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2022年10月31日 (月)

花由の庚申塔(足立区南花畑)

足立区南花畑の路地脇の古い花屋さんの前に庚申堂が立っており、2基の庚申塔が祀られている。この辺りは江戸時代は保木間村と竹の塚村の村境。したがって庚申塔がこの辺りにあっても不思議ではない。

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歴史がある店舗のようでこの場所で花屋さんを続けることは困難の多い事だろうと思う。看板の文字がひとつないくらいはご愛敬である。脇にある堂宇はコンクリートとブロックで組まれた頑丈そうなもの。右側にレアな駒型風の庚申塔、左がオーソドックスな駒型の庚申塔である。

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右の庚申塔は元禄5年(1692)9月の造立。中央部に「奉待庚申供養成就所」とあり、下部に三猿が描かれている。左の駒型庚申塔は推定で江戸時代後期のものだろう。造立年は分からない。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。足立区の資料によると左側面には「庚申講中花又村前谷」とあるようだが、江戸時代のこの辺りの小字は前屋であった。

場所  足立区南花畑5丁目18-3

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2022年10月30日 (日)

林松寺の庚申塔(足立区花畑)

足立区花畑にある林松寺は浄土宗の寺院。永正3年(1506)の開山とされる。寺は大きな料亭のような見栄えで、訪問時はその前でお坊さんが道路の掃除をしておられたので、ご挨拶して境内を見せて頂いた。寺の門の脇には可愛い小僧さんの石仏がある。本堂前の墓所の入口の辺りに2基の庚申塔が祀られている。

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右の大きな庚申塔は駒型と舟型の中間のような像形。正面には「奉待庚申供養成就」と刻まれ、その下には三猿が彫りこまれている。造立年は元禄7年(1694)10月。左の庚申塔は駒型でゼニゴケにびっしり覆われていた。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右側面には「三世佛供養」、左側面には「庚申講中」と書かれている。造立年は見当たらないが、足立区の資料では寛政6年(1794)12月とある。右の庚申塔のちょうど100年後の造立である。

場所  足立区花畑1丁目4-14

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2022年10月29日 (土)

実性寺の石仏(足立区花畑)

足立区花畑にある実性寺は浄土宗の寺院。江戸時代は花又村だったが、創建は15世紀(1400年代)末頃。小田原北条氏一族の斉田左衛門尉頼康が開山したという。頼康とは源頼朝の「頼」に徳川家康の「康」という号かな名前だが、家康は後年の人物である。

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山門を入るとまっすぐに植木の前を進み本堂に至る。本堂の手前左側に堂宇があり、珍しく馬頭観音が祀られている。普通、地蔵や観音があるのが一般的だが、馬頭観音が並んでいるのには何かの意味があるのだろうか。

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左端の欠損した石仏は正体が分からない。中央の駒型の石仏は上部に馬頭観世音の座像が陽刻されている馬頭観音である。その下に天保8年(1837)12月の紀年が入っており、脇に「願主‥」とあるが下部が欠損していて名前が読めない。右の駒型の石仏は馬頭観世音立像である。左側面には4月と書かれているが、右側面の文字が読めず造立年が分らなかった。

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本堂の左手にある堂宇には、舟型光背型の六地蔵があり、その中央にひときわ大きな舟型光背型の地蔵菩薩がある。両脇に文字が彫られているが摩滅が進んで読み取れない。石川博司氏の情報によると「庚講成就有縁無縁等」とあり、承応2年(1653)の造立らしい。かなり古い庚申地蔵である。左端の丸っこい舟型光背型の石仏は青面金剛っぽくもあるが二臂、造立年は元禄16年(1703)10月とあるが、庚申塔ではなさそうである。

場所  足立区花畑3丁目17-18

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2022年10月28日 (金)

東善寺の石仏(足立区花畑)

足立区花畑にある東善寺は小ぶりな寺院だが極めて貴重なものが残されている。しかもこの寺院は時宗の寺院でとても珍しい。時宗は浄土教の宗派のひとつで、鎌倉時代に一遍上人が開いた。

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東善寺の本堂は小さいながらもバランスの良いデザインでアルミサッシに室町時代風の花頭窓が模られている。由緒は古く、南北朝時代、14世紀の中頃の開山と伝えられる。江戸時代後期には新六阿弥陀の二番札所としてにぎわった。

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本堂の傍に立つ大きな板碑は足立区内でも最大の板碑で、造立年は慶安元年(1361)12月。「花亦山西光院東善寺開山 三阿弥陀佛」と刻まれている。年代からしてこの文言は東善寺の開山の頃のものだと思われる。

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本堂前の無縁仏塔脇に2基の庚申塔がある。右側は板碑型の庚申塔で承応3年(1654)10月とかなり古いもの。足立区は古い庚申塔が多い地区だがその中でも7番目に古い。「奉待庚申供養成就所 敬白」と書かれている。左の塀際の駒型の庚申塔は天明3年(1783)2月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。「奉納西國秩父坂東念願成就」とあることから巡礼塔の役割も含めている。

場所  足立区花畑3丁目20-6

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2022年10月27日 (木)

正覚院の石仏(足立区花畑)

足立区花畑にある真言宗の寺院正覚院の創建は不詳ながら平安時代中頃に開かれたと伝えられる。江戸時代は花又村の鎮守であった大鷲神社の別当寺でもあったようだ。鷲王山正覚院寳蔵寺という正式名で山号に大鷲神社の鷲が使われている。

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本堂までの間の参道にいくつかの石仏が祀られている。江戸時代に花又村だったのが明治時代の地図には花畑村と記されている。正覚院の東側の小字は外河原、南が前通、西が會組という地域で、東隣の福寿院の方が大鷲神社に近いが古刹という点では正覚院よりもかなり新しく、明治時代以前の人口もこの辺りに集まっていたようだ。ただし江戸時代は正覚院の南側はすぐに保木間村との村境でもあった。

