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2022年11月30日 (水)

小嶋の庚申堂(江戸川区西葛西)

地下鉄東西線西葛西駅の北側、現在は荒川に沿って流れる中川の土手の近くに庚申堂がある。現在の住所は西葛西だが、昭和の高度経済成長期までは小島町、大正時代までは小島(小嶋)という字名だった。小嶋の西の中川河口域には干潟が広がり、東京湾の豊富な漁場だったらしい。

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典型的な住宅街の一角に2畳ほどの堂宇があり、その中央に庚申塔が祀られている。小島の地名は団地の名前などに残っていて、比較的地元でも忘れられることのない地名のようである。バス停も「小島」で、結構本数も多い。

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堂内の庚申塔は板状角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。何となく新しい様子だと感じ、確認すると、昭和27年(1952)の再建で、「庚申再建者 田中文雄」と書かれていた。そしてこの庚申塔には「旧像  享保十四年建立之者也」とも記されている。

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ふと台石の左脇を見ると石柱が横たわっていて、「享保14年」と造立年が刻まれている。これが古い庚申塔で、戦後田中氏が戦災などで傷んだのを再建したのだろうか。再建したものをこうして残しておいていただけると嬉しいものである。

場所  江戸川区西葛西1丁目9-29

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2022年11月29日 (火)

安楽寺の庚申塔(江戸川区北葛西)

北葛西にある安楽寺は浄土宗の寺院。江戸時代の初期に創建されたという。「安楽」という言葉の意味を現代では「安楽に暮らす」「安楽椅子」「安楽死」など何となく怠惰だったり尊さを感じさせない風に捉えている気がする。しかし仏教の世界では、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土を意味するのである。安楽寺はそういう意味の名前であることを憶えておきたい。

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都道308号船堀街道からの入口には鐘楼付きの山門がある。この山門は山梨県石和の古寺にあったものを移築したらしい。梵鐘は新しい。この辺りは大字西宇喜田というのが明治以前の地名で、1970年代になるまでは田んぼが広がるのどかな土地であった。安楽寺の北西には運河の新川から宇喜田川が分岐して南流しており、東西線の西葛西駅から南は殆ど海であった。

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本堂の裏側に立ち入らせていただくと、綺麗に無縁仏が並べられていた。中央の角柱は三界万霊塔で安政6年(1859)7月造立と刻まれている。ここに在るのは大半が墓石だが、一つだけ珍しい庚申塔が含まれていた。

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中央右の後ろから二番目にある舟型光背型の阿弥陀如来像がそれである。尊像の右には「奉供養庚申結衆等」とある。左には紀年があり、元禄2年(1689)10月の造立とわかる。宇喜田村(西宇喜田村)の経緯については、法蓮寺のところに書いたとおりである。

場所  江戸川区北葛西1丁目25-16

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2022年11月28日 (月)

法蓮寺の石仏(江戸川区北葛西)

江戸川区北葛西にある法蓮寺は浄土宗の寺院。創建は寛永3年(1621)で、当時宇喜田新田の開拓者宇田川氏が亡父追悼の為にその隠居屋敷に一寺を建てたことに始まる。その亡父宇田川喜平定氏は天文3年(1533)に品川で生まれ、22歳の時に小松川村に移り、慶長元年(1555)に葛西浦の芦原三千石の地を開拓して宇喜新田(宇田川喜平の新田の意)と名付け、幕府にも認められ、入道して法蓮の号となった。

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その宇喜新田が後に宇喜田新田となり、宇喜田村となったが、江戸時代後期には東宇喜田村、西宇喜田村、その間が長島村という形になった。ここは西宇喜田村で、明治時代には葛西村の大字西宇喜田になっている。山門と本堂の間に広い堂宇があり、複数の石仏が祀られている。左端は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、尊像は左手にショケラを下げている。造立年は正徳5年(1715)11月で、「法供養庚申為二世安楽」と記されている。

