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2022年7月31日 (日)

東堀切民家の庚申塔(葛飾区東堀切)

葛飾区東堀切の住宅地の路地の奥に1坪ほどの区画があり、古い庚申塔が祀られている。場所を知っていなければ通りすがりということはあり得ない道すがらだけに、なぜここに在るのか不思議である。

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この場所について古い地図を調べてみたが、戦前には民家もないし田んぼだった場所。そんな場所なのでどこか近所からの移設ではないかと言うのがまっとうな推定だろう。元々は野ざらしだったが2018年頃にきれいに整備をして堂宇を建てたようだ。

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板碑型の庚申塔は上部に陰刻の日月があり、下部には陽刻の三猿が描かれている。中央には、「奉待庚申供養」とあり下の方には20人の願主名が刻まれている。願主は佐五左エ門ほか、造立年は元禄7年(1694)10月とあり、下千葉村九品寺の銘がある。九品寺は200mほど北にある真言宗の古刹で鎌倉時代初期の創建。この辺りは九品寺の檀家の地区だったのだろう。

場所  葛飾区東堀切1丁目4-9

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2022年7月30日 (土)

堀切五丁目の庚申地蔵(葛飾区堀切)

京成本線堀切菖蒲園駅の北東500mほどの路地の角に妙に広い境内をもった堂宇がある。一見駐輪場にも見える境内には何もない。奥の堂宇は施錠されているが、中には石仏が祀られている。

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白い枠の参道が何のためなのかは分からない。素直に参道と受け取るべきなのだろうか。堀切という地名も室町時代からある地名なのだがはっきりとした由来は分かっていないらしい。室町時代は利根川が東京湾に流れており、葛飾区で利根川は東に古利根川、西に古隅田川に分岐して流れ分岐したところが亀無(亀有ではない)、その下流が青戸と木庭袋(後の千葉村)、その南が堀切、立石と言うのが昔の地名。

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堂宇の石仏は舟型光背型の地蔵菩薩像。右に「奉供養庚申二世成就之所」とあることから庚申講中による地蔵である。造立年は寛文3年(1663)9月と古いものだが保存状態は極めて良い。

場所  葛飾区堀切5丁目41-9

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2022年7月29日 (金)

浄慶庵の石仏(葛飾区堀切)

堀切にある真言宗の浄慶庵は正王寺所属の庵室。昔この地域は下千葉と呼ばれ、さらに江戸時代に遡ると下千葉村という村であった。その下千葉村の郷士相川重右衛門が開祖となり創建したと伝えられる。年代は不明。境内には相川家の墓が多い。

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規模は小さめの寺院だが、墓石も含めて古いものが多く魅力的であった。寺前の道は曲がっているがこの曲がりは江戸時代の地図も明治時代の地図も同じように曲がっており、古くからの道である。明治時代以前はここから北はほぼ農地で、民家は南にのみあった。

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境内に入るとすぐに3基の石仏が迎えてくれる。右端は駒型の庚申塔で上部に日月、下部に二猿というちょっと変わった像容。造立年は寛文8年(1668)9月と古い。「奉造立石塔一宇庚申供養二世安樂所」と正面には刻まれている。中央は板碑型の庚申塔。造立年はさらに古く明暦2年(1656)8月とある。「奉待庚申供養二世安樂成就攸」「武刕江戸田所町 小▢▢左衛門 施主 敬白」とある。田所町というのは日本橋にあった町名で現在の日本橋堀留町あたりである。左の不動明王像は明和6年(1769)10月の造立。竿部に「奉供養日本廻国  浄苑  恵観」とあり、側面には「法界会識永離宮苦道」と書かれている。

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左脇には板碑型と自然石の石仏があるがどちらも墓石のようだ。左の板碑型の供養塔は寛文8年(1668)8月、右の自然石の供養塔は不詳。左の墓石の基壇には相川とあるのでこれも相川家のものだろう。

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本堂の裏手にはいくつかの相川家の墓所があり、その手前に板碑型の供養塔がある。造立年は寛文4年(1664)2月彼岸で、正面に刻まれた文言から、相川文右門夫妻が生前供養(逆修)として信仰する湯殿山の供養塔を建てたものらしい。「奉造立石佛一基湯殿山供養二世成就之所」と刻まれている。一般的には出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)とするのだが、湯殿山のみというのが意外に珍しい。

場所  葛飾区堀切6丁目30-24

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2022年7月28日 (木)

土橋観音菩薩(葛飾区小菅)

正覚寺は綾瀬川の右岸(西側)だが、東側の左岸にも同じように大きな水道施設(小菅水再生センター)がある。屋上の日本庭園の池にはカワセミもやってくるらしい。

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水再生センターの東隣の角に堂宇があり、堂宇前の石塔には「南無大慈大悲観世音菩薩」とある。裏側には「奉納 祈願 病気平癒 昭和55年4月18日 中山左喜蔵」と書かれていた。施錠されている堂宇の格子から中を覗かせていただく。

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広い堂宇の中にはいささかアンバランスな舟型光背型の聖観音菩薩像が祀られていた。台石の正面には「小菅講中」とある。首のところで中折れしており補修した形跡がある。そして上部と首から下では石の材質が異なっている。紀年などは何も書かれていない。私の推測では、首から上の部分は昔からあった聖観音像のもので、戦災で首から下が破壊されてしまったのではないだろうか。それを補修して昭和50年代になってようやく再建相成ったという経緯。首から上の像形の素晴らしさに対して、首から下は素人が作ったようにしか思えない造作に見えたのでそういうストーリーを組み立てた。

場所  葛飾区小菅2丁目10-26

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2022年7月27日 (水)

正覚寺の石仏(葛飾区小菅)

小菅一丁目は荒川放水路と綾瀬川が合流する最後の三角地帯。高速道路よりも荒川側には東京都水道局の水処理施設があり、屋上が公園やフットサル場になっている。民家は殆どないがお寺が一軒だけ、それが正覚寺である。小菅の地名の由来については菅は「かや」で、この辺一帯古隅田川に面し、茅などが密生していたのが由来という。

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正覚寺は真言宗の寺院で安土桃山時代の創建とされる。山門は閉まっていたが、左側の通用門が開いていたのでそちらからお邪魔する。すぐに枯れた古木の洞(うろ)に石仏があり、その隣には弘法大師堂がある。

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弘法大師堂の裏にひっそりと隠されたように駒型の庚申塔が立っていた。葛飾区の資料にも載っていないが、どこから持ち込まれたものだろうか。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、右側には「奉造立庚申供養」とあり、左側にかろうじて紀年が見える。造立年は享保4年(1719)9月である。地名などは書かれていないようだ。