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参道途中にあるこの3基の石仏が極めて素晴らしいもので、とりわけ中央の板碑型の庚申塔は東京都内の江戸期では最古の庚申塔とされている。造立年は元和9年(1623)4月で、阿弥陀三尊来迎像が薄く彫りこまれ、その下には「奉待庚申供養成就所」とある。武刕花又村の銘がある。右の舟型光背型の石仏は阿弥陀如来立像で、こちらは元禄10年(1697)7月の紀年がある。尊像脇に「庚申供養二世安楽所」とあることからこれも庚申塔である。左は五輪塔で、こちらは最も古く元和8年(1622)10月の造立。妙性禅尼という尼さんの追善供養に建てられたものらしい。

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手前にあるのが2基の供養塔。どちらも角柱型で、右側の大きい方は「西国秩父坂東供養塔」と書かれている。造立は天保3年(1832)9月で、台石には「當村」とあり多くの願主名が並ぶ。左側は普門品(ふもんぼん)供養塔とあり、寛文3年(1663)9月の造立。台石には外河原、會組などの地名も見られる。普門品というのは法華経の教えで観音菩薩の御利益を説いたものらしい。

場所  足立区花畑3丁目24-27

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2022年10月26日 (水)

花畑浅間社の庚申塔(足立区花畑)

毛長川は足立区と草加市の境界、つまり東京都と埼玉県の都県境である。川口安行あたりから流下して足立区花畑で綾瀬川に注いでいる。この辺りの綾瀬川もまた都県境で、川の反対側は埼玉県八潮市である。ここには花畑団地という大きな団地があり、昭和39年(1964)に造成された。昨今裁判所が資料を捨ててしまったというあり得ない話のもとの神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年Aがその後もずっと住んでいたという情報もある。

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そんな物騒な話は歩いているとまったく感じられない。団地の北西の隅にあるのが花畑浅間社で野浅間とも呼ばれる。神社の本殿はなく富士塚がある。神社の創建年代は不詳だが石鳥居などの年代から明治初期と言われている。もともと古墳の多い地域でその古墳を利用して富士塚にしたものらしい。

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浅間社の入口付近にあるのがこの丸い自然石の庚申塔。造立年も分らないし「庚申」以外の文字は見当たらない。傍には第六天社の痕跡を示す石塔が立っている。江戸時代の周辺は花又村の北の端で、川向うは瀬崎村。旧日光街道から東へ分岐した川沿いの道が花畑大鷲神社まで続いていた。

場所  足立区花畑5丁目10番地

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2022年10月25日 (火)

福寿院の石仏(足立区花畑)

花畑は東京都と埼玉県の県境、昔は花又村と大曽根村の境で綾瀬川が流れていた。下流の小菅に徳川家の屋敷が出来た時、花又村側に堤防が作られ、そのため大雨の後は大曽根村(今の埼玉県八潮市)の方ばかりに水が溢れるようになった。ある年洪水が起こった時、大曽根村の名主の新八が村を救う為堤防を壊して水を小菅側に流そうとしたところ、怒った花又村の人々は新八を堤防の上で殺害した。新八の母は悲しんで「新八や、蛇になれ」と叫び自身も身投げした。

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それ以降村人が川の傍を通ろうとすると、大木が大きな蛇となって動き出した。これは新八親子のせいだと思った村人は石碑を立てて供養した。その近くにかけられた橋を「蛇橋」とよぶようになったということである。そんな花畑村花又(時代によっては花又村)に江戸時代の初期からある寺院が真言宗の福寿院。

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境内には複数の石仏があるが、この舟型光背型の六地蔵は保存状態が良い。しかしかなり摩滅が進んでいて文字も分らない。江戸時代のものだろうか。その傍にある立派な堂宇には庚申塔とも見えるほど立派な馬頭観音がある。

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駒型で頭上には迫力のある馬頭で六臂も美しい。造立年は寛政7年(1795)5月である。道標を兼ねていたようで、正面には「右り八でう道、左リそうか道」とある。側面には、「左リゑのき戸世んじゅ道、右りゑのき戸かさい道」と草書体で彫られている。榎戸はどこを指すのだろう。

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無縁仏塔の中に舟型光背型の庚申地蔵がある。下まで文字が読み取れないので足立区の資料を参考にした。造立年は元禄7年(1694)8月で、「奉待庚申▢▢…」と刻まれている。

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更に後ろの方には他の墓石の間にあった板碑型の庚申塔。これも区の資料を参考にさせていただいた。造立年は正徳3年(1713)9月で、正面には「奉供養庚申現當二世安楽処」と書かれている。昔はこの2基は前の方に在ったようだが、なぜか後ろに置かれてしまい確認が難しくなってしまった。

場所  足立区花畑6丁目14-5

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2022年10月24日 (月)

橋戸稲荷神社庚申塔(足立区南花畑)

足立区南花畑にある橋戸稲荷神社はとても小さな神社で、同名の橋戸稲荷が千住橋戸町にあるがあちらはかなり立派な神社である。なぜここで橋戸を謳うのかは分からない。というのもここは橋戸という地名ではないからである。したがって神社の由緒も全く分からない。ただ、明治時代の地図にもこの場所に鳥居マークがある。

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入口に下沼会館とあるが、下沼はこの辺りの古い小字。綾瀬川右岸に沢山の民家が集まった地域で、この下流の町は榎戸という。江戸時代はこの稲荷神社の辺りは保木間村に属し、少し下流が内匠新田という開墾地だった。舎人公園通りが綾瀬川を渡る橋が内匠橋(たくみばし)という。しかし橋戸の地名は現在はどこにも見当たらない。

