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2022年6月30日 (木)

世尊寺の石仏(台東区根岸)

根岸にある真言宗の世尊寺は豊島氏の左近将監輝時が開基となり、応安5年(1372)に創建したという古い寺。この辺りは江戸時代は金杉村という村で、金杉通りという通り名にその名は今も残っている。金杉通りはかつての日光街道である。

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山門をくぐると左右に立派な堂宇がある。左の堂宇は子育地蔵と書かれている。おそらくは中央に祀られている全体的にとろけた様子のお地蔵様が中心の子育地蔵だと思われるが、左右にも丸彫の地蔵尊が立っている。

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後ろの壁には沢山の小さな舟型地蔵が奉納されていて、小さいながら存在感を出している。台石には「角尾張 見世 二階中」と書かれているが意味は分からない。

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その少し先にあるのが笠付の地蔵六面幢である。地蔵の六面幢は珍しいが、旧下谷区には5基が纏まっている。そのうちのひとつがこの六面幢である。造立年は文化11年(1814)11月と台石に書かれている。台石正面には「地蔵尊像壱基 百萬紙供養塔」とあるが百万遍の誤字だろうか。

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その先の無縁仏塔の頂上にある舟型光背型の石仏は墓石ではないようだ。「奉造立地蔵尊庚申講衆二世安樂攸」とあるので庚申地蔵である。造立年は元禄6年(1693)2月とある。なかなか美しい彫りの地蔵菩薩像である。

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反対側の堂宇にはとても珍しい線刻の六地蔵碑が祀られている。その脇には念仏車があり、これもなかなか良いものである。六地蔵臂は文久3年(1863)7月の造立。台石にはなぜか8月と刻まれていた。願主名は村田市兵衛の名がある。

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本堂左の墓所への通路脇に珍しい駒型の庚申塔が立っている。駒型なのに造立年は延宝2年(1674)11月とかなり古い時代のもの。日月、青面金剛像、その脇に二童子、足元には四夜叉があり、その下に一猿と二鶏が陽刻されている。このパターンは他に例がないのではないかと思う。少なくともこれまでに見た庚申塔にはなかった。

場所  台東区根岸3丁目13-22

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2022年6月29日 (水)

小野照崎神社の庚申塚(台東区下谷)

台東区下谷は地下を東京メトロ日比谷線が通る昭和通りとその西を並走する金杉通りに挟まれた南北に長い地域である。昭和通りは近年の大通りだが、金杉通りは江戸時代の日光街道そのもので歴史のある街。江戸時代は坂本村という村だったが、日光街道沿いは完全な街道筋で裏手には多くの寺社仏閣が並んでいた。寺域の後ろが民地の坂本村であった。

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小野照崎神社の「小野」には由緒があり、仁寿2年(852)に小野篁が亡くなった時に、彼が風光を楽しんだ上野照崎(忍岡といい現在の上野公園あたり)に霊を勧請したものらしい。上野寛永寺が開かれた時に、それを現在地に移転したという説があるが、別説もあるようだ。小野篁はあの世とこの世を行き来した霊力のある人物だったという言い伝えがある。

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本殿の向かいに5~6畳ほどの庚申塚が築かれている。石段の右には燈籠があり、肥大には「日本三庚申 庚申塚」と刻まれた昭和34年(1959)8月造立の標柱がある。これは後述する一番背の高い庚申塔に対する標柱である。

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庚申塚の左側にあるのは、六面幢のうちの三面に一猿、計三猿を陽刻したもの。造立年は延宝8年(1680)9月。もとは石燈籠の竿部だったらしい。一対で奉納されたが片方は無くなってしまった。「奉寄進石燈籠両基 武州坂本村」の銘がある。右側の板碑型庚申塔は延宝4年(1676)9月の造立で、下部に三猿を陽刻する。いたずらを受けたのか削られた跡があるが、「奉待庚申供養所願成就攸」と書かれているらしい。

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奥の列の一番左の庚申塔は面白い形だが板碑型のようだ。造立年は延宝3年(1675)9月。三猿が下部にあるが少し削られている。中央には「奉待庚申供養所願成就攸」の文字。右の背の高い角柱型庚申塔は他の庚申塔に比べて極めて新しい昭和34年(1959)の造立。上部に日月、基壇にデフォルメされた三猿が描かれている。

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その右にはもう一つ上部が欠けた板碑型の庚申塔。造立年は延宝4年(1676)10月。上部に日月、下部に三猿でその上に二鶏が陽刻されている。これも坂本村の講中によるものである。その右の板碑型庚申塔は寛文12年(1672)9月の造立でここでは二番目に古いもの。中央の膨らみはもともと三猿の陽刻だがかなり傷んでいる。その下にはうっすらと線刻の二鶏が見える。

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右列に移ると、一番奥(写真左)が駒型の庚申塔。元文5年(1740)正月の造立で、上部に日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫りこまれている。右側面には「奉供養庚申爲二世安樂也」とある。中央は板碑型の庚申塔。正保2年(1645)9月の造立でこれがこの庚申塚では最古のもの。台東区内でも最も古いものらしい。中央には「奉供養庚申」の文字がある。右は中折れしているが駒型の庚申塔で、延宝8年(1680)6月の造立。「奉寄進庚申待信心如意攸」の文字の下に三猿を陽刻する。これだけの庚申塔が揃うとなかなか壮観である。

場所  台東区下谷2丁目13-14

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2022年6月28日 (火)

五条天神社の庚申塔(台東区上野公園)

