正覚寺の石仏(葛飾区東立石)
真言宗の正覚寺は天正8年(1573)の創建。織田信長が足利義昭を追放し室町幕府が滅亡した年である。当時のこの土地はまだ未開墾の土地で、江戸時代になって開墾されて立石村となり、その後立石村から分かれて川端村になった。西葛西領川端村は現在の東四つ木、東立石辺りで、中川沿いにあるので川端村とついたらしい。
正覚寺の山門は東向きで中川の土手の方に本来の入口がある。もともとの村の幹線道路はこちらだった。旧中川の右岸を上っていく道である。かつてこの道沿いには開墾で掘削された用水路があった。周辺は一面の田んぼで、正覚寺よりも東側には原村が隣接していた。
参道入口脇にとても大きな板碑型の庚申塔が建っている。右上から主尊の肩口を通り左下へ中折れの痕跡がある。造立年は寛文3年(1663)頃と思われる。日月、青面金剛像、三猿の図柄で尊像の右手にはショケラ。右手に持っているのは珍しい。三猿の下に願主名が刻まれており、その下の基壇には蓮葉が描かれている。
参道を少し進むと右側に2基の石仏がある。手前は板碑型の廻国供養塔らしいが、摩滅が甚だしくて文字がほとんど読めない。左側は駒型の庚申塔で、延享2年(1745)11月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄である。右面には川端村の銘があり、左面には紀年の他、願主名が刻まれている。江端姓が多い。
本堂の西側は道路が南北に通っており、その西側には墓地がある。墓所に入って右奥に木造堂宇がある。ここには古い聖観音像と並んで、造り変え再建された阿弥陀如来像と子育地蔵がある。右の舟型光背型の聖観音像は正徳5年(1715)10月の造立で、「正観自在尊正体 西葛西領川端村」と刻まれている。講中弐拾一人とも書かれていた。これと一緒にあったらしい天保10年(1839)5月造立の丸彫の地蔵菩薩像は見当たらず、女講中の建立だが新しくなった左の子育地蔵が再建だろうか。
場所 葛飾区東立石1丁目20-2
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