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その先には正覚寺で最も有名な念仏結集地蔵がある。きちんとした説明板が立てられている。造立年は寛文元年(1661)霜月(11月)とある。念仏結集を願う兵左衛門と同行衆によって建立された。右の紀年に続いて「六親菩提施主敬白」、左側には「念佛結集本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれている。

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その先の小さな舟型光背型の地蔵半跏像も興味深い。造立年代は不詳ながら区の資料では江戸時代と推定している。輪光があり、半跏像になっている。

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すぐ近くにある舟型光背型の地蔵菩薩は庚申地蔵。若干周辺の欠損が見られるが、右側には「奉念申供養…」とあり、左側には元禄10年(1697)の紀年が読める。月以下は摩滅していて読み取れない。こういう下半分の摩滅が激しい石仏があるが、どういう原因でそうなるのだろうか。土に埋まっていたとか、そういう想像をするが確信はない。

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その先にあった小さな舟型光背型の地蔵菩薩像には三猿が描かれていた。猿があることで庚申地蔵だと思われる。文字はどこにも見られないので造立年は分からない。

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墓所入口には六地蔵と中心の舟型地蔵が吹き抜け堂宇に祀られている。六地蔵は丸彫だが中央の地蔵は舟型光背型。刻銘には「庚申念佛二世安樂」とあるので庚申地蔵。寛文3年(1663)8月の造立年があり、同行9人攸と続いている。

拝観はできなかったが正覚寺には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が納められているという。この地蔵は、以前に旧水戸街道の北側にあったものを、大正4年の荒川の開削工事の折に正覚寺に移設したもの。とげぬきは「咎(とが)抜き」の転訛で、小菅監獄から罪を終えての帰途、この地蔵に願を掛けると罪が抜けるというのでいつしか「とがぬき」が「とげぬき」になって伝わったものだという。

場所  葛飾区小菅1丁目3-6

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2022年7月26日 (火)

小菅神社の庚申塔(葛飾区小菅)

首都高速小菅ジャンクション、常磐自動車道から三郷線に来ると、東北自動車道からの中央環状線と綾瀬川の上空で混じり合う交通量の多い高架、その下にひっそりと佇むのが小菅神社である。

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左の鳥居が90度向きが違うが、鳥居の正面にあるのが田中稲荷という小さな稲荷神社。実は江戸時代にはこの田中稲荷が小菅村の鎮守であった。そこに小菅神社が移ってきたというのが経緯である。田中稲荷の右側の隙間を進むと、裏手に2基の庚申塔と複数の祠が隠れている。

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左の庚申塔は自然石の玉石型で、正面に「庚申」と大きく彫ってある。横には文化8年(1811)2月の造立年が記されていた。他には何も書かれていない。右の舟型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれ、文字は殆ど読めないが資料によると、造立年は享保13年(1728)11月とあるようだ。「奉建立庚申供養」という文字も刻まれているとあるが、今は摩滅が酷くて像形も文字もほとんどわからなくなりつつある。

場所  葛飾区小菅3丁目1-2

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2022年7月25日 (月)

薬師寺墓所の石仏(足立区綾瀬)

薬師寺の続き。薬師寺の参道の突き当りには本堂があり、左手には薬師堂が建っている。本堂には発掘された板碑が保存してあるという。ひとつは造立年不詳だがもう一つは区の有形文化財になっており、文正2年(1467)の銘があるらしい。文正は1466年2月28日に始まり、翌年の3月5日には次の応仁になっている。時の室町将軍は北山文化の足利義政。文政2年には応仁の乱が始まってこれ以降10年間京の都は荒廃した。

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この辺りは江戸時代以前は低湿地帯で、人の居住には適さないと思われていたが、板碑が出土したのはここで人の営みがあったという証拠になる。左の薬師堂内には本尊の薬師如来があるという。両脇を日光菩薩、月光菩薩が挟んでいるという。薬師堂の手前を左に行くと墓所に至る。

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最初にあったのは新しい馬頭観世音菩薩。舟型光背型できちんとした造りになっているが本体に造立年はなかった。基壇の側面に「永代供養料金百万円奉納 為馬頭観音菩薩倍増法楽也 平成15年(2003)3月」と書かれたプレートがあった。21世紀に造られた馬頭観音の意味合いは何だろうと不思議に思った。

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その先には舟型光背型の六地蔵と丸彫の地蔵、そしてもう1基舟型光背型の地蔵が堂宇に並んでいる。六地蔵の造立は彫りや文言から見て同一年代だと思われるが、同行40人というのが複数あるだけで、造立年は分からない。右端の舟型の地蔵は墓石のようだが、寛文5年(1665)正月の造立年が刻まれていた。

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その先には圧倒的な広さと規模で無縁仏が集め並べられている。中央の丸彫の石仏がみちびき地蔵である。墓地の区画整理を行った際、多くの無縁の墓石があり、一カ所に集めて無縁塔を建立し、石彫家八柳五兵衛氏に制作を依頼した地蔵尊をその中心に据えて「みちびき地蔵」と名付けたもの。

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みちびき地蔵の両脇に立つ石仏は、向かって左側が舟型光背型の如意輪観音像で墓石だが、造立年は元禄2年(1689)5月と古いもの。右は上の写真の舟型の聖観音像で、こちらは元禄13年(1700)11月の造立。ただ観音の左肩に「庚申供養造立之祈所」とあることから庚申講中によるものと判断できる。

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無縁仏のずっと左の端の方、ほぼ六地蔵の堂宇に近いところに1基の舟型光背型の地蔵菩薩立像がある。頂部が少し欠けているが、右側には「為庚申供養之造立也 施主 敬白」と書かれており、造立年は寛文9年(1669)正月と刻まれている。ちなみに薬師寺の辺りは戦前は伊藤谷(いとや)と呼ばれていた。現在も綾瀬川に架かる伊藤谷橋や伊藤谷公園に名前が残っている。

場所  足立区綾瀬1丁目14-20

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2022年7月24日 (日)

薬師寺参道の石仏(足立区綾瀬)

綾瀬にある薬師寺は真言宗の寺院。宝珠山普門院薬師寺といい、創建は寛永9年(1632)。西には綾瀬川があり、その向こう岸には異彩を放つ小菅の東京拘置所がある。この東京拘置所は薬師寺の出来た江戸時代初期には治水に活躍した関東郡代伊奈家の屋敷があった。徳川吉宗の時代になって、将軍様がここを鷹狩りの休憩所とし、小菅御殿が設けられた。しかし明治以降はずっと監獄~拘置所である。