上野のお山の不忍池側の斜面に建つ五条天神社は伝説では景行天皇の御代(紀元110年頃)に日本武尊が上野山に創建したとなっている。寛永18年(1641)に菅原道真公を合祀、しかしすぐに寛永寺の創建により移転をし、昭和3年(1928)に現在地に落ち着いた。

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五条天神社には複数の庚申塔が祀られているらしく訪問したが、本殿右脇の奥にあり、その手前には立入禁止という大きな看板が立っていた。おそらくは物珍し感覚の外国人旅行者や、ポケモンGOで遊ぶ一部の非常識な輩に困って神社側が対応したものだろうと思うが、日本語で大きく書かれているということは後者が主因だろうか。あとはマッチングアプリでカメラ小僧が女子を撮影する場に使うとか、昨今撮り鉄問題と同じような問題が寺社仏閣をも襲っている。

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この立入禁止の看板の奥10m余りのところには4基の庚申塔が並んでいる。手前から、駒型の庚申塔で造立年は享保16年(1731)2月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛はショケラを下げている。資料によると文字は「願主 井桁屋弥兵衛  諸願成就庚申供養塔」とあるようだ。

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手前から2番目の駒型庚申塔は下部に三猿を陽刻したもの。「奉納御庚申諸願成就所」とあり、造立年は享保10年(1725)正月。手前から3番目も駒型の庚申塔で、元禄7年(1694)11月の造立。こちらには「奉待庚申諸願成就所」とある。奥のひときわ大きな庚申塔は板碑型で、慶安2年(1649)3月の造立と江戸時代の庚申塔としては相当古いものである。「奉信心庚申待生生加護不堕悪趣必定證得殊勝妙果処」と刻まれているらしい。

どうも俗に侵されて疲弊した都心の寺社を訪問すると哀しくなることが多いように感じる。文化財や歴史に対する一部の人間の身勝手な行動がしばしば問題になるが、そういう人間は長年の人類の歴史の中ではほぼ死罪になったと思われる。現代法が悪をはびこらせているというのは皮肉である。

場所  台東区上野公園4-17

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2022年6月27日 (月)

上野聖天島の庚申塔(台東区上野公園)

都民の憩いの場である不忍池、その真ん中に島があり、六角の弁天堂が目立っている。弁天堂の北側にひっそりとある小島が聖天島で、そこには庚申塔がある。訪問時は巳の日ではなかったため、中には入れなかったが遠目に庚申塔1基は確認できた。

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巳の日というのはカレンダーに書かれていないので困るのだが、月に2~3回訪れる。事前に調べて行かなかったことを後悔した。聖天島入口の鉄格子から左奥を覗くと上部が欠損した青面金剛像が見える。

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『台東区の庚申塔』によると舟型で上部欠損、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は元禄3年(1690)2月である。「奉造立庚申供養二世安樂所」と刻まれているらしい。下部には10名ほどの施主願主名があるという。

また表から見えない場所に延宝8年(1680)4月造立の手水鉢があり、それには三猿が陽刻されているようだが、宿題になった。そして隣接する大黒天にあったらしい庚申塔も訪問時は見当たらなかった。どちらも要再訪である。

場所  台東区上野公園2-1

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2022年6月26日 (日)

足立二丁目の庚申塚(足立区足立)

住居表示は足立区足立だが、向にあるのが足立東プチテラスなので、足立東という地域があるのだろうか。1964年以降の住居表示は足立で、それまでは五反野南町、江戸時代末期から明治初期にかけてはどうやら弥五郎新田という地名だったらしい。この辺りは江戸時代の開墾地らしく、周辺には五兵衛新田、次郎左衛門新田などの小字があった。

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辻の角には3基の石仏がある。庚申塔が2基、巡拝塔が1基である。左端の角柱型の庚申塔には日月の下に「庚申塚」と彫りこまれている。もしかしたらこれは庚申塔の標識なのかもしれないが庚申塔として扱っておく。造立年は文久2年(1862)2月とある。中央にあるのが駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、主尊の左手にはショケラがある。造立年は寛政8年(1796)11月。台石には「庚申講中」と大きく書かれている。

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右端は駒型の巡拝塔で、羽黒山 湯殿山 月山の順礼を記念する供養塔である。また西国、秩父、坂東の巡拝供養塔も兼ねており、「先祖代々二世安樂」とある。造立年は天保8年(1837)9月で、三田金右衛門の願主名が刻まれている。 

場所  足立区足立2丁目36-4

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2022年6月25日 (土)

五反野南町の庚申塔(足立区足立)

足立区小菅と言えば東京拘置所が有名だが、監獄が出来たのは明治11年(1878)のことである。江戸時代は治水に深く関わった関東郡代の伊奈氏の屋敷だったところで、後に将軍鷹狩場となり小菅御殿が建てられた。その東京拘置所の西に東武伊勢崎線の小菅駅があるが、駅から300mほど北の線路近くに石仏が集められている場所がある。

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実は東武鉄道はもともとずっと西を走っていた。荒川を渡っていたのは現在の千住新橋辺りである。西新井から千住大橋北の梅田交差点にまっすぐに伸びる道(一部梅田通りという)があるがこれがかつての軌道跡である。関東大震災後に現在の軌道に変更になったようだ。五反野駅も新しい線路が出来てから開業した。番神通りを三十番神七面大明神社から道なりに東へ350mほど行ったところに写真の場所がある。明治時代の地図にも石塔の印があるので昔からここに在ったようだ。

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中央の堂宇に祀られているのが駒型の庚申塔である。造立年は安永9年(1780)12月。日月、青面金剛像、二邪鬼、三猿が陽刻されている。二邪鬼はとても珍しい。また青面金剛像は左手にショケラをぶら下げている。