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稲荷神社本殿の手前に小さな屋根付きの堂宇があり駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、主尊は左手にショケラを下げている。造立年は寛政7年(1795)3月とある。保存状態は比較的良い。

場所  足立区南花畑4丁目28-14

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2022年10月23日 (日)

蘆花恒春園の石仏(世田谷区粕谷)

世田谷区粕谷の環八通り傍にある蘆花恒春園。明治時代から大正時代にかけての文豪徳富蘆花の旧宅が世田谷区に寄贈され、武蔵野の雰囲気を残す公園として公開された。その中央に、蘆花が暮らした旧宅と粕谷共同墓地がある。

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正面左の茅葺の家は梅花書屋といい、蘆花が明治42年(1909)3月に買い求めた家屋で書院のひとつ。住んでいたのは右奥のエリアだったようだ。辺りはコナラ、クヌギ、竹林など雑木林が広がり時間を忘れて過ごすことができる。この旧家の隣に共同墓地がある。

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墓地の入口付近には大きな丸彫地蔵が1体と六地蔵が一組。六地蔵の造立年代は分からない。背の高い地蔵菩薩は、元文4年(1739)10月の造立。「奉供養念仏講▢▢ 安楽」と台石に書かれている。脇には粕谷村の銘もある。六地蔵は文字が消されたのか無かったのか分からないが情報が何もない。ただ三吉朋十氏の著書に「徳富蘆花が浅川に遊んだ際に、ふと地蔵を路傍に見て感動し、庭師に頼んでこれを買い取り恒春園に於いて朝夕拝んでいた」とある。残念ながらその地蔵は宝永年間のものらしいが、見つけることはできなかった。

場所  世田谷区粕谷1丁目20番地

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2022年10月22日 (土)

東覚院境内の石仏(世田谷区千歳台)

以前に東覚院門前の2基の庚申塔について書いてから3年以上が経ってしまった。自宅から歩いていけるだけにいつでも行けると思って墓所や境内の石仏の確認を後回しにしてしまった。東覚院は鎌倉時代中期に創建した古刹である。

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本堂手前の庫裏の脇にも石仏があるが新しいもので、その近くに興味深い道標が立っていた。正面には「千歳村青年団船橋支部」とあり、大正15年(1926)8月の造立年。反対側が正面らしくそこには「向右土手下出登戸至」とあり、側面のひとつには「左千歳船橋駅ニ至ル」と彫られている。不思議だったのは小田急線の千歳船橋駅の開業は昭和2年(1927)4月だから、1年半前の道標である。駅に対する期待の大きさから刻まれたものと信じたい。

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本堂前に立っている高さ2.2mほどのこの供養塔は弘法大師一千年忌供養塔である。造立年は天保5年(1834)3月で、「院主慶応代」とある。真言宗の寺院なので弘法大師が開祖である。

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墓所入口には3基の石仏がある。右の背の高い笠付角柱型の塔は光明真言供養塔で、元禄6年(1693)2月に建立されたもの。武刕多麻之郡世田ヶ谷領廻沢村の銘があり、正面には「奉造立光明真言供養四面石塔一基為講衆二世安楽也」と書かれている。願主は「同志之男女壱百五十九人」とあり、廻沢村61人、中里村31人、八幡山村17人と詳細が刻まれている。隣りの舟型地蔵菩薩は文字がほぼ確認できないが江戸時代は間違いないだろう。左端は駒型の馬頭観音で「施主 桜田備前町 炭谷万次郎」とあるが造立年は分からない。

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その先には丸彫の六地蔵とその間に丸彫の大日如来像が並ぶ。六地蔵は正徳2年(1712)が3基と正徳3年(1713)が3基、粕谷村、給田村、八幡山村、廻沢村、下祖師ヶ谷村、がそれぞれ1基ずつを寄進し、残りの2基は東覚寺が建てたもののようである。中央の大日如来像は正徳5年(1715)8月彼岸中日の建立で、脇には「奉刻彫本地法身大日如来念仏供養」とあり、台石には講衆当村同志之男女一百七十人と書かれている。

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六地蔵と本堂の間には無縁仏塔があり、その手前に駒型の庚申塔が立っている。文化11年(1814)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。願主は上祖師谷村の人々で、高橋姓、小嶋姓、吉岡姓、佐藤姓などが書かれていた。

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無縁仏塔を見ていたらその中に新しめの駒型馬頭観音が1基混じっていた。おそらく右面に紀年があるのだろうがくっついていて読めない。左側面には、施主一杉仲右衛門の銘がある。

場所  世田谷区千歳台4丁目11-11

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2022年10月21日 (金)

熊ノ木圦の道標(足立区江北)

足立区江北2丁目にある熊ノ木圦はかつての神領掘の流れをせき止めて水量を調整する設備であった。「圦(いり)」というのは用水路などで水量を調整する為に設けられ、近年は大半が取り壊されてしまったが、江北の熊ノ木圦のこの部分は眼鏡橋である熊ノ木橋も含めて再現されている。

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荒川は明治時代から昭和初期にかけての大治水工事だが、ここの土手は江戸時代からの土手でこの付近の400mのみが江戸時代のものである。その土手道の脇に、3基の石塔が立っていた。

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右の大きな自然石の石塔は江北村制定祈念碑で明治25年(1892)5月の造立。中央は「弘法大師道」と彫りこまれており、明治40年(1907)7月の建立である。110年ほど昔はまだどこまでも歩いて旅をしていた時代だった。左端の小さい石塔も道標で、「弘法大師道・六阿弥陀みち」とあり造立年は最も古い寛政8年(1796)2月である。この道標は江北2丁目35番地にあったものだというから、200mあまり南からここに移されたことになる。

場所  足立区江北2丁目49地先

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2022年10月20日 (木)

帝釈天堂の庚申(足立区江北)

