足立区六月は竹の塚の南側の地域。竹の塚の南の端が西光院で、炎天寺はそこからすぐのところにある。どうやら西光院の南側の東西の道で地名が変わっているようだ。炎天寺を訪問した日は猛暑日でまさに炎天下であった。

炎天寺は真言宗の寺院で歴史はとても古い。天嘉4年(1056)に奥州鎮定に赴いた源頼義、源義家父子が創建したという寺伝。その為か隣接して境内を繋げているのが六月八幡神社。八幡神社の創建に源義家が出てくることは多いが寺院も一緒にというのは多くない。寺伝ではその時に頼義義家父子がここの地名を六月と改め、その時の天気が炎天続きだったので炎天寺と名付けたという。

炎天寺は俳人小林一茶との関係も深く、一茶の詩碑やヤセガエルのモニュメントのある池がある。一茶は「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という俳句も残しているという。そのカエル池の右後ろにひっそりと庚申塔が一基立っていた。

舟型光背型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は貞享3年(1686)10月で、「奉造立庚申供養二世安楽所」とあり六月村の銘がある。

少し山門に戻った所には真新しい堂宇に収まった板碑型の大きな供養塔があった。文字が摩滅でほとんど読めないが、中央部分には阿弥陀如来の線刻の像が刻まれている。左脇には「念佛供養」とあり、右には年号があるようだが、▢▢七年というところしか読めない。像形などからして江戸時代初期のものではないかと思われる。

その横のもうひとつの新しい堂宇に祀られていたのはきれいな舟型光背型の馬頭観音。なかなか見事な彫りだが、造立年は文化2年(1805)9月とある。反対側側面には願主名があったようだが摩滅して消えていた。

並んでいる石仏を見ていくと、この聖観音像が気になった。舟型光背型の聖観音像で左脇に「庚申講中」とあり、台石の前面に三猿が陽刻されている。造立年は文政4年(1821)4月と刻まれていた。

もう一基、こちらは舟型光背型の地蔵菩薩像で、これも左肩の脇に「奉造立庚申供養」とあるので庚申講中によるものである。造立年は享保元年(1716)9月で、六月村では享保年間の頃庚申講中が華やかだったのだろうか。

一番山門側にあったのは櫛型角柱型の読誦塔。天保6年(1835)4月の紀年が入っている。「奉読誦普門品一萬巻供養塔」と中央には刻まれており、六月村講中敬白とある。左の自然石は馬頭観世音で昭和27年(1952)5月と新しいものであった。

本堂の手前には弘法大師の鋳造仏があり、その足元に珍しい燈籠がある。竿部の正面には「奉納庚申供養」とあり、脇には「国土安全 天下泰平」と書かれていた。造立年は享保17年(1732)11月とある。1000年近い歴史のある寺院の中に余りに多彩な石仏があって、炎天下なのに結構な時間を過ごしてしまった。
場所 足立区六月3丁目13-20
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