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右にあるのが自然石の平面に削った面に彫りこまれた線刻の地蔵菩薩立像で、なかなか見事なものである。造立年は文久3年(1863)2月建之とあるので明治になる直前。「施主 鴨下甚右衛門」とあるので、これまた鴨下家の造立である。

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左にあるのは角柱型の巡拝供養塔。「月山湯殿山羽黒山大権現」と彫りこまれている。造立年は天保6年(1835)2月で、とても大きく立派な角柱型石塔。「先達大乗院 講中」とあるが何なのかは分からない。その奥にある自然石は何かの供養塔と思われるが不詳。造立年は天保9年(1838)11月と刻まれていた。

場所  足立区足立2丁目31-8

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2022年6月24日 (金)

三十番七面大明神(足立区足立)

珍しい神社である。「三十番七面大明神」というのは初めて聞いた名前だった。まずこの小さな神社の西の辻に「番神橋跡」という石碑がある。またこの東西の通りはばんじん通りと呼ばれている。この起源が三十番七面大明神らしい。江戸時代以前からこの地の豪族であった鴨下家の屋敷神として祀られていた。三十番神とは30の神々が一日交代で日本を守護するという信仰で、七面大明神は身延山を守護する七面山の神を指すという。これらの元は日蓮宗のようだ。

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神社の社は屋敷稲荷程度の大きさで驚くほど小さい。鳥居も木製の簡素なものだが霊験あらたかな気配がある。鳥居の先左のブロック塀側に石仏が並んでいる。手前から3基が庚申塔である。

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右側の背の高い駒型の庚申塔は、享保10年(1725)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれているが、その下には多数、他地域の願主名が刻まれている。中央の駒型庚申塔は享保7年(1722)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。左の角柱板型の庚申塔は文久2年(1862)12月のもの。青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され、青面金剛はショケラを下げている。側面には「鴨下氏」と刻まれていた。

場所  足立区足立2丁目8-4

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2022年6月23日 (木)

真福寺の石仏(足立区梅田)

足立区梅田の真福寺は真言宗の寺院で創建年代は不詳。首都高速環状線の千住新橋出入口の傍なので南側はドーンと首都高の高架がそびえている。山門を振り返るとそこには古風な景色が目に入るというコントラスト。

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山門脇に石仏が3基並んでいる。手前の角柱は「八十八ヶ所第四十九番」とあり、荒川辺八十八ヶ所霊場の49番札所の印である。そして右端が駒型の馬頭観音で、造立年は天保3年(1832)10月。左右側面には戒名がある。馬頭観音ではとても珍しいことである。

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中央の大きな駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。享保4年(1719)3月の造立で、左側面に「奉供養庚申尊像壱躰」と刻まれている。左端の駒型庚申塔も、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。台石の香炉台にも三猿があるので計六猿。造立年は正徳3年(1713)霜月(11月)とあり、「奉供養庚申尊躯名願成就祈所」と刻まれている。

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本堂手前には舟型光背型の六地蔵が並んでいたが、背面に沢山の戒名と命日が彫りこまれている。文化、元禄、寛政、天明、享保、元文、宝暦など様々な時代の先祖を弔っているようだ。結局造立年は分からなかった。

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墓所の入口にあるのが、上の写真の2基の石仏。右の如意輪観音像は墓石だが見事な彫りで、造立年は宝永元年(1704)11月。左は舟型の地蔵菩薩だが、右肩に「奉造立庚申供養二世安樂之処」とあるので庚申地蔵である。その下の両脇に願主名が9人記されている。造立年は寛文9年(1669)10月と古い時代のものである。

場所  足立区梅田1丁目1-23

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2022年6月22日 (水)

天保七年銘道標(足立区関原)

国道4号線日光街道の梅田交差点から西に延びる江北橋通り、本木でいったん途切れているが、近未来に扇までの未完成区間が出来上がり、江北橋を経て北区への主要道になるのは近い。その江北橋通り沿いにある梅田上町プチテラスにあるのが天保七年銘道標である。

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まるで10億円の彫刻を扱うようにアクリルのケースに角柱型の道標は納められている。いささか大げさすぎないだろうか。この道標は文字通り天保7年(1836)3月の造立で、正面には「奉納 西國秩父坂東 現當二世(安楽)也 関原山不動尊道  右 當村不動尊道」とある。

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しかしアクリル板はまるでダメだ。反射してまともに外観すら見えない。左側面には「向 右リ千住掃部宿 左リ 千住五町目道」とある。その他の文字も基本は関原山大聖寺への道案内を示している。

場所  足立区関原1丁目6-24

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2022年6月21日 (火)

梅田稲荷の石仏群(足立区梅田)

梅田稲荷神社の創建は不詳。江戸時代には南足立郡梅田村の鎮守であったらしい。その稲荷神社の社務所前に石仏が集められている堂宇がある。新しい小さな地蔵などもあるが、ここは主だったものを見ていきたい。

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普通稲荷神社にこれだけの石仏が集められているケースは少ない。ただ村社レベルになると意外に数基の石仏が集められている稲荷神社は多い。小生の近所の稲荷神社も地蔵1基、庚申塔5基がある。

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手前の2基は左が庚申塔、右が大乗妙典六十六部供養塔である。左の庚申塔は舟型光背型で、寛延3年(1750)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、「奉造立庚申」「梅田村」「女講中三拾四人」などの文字がある。この庚申塔は元は梅田4-32にあったという。実はそれを知らずに梅田4-32の庚申塔を探したが、新しい戸建があるだけで跡形もなかった。右の櫛型角柱型の供養塔は大日如来を中央に配し、蓮葉と蓮華を模った見事なものだが、年代などは不詳。