足立区江北3丁目辺りは江戸時代から明治時代にかけては江北村という農村だった。荒川の掘削工事が行われたのが明治の終わりから昭和の初めまで、それ以前は現在高速川口線が走る道筋の近辺には川口の領家から千住に至る街道が通っており、その脇には神領堀と分岐して流下してきた中堰悪水落が流れていた。

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首都高速川口線を見上げる畑地の一画に堂宇があり、庚申塔が祀られている。ただし、この堂宇の名前は帝釈天堂という。川口あたりの人々がこの前の道を通って柴又帝釈天に参詣していたのだろうか。旧中川周辺には帝釈天に因むものがあるが、足立区の西側には稀である。

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堂宇の中にあるのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄になっている。側面の文字が読めなかったので、足立区の資料を参照すると、造立年は天明3年(1783)2月。「奉造立青面金剛為供養石橋也  上沼田村中」とあるようだが、これは中堰悪水落に架かっていた橋を架けた時に建てられたものなのかもしれない。

場所  足立区江北3丁目47-8

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2022年10月19日 (水)

薬王院の石仏(足立区江北)

足立区江北にある薬王院は乗禅という僧侶が元禄年間(1688~1706)に創建したと伝えられる。山門前には上沼田北野神社がある。どちらも同時期に開かれたのではないかと言われている。薬王院の山門前には、「沼田小学校跡」の碑があるが、明治7年(1874)に薬王院に小学校が開かれ、第二次大戦まであったようだ。

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山門の至近には4基の立派な石仏が並んでいる。一番左にあるのは舟型光背型の聖観音菩薩像である。造立年等は分からないが、尼僧の戒名らしきものが書かれているので、おそらくは墓石だろう。その隣には板碑型の庚申塔がある。上部に日月が陰刻され、下部には三猿が陽刻されている。中央には「奉供養庚申二世悉地成就之所」と書かれている。造立年は元禄10年(1697)10月である。三猿の上には願主名が16人銘刻まれているが苗字はない。

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三番目は駒型の庚申塔。造立年は板碑型の翌年で、元禄11年(1698)11月とある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、「奉納庚申供養二世安樂攸」と刻まれている。右端は最も像高のある舟型光背型の地蔵菩薩像だが、地蔵菩薩の尊顔の右に「本願 庚」左に「結衆 申」とあり庚申講中による造立であることがわかる。造立年は寛文元年(1661)11月である。

場所  足立区江北3丁目18-22

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2022年10月18日 (火)

鹿浜八丁目路傍の庚申(足立区鹿浜)

以前に駐車場の庚申塔2基を紹介した。その一本西の路地にあるのがこの庚申塔である。Pet'sという会社の事務所があり、ペットショップとばかり思っていたら実は広告物の制作会社であった。

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その隣には倉庫らしき建物があり、事務所との隙間になかなか雰囲気のある堂宇がある。この堂宇の中には駒型の庚申塔が1基祀られている。中折れしているのは戦災によるものだろうか。きちんと補修してあるが、欠損と摩滅が甚だしくて文字などはほとんど読めない。

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日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の姿は十分に分かる。上部尊像の顔の脇には右に「奉納」左に「庚申」という文字。左下には「▢暦」という文字がある。年代的には駐車場の庚申塔のひとつが宝暦だったので同じ時代だろうか。三猿の下にも文字があり、願主名のようだが、右端には「▢▢▢村講中」とある。石川博司氏の資料によると「道標銘」とあるが、見えない側面にあるのかどうか確認できなかった。

場所  足立区鹿浜8丁目12-16

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2022年10月17日 (月)

入谷北野神社庚申塔(足立区入谷)

舎人公園の北西にある足立区入谷の北野神社の創建年代は不詳ながら、幕末には祭礼が行われていたことが知られており、説明板によると嘉永6年(1853)正月の銘のある幟(のぼり)が保存されていることから200年程度の歴史はありそう。神社の前は駐車場になっていて、神社に気づかない人もいるかもしれない。

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かつては入谷田んぼと呼ばれた田園地帯で、土地区画整理で都市化が進行した。毛長川から入り込んだ湿地帯だったので入谷という地名になったようだが、江戸時代には入谷村という地名で存在した。新編武蔵風土記には「入谷村ハ古舎人村ノ内ニテ舎人ノ入谷ト唱エシガ後別村トナリシ」とある。

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駐車場の右側には堂宇があり、舟型光背型の庚申塔が祀られている。日月はよく見えないが、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿は判別できる。造立年は宝永7年(1710)霜月(11月)とあり、入谷村の銘がある。側面には「奉新像立青面金剛石像 庚申諸衆二世安樂営之者也」と刻まれている。

場所  足立区入谷1丁目11-13

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2022年10月16日 (日)

全学寺の石仏(足立区古千谷本町)

足立区古千谷本町にある全学寺は浄土宗の寺院。古千谷村を開墾開発し名主を務めた旧家である花井家の開祖が開いたとされる。開祖の没年が延徳2年(1490)であるから、おそらく1400年代後半であろう。室町時代末期で1400年代末には北条氏が小田原城を拠点としたような時代である。

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江戸時代は古千谷村で後に舎人村に含まれたこともあったようだ。村の創始者によって建てられた全学寺の山門前には堂宇があり、3基の石仏が祀られている。右端は笠付角柱型の巡拝塔。「西国秩父坂東 百番成就所」とある。元禄16年(1703)9月の造立で、施主は花井利右衛門とある。花井家の子孫というか、当時も名主だっただろう。

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中央の舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄8年(1695)11月の造立。「奉造立地蔵菩薩像 念仏講結衆」と刻まれている。左は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿のデザインである。造立年は享保11年(1726)正月とあり、「奉造立庚申尊像」の文字がある。

場所  足立区古千谷本町2丁目22-20

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2022年10月15日 (土)

西門寺の石仏(足立区舎人)