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山門手前にも複数の石仏がある。右の植込みの裏には大きな笠付角柱型の庚申塔がある。とても大きなもので、時代も古そうな様子。

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文字は摩滅が進んでいて読み取りにくいが、足立区の資料によると造立年は正面左にかすかに残る延宝9年(1681)。正面の文字も削られてしまって読めないがこれは「奉念庚申本尊青面金剛」と書かれていたらしい。台石に三猿が陽刻されている。左側には「夫庚申▢依之輩現送三尸之毒虫 伏仰願一結諸集現當二世得安樂 半夜凌離生死當登三身之蓮台 欽白」と刻まれ、三尸が天に悪行を伝える旨の記載は珍しい。

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庚申塔の対面にあるのは舟型光背型の如意輪観音像。基壇には「念佛一千万遍供養塔 戒琛 敬白」とあるが、戒琛は僧侶の名前だろうか。基壇にも蓮の花葉が描かれている。石仏正面には「有無縁三界万霊等」とあり、左側に紀年らしき痕跡があるのだが読み取れない。おそらくこれも江戸時代の初期と思われる。

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山門をくぐると右側に駒型の庚申塔がある。台石の正面に「當村講中」と大きく彫られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。造立年は右側にあり、天保15年(1844)7月と比較的新しいもの。左面には「當村講中世話人吉田四郎吉」ほか計7名の願主名。この庚申塔は「耳病除庚申」とも呼ばれている。耳の病が治ったらひしゃくに穴を開けて返す習わしだという。手前の香炉台の足も三猿で造られていて面白い。

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駒型庚申塔に並んで堂宇に祀られている石仏は台石に「長命大師」と書かれている。台石には数多くの願主銘があり、小菅、隅田村、堀切、千住、牛田など近隣各方面の願主名が見られる。大師像は弘法大師(空海)の像である。造立年は見当たらなかった。

場所  足立区綾瀬1丁目14-20

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2022年7月23日 (土)

養福寺の石仏(足立区綾瀬)

JR常磐線綾瀬駅から南へ250mほどのところにある養福寺。真言宗の寺院で文殊山薬師院養福寺という。創建年代は不詳ながら、永正元年(1504)に中興したという記録があるので、室町以前の創建である。

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小ぶりな山門を入ると正面に本堂がある。左側には宝塔などがあり、中でも宝篋印塔は立派なものである。造立年は宝暦2年(1752)晩春と記されている。武刕足立郡渕江庄普賢寺郷文殊山薬師院養福密寺とも書かれており、続けて造立年の記載がある。

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本堂左手から墓所に向かう途中に無縁仏塔と並んで、舟型の地蔵と丸彫の六地蔵が並んでいる。左端の舟型光背型の地蔵尊は下半分が溶けているような状態で文字が一部読み取れない。造立年は元禄10年(1697)11月とある。地蔵の右に「奉造立地蔵尊 庚申供▢…」とあるので庚申講中による地蔵である。左には「逆修本室妙岸 宝徹妙法戒發」とあるのは法名だろうか。

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右の六地蔵も特徴のある興味深いもので、左から二番目の地蔵の基壇には三猿が彫りこまれている。これも庚申地蔵ということは、六地蔵全体がそうなのかもしれない。文字が殆ど見られないので、造立年等は分からない。

場所  足立区綾瀬2丁目19-13

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2022年7月22日 (金)

綾瀬北野神社庚申祠(足立区綾瀬)

JR常磐線綾瀬駅のすぐ南にある北野神社。創建年代は不詳ながら、かつてあった稲荷社、天神社、第六天社、八幡社を合祀して土地の鎮守となったとされる。綾瀬駅から商店街の東側を南へ少し下ると、鳥居がある。

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参道はすぐに右に折れてその正面に社殿がある。社伝の手前道路側に撫で牛と並んで2基堂宇、大きな方の堂内に石祠がある。撫で牛はとても大きなもので、天神様にしばしばみられるもの。別名臥牛(がぎゅう)ともいう。

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大きな堂宇の中には2基の石祠が並んでいる。これは珍しい庚申祠(庚申石祀:せきじ)というもので、当時の村人たちが建立したもの。右の祠は元禄8年(1695)9月造立で、「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」と刻まれている。一方の左側は元禄13年(1700)10月の造立で、「庚申供養造立石宝殿一宇二世安樂処」と刻まれている。また5人の願主名も見られる。

場所  足立区綾瀬2丁目23-14

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2022年7月21日 (木)

猿仏塚(足立区栗原)

東武伊勢崎線西新井駅の北にある区の施設ギャラクシティ(こども未来創造館などがある)の北東角の向かいに古い堂宇があり、猿仏塚とある。猿払塚にある区の説明板には中に3基の庚申塔があると書かれているが、実際は1基が念仏供養塔で2基が庚申塔である。この猿払塚の由緒が興味深い。

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江戸時代の初め頃、この辺りの農家に一匹の賢い猿がいた。ある日猿が留守番をしていると、赤ん坊が泣き始めたので、湯を沸かし行水をさせたが湯が熱すぎて赤ん坊が死んでしまった。それからというもの猿は食事もとらず赤ん坊の墓を守り続け、ついに死んでしまった。村人はこの猿の心を哀れみ、「仏になって子供たちを守っておくれ」と手厚くここに猿を葬ったという。後に塚は子供の厄除塚となり、地域の村人に深く信仰されていた。

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すべて板碑型である。右の石塔が念仏供養塔。造立年は寛永14年(1637)10月ととても古い。「奉唱念佛講結集供養所」と中央にある。下には10名ほどの願主名がある。中央は庚申塔で、造立年は寛永6年(1629)2月と足立区内で二番目に古いもの。「奉待庚申十六▢成就供養所」とある。▢は読み取れないが「夜」の可能性がある。下部には多数の願主銘がある。左端の小さい庚申塔は延宝8年(1680)11月の造立で、「奉待庚申供養所願成就」とあり、その横には「渕江石塚村大施主十六」と読める。

場所  足立区栗原1丁目4-25

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2022年7月20日 (水)

来迎寺の庚申塔(足立区島根)

足立区島根にある来迎寺は真言宗の寺院で創建は建久6年(1195)と伝えられる。今放送されている大河ドラマ「鎌倉殿」の時代である。しかし古い地図にも寺の印がないものが多いのがいささか不思議である。

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山門は立派なものだがそれほど古いものではなさそう。ただ境内には古木が多く、森の中にあるような雰囲気がある。山門の右側に別の入口があり、そちらからお邪魔する。

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まず手前に地蔵堂があり、中には丸彫の地蔵菩薩像がある。木札にも香炉台にも「子育地蔵尊」と書かれていたが、造立年等は刻まれていないようだ。地蔵堂の横には4基の立派な庚申塔が並んでいる。

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一番入口側は大きめの駒型庚申塔で、うっすらと日月らしいもようがあり、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は正徳3年(1713)11月で、「奉造立青面金剛庚申供養二世安樂  施主 敬白」と刻まれている。左の庚申塔は駒型で上部に日月、その下に「奉造立庚申待二世安樂攸」という文字があり、下部には三猿が彫りこまれている。造立年は元禄4年(1691)9月。願主名が9名ほど刻まれていた。

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左の二基のうち右側は板碑型の庚申塔で三猿が下部に陽刻されている。造立年は天和2年(1682)10月と古いもので、「奉造立庚申供養現當安樂所」とあり、縁に願主道慶、そして15名の願主名が刻まれている。左の中央に大きな三猿が陽刻された板碑型の庚申塔はさらに古く、寛文6年(1666)辰月(3月)の造立。「奉供養庚申 宝塔二世安樂処」とあり、下部には16人の願主名と島根村の銘がある。

場所  足立区島根3丁目11-9

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2022年7月19日 (火)

島根古蹟庚申塔(足立区島根)

足立区島根は国道4号線(日光街道)と環状七号線の北東のエリアの地名である。江戸時代は島根村という農村で、周辺の地域よりもわずかに高い微高地であったことから島根の地名が付いたとされている。その中で旧日光街道の西のかつては石塚と呼ばれていたあたりに今は足立区立島根中堀公園がある。

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この公園の一角にブロック組の堂宇があり、中には2基の庚申塔が祀られている。公園に移設される以前はどこにあったものなのかは分からない。

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左の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、青面金剛の載っている台が見ようによっては平べったい邪鬼にも見える。左側に顔があるようだ。足立区の資料には「鬼」とあるが、これが本当に邪鬼かどうかは確信が持てない。造立年は貞享元年(1684)10月で、「現當二世造立之供養也」と記されている。右の駒型庚申塔は宝永2年(1705)9月の造立で、こちらは「庚申供養」の文字の下に三猿が陽刻されている。下部には願主名が6人銘見られる。

場所  足立区島根4丁目36地先

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2022年7月18日 (月)

大塚邸稲荷の庚申塔(足立区六月)

歴史ある島根鷲神社の東にある交差点に屋敷稲荷がある。この稲荷神社は誰でも御参りできるように道路に面して開かれているが、訪問時は自転車などが手前にならんでいていささかお参りには苦労した。

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この右側の南北の通りは普通の生活道路に見えるが実はかつての日光街道である。徳川家光以来多くの将軍の行列がここを通っていたのである。左の道は六月と島根の町境になっているが、江戸時代の六月村と島根村の村境は少しだけ南にあったようだ。どうも昭和中期の住居表示改定の時に境が変わったようである。とはいえ村境の庚申塔とみても良いかもしれない。

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右に小さな自然石の水神、左が自然石の庚申塔である。庚申塔の造立年は裏に大正2年(1913)9月と刻まれている。「大塚善蔵之立」とあるのでここの大塚家のご先祖だろう。庚申講中によるものではなく、おそらく個人の信心に基づいて建立されたのではないだろうか。

場所  足立区六月2丁目1-20

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2022年7月17日 (日)

六月二丁目の庚申塔(足立区六月)

炎天寺から少し南に下がった辺りから日光街道へ古道っぽい曲がりを繰り返しながら繋がる道は江戸時代からある道筋で、日光街道に出る手前には歴史の古い鷲神社がある。その道の途中にある懐かしいコンクリート瓦の堂宇に2基の庚申塔が祀られていた。

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この辺りは江戸時代は六月村の中心部に準ずるような地域だったようだ。六月は「むつき」と読んでしまうが、正しくは「ろくがつ」である。炎天寺に源義家が滞在したのが炎天の六月だったためというのが言い伝え。

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右の駒型の庚申塔は、天保9年(1838)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、台石の前面に大きく二鶏が描かれている。左側面には「関八州石工司子孫 草加宿 神流斉 青木宗義」という石工名が彫りこまれている。左の板碑型庚申塔は古く、造立年は延宝3年(1675)10月。前面には「奉造立庚待二世安樂所」と記されている。下部には蓮葉が大きく描かれている。

場所  足立区六月2丁目4番地先

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2022年7月16日 (土)

炎天寺の石仏(足立区六月)

足立区六月は竹の塚の南側の地域。竹の塚の南の端が西光院で、炎天寺はそこからすぐのところにある。どうやら西光院の南側の東西の道で地名が変わっているようだ。炎天寺を訪問した日は猛暑日でまさに炎天下であった。

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炎天寺は真言宗の寺院で歴史はとても古い。天嘉4年(1056)に奥州鎮定に赴いた源頼義、源義家父子が創建したという寺伝。その為か隣接して境内を繋げているのが六月八幡神社。八幡神社の創建に源義家が出てくることは多いが寺院も一緒にというのは多くない。寺伝ではその時に頼義義家父子がここの地名を六月と改め、その時の天気が炎天続きだったので炎天寺と名付けたという。

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炎天寺は俳人小林一茶との関係も深く、一茶の詩碑やヤセガエルのモニュメントのある池がある。一茶は「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という俳句も残しているという。そのカエル池の右後ろにひっそりと庚申塔が一基立っていた。

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舟型光背型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は貞享3年(1686)10月で、「奉造立庚申供養二世安楽所」とあり六月村の銘がある。

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少し山門に戻った所には真新しい堂宇に収まった板碑型の大きな供養塔があった。文字が摩滅でほとんど読めないが、中央部分には阿弥陀如来の線刻の像が刻まれている。左脇には「念佛供養」とあり、右には年号があるようだが、▢▢七年というところしか読めない。像形などからして江戸時代初期のものではないかと思われる。

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その横のもうひとつの新しい堂宇に祀られていたのはきれいな舟型光背型の馬頭観音。なかなか見事な彫りだが、造立年は文化2年(1805)9月とある。反対側側面には願主名があったようだが摩滅して消えていた。

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並んでいる石仏を見ていくと、この聖観音像が気になった。舟型光背型の聖観音像で左脇に「庚申講中」とあり、台石の前面に三猿が陽刻されている。造立年は文政4年(1821)4月と刻まれていた。

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もう一基、こちらは舟型光背型の地蔵菩薩像で、これも左肩の脇に「奉造立庚申供養」とあるので庚申講中によるものである。造立年は享保元年(1716)9月で、六月村では享保年間の頃庚申講中が華やかだったのだろうか。