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後列左にある背の高い石仏はおそらく不動明王像であろう。文字がまったく見られないので詳細は不明だが、上部と下部で材質も違うので、後から補修されたもののようである。

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その隣にある駒型の庚申塔は造立年は見た限りでは発見できなかった。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛の頭部には蛇がトグロを巻いている。

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右奥の隅に収まっているのは角柱型か駒型かは分からないが、馬頭観音であろう。日月の下に馬頭観音が陽刻されているが、中央でいったん折れてしまい補修した跡がある。側面を見るとかろうじて寛延3年(1750)7月(もしかしたら寛政3年かも)の文字が見える。

場所  足立区梅田5丁目9-4

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2022年6月20日 (月)

大聖寺の不動明王(足立区関原)

関原山不動院大聖寺は昔から関原不動尊で知られている。応永年間(1394~1428)に小宮光徳が草堂を建て、不動明王を安置したのが始まりとされるが、関原山不動心大聖寺となったのは天正13年(1583)である。江戸時代には江戸の庶民からの信仰も厚く、現存の本堂の建立は嘉永元年(1848)だが、建築に尽力した深川木場の講中が材木を寄進したという。

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山門の手前には3基の不動明王像(1基は文字のみ)が立っている。お不動さんの信仰は関東では成田山が最も有名だが、高幡不動、都内の五色不動など色々ある。元々大日如来が教化し難い衆生を救うために化身したのが不動明王で、炎に包まれた荒々しい形相の奥に深い憐れみをもつとされる。

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3基の不動明王は左から、嘉永4年(1851)造立で正面には「関原山」とあり、左には「是より十壱町」とある。中央の不動明王像の正面には「不動尊道  関原山大聖寺」右には「これより二里」とある。この2基は普通に考えて、大聖寺への道しるべとして他の場所に在ったものと推測される。一番右の大きな石塔は「関原山不動明王」と正面に刻まれ、右には「厄払 弘法大師」、左下には「六阿ミ▢▢▢へ八丁」とある。これは当初からここに在ったのかもしれない。

場所  足立区関原2丁目22-10

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2022年6月19日 (日)

小宮家庚申塔(足立区関原)

小宮家(小宮紙器)は関原不動尊大聖寺の北にある名家で、その名前は関原不動の由緒となっている版木にも開祖小宮光徳の名前で出てくる。渕江領の豪農であったようだ。関原不動の創建は応永年間(1394~1428)だから、600年も前からこの辺りの中心となる家だったのだろう。

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寺院のような立派な門の脇にこれもまたしっかりした堂宇があり、中には板碑型の庚申塔が祀られている。堂宇内には登録書が掲げてあり、庚申塔(寛文四年銘)一基、右を足立区登録有形文化財に登録する(平成21年)と書かれている。こういうものがあるのだと感心した。

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板碑型庚申塔は下部に二鶏と一猿が描かれた珍しいもの。造立年は寛文4年(1664)8月。上部には「奉造立庚申供養石塔 二世安樂処」「乃至法界平等利益 右結衆 敬白」と刻まれている。保存状態の極めて良い江戸時代初期の庚申塔である。

場所  足立区関原2丁目45-3

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2022年6月18日 (土)

尾竹橋通りの地蔵堂(足立区本木)

尾竹橋通りは荒川の西新井橋から埼玉県草加市へ続く幹線道路で、日光街道(国道4号線)と並行して走っている。尾竹橋通りを境に西側が足立区本木、東側が関原である。中曽根神社のある渕江城址から少し北の尾竹橋通りに面して堂宇がある。中曽根という地名は江戸時代以降の小字で、かつての千葉氏の領地の中心地(当時は渕江)。この地蔵堂よりも北は、関東大震災以前は農地が見渡す限り広がる田園地帯だった。

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堂宇は施錠されているので格子の間から覗かせていただく。中に祀られているのは、庚申塔と地蔵菩薩。地蔵菩薩は赤子を抱いているので子育地蔵として建立されたものだろう。残念ながら造立年やその他銘文は分からない。

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左は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛像の頭には蛇がとぐろを巻いている。造立年は安永2年(1773)12月と側面にあるらしい(資料参照)。堂内には板碑の破片があるが出所は不明。また右下に小さな石塔と移転時の説明板があり、関原2丁目44-3からこの場所に昭和54年(1979)に移転しており、元の場所は道路の向かい側にあたる。おそらくは尾竹橋通りの建設に立ち退きここに移したものだろう。

場所  足立区本木2丁目21-17

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2022年6月17日 (金)

本木御嶽神社庚申塔(足立区本木東町)

足立区本木東町の御嶽神社は永禄4年(1561)の創建。起こしたのは千葉氏家臣で千葉氏は武州御嶽山を信仰していたのでその関係でここに御嶽神社がある。江戸時代以前この辺りは小屋ノ内出といい千葉家家臣の集住地であったという。小屋ノ内出という小字は大正時代までの地図に出てくる。南は十王堂という小字でその境に御嶽神社がある。

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御嶽神社の北東に中曽根城址という史跡がある。戦国時代に千葉氏は渕江城を中心とする渕江郷を領地としていた。その渕江城があった場所がこの中曽根城址らしい。当時妙見社と呼んだ神社が現在の中曽根神社で、城跡が発掘されたのは平成8年(1996)と最近のこと。