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左から二番目は舟型光背型の地蔵菩薩で光背輪がはっきりしている。造立年は元禄15年(1702)とあり、「奉供養講中」と書かれている。右から二番目手前は首が新しいが如意輪観音のようである。台石には「南無阿弥陀仏」とあるが紀年等は不詳。その後ろの地蔵は新しいもので、右端の丸彫の聖観音像は宝暦11年(1761)2月の造立で、台石に「講中二拾人」とある。

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住職にお聞きして墓所の庚申塔も拝見した。左がその庚申塔で珍しい阿弥陀如来の舟型光背型の庚申塔である。造立年は延宝5年(1677)2月とある。右側の大きい方の舟型光背型の阿弥陀如来像は右側が欠損している。そこに造立年があったようだが、左側にある9月しかわからない。上部には「二世安楽也」とあるが、庚申塔か供養塔かなどは不明である。

場所  江戸川区北葛西4丁目5-18

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2022年11月27日 (日)

法龍寺の石仏(江戸川区船堀)

真言宗光明寺の南隣りにあるのが浄土宗の法龍寺。創建年代は慶長年間(1596~1615)と伝えられる。まさに徳川家康の時代である。山門前に4基の石仏が並んでいる。

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一番道路側は大きな角柱型の供養塔で、「南無阿弥陀仏」の六文字。側面に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国成就供養」とあり、武刕葛飾郡東葛西領二之江村新田の銘がある。建立は元文5年(1740)10月で念仏講同行中の文字もある。二番目は舟型光背型の地蔵菩薩立像。摩滅が進んでいるので読み取れないが、寛文▢▢年10月の文字があるので、江戸時代初期のものである。

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その右の舟型光背型の庚申塔は見事な彫りである。日月、青面金剛、三猿の図柄だが、それぞれがしっかりと造形されている。文字がいくつかばらばらに彫りこまれており、「奉建立石像庚申」「法龍寺深誉判」などの文字があるので、当所から法龍寺に在ったものだろう。造立年は古く寛文4年(1664)9月とある。一番右の白っぽい石塔は珍しい「食用蛙供養塔」で説明板には昭和27年建立とあるが、裏側には平成30年3月建立と刻まれていた。

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一方寺の南の隅に立っていたのは舟型光背型の阿弥陀如来像。どうも墓石のようではあるが、左下に「結衆」という文字があるので、これも合同の供養塔であろう。紀年は摩滅していて読み取れなかったが「8月」という文字は読めた。ちなみに前述の食用蛙供養塔だが、この辺りでは昭和の初め頃から周辺の水田や蓮田に自然繁殖していた食用蛙を捕えて生業にする産業のひとつだったらしい。

場所  江戸川区船堀6丁目9-30

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2022年11月26日 (土)

光明寺の石仏(江戸川区船堀)

江戸川区船堀にある光明寺は真言宗の寺院。創建年は慶長9年(1614)で、大坂冬の陣の年(当時は大阪ではなく大坂)。江戸時代光明寺は「横道の不動様」として知られ、成田山への参詣途中に立ち寄る人も多かったという。

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寺のすぐ東側をかつては境川という小河川が流れていた。現在では親水公園として河川跡に遊歩道が設置されている。江戸時代この辺りは東船堀村で、明治になってからは東船堀は大字になったようだ。江戸時代には荒川は存在しなかったので、旧中川番所の渡しを経て船堀川(新川)沿いに東進、境川が出合うと北に向かって光明寺前を通り、一之江を経て成田山方面に街道が繋がっていた。

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山門脇に複数の石仏が並んでいる。一番右にあるのがこの駒型庚申塔。造立年は享保6年(1721)9月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。側面には「奉供養庚申ノ為二世安楽 敬白」とあり、「當寺▢▢」とあるので当初から光明寺前に在ったものだろうか。

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その左にあるのが舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は享保12年(1721)10月とあり、「奉供養為二世安楽也」と刻まれている。念仏供養のための造立だろうか。