足立区舎人にある西門寺は浄土宗の古刹で、創建は永和3年(1377)と古い。室町時代三代足利義満の全盛時代である。当時の関東地方は鎌倉府(関東府)の下に関東管領を置き支配されていた。鎌倉~室町の農民は惣村を自治体として組織するようになり、商工業者は座という集団を作るようになった。その為、荘(庄)=惣=村はほぼ同じ意味合いで石仏に刻まれている。

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山門は立派な赤門で、赤門というのは徳川家と深い関係のある寺院しか建てることが許されなかった。西門寺も二代秀忠や三代家光が舎人へ鷹狩りに訪れたという記録があり、ゆかりが深かったのだろう。山門前には一対の仁王像がかなりな迫力で迫ってくる。

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本堂にお参りし、左手に進むと舟型光背型の六地蔵が並んでいる。どの地蔵にも「二世安樂」と刻まれており、造立年も宝永8年(1711)2月と同じで「同行六十六人」の銘がある。六地蔵のさらに先にあるのが庚申塔と珍しい形の地蔵である。

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どちらもゼニゴケが前面を覆っており、そろそろきれいにしてあげていただきたいが、右が駒型の庚申塔、左が破風型の地蔵菩薩である。庚申塔は元禄15年(1702)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、「奉彫建尊容現当得無比楽所」と書かれている。左側の地蔵菩薩は享保4年(1719)3月の造立で、念仏講中という文字は見えるがその下が分からない。時代的には綱吉・家宣・家継の時代である。

場所  足立区舎人2丁目2-14

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2022年10月14日 (金)

舎人天神社の庚申塔(足立区舎人)

舎人天神社の創建年代は不詳。江戸時代の中期にはこの場所に在ったことは分かっている。足立区の資料によるとこの舎人天神社に庚申塔があることになっていたが、訪問時境内をくまなく探しても見当たらなかった。

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天神社の東側の塀の向こうに墓所があったので覗いてみた。するとこの墓所の入口に天神社にあるはずの庚申塔が祀られていた。ちょうど入口脇の建物の前を掃除している方がいらっしゃったのでお許しを得て墓所に入ってみた。ここは少し東にある西門寺の別院で安楽院という境外施設らしい。

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右側が駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄15年(1702)11月である。尊像脇には「奉造立尊像現後速受無比楽所」「舎人町 施主九十七人」と刻まれている。左の破風型の石仏はよくわからない。尊像は六臂だが、茎の長い蓮の花の上に立っている。

場所  足立区舎人5丁目12-4

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2022年10月13日 (木)

入谷氷川神社庚申塔(足立区入谷)

足立区入谷は埼玉県との都県境にあり、西には大宮台地の桶川を水源とする新芝川が流れ、北には川口市から足立区花畑で綾瀬川に合流する毛長川が流れており、かつてはその間をいくつもの農業用水が流れていた農村であった。神領堀(じんりょうぼり)はその中でも代表的な用水で、見沼代用水支流。この用水路の西側にあるのが入谷氷川神社。神領というのは上野寛永寺が権利を有する水であった為の呼び名である。

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長い参道を進むと少し小高い丘に神社がある。創建年代は不詳。江戸時代末までは白幡八幡神社と呼んだ。豊臣秀吉の関東攻めの折、ここに白幡を立てたことから白幡神社となったと伝えられる。この小高い丘は入谷古墳跡で、古墳時代(4世紀ころ)から人が住んでいたことが分る。小さな神社だが歴史的にも重要な場所なのである。江戸時代この辺りは入谷村であった。

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神社下の堂宇の中にあるのが「子育て庚申」と呼ばれる駒型の庚申塔。説明書によると庚申様の辺りでは不思議に子供が事故から救われることが多く、いつからかそう呼ばれるようになったとある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保17年(1732)10月。「入谷村講中三十八人」の銘がある。昔は、神領堀から仲郷堀に分岐する新井橋脇に在ったというから、神領堀親水緑道が入谷大橋通りにぶつかって終わる辺りに立っていたと思われる。

場所  足立区入谷2丁目25-5

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2022年10月12日 (水)

宝泉寺の石仏(葛飾区青戸)

駅名と地名の文字が異なる土地は時折見かける。四谷と四ッ谷、西宮と西ノ宮、三宮と三ノ宮、市谷と市ヶ谷、霞が関と霞ヶ関など東西に多々あるが、青戸と青砥もそうである。駅名は青砥、地名は青戸。地名は遥か昔から青戸だが、この地に住んだという青砥藤綱という鎌倉時代の名裁判官に因んで青砥とも書かれるようになったという説がある反面、その人物は架空だという説もありよくわからない。

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青砥駅の南300mほどのところにあるのが新今週の宝泉寺。慶長17年(1612)の開山とされる。南葛八十八ヶ所63番の札所になっている。この辺りの江戸時代の地名は青戸村。塀はなく垣根で開かれた寺院の印象がある。山門の先には室町風の本堂が建っている。その手前右手には4基の馬頭観世音が立っておりなかなか壮観である。

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左のひときわ大きい自然石の馬頭観音は昭和49年(1974)4月の造立で、伴久守とある。栃木の湯西川温泉に伴久という旅館があるが、人名だろうか。二番目は文政6年(1823)秋造立の馬頭観音。京山人百樹の名が表に、裏には立石仁平とある。三番目は大正15年(1926)9月のもの。斎藤摂津守より拝領した愛馬が慶応3年(1867)に斃死して馬頭観音を建て供養してきたが、大正15年に飼っていた牛が斃死した折にこの馬頭観音を建てたとある。一番右は慶応3年(1867)5月の馬頭観音で、これが隣りの馬頭観音に記載している愛馬の亡くなった時のものである。