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本殿の右奥にあるのがこの板碑型の庚申塔。下部に三猿を陽刻する図柄はいかにも江戸時代初期で、造立年は寛文9年(1669)9月とある。正面には「奉供養庚申二世安楽所」と刻まれている。板碑型は特に寛文年間に多く、元禄年間になると駒型が主流となる。

場所  足立区本木東町12-16

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2022年6月16日 (木)

不動道大師道道標(足立区本木)

足立区本木を北に、西新井大師に向かって続く本木新道はかつての「大師道」。江戸時代以前は現在荒川に架かる西新井橋(尾竹橋通り)で鎌倉街道と分岐してこの本木新道を北上していた。その本木新道と胡録神社からの道の辻の歩道上に立っている石造道しるべがある。

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もともとここに在ったものではないらしい。上の写真には「道」という大きな文字が見えるが、どうもこれは右側面で「ふどう だ以し」と上に書かれておりその下の「道」が大きな文字である。その右面(実は裏面)には天保6年(1835)の造立年が刻まれている。

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上の写真の影になっているのが正面らしく、「関原山不動尊」とある。その左面の文字は「不動道」で、これは大聖寺のことを指しているのではないかと思われる。大聖寺の門前にもこれと呼応する道標がある。

場所  足立区本木1丁目19

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2022年6月15日 (水)

光輪寺の庚申塔(足立区本木)

荒川の土手に近い足立区本木にある光輪寺は真言宗の寺院で、貞治3年(1364)の創建と古い。もとは現在は荒川の川の中にあたる場所にあったが、大正時代の荒川開削の時に移転を余儀なくされ現在地に移った。農村地帯ではあるが、江戸時代は日光街道も近く人口も多いエリアだったようだ。

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訪問時光輪寺の境内は改装中であった。いくつもの石仏石塔が横になっていたりして、不思議な風景になっていた。その中でしっかりと立っていたのは舟型の庚申地蔵だった。

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この舟型地蔵の造立年は寛文9年(1669)9月。尊像の脇には「奉庚申供養地蔵二世安樂所」と書かれている。左や後ろの石仏は台石のみが残されていた。後ろの地蔵菩薩は首がなく胴体は倒れていて、基壇には享保12年(1727)2月の紀年があり、奉造立地蔵尊、本木村の銘がある。

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倒れて移動の準備に入っている駒型の庚申塔があった。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は享保16年(1731)9月とある。「奉納庚申  本木村」と刻まれていた。意外としっかりした台石で、大きな四角い石から庚申塔を鑿で削って作っているのが分かって興味深い。

場所  足立区本木1丁目26-25

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2022年6月14日 (火)

本木胡録神社の庚申塔(足立区本木南町)

胡録神社というのはもともと第六天を祀っていた神社で、本木胡録神社もその一柱である。第六→大六→小六→胡録と変わったという説がある。この神社は寛永2年(1625)に地元の豪族阿出川氏が邸内に祀った第六天が始まりと伝えられる。胡録という名は限られた地域にのみ定められ、その由来は分からないが明治初期の政策らしい。

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鳥居と本殿が中央にあるが、その右のほうにエンジ色の小さな屋根があり、その下に三基の石仏が祀られている。庚申塔が2基、六十六部供養塔が1基である。左端が供養塔で、延享3年(1746)8月の造立。詳しくは銘文をメモし忘れてしまった。中央がここの主役の板碑型庚申塔。山王二十一社本地仏をいう種子を刻んだもので、比叡山日吉神社が祀っている二十一社の本地仏を祀ったものは板碑時代に出現し江戸時代まで見られるという。この庚申塔の造立年は寛文3年(1663)9月であるから、山王を祀る庚申塔としては末期と思われる。下部には三猿が陽刻され、その上には「二世安樂」と書かれている。

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右端の大きな駒型の庚申塔は享保12年(1727)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。「奉供養庚申講中二世安樂所」と刻まれ、「本木村 森下講中十三人」の銘がある。森下の地名については調べてみたが分からなかった。おそらくはこの辺りの小字だろうと推定したのだが。

場所  足立区本木南町4-2

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2022年6月13日 (月)

本立寺の石仏(練馬区関町北)

本立寺は西武新宿線武蔵関駅の北西の石神井川左岸の段丘にある寺院。創建は江戸時代の初め頃で、当寺から関村の名主であった井口家と深い関係で創建にもかかわっていたという。日蓮宗の寺院だが、石仏は多い。

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山門をくぐると本堂手前に石仏が並んでいる。比較的新しいものが多いがその中でも目立ったものを紹介したい。まずは丸彫の魚籃観音で、練馬区では南蔵院にあったが魚籃観音は意外と珍しい。造立年は分からない。

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魚籃観音の右にある角柱型の石塔は帝釈天を祀っている。どうやら柴又帝釈天の写しのようである。明治以降あちこちで造られたと言われるが、本立寺のこれは明治44年(1911)3月の造立。願主川谷トリとある。

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帝釈天の右にある背の高い石仏は自然石を削った一面に薄く彫りこまれた浮彫と線刻を併用した地蔵菩薩。造立年は昭和15年(1940)と新しいものである。手前の舟型の庚申塔も造立年は昭和12年(1937)10月とかなり新しいもの。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄になっている。邪鬼は形がクリアでなく邪鬼かどうか今一つ自信がない。三猿は手前の香炉台に隠れている。

場所  練馬区関町北4丁目16-3

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2022年6月12日 (日)

小関庚申塔(練馬区石神井台)