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その左、山門脇にあるのが上の写真の右の駒型庚申塔と左の聖観音菩薩。右の庚申塔は宝暦8年(1758)11月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。青面金剛の左手にはショケラが下がる。ゼニゴケが付着しているが、「二世安楽所、講中、奉造立青面金剛」などの文字が確認できる。左の舟型光背型の聖観音像は享保19年(1734)11がつの造立。「奉納為二世安楽也」という文字が刻まれている。

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山門の左側に立つ舟型光背型の聖観音像はかなり摩滅が進んでいる。文字を辿ってみると、造立年は古く、寛文11年(1671)正月とある。右側に書かれている偈文は読み取れなかった。地図を見ていて興味深かったのは明治時代の地形図ではこの辺りの標高は1m程度になっているが、現在の地理院地図の標高はマイナス1mとなっている。やはり2mほど沈下しているのだろう。

場所  江戸川区船堀6丁目8-18

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2022年11月25日 (金)

法然寺の庚申塔(江戸川区船堀)

東京メトロ東西線船堀駅の南西にある法然寺は浄土宗の寺院。すぐ南には新川という江戸時代からの運河が旧江戸川と中川(荒川)を結んで東西に舟運を可能にしている。江戸時代のこの辺りは船堀村。新川の南側は西宇喜田、東小松川という地域になり、運河によって分断していたのだろう。

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法然寺の創建は元和2年(1616)、後に幕末に船堀小学校の前身として平船学校がこの地に開設している。山門をくぐると正面に本堂が嵩上げして建っている。これは低地の水害対策だろうか。本堂の手前左側に無縁仏が集まり、その脇に3基の石仏が立っている。一番左の丸彫の地蔵菩薩像は年代を経ていそうだが情報は全く不詳である。右の2基は形は異なるがどちらも庚申塔である。

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中央の舟型光背型の庚申塔は極めて優れた彫りである。日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、尊像は左手に邪鬼を下げている。最初はショケラ化と思ったがよく見るとやはり邪鬼である。造立年は寛文6年(1666)10月。隙間に文字が刻まれ、「奉彫庚申石像」「一座結衆」「法然寺」などの文字が見られる。右の笠付角柱型の庚申塔は正面に「青面金剛」とあり、下部に三猿がある。左面は万治2年(1659)の紀年、右面には天明3年(1783)の紀年が刻まれているのでいささか混乱。資料を確認すると天明3年は改修年のようだ。

場所  江戸川区船堀2丁目10-10

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2022年11月24日 (木)

勝養寺の庚申塔(葛飾区青戸)

青砥駅の西、京成本線の高架脇にある真言宗の勝養寺は、大永7年(1527)の創建とされる。まだ関東は小田原北条氏の支配下にあった時代である。北条氏の家臣である遠山直景という人物の居城の鬼門にある渋江郷(現在の四つ木)に鬼門として創建され、後に現在地に移転したと伝えられる。

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駅前の寺院なのであまり広くないがきれいなお寺である。本堂の階段下にあった庚申塔と地蔵菩薩だが、なぜか元禄12年(1699)造立の舟型光背型の地蔵菩薩しかなく、庚申塔は見当たらない。実は寺院の裏口(勝手口兼車庫)の脇に堂宇を建てて移してあったのである。

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綺麗な御影石の堂宇に庚申塔がぴったり収まっている。舟型光背型で日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。尊像脇には「奉造立庚申石像 結集」とあり、造立年は元禄14年(1701)正月とある。なぜこちらに移されたのかは分からない。

場所  葛飾区青戸3丁目25-14

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2022年11月23日 (水)

中原稲荷神社の庚申塔(葛飾区青戸)

京成電鉄青砥駅前にある中原稲荷神社はかつてこの辺りが中原村だった頃からの鎮守である。創建は中原村が成立した江戸時代初期とされている。中原という地名はシンプルな命名で、昔この辺りに広大な野原があったのでその真ん中ということで中原となったらしい。

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商店の間に鳥居がありそこから参詣する。ちなみに地名は青戸、駅名は青砥であるが、昔から地名はずっと青戸である。江戸時代に人気となった鎌倉武将青砥藤綱がこの辺りに住んでいたという言い伝えがあったということだが、駅名は京成か関係者がつけたもの。ちなみに環七の橋名が青砥橋だが、もしかしたら東京都(東京市)の関係者が昭和の初めに史実を知らずにつけた可能性もゼロではない。