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本堂左手の墓所入口には古い地蔵菩薩がある。右の地蔵は不詳。中央の丸彫の地蔵菩薩像は明治時代のものと思われる。像の背に「日露戦没 五代目 小沢右金エ門」とあるためである。左の舟型光背型の地蔵菩薩像は正徳3年(1713)7月の造立。「念仏供養同行六十人」とあるので、この地の念仏講中によるものだろう。

場所  葛飾区青戸1丁目18-16

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2022年10月11日 (火)

とげぬき地蔵(葛飾区立石)

中川に架かる本奥戸橋から上流の奥戸橋に向かって右岸の土手を上っていくと、奥戸橋の少し手前に大きなケヤキの樹の下にある堂宇がある。のぼりが立っていて「とげぬき地蔵」と書かれている。

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とげぬき地蔵の名前は巣鴨の高岸寺のとげぬき地蔵が有名で、説明などには「誤って飲み込んだ針がとれた」などという記述があるが、いくら江戸時代でもそうそう針を飲み込む人間はいないだろうと不思議に思った。もっとも魚をよく食べる日本人だから魚の骨がのどに刺さるという事象は頻繁にあっただろうからそれが主因だろう。

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堂宇内には小さな舟型光背型の如意輪観音像と、大きな舟型の地蔵菩薩像がある。如意輪観音像の方は戒名が複数あるので墓石だろう。左の地蔵菩薩がとげぬき地蔵と呼ばれるお地蔵様である。造立年は宝永3年(1706)8月。光背には「奉造立供養地蔵八日為二世安楽所」と刻まれている。川の傍であるからとげぬき地蔵があってもまったく不思議はない。

場所  葛飾区立石8丁目53-19

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2022年10月10日 (月)

立石様(葛飾区立石)

葛飾区にある立石という地名、京成押上線の京成立石駅の名にもなっている地名だが、「立石」の由来がこの立石様にあると言われる。とはいえ立石様はどちらかというと京成立石駅よりも青砥駅に若干近いが、もともと江戸時代からこの辺りはどこも立石村であった。その立石村の由来になるので、駅との距離は関係ない。

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神社でもないのに鳥居があり手前には「立石祠」と刻まれた石柱が建っている。しかし境内は半分が児童公園にもなっており、ちょっと不思議なスポットになっている。大きな鳥居をくぐり進むと小さな鳥居があり、その先に玉垣で囲まれた一角がある。

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この立石は葛飾区の指定史跡だったが、平成26年には東京都も指定史跡としている。この玉垣の中に埋まっているのがどうも立石らしい。見た目では大きさなどは不明だが、いろいろな記録が残っている。元々は房州千葉県の鋸山あたりの海岸で採られた石材で古墳の増築の為この地に持ち込まれたものとされている。

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後の時代に中川の自然堤防の土手に立てられ、古代東海道の道標となっていた。江戸時代1800年以降には玉垣で囲まれるようになったが、当時は地面から60㎝くらいの高さはあったらしい。ところがご神体として祀られ、風邪の煎じ薬にされたり、趣味のコレクションにされたりで、石は削られていきどんどん低くなっていったという。古墳時代から現在に至るまで、歴史とともに変化してきた貴重な石であることに間違いない。

場所  葛飾区立石8丁目37-17

 

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2022年10月 9日 (日)

立石の帝釈天道標(葛飾区立石)

中川の土手沿いの道の脇に何気なく立っている角柱がある。もともとこの後ろの空き地には家があった。2015年頃、土手側の民家(角田家)とその隣のアパートが解体されたようだ。

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民家の塀とガードレールの間にひっそりと立っていた角柱は今はよく目立っている。訪問は秋だったので彼岸花が傍に咲いていた。道標と彼岸花もなかなか似合う。この道標は帝釈天道標とよばれ、正面には「帝釈天王」と大きく書かれている。

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右側面には文政3年(1820)4月の造立年が刻まれている。反対側には「願主 仲▢」とあるようだが、葛飾区の資料では「仲町」と推定している。この前の丁字路は西の古代東海道から来た帝釈天道が左に折れる場所であった。北に折れた帝釈天道は青砥駅近くで再び中川土手になり、現在の高砂橋のところにあった曲金の渡しで高砂に渡り、柴又帝釈天に続いていた。

場所  葛飾区立石8丁目38-1

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2022年10月 8日 (土)

かんすけ公園前の地蔵堂(葛飾区立石)

中川沿い右岸の一画に小さな公園がある。立石かんすけ公園という名前が付いている。面白い名前である。どうもかんすけというのは「勘助」と書くらしく、昔ここには勘助さんがやっていた船宿(渡し)があったという話がある。その後この公園は勘助入江排水場という水道施設だったというが、明治時代の地図を見ると確かにここには複数の農業用水が集まってきており、中川に放流するには最適な場所だったと思われる。公園の北側から西側へ回り込んだ用水路はまさにこの場所で流出していた。

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かんすけ公園の前の土手道脇に地蔵堂が建っている。東京都第五建設事務所河川管理課がこの地蔵堂の管理者を探しているという張り紙がある。堂宇内には舟型光背型の地蔵菩薩像が祀られている。造立年は文政8年(1825)5月とあり、「当村願主 中通講中」の銘がある。

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見た感じちゃんと誰かが管理していると思われるが、毎日というわけではなさそうである。河川事務所の人も張り紙までするというのは、自治体らしくないと感じた。

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堂宇の外、左側に上半分だけの仏形がある。側面に文化3年(1806)8月の造立年が刻まれている。不思議な石仏である。下半分が欠損した上に顔が潰されている。しかしきちんと祀られている感じもあって、経緯を知りたくなってくる。

場所  葛飾区立石8丁目28-2

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2022年10月 7日 (金)

積善寺前地蔵堂(葛飾区立石)

