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2022年6月 8日 (水)

智福寺と塩かけ地蔵(練馬区上石神井)

石神井川の右岸の智福寺周辺は江戸時代の上石神井村。当時の石神井川は度々洪水を起こし、川幅も200~300mあって、流路も一定していなかった。ほとんどが草地で、洪水になると冠水する土地だったので、民家は少し高い段丘の上に建てられた。この場所に智福寺が移転してきたのは昭和41年(1966)のことだが、石神井川の状態は当時迄江戸時代とさほど変わらなかったらしい。

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智福寺は元々寛永2年(1625)に都心の桜田元町(現在の東新橋)に創建。その後、そこが幕府の御用地となったため芝田町二丁目(現在の三田3丁目)に移転した。当時の東海道と山の稜線上の旧東海道(二本榎の道)の間の崖地だった。山側の台地上にあった隣接寺院が済海寺で現存。智福寺はその崖下の現在の赤い高層ビルの辺りにあったようだ。その場所は以前の刑場で人の住まない場所だったので寺院しか建てられない事情があった。

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品川駅前から柘榴坂を登りきったところにある江戸時代初期の幕府による切支丹皆殺しの悲劇で刑場になったのがかつてのこの智福寺の場所だった。それが練馬の長閑な場所で想起させられたのは驚きである。品川のこの顕彰碑の説明板には「この顕彰碑は1956年刑場跡である三田の智福寺境内に有志が建立し、その後この地に移された」と書かれている。

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練馬の智福寺の広い境内には新旧の塩かけ地蔵があって、古い方は地蔵座像のようだが三田にあった頃から親しまれてきたお地蔵さまで造立年は不詳、塩で摩滅してしまい原形を留めなくなったため、新しい丸彫の御影石のお地蔵様が立っていた。400年近い江戸の変貌を見てきた塩かけ地蔵は今も新しい地蔵の後ろで静かに見守っているようだった。

なお、墓所に庚申塔が1基あるのに失念してしまったので後日追記にて…。

場所  練馬区上石神井4丁目9-26

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