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境内本殿脇には祠と並んで板碑型の庚申塔が立っている。文字がかなり摩滅している。資料と合わせてみると、造立年は宝永6年(1709)2月、富士山宝永噴火の前年である。正面中央には「奉造立青面金剛」とあるようだ。願主名等も下部に刻まれており、勝養寺の名もある。駅の反対側にある勝養寺は当稲荷の別当寺である。

場所  葛飾区青戸2丁目2-2

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2022年11月22日 (火)

法問寺の石仏(葛飾区青戸)

葛飾区青戸にある法問寺は浄土宗の寺院。中川の右岸に近く、創建は室町時代末期の永禄2年(1559)と古い。当初は現在地よりも100mほど南東にあったが、江戸時代の享保14年(1796)に中川の開削工事の為、現在の場所に移転した。この辺りは明治時代までは表青戸と呼ばれた土地である。

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駐在所の横が寺の入口。入口脇に2mを超える大きな石塔が立っている。傍に説明板があった。「施餓鬼音楽法要碑」という葛飾区の指定有形民俗文化財。「施餓鬼(せがき)とは飢餓に苦しんでいる餓鬼に飲食を施すための法会のことで、餓鬼を救済すると同時に自分の長寿を祈願するというもの。法問寺では文化3年(1806)に施餓鬼音楽法要が行われた。その時、かつて出羽三山供養塔として建てられた奉納大乗妙典碑を削り直して造ったものとされている。裏の紀年は出羽三山供養塔の時の寛政8年(1796)3月と記されている。移転と供養塔建立が同年なのも何か経緯がありそうだ。

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境内に入ると、本堂手前に舟型の地蔵菩薩と駒型の庚申塔がある。庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、享保6年(1721)11月の造立。「奉庚申建立  同行▢▢▢  講中 拾八人」と刻まれている。左の舟型光背型の地蔵菩薩像は、宝永6年(1709)10月の造立。「念仏講中 三十五人」と大きく書かれている。庚申塔は元々青戸7丁目30-10の路傍にあったもの。寺から200m余り北の位置にあたる。

場所  葛飾区青戸6丁目16-20

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2022年11月21日 (月)

延命寺の石仏(葛飾区青戸)

真言宗の延命寺は、国道6号線水戸街道が中川を渡る中川橋の右岸にある古刹。橋の近くから参道がまっすぐに伸びており、本堂の手前に山門がある。延命寺は中川のほとりにあるため、何度となく中川の洪水に襲われてきたが、今もまだ続いているのは凄いことだと思う。

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延命寺の創建は嘉応元年(1169)という古さ。平安時代末期である。当時坂東(関東地方)には武士団が割拠するようになり、まずは東山道に近い秩父氏が勢力を広げた。その子孫のひとつが江戸氏で、江戸重長の頃には江戸の広いエリアを支配していた。本拠地は世田谷区喜多見である。

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山門脇に堂宇がありその中には丸彫の地蔵菩薩立像が祀られている。台石には、延享元年(1744)6月の造立年が刻まれ、中央に「奉造立地蔵菩薩」と刻まれている。台石左右にはそれぞれ、浄真信士、授迎童子の命日が刻まれているので、墓石だったのかもしれない。

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延命寺で有名なのはこの板碑型庚申塔である。「二十一仏庚申供養塔」の名で葛飾区の指定有形文化財になっている。二十一仏というのは上部に刻まれた梵字21文字で山王二十一社の種子を指す。その下には「奉彫建石佛 庚申結衆 行蓮坊」「庚申待成就」などいくつもの文字が刻まれている。造立年は承応4年(1655)とある。

場所  葛飾区青戸8丁目24-29

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2022年11月20日 (日)

慈眼寺の石仏(葛飾区亀有)

