵大菩薩」といささか大仰な文字が書かれている。

Cimg5151

丸彫の地蔵菩薩は基壇に沢山の情報を刻んでいる。地蔵は合掌した姿で、基壇正面には「南無地蔵大菩薩」、左右側面には行き倒れになったと思われる人たちの情報が刻まれている。中には「旅人地蔵様背負て来た男佛」「富士裾野より来た六部女佛」など、数文字でその人の死にざまを表すような言葉もあり、興味深い。背面には大正13年(1924)9月の紀年があり、北豊嶋郡石神井村字田中 施主 瀧澤長五郎の銘がある。

Cimg5152

手前の草むらに歯2基の馬頭観音と1基の双胎道祖神が立っていた。左の駒型の馬頭観世音は嘉永6年(1853)2月のもので、谷治氏の銘がある。中央の角柱型の馬頭観世音は年号が読めない。双胎道祖神も文字が見当たらないがこれは新しいものだと思われた。北西からの道は石神井池方面に繋がる道で、古くからこの辻では多くの人馬が出合ったことだろう。

場所  練馬区富士見台1丁目19-17 (練馬区の資料では南田中2-1となっている)

| | コメント (0)

2022年5月 3日 (火)

右長命寺道道標(練馬区南田中)

千川通りは豊島区南長崎から西は練馬区上石神井で青梅街道に合流する道で、かつての千川上水の流程を利用した道である。元禄9年(1696)に小石川御殿や湯島聖堂、寛永寺、浅草寺への上水の供給を目的に玉川上水から分水され、巣鴨村までは素掘りの川であった。そこからは木樋を埋めて目的地まで通したという。宝永4年(1707)年に流域諸村が嘆願し農業用水としての利用が許可され、多くの分水が掘られた。

Cimg5140

練馬区南田中の環七の少し東側の千川通りの角に櫛型角柱型の道標が立っている。正面には大きく「右長命寺道」と刻まれている。長命寺とはここから北へ1.5㎞程のところにある高野台の長命寺のことである。千川沿いの道からこの辻を北に向かうと東高野山長命寺に至るという訳である。

Cimg5143

この辻は高野台長命寺方面と江古田・落合方面との帰路で、ここには三兵橋という橋が架けられていたという。この道標はその橋の脇に東向きに立てられていたらしい。この辻の北東は田中村、北西は上石神井村、南側は下井草村という村境だっただけに庚申塔でもいいのかなと思うが、ここは道標がふさわしかったのだろう。

場所  練馬区南田中1丁目15-8

| | コメント (0)

2022年5月 2日 (月)

八成の民間信仰石塔(杉並区井草)

八成は下井草村、現在の西武新宿線下井草駅の北側一帯にあった地名である。現在の住居表示は井草になっている。旧早稲田通りである所沢道の傍らには説明板に「民間信仰石塔」と書かれた堂宇があり、複数の石仏がある。

Cimg5132

堂宇の右奥脇には角柱型の馬頭観音が立っている。正面には「馬頭観世音」の文字、側面には「皇紀二千六百年 願主 小泉島右エ門」とあるので、昭和15年(1940)の造立である。一方堂宇の左手前には板状の「猿田彦神社」と書かれた石塔がある。こちらは昭和31年(1956)8月の造立である。

Cimg5133

堂宇は施錠されているが引き戸がいかにも壊れそうな状態だったので格子の間から中にある石仏を拝観した。左にあるのが道標を兼ねた念仏供養塔。シンプルな角柱型で、正面には「念佛供養塔現當為二世安樂 行者 圓入」とあり、資料によると右側面には寛政5年(1793)8月の紀年と「是より 右 新高野へのミち」とある。左には「武州多麻郡井草村」「是より 左 中野への道」と刻まれている。

Cimg5139

右の石仏は駒型の庚申塔である。造立年は寛保元年(1741)10月、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、武州多麻郡井草村の銘がある。左右側面には資料によると、「右 たなか道」「左 志やくじ道 講中拾四人」とあるらしい。左は石神井で右は田中村。

場所  杉並区井草2丁目24-6

| | コメント (0)

2022年5月 1日 (日)

井草二丁目地蔵堂(杉並区井草)

井草観音からかつての所沢道(旧早稲田通り)を北西に進むと400mほど行ったところの辻に地蔵堂がある。堂宇はきれいで中の板を見てみると令和2年(2020)2月に改修されていた。おそらく念仏講や地蔵講のメンバーの御子孫だろう。協賛者には本橋家、井口家、森田家、仁平家、篠家などが複数見られた。堂宇内には4基の石仏、堂宇脇に2基の石塔がある。

Cimg5108

堂宇外の石塔は堂宇の左手にある。どちらも正面には「弘法大師」とあり、右は福蔵院、左は石やくし道の文字が読める。石やくしは石神井のことで、福蔵院は鷺ノ宮の福蔵院だろう。堂宇内は中央に2基の丸彫地蔵菩薩、左右に馬頭観音が祀られている。右の馬頭観音は舟型で、安永5年(1776)11月の造立。「これより左 江戸道」とある。

Cimg5125

右の地蔵菩薩は以前は胴と首が折れてバラバラになっていたがきれいに修復されている。基壇には「延命地蔵尊」とあり、その下の段には平成10年(1998)12月改修とある。月輪のある地蔵菩薩は台石右の記載で享保2年(1717)10月に造立されたものを、左側には明治9年(1876)12月に再建したとある。廃仏毀釈の時期に大したものである。八成講中とあるが、すぐ北の新青梅街道北側には八成小学校がある。この辺りの古い大字である。左にある櫛型角柱型の馬頭観音は嘉永2年(1849)9月の造立。台石に、右石神井とある。

場所  杉並区井草2丁目16-14

| | コメント (0)

« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »