西新小岩にある東光寺は真言宗の寺院で、慶長元年(1596)の創建と伝えられる。江戸時代この辺りは上平井村で、旧中川の湾曲の左岸の地域で、人口もそこそこあったようだ。
東光寺の山門はかなり老朽化していて壊れそうなので出入りはできない。駐車場から墓地側をまわって境内に入ると、庫裏がありその先に本堂がある。本堂は銅屋根だが私は好きである。しかし本堂よりも実は小さな地蔵堂が有名。
この地蔵堂だが、中には3体の地蔵があり、周りにいくつもの石仏石塔が並べられている。安政2年(1855)10月2日夜、直下型の大地震が江戸の街を襲った。マグニチュードは6.9程度だが、死者は1万人にも上ったという。東光寺も大地震の被害を受け、地蔵なども被災した。傷ついた石仏を補修したりしなかったりではあるが、堂宇に祀ったのがこの地蔵堂である。
堂宇の前に左右に阿吽の如く立っている2基の地蔵がある。左側は舟型光背型の座像で、享保12年(1727)9月の造立。「奉懇造地蔵菩薩像傳 上平井村」と記されている。右側の舟型光背型の地蔵立像は舟型の上部が欠損している。造立年は同じく享保12年(1727)9月とされている。安政の大地震で欠損したのだろう。「▢懇造地蔵菩薩講傳 上平井村」と書かれている。
堂宇の中にあるのは左から舟型の地蔵菩薩像で、享保10年(1725)9月の造立。「葛西上平井村」の銘がある。中央も舟型の地蔵菩薩で、これは子育地蔵。資料によると台石に、この地蔵はその後安政2年冬の大地震で壊れてしまったので再建したとあるようだ。右面には「京橋念仏講 当邑念仏講中 志村中左衛門」とあるらしい。右の丸彫の地蔵尊は情報がないが葛飾区では江戸時代のものとしている。
左側に回り込むと4基の地蔵菩薩が並んでいる。手前の櫛型角柱型の地蔵には「難病厄除地蔵菩薩」とあり、左面に昭和15年(1940)7月の紀年がある。隣りの小さな地蔵は「十二地蔵 秋山与三郎」とある。左の2基は首がない。どちらも丸彫の地蔵かと思ったら、右側の裾に「妙霊比丘尼」とある。左側の裾には「蓮月尼」とあるので、比丘尼像だったのだろう。どちらも両手が欠損している。
裏に回り込むと、右端は墓石。二番目が駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。造立年は寛延3年(1750)12月。右面の紀年とともに「村惣講中」と記されている。その左の角柱は延享4年(1747)11月に造られた道標である。近くの旧道にあったものらしい。右面には「東はん田道 南江戸道」とあり、正面には紀年と「講中12人」とその名前、台石には「武州東葛西上平井村 惣講中」と記されている。
本堂脇にも2基の道標がある。白い御影石っぽい角柱は正面に「八十八」とあるので、南葛新四国八十八ヶ所巡拝の供養塔を兼ねたもの。後ろの自然石は天保12年(1841)のこれも南葛新四国八十八ヶ所の案内の巡拝供養塔である。これはもともと東光寺の門前にあったようだ。
本堂前の駒型の石塔には「奉納大乗妙典六十六部供養塔爲二世安樂」とある。これは元文5年(1740)10月に造立されたもので、駒型というのは珍しい。
その前には宝篋印塔と五輪塔がある。大きな方の宝篋印塔は文化11年(1814)極月(12月)の造立。向こう側の小さい方の宝篋印塔は享保3年(1728)10月の造立、そして五輪塔は寛政7年(1795)4月の造立と刻まれている。どれも安政の大地震を越えてきた石塔である。
場所 葛飾区西新小岩5丁目21-20
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