京成立石駅の北側は江戸時代は梅田村という小さな村であった。江戸時代初期に開墾された地域で、最初は立石村に属していたが、その後梅田村として独立した。昭和の住所変更までは本田梅田町という地名があったが、現在では梅田稲荷神社や梅田児童遊園に名前が残る程度。積善寺は梅田山積善寺といい、梅田の地名にちなんでいる。

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地蔵堂の背後にある積善寺は日蓮宗の寺院で、大正12年(1923)の創建という新しい寺院である。おそらくここには昔から墓地があったのだろう。地蔵堂にある地蔵尊堂再建寄進者御芳名一覧に梅田墓地檀家一同という記載があり、この堂宇の施主名は宝持院の住職という風に書かれている。宝持院は青戸にある寺院で、国道6号(水戸街道)の北にありここから2㎞以上離れている。寺の前に別の寺の関係の堂宇があるのも不思議な感じである。とはいえ宝持院は平安時代末期の創建という古刹であるから、この辺りまで檀家域だったのだろうか。

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堂内の左側にあるのは駒型の庚申塔。剥離と摩滅が相当進んでいて資料を参考にした。造立年は文化12年(1815)11月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿がもともと描かれていたという。台石には梅田村の銘がある。右の丸彫の地蔵菩薩像は文字が見当たらないが、葛飾区の資料では江戸時代のものと推測している。

場所  葛飾区立石4丁目29-7

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2022年10月 6日 (木)

西円寺の石仏(葛飾区立石)

西円寺は京成立石駅の東約300mほどの場所に在る真言宗の寺院。諏訪神社の別当寺であった。創建年は永禄10年(1567)で覚元法師によるものと伝えられる。永禄10年という年代は織田信長が尾張の領主で、斎藤龍興の稲葉山城を落とし美濃を領地に加えた頃である。

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境内は広く、本堂の裏手に墓所が広がっている。西円寺は南葛八十八ヶ所霊場の第40番札所で、墓所の入口に大師像を祀った小祠がある。古い板碑も複数所有したらしいが、今は明応3年(1494)と大永7年(1527)のものが保有されているという(拝観はできていない)。

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山門を入ってすぐ右手に2基の石仏を祀った堂宇がある。右の舟型光背型の如意輪観音像は宝暦8年(1758)西入法師と寛延2年(1749)寂円法師の命日が刻まれた墓石のようだが、なかなか見事な彫りでおそらくは宝暦8年の西入法師の没後建立されたものだろう。左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は寛文5年(1665)8月の造立。庚申結衆の文字があるので庚申講中によるものである。

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本堂の前に在ったのは舟型光背型の聖観音立像である。造立年は元禄8年(1695)8月と書かれている。右側のゼニゴケの部分にも何か刻まれているが読み取れなかった。おそらく元々は墓石だろう。

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墓所の入口で目立ったのはこの笠付の地蔵六面幢である。正面には「先祖代々一切精霊」とあり、右面には安政5年(1858)9月の命日、左面には明治5年(1872)の命日が刻まれているので、明治になってからの造立である。施主として、立石村清田弥左衛門の銘がある。

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六面幢の傍らには天明8年(1788)9月造立の舟型光背型の地蔵菩薩像がある。剥離が進んでいて正面の文字は読み取れない。右側面に造立年と願主浄心という銘が刻まれている。

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すぐ近くには屋根付きで9基の石仏が並んでおり、右から舟型光背型の聖観音像。造立年は寛政6年(1794)11月で、「原村 観音講中 男女弐拾四人」と書かれている。中央の小さな舟型如意輪観音像は享保12年(1727)4月建立の墓石、左の大きな舟型如意輪観音像も墓石のようであるが、紀年は読み取れない。

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中央の3基は右が菩薩だろうか、命日が複数あるが紀年は分からない。中央の聖観音像(舟型)も、左の舟型の地蔵菩薩像も3基ともどうやら墓石のようである。

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左の3基のうち、右側の白っぽいのは駒型の馬頭観世音。造立年は文政12年(1829)とあるが、かなり剥離が進んでいるので今後が心配である。その隣の如意輪観音像は板碑型っぽい形の特殊形態。これは墓石のようだが、寛文9年(1669)12月の紀年が入っている。左の端は比較的新しい石碑のようだが、文字が読みにくくなっている。

場所  葛飾区立石8丁目5-18

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2022年10月 5日 (水)

立石諏訪神社庚申塔(葛飾区立石)

京成押上線京成立石駅の東側2個目の踏切の傍に立石諏訪神社がある。創建年代は不詳、区の資料によると元文4年(1799)の史料には記載があるので江戸時代中期の再建と想定されている。西円寺持となっており、西円寺は永禄10年(1567)の創建なので、区の想定よりも古いかもしれない。

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道路に対して神社の向きが不思議な角度になっている。明治時代まで立石駅周辺は水田地帯で、諏訪神社より西に人は殆ど住んでいなかった。したがって東にある西円寺側から参詣するのが常で、それで東向きになっており、神社の北側の道が不思議な曲がり方をしているのは、本来はもう少し境内が広かったが京成押上線が大正元年(1912)に開通した時に境内がいささかいびつになってしまったのではないだろうか。

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境内の北側に線路を背にして駒型の庚申塔を祀った小堂宇がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄の庚申塔で、造立年は延宝5年(1677)正月とある。神社の創建が区の想定よりも古いかもとしたのはこの紀年も含めた推測である。「葛西領立石村」の銘も刻まれており、台石には願主名らしきものが連なっている。手前の石に「昭和33年8月改装竣工」と刻まれているので、その時代にこの堂宇は建てられたのだろう。

場所  葛飾区立石8丁目2-6

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2022年10月 4日 (火)

本奥戸橋西詰地蔵堂(葛飾区立石)