西武新宿線武蔵関駅の東側の踏切の道を北上するとやがて石神井川を庚申橋で渡る。その先を右に曲がるとすぐに小関庚申塔の塚がある。道路よりも1mほど高くなった境内には三界万霊供養塔<昭和63年(1988)6月造立>や、手水鉢<対象12年(1923)1月奉納などがある。

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境内に上がると奥には堂宇があり、その手前の両脇に石猿が一対立っている。右の猿の基壇には、関村北、関村南、宇立野、観音山、西村、大泉村、保谷などからの寄進が刻まれており、左の猿の基壇には小関村の多くの願主名が刻まれていた。造立年は大正14年(1925)11月である。

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一対の石猿が狛犬のように守っている堂宇の中には、庚申塔を中心に沢山の猿像が祀られていた。なぜこれほど沢山の猿像があるのかは分からないが、「奉納」とあるので願主によるものであることは明らかである。

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練馬区の資料によると全部で三対あったようだが、訪問時は前後左右の二対であった。この三猿の造立年は分からない。中央に立つ笠付角柱型の庚申塔は背丈ほどの高さがあり、造立年は元禄4年(1691)8月。「奉寄進庚申供養」「小関邑同行二十五人」とある。管理の状態からして今もまだ講中は続いている感じがした。

場所  練馬区石神井台7丁目10-4

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2022年6月11日 (土)

みすみ墓地前の石造物(練馬区関町北)

西武新宿線武蔵関駅の南東、耕地整理とは無縁のカーブを描きながら通るこの道は江戸時代からの道で、関村の中心通りでもあった。その途中に三角地の民間墓地がある。みすみ霊園と呼ぶらしい。

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みすみ墓地の門前に石造物が並んでいた。手前にある自然石の石碑は句碑のようだ。建立されたのは嘉永3年(1850)秋8月とある。陰暦の8月と言うのは9月下旬辺りのことである。芭蕉フリークだった関村に住む俳友が三十代で他界した供を荼毘に立てたものらしい。無量老人書とあるのは粋である。

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塀際にある角柱型の石塔は、一千ヶ寺供養塔で享和3年(1803)霜月(11月)の造立。正面は完全に剥離してしまっているが、練馬区の資料の写真は正面もしっかりしていたので参照。「南無妙法蓮華経 一千ヶ寺供養塔」と書かれている。側面には「武蔵國豊嶌郡関村 俗名 木下カン右衛門」とある。いろいろ寺巡りをしたのだろうか。

場所  練馬区関町1丁目25

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2022年6月10日 (金)

関のかんかん地蔵(練馬区関町東)

練馬区関町は関町東、関町北、関町南に分かれるが、元は関村。村の中程を東西に走るのが青梅街道でこれは道筋も江戸時代から変わらない。昔は街道沿いが村の中心部で、その北側の地名を地蔵裏と呼んだ。かんかん地蔵の裏手という意味だが、ここが村の中心地だったようだ。

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広い青梅街道の路傍にトタン屋根の堂宇があり、その中には3基の古い石仏が祀られている。脇に説明板があり、そこには「この地蔵は江戸時代中頃に造立されたと思われるが、石で叩けば願い事が叶うと言われ、長い間叩かれてきた為、足元が細くなったので最近補修された」とある。かんかん地蔵というのはこの叩いた時の音を表したものである。

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中央の丸彫地蔵がそのかんかん地蔵で、一説には正徳元年(1711)11月の造立とされている。ちょうど膝の辺りから下が補修され、基壇も新しくなっているようだ。右の石仏は胎蔵大日如来坐像で、これは享保14年(1729)10月の造立。「奉▢大乗妙典二世安樂處」とあり、武州豊嶋郡関村 法名道譽の銘がある。

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左端の笠付角柱型の石仏は庚申塔かと思ったが、実は勢至菩薩であった。寛保元年(1741)桂月の造立年があるので陰暦の8月、今でいえば9月の秋分の頃である。台石には「田中氏 講中 拾四人」とあり、左脇には「武刕豊嶋郡関村」の銘がある。堂宇の後ろには三宝寺の受納證が複数掲げられており、昔から三宝寺の管理である。しかし補修や堂宇に関しては、信者の方の寄附によるものだと伝えらえる。(練馬の古老の話より

場所  練馬区関町東1丁目18-2

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2022年6月 9日 (木)

地蔵堂墓地の石仏(練馬区上石神井)

散策中にふと見つけた境外墓地、もしかしたら民間墓地だろうか。智福寺から少し南へ行くと、江戸時代からの古道が交差する。この道は下石神井の天祖神社前で西に分岐した古い道で武蔵関まで繋がっている江戸時代の上石神井村の幹線村道である。

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墓所の中程道路際に地蔵が並ぶ場所がある。上の写真左端の背の低い丸彫の地蔵菩薩像は単体、造立年は享保8年(1723)で▢▢禅定門とあるので墓石の可能性が高い。その右の3基と向かいの3基を合わせて、同年代造立の六地蔵になっている。

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これらの6体の紀年を見るとすべて宝暦10年(1760)とあり、同時期に村で造られた六地蔵だと思われる。それぞれ台石に刻まれている文字は摩滅しているものの「奉彫刻地蔵尊 念仏講中」「奉造立念佛地蔵尊 念仏講中」「奉建立六地蔵尊 念仏講中」などとどれも念仏講中による建立だと分かる。ただ右側列の一番道路側の1基だけが、明和6年(1769)8月の造立となっており、9年間は5地蔵だったということはないと思われるので何故だろうと考えてしまった。