葛飾区亀有にある慈眼寺は真言宗の寺院で、開山は天正4年(1576)とされる。織田信長が勢力を広げ甲信の武田氏を倒し、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に中国攻めを命じた時期のことである。まだ江戸周辺は人の少ない農村であった。まだまだ小田原北条氏らの支配の跡がのこっていた時代である。

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この辺りは何度となく中川の氾濫に襲われ、慈眼寺も数回にわたり洪水の被害を受けて多くのものを失ったという。山門を入ると左側に洪水を意識したのか2階が本堂になった建物になっている。いっぽう山門入った右手には宝篋印塔や地蔵菩薩像が並んでいる。

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右のやや大きい方の舟型光背型の地蔵菩薩は僧侶の供養に建てた墓石のようであるが、造立年は万治3年(1660)9月ととても古いものである。左側のすっきりとした舟型光背型の地蔵菩薩像は享保12年(1727)4月の造立。地蔵の右側には「奉供養西国秩父坂東百ヶ所順礼自他平等現當安楽祈処」と刻まれている。

場所  葛飾区亀有2丁目54-15

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2022年11月19日 (土)

恵明寺の石仏(葛飾区亀有)

JR常磐線亀有駅南口から350mほど、環七通りの手前にある真言宗の恵明寺(えみょうじ)は古刹である。創建は健治2年(1276)あるいは弘安元年(1278)とされ、元寇の文永の役(1274)と弘安の役(1281)の間にあたる。鎌倉幕府は執権が8代北条時宗の時代。

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この時代より徐々に御家人が窮乏し、1297年には永仁の徳政令が出ている。元文元年(1736)以降は徳川将軍家の鷹狩の御膳所となり、明治時代には亀有小学校の校舎としても活躍した。山門はシンプルな造りで、正面には本堂があるが、庫裏のある左手に石仏が並んでいる。

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一番手前にあったのはゼニゴケが全体を覆っているが、立派な舟型光背型の地蔵菩薩である。造立年は宝永7年(1710)10月、富士山宝永噴火の直前である。それだけにゼニゴケを火山灰に見立てるのもまた風情がある。尊像右には「奉供養念仏講中」下には「同行廿人」と刻まれている。

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その先には2基の庚申塔がある。どちらも駒型の庚申塔で、左の庚申塔の造立年は宝永5年(1708)6月で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。正面には「奉造立青面金剛二世安楽」と書かれ、側面には「亀有村 森田権左衛門」と刻まれている。右の大きい方の駒型庚申塔は少し新しく文化5年(1808)2月の造立。こちらも日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、台石には女性名が多数刻まれている。

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無縁仏塔の中央の頂上には珍しい六観世音菩薩幢が立っていた。遠くていささか確認に困ったが、文字は見えない。資料を確認したところ、安永5年(1776)の造立のようだ。なかなか見事な彫りこみである。

場所  葛飾区亀有3丁目32-25

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2022年11月18日 (金)

路傍の板碑型庚申塔(足立区中川)

足立区中川の常磐線よりも少し南、マンション群の北側の一画に古い庚申塔がある。この辺りは江戸時代の中川右岸を並走する古道の道筋にあたる。目の前は亀有アリオという巨大ショッピングセンター。だが誰もこの庚申塔には気づかないかのように歩いている。

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傍には説明板も立っているが、いささか専門的な解説なので一般の人々には分かりにくい。ただ近代的なマンション群と大きなショッピングセンターの脇にある足立区で6番目に古い庚申塔とのアンバランスはいい。造立年は承応2年(1653)10月で、足立区には古い庚申塔が多いので6番目だが、例えば世田谷区最古の庚申塔はこれよりも新しい明暦4年(1658)である。

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板碑型の中央には「奉造立庚申供養待意趣者為二世安楽」とあり、右に「乃至法界平等利益」と書かれている。下部には願主名があり、その下の枠外には蓮の華葉が陽刻されている。シンプルだがとても美しい庚申塔である。

場所  足立区中川1丁目9-2

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2022年11月17日 (木)

西光院の石仏(足立区中川)