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一番山門側にあったのは櫛型角柱型の読誦塔。天保6年(1835)4月の紀年が入っている。「奉読誦普門品一萬巻供養塔」と中央には刻まれており、六月村講中敬白とある。左の自然石は馬頭観世音で昭和27年(1952)5月と新しいものであった。

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本堂の手前には弘法大師の鋳造仏があり、その足元に珍しい燈籠がある。竿部の正面には「奉納庚申供養」とあり、脇には「国土安全 天下泰平」と書かれていた。造立年は享保17年(1732)11月とある。1000年近い歴史のある寺院の中に余りに多彩な石仏があって、炎天下なのに結構な時間を過ごしてしまった。

場所  足立区六月3丁目13-20

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2022年7月15日 (金)

西光院の石仏(足立区竹の塚)

先日は北千住の千住曙町の西光院の庚申塔について書いたが、同じ西光院でもこちらは足立区竹の塚にある西光院である。どちらも真言宗の寺院だが、千住曙町の方は真義真言宗、こちらは真言宗豊山派と少しだけ異なる。創建は河内与兵衛胤盛という人物が開基となり江戸時代初期らしい。もとは小田原北条氏の家臣だったようだが、後に竹塚村に土着し、徳川に仕え、代々村の名主だったという。

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山門を入る正面に本堂があり、右に大きな銅製の大日如来像がある。この大日如来像は元禄12年(1699)9月に建立されたもので、河内家の子孫らの名前が記されている。

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大日如来の脇にあるのが2基の庚申塔。右の駒型の庚申塔は享保11年(1726)正月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、脇には「奉供養青面金剛所願成就所 竹之塚村」とある。左側の小さい方は舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、「▢蔵庚申供養二世安楽 講中九人」とあるので庚申講中による地蔵である。造立年は元禄11年(1698)10月で大日如来とほぼ同年代になる。

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墓所入口の無縁仏塔の中にはなかなかの石仏も混じる。右端手前の舟型光背型の如意輪観音像は「為妙栄禅定居士」とあるので墓石と思われるが、寛文3年(1663)5月の造立でひときわ目立つ石仏である。左端の丸彫の地蔵菩薩は墓石ではなく「奉待菅谷吉兵衛尉重」とあり、造立年は宝永4年(1707)8月。地蔵講中や念仏講中の可能性もあるし、豪農が単独で建之したものとも考えられる。

場所  足立区竹の塚1丁目13-16

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2022年7月14日 (木)

常楽寺の庚申塔(足立区竹の塚)

足立区竹の塚が地名で竹ノ塚駅とは表記のカナ部分が異なる。もともとは武蔵国足立郡竹塚村で地域には多くの塚(古墳)がありその塚に竹が自生しており竹塚(たけのづか)という地名になったという。読みに濁りが消えたのは昭和41年の住居表示変更に伴ってのこと。近代の地名が歴史を重んじていない事には毎度ながら残念に感じる。

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竹ノ塚駅から南へ800mほど、大正時代までは渕江村に属していた地域に常楽寺がある。東には南北に日光街道が通り、それに合流する越谷方面からの赤山街道の少し南に寺はある。赤山街道は江戸時代初期、江戸の治水を担当した伊奈氏が川口市の赤山陣屋からの土木道で、水路と道路が並んでいた。常楽寺の東300mにある増田橋で日光街道と接続していた。

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山門をくぐり右の新しい六地蔵の裏手にあるのが自然石の石仏(詳細不明)と笠付角柱型の庚申塔。この庚申塔は天保11年(1840)3月の造立で、大きな笠の下に青面金剛像、邪鬼が陰刻され、その下に三猿が陽刻されている。資料によると地面に埋まっている台石の正面には「庚申講」と彫られているようだ。山門脇には古い六地蔵が纏まって納められていたが、古い六地蔵の方が新しいものよりも魅力的であった。

場所  足立区竹の塚1丁目10-16

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2022年7月13日 (水)

西光院の庚申塔(足立区千住曙町)

足立区北千住の南東、京成本線、東武スカイツリーラインがクロスし、隅田川、荒川に挟まれたボトルネックのような地形の土地にある西光院は千葉山西光院薬師寺といい、牛田薬師の名前でも知られる。寺の説明によると、千葉氏の分家が徳治2年(1307)に創建したとある。

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山門をくぐると左手に国学者石出常軒の碑というものがある。私の知らなかった人物だが、江戸時代前期明暦の大火の折に小伝馬町の牢獄から囚人を解放して命を救った(切放という)人物らしい。人物の名前は知らなかったが、小伝馬町の牢獄から囚人を解放した話は聞いたことがある。ほとんどの囚人が戻ってきたと言われている。

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山門を入り、本堂手前の塀の傍にはかなり大きな庚申塔が並んでいる。ほぼ私の背丈ほどもある大きなものが2基、角柱が1基、手水鉢が1基ある。銀杏の木の前にある角柱は寺の碑である。

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右端の角柱型の庚申塔は文化8年(1811)11月の造立。正面には「庚申青面金剛」と大きく書かれ、基壇には三猿が彫りこまれている。脇には紀年のほかに「講中」という文字が見られる。左の板碑型庚申塔は背丈ほどの高さのあるもので、基壇と下部にはそれぞれ蓮の花葉が描かれている。文字は薄くなっているので資料も参考にすると「三密六大▢▢證輪円具足法界有情之覚躰也」とあるようだ。造立年は古く正保3年(1646)と刻まれている。「結集等毎年六度之待庚申祈現後二世悉地成就所 敬白」という文字も見られる。

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隣りには同じほどの高さの舟型光背型の庚申塔。こちらは極めて珍しいタイプのもので、日月、青面金剛像、二童子、邪鬼が描かれているが、その下には一猿一鶏が薄く彫りこまれている。また青面金剛像は四臂でこれも珍しい。造立年は延宝2年(1674)霜月(11月)とこれも江戸前期。右側には「為庚申供養二世安楽之造立也」とある。

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一番左にあるのは三猿の手水鉢。後ろの壁は近年追加されたようである。造立年は天和3年(1683)9月。脇には「西光院宥尊」「奉庚待供養石鉢▢造立▢」とある。江戸時代の西光院近辺は牛田という地名で知られているが、川に囲まれた中洲のような土地で、明治から大正期には水運を利用した織物工場などが複数立ち並んでいたが、現在は静かな住宅街になっている。

場所  足立区千住曙町27-1

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2022年7月12日 (火)

理性院の庚申塔(足立区柳原)

北千住駅は都内でも有数のターミナル駅でデータ上の乗降客数は常に日本の(世界の)TOP10に入っている。そんな駅だが大多数は乗換え利用で、駅勢圏の規模は大きくない。もともと日光街道側の西口が開けており、東口に至ってはローカル駅かと思うほどで、それは今もあまり変わっていない。東口から500mほどのところに真言宗の理性院柳原寺はある。