場所  練馬区上石神井4丁目19-13

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2022年6月 8日 (水)

智福寺と塩かけ地蔵(練馬区上石神井)

石神井川の右岸の智福寺周辺は江戸時代の上石神井村。当時の石神井川は度々洪水を起こし、川幅も200~300mあって、流路も一定していなかった。ほとんどが草地で、洪水になると冠水する土地だったので、民家は少し高い段丘の上に建てられた。この場所に智福寺が移転してきたのは昭和41年(1966)のことだが、石神井川の状態は当時迄江戸時代とさほど変わらなかったらしい。

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智福寺は元々寛永2年(1625)に都心の桜田元町(現在の東新橋)に創建。その後、そこが幕府の御用地となったため芝田町二丁目(現在の三田3丁目)に移転した。当時の東海道と山の稜線上の旧東海道(二本榎の道)の間の崖地だった。山側の台地上にあった隣接寺院が済海寺で現存。智福寺はその崖下の現在の赤い高層ビルの辺りにあったようだ。その場所は以前の刑場で人の住まない場所だったので寺院しか建てられない事情があった。

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品川駅前から柘榴坂を登りきったところにある江戸時代初期の幕府による切支丹皆殺しの悲劇で刑場になったのがかつてのこの智福寺の場所だった。それが練馬の長閑な場所で想起させられたのは驚きである。品川のこの顕彰碑の説明板には「この顕彰碑は1956年刑場跡である三田の智福寺境内に有志が建立し、その後この地に移された」と書かれている。

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練馬の智福寺の広い境内には新旧の塩かけ地蔵があって、古い方は地蔵座像のようだが三田にあった頃から親しまれてきたお地蔵さまで造立年は不詳、塩で摩滅してしまい原形を留めなくなったため、新しい丸彫の御影石のお地蔵様が立っていた。400年近い江戸の変貌を見てきた塩かけ地蔵は今も新しい地蔵の後ろで静かに見守っているようだった。

なお、墓所に庚申塔が1基あるのに失念してしまったので後日追記にて…。

場所  練馬区上石神井4丁目9-26

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2022年6月 7日 (火)

墓地内の庚申塔(練馬区石神井台)

新青梅街道の練馬区石神井台四丁目交差点と石神井川を渡る扇橋の間に三角形の緑地帯がある。ここはどうも個人墓地らしく、きっちりと施錠されていた。複数の墓石に五十嵐家とあったので、昔から土支田村の名家である五十嵐家に関わる墓所だろうか。

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墓地全体は大きな塚のような山がかなりの面積を占めている。その頂上にあったのが笠付角柱型の庚申塔。遠目での撮影となる。像容は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿で側面に(二)鶏が描かれている。

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右側面には「奉造立庚申供養二世安樂所」、そして「武列上石神井村」とある。反対面は見えなかったので練馬区の資料を参照、元禄5年(1692)11月の造立年が刻まれており、同行十八人敬白とあるようだ。もともと五十嵐家は土支田村が本家なので、石神井は分家の可能性もある。それでも石神井川左岸のこの台地にこれだけの墓所を構えるのは相当な有力者だったのだろう。

場所  練馬区石神井台4丁目4

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2022年6月 6日 (月)

路傍の地蔵(練馬区石神井台)

ふじ大山道から南へ向かう江戸時代からの村道は、石神井台五丁目交差点の道しるべ地蔵を過ぎて緩やかにカーブしながら東に向きを変える。新青梅街道にぶつかる手前150mくらいのところの分岐に小さな地蔵尊がある。

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舟型光背型の地蔵尊だが、造立年は不詳、その他銘文も何も記されていない。この辺りは江戸時代から戦前までは西村と呼ばれた地域である。石神井川の左岸の河岸段丘の上にあたり、地蔵の周辺は桑畑が広がっていた。由来も何もわからないが、どなたかが守り続けておられるお地蔵様ということは分かる。

場所  練馬区石神井台4丁目15

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2022年6月 5日 (日)

道しるべ地蔵其の二(練馬区石神井台)

富士街道の途中に「けやき憩いの森」という武蔵野の名残りがあり、その中にかつての田柄用水の痕跡が残っている。クランクして流れていく様子がわずかな土の盛り上がりと凹みで見てとれる。田柄用水はこの辺りでは富士街道に沿って流れていた。その交番のある森の交差点から南へ下る。

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森の南の端で鋭角に道が重なる。その角の三角地帯に屋根付きで舟型光背型の地蔵菩薩像がある。写真の右の道を北へ行けば土支田へ、左の道を行けば保谷に向かう。どちらも江戸時代からある道で、富士街道の北東側は上土支田村、北西側は下保谷村で、富士街道以南は上石神井村だった。

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地蔵菩薩の正面には「奉留満灌頂大光明真言成就二世安樂處」とあり、下部に「左 田なし道」とある。保谷を経て田無へ行くのである。右側面には「右 こぐれ道」とある。小榑のことで上土支田村の地名である。左側面には「武刕豊嶋郡上石神井邑西沼講中四拾一人  願主  本橋五左衛門」と刻まれている。西沼という地名は分からない。沼邉の西側ということだろうか。

場所  練馬区石神井台8丁目21

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2022年6月 4日 (土)

道しるべ地蔵其の壱(練馬区石神井台)

沼辺地蔵尊から南西へ富士街道を進むと、約400mで道路の北側の三角地帯に地蔵堂がある。この分岐する道は昔からある道で、保谷方面へ繋がっていたという。この辺りの古い小字は「西村」とあるが、ここも上石神井村の一部である。