江戸時代奥戸の渡しがあった場所に近代になって架けられた本奥戸橋。その西詰の郵便局のある敷地に地蔵堂がある。資料によると当初は橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったとのこと。それが昭和初期に本奥戸橋架設時に奥戸街道の南側に移された。今は奥戸街道の北側にあるが、これは昭和後期に橋の架け替えを行った際に工事の都合で通りの北側の今の場所に移転した。

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現在の住居表示では東立石から立石に変わった訳である。堂宇内には右側に地蔵菩薩、左側に馬頭観音が祀られており、かなりの規模で支援され守られている様子が見える。地蔵菩薩は舟型光背型で、造立年は貞享2年(1685)8月。土地では子育地蔵と呼ばれている。「念佛講結衆」とあり同行四十六人とあるのでかなり大きな講中であったのだろう。

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左の自然石の馬頭観世音はなかなかいい石を使っている。造立は安政2年(1855)と説明板に記されていた。大正時代までは馬が物流の根幹をなしていたわけで、人と同じくらい大切にされていた。造立年は安政の大地震のあった年である。

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堂宇の前にあるのは道標を兼ねた巡拝塔である。角柱型でこれも元々は奥戸街道の南側に在ったものをこちらに移している。正面には「右 江戸みち 左 おくとミち まかりかね道」とあり、その下に「渡しは道」とあるが意味は分からない。右面には「羽黒山大権現、湯殿山大権現、月山大権現 奉供養大日講中」と刻まれている。他の面には願主名がびっしりと書き込まれ、裏には宝暦5年(1755)霜月の造立年があるほか、「男女百四十▢▢」とあるのでこれも大きな講中である。

場所  葛飾区立石8丁目7-10

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2022年10月 3日 (月)

喜多向観世音菩薩(葛飾区東立石)

京成立石駅からアーケード商店街の立石通り商店街を抜け奥戸街道に出る。奥戸街道はかつての古代東海道。現在は本奥戸橋で那珂川を越えるが、橋が架かったのは昭和7年(1932)である。このルートは江戸時代の柴又帝釈天への参詣ルートでもあり、奥戸の渡しが人々を運んでいた。

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本奥戸橋から少し手前の奥戸街道南側に喜多向(きたむかい)観世音菩薩がある。毎月7の付く日が縁日とあり、堂宇も提灯と花で賑やかな様子。昔は渡しの手前には何らかの商売をする人が集まり賑やかになった。この観音様は、南蔵院の尼さんであった妙本尼が浅草寺を深く信仰して、千日詣を行って満願叶った年に建てたものだという。

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舟型光背型の聖観音像はなかなか良い材質の石材を使っているように見受けられる。造立年は寛保元年(1741)7月。「奉造立浅草観世音尊一千日詣結願廻向所」と書かれている。昔は各地でこういう観音様やお地蔵様の縁日があったものである。ハイセンスな街で有名な広尾商店街も5の付く日に五の市を開き沢山の屋台が並んでいたものである。こういう下町ならば今でも…と思ったが、どれくらいの縁日なのだろう。

場所  葛飾区東立石4丁目45-12

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2022年10月 2日 (日)

原稲荷神社の庚申塔(葛飾区東立石)

京成押上線京成立石駅から南へ300m余りのところにある原稲荷神社。かつて立石村から原村が分村した元禄8年(1695)に旧原村の鎮守として勧請されて創建した。江戸時代は真言宗東覚院持ちだったが、東覚院は明治2年(1869)に廃寺となった。

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神社の西の南北に走る通り側が参道の入口で、比較的大きな鳥居があり、社殿迄の参道も長い。明治の末あたりから人口も急激に増加し、当たりは本田原町と呼ばれるようになった。「ホンダワラマチ」ではなく「ホンデンハラマチ」と読む。原村から原町になったという訳である。ちなみに立石も当時は本田立石町という地名だった。

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鳥居の脇に板碑型の庚申塔が建っている。文字塔で、下部には三猿が微妙な陽刻で描かれている。「奉供養庚申塔」と正面に書かれ、造立年は享保12年(1727)霜月とある。地名は記されていないが原村の講中によるものと考えられる。

場所  葛飾区東立石4丁目42-1

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2022年10月 1日 (土)

立石子育地蔵尊(葛飾区東立石)

中川の湾曲した右岸にある東立石4丁目はもともと川端村という土地であった。川が曲がれば道も曲がる。西の正覚寺から来た道が、川の曲がりに合わせて北に折れ曲がるところにあったのが宮田家だった。この宮田家に江戸時代からいくつかの石仏があったという。

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左の木の生い茂ったお宅が宮田家でその西側には家に並んで宮田家の墓所がある。小堂を覗いてみるともぬけの殻であった。傍に張り紙があり、8月29日にお地蔵様は移転したとのこと。移転先はポケット公園とあるが、近くに公園は見当たらない。20mほど東に進むと公園というよりも民家1軒分の土地にコンクリートタイルを敷き詰めて広場にしてあり、そこに新しい堂宇があった。

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堂宇の左側の格子戸の中には大師像が祀られていた。旧堂宇の脇に折れてしまった石碑があり、そこに書かれていたのは、かつては四国順礼、秩父順礼、坂東順礼に加えて山形の三山などへの巡礼も流行し人々は散財したため、近くに南葛八十八ヶ所を作り身近に巡礼供養が出来るようにしたとある。

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堂宇の右側のうち小さい駒型の像は馬頭観音菩薩。時代は不詳だが江戸時代に遡るようだ。右側の大きい方は舟型光背型の地蔵菩薩像で、宝永7年(1710)7月の造立。「奉供養地蔵 同行十二人」と光背に書かれている。以前は「横手の子育地蔵」と呼ばれたようで、江戸時代には宮田家の墓所の堂宇にこの地蔵と大師像があったと伝えられる。

場所 葛飾区東立石4丁目12-13(元の堂宇は4-10-7)

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