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この辺りは江戸時代は葛飾郡柳原村という農村地帯で、寺は扇型の道路に接している。寺の東南側が山門だが、広い道路の北西側はかつては古川という名の水路だった。古川は綾瀬川の残した三日月湖のような水路で、荒川掘削以前には綾瀬川も度々氾濫を繰返していたことが計り知れ)る。山門をくぐると正面に本堂があり、右に小さな太子堂、左には2階建ての会館がある。庚申塔は見当たらない。

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分からないので墓所入口にいらした片づけをしていたお婆様に尋ねる。おそらくご住職のお母様だろう。ご親切に2カ所別々のところにある庚申塔をご案内いただいた。もう一基あるはずの庚申地蔵については分からないとのことだった。本堂の右を奥に回り込むと、一番奥の一画に駒型の庚申塔がある。造立年は元禄8年(1698)2月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄だが青面金剛像の股の間に狐の顔が見える。不思議な図柄である。右には「庚申供養」左下には「六人」とある。

左後ろに一部見えているのは角柱型の巡拝塔。造立年安政6年(1859)6月の「四国西国秩父坂東巡拝供養塔」とあり、「神田川川柳橋 越中屋徳兵衛」の銘がある。

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もう一基は、本堂の反対側、墓所に入って本堂の裏に近い隅っこにある駒型の庚申塔。造立年は寛政10年(1798)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で前述の庚申塔よりも一回り大きい。側面には「奉造立庚申供養塔 柳原村中」とある。

最近は寺院も檀家以外を拒絶するところもあったりする中で、とても幸せな体験をさせていただいたことに感謝したい。

場所  足立区柳原2丁目5-1

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2022年7月10日 (日)

駅前地蔵尊(大田区羽田)

日本を代表する羽田空港は多摩川の河口にある。近年は巨大な海上滑走路が造られたり、今年(2022)3月には川崎と結ぶ多摩川スカイブリッジが開通したりしたが、昭和からの100年で大変貌を遂げたエリアである。元々昭和6年に羽田飛行場が出来、現在大きな赤鳥居がある沖合まで京浜急行が線路を伸ばして、「穴守」という駅があった。

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その辺りは海水浴場だったり、漁師町だったり、穴守稲荷神社の門前町で、羽田鈴木町、羽田穴守町などの街があったのだが、終戦後GHQが羽田空港をHANEDA AIRBASEとして拡張工事、「48時間以内に全住民は撤去しろ」という無茶苦茶な命令で住民はすべて追い出された歴史がある。

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現在もある海老取川を渡る手前にも駅があり、GHQが空港を支配したのちは川の西側の稲荷橋駅が京急羽田線の終点になった。おそらく駅前地蔵尊はこの時代の稲荷橋駅前にあったものではないかと推測している。稲荷橋駅は戦後羽田空港駅と名前を変えている。

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地蔵尊は全部で4体という珍しい数。紀年等は分からないが、地元の人々が守っている様子が見てとれる。穴守稲荷神社もこちら側に移されて、多くの人々の参詣を受けている。かつての稲荷橋駅はこの地蔵尊のすぐ北にあったが、500mほど西に出来た穴守稲荷駅に取って代わってしまった。

場所  大田区羽田5丁目15地先

 

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六町神社の石仏(足立区六町)

足立区六町はつくばエクスプレス六町駅が出来てから大きく変貌しつつある街。この辺りはもともと花畑村の六丁という字名の地だったが、今の六町駅あたりが西の渕江村との境界だったようだ。今でも花畑村は南花畑という町名に残っている。六町駅は地下駅だが地上に出て東に向かうとすぐに六町神社がある。

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実は六丁は竹ノ塚神社域の飛地であったため、住民は遠く本村の氏神である八幡神社や竹ノ塚神社の二社に参拝していた。ただし六丁では清水清家の邸内社である三峰神社も崇拝してきた。清水家は現在の神社の東側にあった旧家で、その関係で六町神社の狛犬はオオカミ狛犬になっている。

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鳥居の前にある石柱は意外に古そうな道標。道路側が正面にあたり、「鷲大明神 矢納弁才天 道」とある。方角に合わせて立っており、他の面には「東、八条領 二合半領、道、榎戸 八丁 千住 壹里」、「西 此道馬ひく編可ら須」、そして北側には「▢永二年酉二月」とある。年号の▢は宝永であれば(1705)、嘉永であれば(1849)にあたる。西の意味はこの道馬を引くべからずとなるが何故かはわからない。

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西の道路側に石仏が多数並んで祀られている。左から庚申塔、標柱、丸彫地蔵座像、舟型地蔵(とろけ)、首と祠、祠、駒型の供養塔、駒型の弁財天である。摩滅が激しくて文字が読めないものが多い。

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庚申塔は最初祠かと思ったが大きな笠の笠付角柱型の庚申塔である。造立年は寛政5年(1793)正月とある。青面金剛像、邪鬼、三猿が彫りこまれており、青面金剛像は左手に小さなショケラを下げている。台石には多くの願主名が刻まれている。やはり清水家、伊藤家が多い。

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右端の2基が興味深い。小さい方は摩滅してボロボロになった供養塔だが、造立年は天保11年(1840)10月の紀年が読める。願主名も仙▢とある。右の駒型の石仏は弁財天。「花又村 施主 中村▢▢▢ 不動院」とある。花又村は花畑村の誤字だろう。造立年は宝永3年(1706)9月とある。弁財天は稀に蛇頭女として描かれることがある。これもその一つであろう。

場所  足立区六町1丁目12-16

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2022年7月 9日 (土)

西加平神社横庚申塔(足立区西加平)

環七通り加平ランプより200m余り西にある西加平神社は創建年代不詳、嘉兵衛新田の開墾に伴い創建されたらしい。天祖神社や稲荷神社と合祀分離をしたりして移転があったりしたのち現在に至る。とても広い境内で、野球ができるほどの広さだが社殿はこじんまりとしている不思議な境内である。かつての嘉兵衛新田は綾瀬川で東西に分断していたが、戦後西側で独立してこの神社を鎮守とするようになった。

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西加平神社の北側の角に4基の石仏が祀られている。神社と共に動いてきたようなので、この敷地も神社の一部なのだろう。一番右にある大きな舟型光背型のおそらく地蔵菩薩立像と思われる石仏は、摩滅ととろけが進みすぎて詳細は何も分からない。