足立区中川にある西光院は真言宗の寺院。創建年代は不詳だが、徳川家康が江戸入所の折、関東の大治水事業を担った伊奈忠次が利根川の付け替えや新田開発、新しい村落の設置を行った。その伊奈氏の命で新田開発を行った埼玉県与野市辺りにいた土豪武士浅田長右衛門という人物がこの地に長右衛門新田を開発し土着、彼が開基となって開いたのが西光寺と伝えられる。

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昭和戦前期まではこの地は長右衛門新田と呼ばれた地名で、人口が急増したのは戦後である。寺の前の道は中川の右岸を南北に走る古くからの道で、戦前まではのどかな農村地帯だった。

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境内にある舟型光背型の六地蔵は形もそろっており、江戸時代から祀られてきた様子がうかがえる。造立年は享保5年(1720)で、台石を見ると、金町、千住、五反野、長右衛門新田、青戸などの各地からの寄進によって建てられたもののようだ。

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すぐそばにある駒型の庚申塔は日月、青面金剛像が確認できるが青面金剛像の足元で終わっている。造立年は享保17年(1732)とあり、右に「奉請青面金剛」、右側面に「長右衛門新田 講〇」、左側面に「西光寺宝〇」とある。

場所  足立区中川3丁目21-20

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2022年11月16日 (水)

正法庵の石仏(足立区中川)

足立区中川にある正法庵は曹洞宗の寺院で尼寺である。創建は元禄年間(1688~1704)で細々と庵を編んで尼僧が代々繋いでいたらしい。明治になってからは学校を開設したりして地域社会に貢献した。周辺はかつての大谷田村の南部に位置している。

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境内に入るとすぐに右手に背の高い石仏が目に入る。台竿部分には「大乗妙典二千部供養塔」と書かれている。造立年は慶応3年(1867)4月である。時代的には明治維新の直前、世の中が大きく変動しつつある時代である。

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上部に彫られているのは観音のようだが私には何観音なのか区別がつかない。この石仏を建立したのも側面の記載を見ると当時の尼僧のようである。

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境内の右奥にヤツデやアオキに囲まれてひっそりと庚申塔が立っている。舟型光背型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。日月は確認できなかった。造立年は延宝8年(1680)7月と古いものである。正法庵の創建よりも古いので、近くに在ったものをここに移設したのだろうか。

場所  足立区中川3丁目14-18

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2022年11月15日 (火)

足立区立郷土博物館の石仏(足立区大谷田)

足立区立郷土博物館は鉄道とバスで行く博物館。亀有か綾瀬からバスが出ている。館内には何気なく谷文晁の掛軸などがあって驚く。かつてのヤッチャ場(千住市場)の再現など、なかなか面白い。

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山門風の入口を入ると、右正面が管内への入口。左側を見ると壁沿いに沢山の石仏石碑が並んでいる。今回は力石や道標は割愛させていただいたが、石橋供養塔や道標も詳しい説明板があって興味深い。

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入口側に堂宇があってその中に在ったのが駒型の庚申塔。上部に欠損が見られるが、青面金剛像、邪鬼、その下に三猿の一部がある。造立年は不詳だが説明板には文政年間(1818~1830)のものと書かれている。江北周辺にあった下沼田村の庚申講中による造立で、橋供養と同時に造立したとある。元の場所は江北橋の土手下で足立区江北2丁目14番地先である。

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上の馬頭観音は駒型で像形のしっかりしたもの。近くに石祠型の馬頭観音もあったが、こちらの方が馬頭観音らしい。造立年等は分からない。その右側にはいくつかの道標が並んでいた。

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屋根付堂宇の中には3体の石仏がある。左端は「百体庚申塔」と書かれているが、猿田彦・庚申・青面金剛を5行10体合わせて百体分を文字で側面に刻んでいるようだ。嘉永元年(1848)7月の造立で、「武州足立郡二ツ家」の銘がある。中央の駒型庚申塔は寛政12年(1800)12月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄に青面金剛左手にショケラ。これも「二ツ家村庚申講中」の文字がある。これらは足立区青井5丁目1番地先の下妻街道辻にあったもの。右の弁財天の化身(宇賀神)の駒型の石仏は、同じく青井に在ったもので、南花畑の不動院に導く道標だった。不動院には有名な弁財天がある。道標の造立年は宝永3年(1706)で、不動院にある宇賀神像よりも古い。