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赤い屋根の堂宇の中には一帯の丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。高さは110㎝ほどある立派なお地蔵様である。地元では道しるべ地蔵と呼ばれているらしい。造立年は宝永3年(1706)11月。地蔵の側面に文字が刻んである。

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左腕の外側には「奉造立念佛供養二世安樂處」とある。反対側の右腕外側には造立年と「武列豊嶋郡上石神井村字沼邉  講中六十二人」とあり、「願主 本橋平四郎」の銘がある。地蔵菩薩の側面にこれだけの文字が刻まれているのは珍しい。この辺りの古い地名は西村だが、江戸時代はこの辺りまで沼辺だったのだろうか。

場所  練馬区石神井台6丁目14

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2022年6月 3日 (金)

庚申塚(練馬区石神井台)

庚申塚という交差点がある。この交差点名は結構いろんな地域にあるが、ここは旧早稲田通り(所沢道)と南北の村道の辻になる。その交差点の一番出っ張った角っこに屋根付で4基の石仏が並んでいる。

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こういう交差点に石仏石碑が残されているのは嬉しい限りである。「庚申塚」という交差点名の看板もあるが、4基のうち庚申塔は1基のみ。あとは供養塔と燈籠である。この辺りの古い地名は沼邉、沼辺地蔵尊もその地名に由来した名前で、ここをあえて言うなら沼辺庚申塚だろうか。

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右端の燈籠は笠付の角柱で、元文5年(1740)11月の造立。正面には「奉納 石燈籠壹基」とあり、右面には「武刕豊嶋郡上石神井村  北ハひさをりみち  南ハ多かいどミち」とある。反対側には「庚申待講中十二人」と願主銘がある。北はわからないが、南は高井戸の意であろう。隣りの背の高い角柱は享保19年(1734)11月造立の六十六部廻国供養塔。当地の行者名の俗名は本橋武左衛門とある。

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左から二番目が駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄5年(1692)11月。横に「奉造立庚申石佛為二世安樂處 上石神井村結衆廿八人」と刻まれている。左端の舟型の石仏は光明真言供養塔で正徳元年(1711)10月の造立。読誦塔のようである。武刕豊嶋郡上石神井村講中とあり、多数の願主名があるがほとんど本橋姓であった。

場所  練馬区石神井台5丁目23-30

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2022年6月 2日 (木)

沼辺地蔵尊(練馬区石神井台)

練馬区を袈裟切りにするように走る富士街道はふじ大山道とも呼ばれていた古い街道で、石仏の多い通りである。西武池袋線石神井駅から南西に1.5㎞ほど下った辻にあるのが沼辺地蔵尊。現在の富士街道と学芸大通りの交差点にある。

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地蔵堂の境内は意外と広いもので数坪はありそう。今は主要幹線なので数mの隅切りがあるが、もともとは現在の1.5倍くらいあった可能性がある。堂宇に祀られているのは丸彫の地蔵菩薩立像一基のみ。地蔵尊本体には文字は見られないので、造立年などは分からない。

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地蔵の後ろの上部にある木札は新旧あり、古い方は文字が消えかかっている。新しい方は近年のもので、「沼辺地蔵尊御堂改築寄付者芳名」と題して39名の名前が記されている。驚いたのは本橋姓が30名と大半を占めていたことである。このメンバーは百万遍講中のようだが、木札の紀年が平成25年(2013)3月なので、今も百万遍講中があるのかと驚いた。

場所  練馬区石神井台2丁目35-27

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2022年6月 1日 (水)

旧小村井村庚申塔群(墨田区立花)

墨田区立花の団地群の中の商業ゾーンでもあるサンタウン立花の中央通路の真ん中あたりに、団地には不似合いな庚申堂がある。立花帝釈天堂とよばれ、堂宇の内外に複数の庚申塔が祀られている。この一帯の団地の敷地は江戸時代は吾妻耕地という農地で、明治末期にはキャリコ製織という会社の亀戸工場の敷地となった。戦後は関東地建機械整備工場になっており、バブル前に団地化された。

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堂宇前に立てられているのぼりには「地蔵尊まつり」とあるが地蔵菩薩像はない。サンタウン立花は1983年3月に竣工している。最寄り駅の東あずま駅までは1分と目の前。「東あずま」という名前も「東東」かと思われるが、吾妻(吾嬬)の東ということであろう。公団住宅を建設した時に、表通りに面した場所に在った石仏を移設したという。昔の絵図には「庚申塚」と記されているらしい。

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堂内には3基の板碑型の庚申塔が祀られている。右の大きな板碑型庚申塔は中央に「奉庚申▢▢」とあるが他の文字は読み取れない。中央の小さな板碑型庚申塔も、左の板碑型庚申塔も、摩滅と傷みが著しくどれも紀年などの文字は不明である。像容からすると江戸時代初期だろうという推測は立つ。

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堂宇前に向かって左側に立つ古い燈籠。竿部正面には「奉納」とあり、別の面には文化9年(1812)10月の造立年が記されている。基壇は埋まっているが、少し出ている部分に「庚申…」とあるので、庚申講中による燈籠であることがわかる。

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堂宇前の右手側にあるのがこの変な形の庚申塔。文字は全く読めないほど摩滅と欠損が著しい。正面には三猿が彫りこまれていることから庚申塔と思われる。上部のU字型の凹みはいったい何だったのか不明である。説明板によるとこれらの石仏石塔はかつてここで植木屋を営んでいた野村家の方々が大切に守ってきたもので、現在も御子孫が管理されているという。ありがたいことである。

場所  墨田区立花1丁目23

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