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その左にある舟型光背型の阿弥陀如来立像は下部に二猿が陽刻された庚申塔である。このパターンは極めて珍しい。造立年は寛文10年(1670)10月と古く、庚申講中の黎明期にあたる。阿弥陀如来の左肩には「為奉供養庚申現當二世也」とある。右足脇に「願主 浄誓」とあるが、僧侶の名前だろうか。

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左の2基のうち大きい方は駒型の庚申塔で、上部に日月、その下に大きく「庚申塔」と刻まれている。造立年は天保8年(1837)とあるが月は分からない。左の駒型庚申塔は天明8年(1788)7月造立のもの。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で青面金剛は左手にショケラを下げている。側面には「奉供養庚申講中  渕江領  嘉平新田西」とあるので、この時代には西は西で講中を作っていた可能性がある。

場所  足立区西加平1丁目1-36

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2022年7月 8日 (金)

一ツ家稲荷神社の石仏(足立区一ツ家)

一ツ家稲荷神社は文禄年間(1592~1596)頃にこの辺りの開発がすすめられ後の栗原新田となった土地の鎮守。当時から現在まで、地元の人々によって守られてきた神社で、道を切り開いた村道祈念碑(敷石供養塔)なども境内にある。

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隣りは駐車場だったが現在はマンションでも建設されているのだろうか、その足場と養生で視界は閉ざされている。手前の鳥居の脇には4基の石仏が並んでいる。

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手前は舟型光背型の地蔵菩薩立像。安永9年(1780)12月の造立とある。「栗原新田念仏講中」の銘があるので、この時代には栗原新田の地名は一般化していたようだ。その隣の駒型の石仏は巡拝供養塔。造立年は安永8年(1779)霜月(11月)とある。「月山湯殿山羽黒山奉納」「西国坂東秩父為二世安樂」と記されている。尊像は大日如来だろうか、私にはよくわからない。

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継にあるのが2主尊を陽刻した巡拝供養塔。造立年は宝永8年(1711)10月とあるが、実は宝永は8年4月25日で正徳に変わっている。したがって正しいのかどうかは私には判別がつかない。尊像は右が大日如来で左が聖観音だろうか。「湯殿山拾五度所願成就」「奉納秩父坂東二百三十三度」とあるのは、湯殿山に15回はともかく、秩父坂東233度というのも秩父34ヶ所、坂東33ヶ所をどう組み合わせればいいのか分からない。謎の多い供養塔である。左の駒型の庚申塔は日月が塗られていて綺麗である。元禄6年(1693)4月の造立でここでは最も古い。下部には二鶏と三猿が描かれ、「奉造立庚申二世安樂祈」と記されている。

場所  足立区一ツ家4丁目2-18

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2022年7月 7日 (木)

地蔵堂の石仏(足立区弘道)

足立区弘道は新しい地名。江戸時代は弥五郎新田、次郎左衛門新田、嘉兵衛新田、保木間村などが入り混じった農村地域だったが、論語の一説から名前を取った弘道小学校が地名の由来となり足立区弘道になった。その弘道を東西に走る環七南通りは新しい道のようだが実は江戸時代からある道筋。

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弘道第一小学校の北に隣接する区立第十一中学校の脇に堂宇があり、庚申塔と地蔵菩薩像が祀られている。江戸時代の切絵図を見ると寺名はないがこの場所は寺域となっている。果たして寺があったのかどうかは分からない。

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左の駒型庚申塔は宝暦8年(1758)11月の庚申講中による造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は左手にショケラを下げている。右の舟型の地蔵菩薩像には「奉念佛供養結衆二世安樂處」とあり、下部には左右6名、渓12名の願主名が刻まれている。造立年は古く寛文11年(1671)10月とある。

場所  足立区弘道1丁目39-8

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2022年7月 6日 (水)

長性寺の石仏(足立区西綾瀬)

西綾瀬にある長性寺は真言宗の寺院で、創建は寛永元年(1624)と伝えられる。ゆったりした広い境内は都心の寺院とはちょっと違う雰囲気を持っている。江戸時代は弥五郎新田の菩提寺だったと思われるが、長性寺は開基岡村紀宿元春以来地元岡村家の菩提寺だったとも伝えられる。

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山門を入ると右手には墓所が広がり、左手には無縁仏が集められ、地蔵堂が立っている。地蔵堂の手前には一対の燈籠が立っているが、この竿部にはそれぞれ三地蔵、左右で六地蔵が陽刻されていた。

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堂内の中央には地蔵菩薩半跏像が祀られている。延命地蔵尊とのことだが、造立年は享保4年(1719)11月で、五反野村の地蔵講中が盛んでその講中によって建立されたという。

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無縁仏塔群の脇には自然石で造られた馬頭観音が立っている。比較的大きなもので、裏面には昭和12年(1937)2月の造立年が刻まれており、願主名は中村氏と石橋氏の名前がある。

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無縁仏群の後ろの方に舟型光背型の阿弥陀如来像がある。阿弥陀如来の左肩に「奉造立庚申供養二世安全所」とあるので、庚申講中による建立である。造立年は寛文4年(1664)10月と古く、寺の創建から間もない時代のものである。

場所  足立区西綾瀬3丁目19-19

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2022年7月 5日 (火)

民家塀の庚申塔(足立区西綾瀬)

綾瀬駅の西を流れる綾瀬川。かつては日本一汚い川として有名だった。1980年から15年連続でワースト1の座をキープしたが、近年は水質改善が進みかなりきれいになってきた。そんな綾瀬川だが堤防はカミソリ堤防で、川と人々の間が刑務所のように分断されているのは残念である。

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そんな綾瀬川右岸(西岸)のある民家の塀に凹みがあり、その中に駒型の庚申塔が祀られている。なかなか広いお宅で、古い地図を見てみると子には江戸時代から民家があったようだ。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、三猿は左の一匹が摩滅で確認できなくなっている。側面には「丹波野講中」とあり、造立年は文化2年(1805)11月と記されている。綾瀬川は江戸時代からある農業用水河川で、江戸時代は東側が五兵衛新田、西側が弥五郎新田と呼ばれていた。丹波野というのは、ここから400mほど北に丹波野公園という区立公園があることから、この辺りの古い小字と思われる。

場所  足立区西綾瀬4丁目2-25

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2022年7月 4日 (月)

路傍の馬頭観音(足立区綾瀬)

足立区綾瀬の綾瀬駅北部は五兵衛新田と呼ばれた農村地帯であった。綾瀬駅は現在は大きな駅前の商業ゾーンを持つ駅だが、常磐線に綾瀬駅が出来たのは昭和18年と新しい。馬頭観音がある場所は江戸時代から五兵衛新田と北にある嘉兵衛新田を結ぶ主要路だった。嘉兵衛は現在では加平と呼ばれる地域のことである。

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中華料理屋の脇の駐車スぺースの一画に屋根があり、その下に板駒型の馬頭観音が祀られている。摩滅が激しくて造立年やその他の情報については全く読み取れない。

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足立区の資料によるとこの場所にはかつて明和2年(1765)造立の庚申塔があったということが記されていた。しかし探してみたが庚申塔は見つからない。それでも今もなおこの馬頭観音を守る人がいることは想像できた。

場所  足立区綾瀬4丁目20-17

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2022年7月 3日 (日)

観音寺の石仏(足立区綾瀬)

常磐線綾瀬駅西口からすぐのところにある真言宗の観音寺。創建は江戸時代の初期だと伝えられる。この辺りは江戸時代に入って開発が進み、五兵衛新田と呼ばれていたらしい。その時代からの地元の菩提寺である。

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境内に入るには左の方にある勝手口のような門から。本堂前にあるのはひときわ大きな舟型光背型の聖観音立像で、造立年は寛文4年(1664)極月(12月)と刻まれている。「奉造立庚申供養二世安穏所也」とあるので、庚申講中による建之である。下の方には右に10名、左に8名の願主名が刻まれている。

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左脇にある駒型の庚申塔は、寛政10年(1798)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。右側面には「庚申講中廿五人」とある。右の一部欠損した舟型の地蔵菩薩像は元禄4年(1691)8月のものだが墓石らしい。

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3基の後ろには2基の石仏がある。左は舟型の丈菩薩像で、文政10年(1827)3月の造立。「為有縁無縁先祖代々菩提」と書かれている。右の舟型光背型の如意輪観音像は上部が欠損している。造立年は全く同じで、分析10年(1827)3月。こちらには「先祖代々三界万霊増進仏果」と書かれている。脇にある願主名「現住憲澄代 金子左内」というのも同じなので同時に建てられたものだろう。

場所  足立区綾瀬4丁目9-6

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2022年7月 2日 (土)

根岸幼稚園前庚申塔(台東区根岸)

資料には根岸小学校前とあるが正確には根岸幼稚園前である。とても有名な庚申塔群で、あちこちで紹介されている。外から見えるのは3基だが、コンクリートの堂宇の中にも1基あり、計4基の庚申塔が祀られている。

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コンクリートの堂宇の中には資料によると、天明5年(1785)7月造立の駒型庚申塔がある。もとは安永元年(1772)に造立されたものだが、破損等により僅か13年後に根岸・新田講中が再建したとされる。今回は隙間からも撮影が困難であったため、写真は宿題となった。

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一番左の手水鉢の脇にあるのは舟型光背型の聖観音立像。造立年は寛文8年(1668)9月と古いものである。正面には「庚申供養二世安樂所」と刻まれており、下部に願主名が6人銘ある。中央部分斜めに折れたような跡が残っている。

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右隣りにあるのが駒型の庚申塔で、三角形の配置で三猿が描かれている。造立年は元禄16年(1703)9月である。これも保存状態はかなり良い。

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堂宇の脇にあるのは板碑型の庚申塔。下部に三猿が陽刻されている。中央には「奉待庚申供養二世安樂所」と刻まれている。三猿の下には11人の施主願主名が記されている。庚申塔の上部にある扁額には、「猿田彦大神」と大きく中心に書かれており、「日光山中禅寺立木観音講」とある。ずらりと並ぶ木板の千社札が素晴らしい。

場所  台東区根岸3丁目9-7

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2022年7月 1日 (金)

西蔵院の庚申塔(台東区根岸)

台東区にある真言宗の西蔵院は不詳ながら寺伝では推定1400年代としている。2012年に落成した山門を額縁に見立てて本堂を見る。この場所にはかつて根岸小学校があったらしい。先代の林家三平の出身校である。明治7年(1874)に開校し、大正に入るまでここに在ったようだ。

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江戸時代この辺りは金杉村根岸という土地で、切絵図にはウグイスの絵が描かれている。JR山手線の鶯谷駅のもとになったウグイスである。ただ現在の地名に鶯谷はない。江戸時代に寛永寺の住職として京都から皇族が赴任してきていた。元禄時代に公弁という住職が「江戸の鶯は訛っている」と言ってわざわざ京都から鶯を運ばせて放したという伝説がある。

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山門をくぐると左手に堂宇があり、珍しい石仏が祀られていた。笠付の角柱だが、3面にそれぞれ二地蔵が描かれ、四面六地蔵となっている。三吉朋十氏は有蓋四面塔と記している。造立年代は不明。そもそも有蓋の四面六地蔵はここと文京区向丘の蓮光寺にしかない、極めて珍しいものらしい。ただ蓮光寺でその存在には気づかなかった。

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本堂の左手、墓所への入口に多数の石仏が並んでいる。どうも拝観を好んで受け入れていないようで、さっと撮影するのみであった。手前にあった写真の板碑型庚申塔は文字塔で下部に蓮花が描かれている。造立年は宝永5年(1708)霜月(11月)とある。中央には「奉待庚申爲供養」とあり、脇に願主名が8人銘刻まれていた。

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その先にあるのが板碑型だが中央に三猿が陽刻されている庚申塔で、下部には蓮華と蓮葉が描かれている。造立年は寛文8年(1668)8月と古いもの。中央上部には「奉待庚申供養二世安樂処」とあり、三猿の下には8名の願主名がある。

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継にあるこの舟型光背型の地蔵菩薩像は、足元に三猿があることで庚申地蔵とすぐに分かる。地蔵の右手には「奉造立庚申供養」と大きく書かれており、造立年は欠損していて読めないが、資料によると正徳元年(1711)7月らしい。「金杉村講中」の銘がある。

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庚申地蔵の右隣りにある板碑型の石仏だが、どうも庚申塔らしい。下部には蓮華が陽刻されているが、文字はほとんど読めない。造立年不明だが、資料でもよく分からない。

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少し先にある駒型の庚申塔は上中部が折れて補修した跡があり、書かれていた文字などは殆ど分からない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。左手にあるのは資料によるとショケラらしい。おそらく3つに割れてしまったものを何とか修復したようである。

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さらに奥にある板碑型の庚申塔は左肩が欠損している。造立年は最も古く明暦2年(1656)12月とある。この翌月に明暦の大火が起こっている。下部には線刻の蓮華があり、正面には「庚申供養修営貴躰」「寒念佛明暦ニ丙申天」「一生成辨極月吉辰」とある。縁にある文字は「願主金杉村」「内田丹後修行之」と刻まれている。

場所  台東区根岸3丁目12-38

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