場所  足立区大谷田5丁目20-1

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2022年11月14日 (月)

第十二中学校前の庚申塔(足立区大谷田)

足立区大谷田にある第十二中学校は戦後の創立。比較的新しい学校である。しかしその校門の近くには古い庚申塔が祀られている。場所は中学校の南西の角になる。

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何とも豪快な駒型風の庚申塔である。中学校がなかった時代には、今の校舎の対角線の反対側の角あたりに在ったのではないだろうか。戦前の地形図を見るとその辺りに石碑のマークが付いている。

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正面中央には「青面金剛躯」と書かれ、下部には三猿が陽刻されている。造立年は元禄4年(1691)11月。そのあとに「天信心結衆」と続いている。さらに左側下部には「十二人敬白」とある。このタイプは珍しく、よく似た庚申塔が足立区内では南花畑の花屋さん花由の前にあったのを思い出した。

足立区大谷田1丁目37番地先

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2022年11月13日 (日)

柳野稲荷神社庚申塔(足立区佐野)

足立区佐野は大谷田の北側、中川の右岸の地域の地名で、戦国武将千葉氏の末裔で佐野家に養子に入ったという佐野新蔵胤信が開拓した。そのまま自分の名前を冠して佐野新田と呼んだが、明治時代までその地名は続いた。

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神社は最近改装改築を果たしたらしく、とてもきれいな境内になっていた。中川の土手から階段を下ってくる道は参道の名残り。明治時代から大正時代の地図では北に100mほどの土手上に稲荷神社があったようだ。昭和に入ってから移転したらしい。

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お地蔵様も新しい堂宇に庚申塔と一緒に祀られていたがどうも新しいもののようだ。庚申塔の方は駒型で造立年は宝暦12年(1762)3月と江戸時代中期のものである。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。紀年などは側面に刻まれており、「講中廿三人 願主佐兵衛」とある。

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玉垣の傍に置かれていたのが古い燈籠。竿部と上部が別々になっている。竿部に色々と刻まれていた。造立年は元禄16年(1703)9月。「稲荷大明神二世安樂、武州足立郡渕江佐野▢▢、▢待念佛講中 人数三十一人」と書かれている。

場所  足立区佐野1丁目14-15

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2022年11月12日 (土)

大光寺の庚申塔(足立区六木)

足立区六木(むつぎ)は埼玉県八潮市や葛飾区との境に位置するエリア。中川の右岸にあり、江戸時代は六木村、明治になってからは花畑村六木だった地域である。中川はのどかな川で河岸に足が生い茂り、鷺などの野鳥も多い。中川の昔の名前は利根川である。もともと利根川の川筋はこちらがオリジナルで、今の利根川筋は江戸時代から長い年月をかけて掘削されたものである。

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中川の右岸、かつての奈川の流路と昭和の初めに出来た新しい流路の出合地点にあるのが真言宗の大光寺である。慶長元年(1596)に六木村を開発した織田信長の旧臣天野国忠が土着して戦没者供養のため開基となったという由緒。六木村の村名の由来も6騎の武者を示す六騎で、それが六木となったといい、天野国忠の話と繋がるようだ。

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本堂脇の千体仏の堂宇の一画に写真のとろけ地蔵があった。影からして舟型光背型の地蔵菩薩像だろうと思われる。中川で拾い上げられたものなのか、あるいは塩地蔵として溶けてしまったものなのかは分からない。

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その向かい側に在ったのが駒型の庚申塔。沢山の仏花で見えないが、日月、青面金剛像、邪鬼の図柄で、三猿は見当たらない。造立年は元禄12年(1699)11月と古いものであった。右側面には「奉造立庚申講中」と大きく刻まれている。

場所  足立区六木3丁目10-13

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2022年11月11日 (金)

南蔵院の石仏(足立区神明)

足立区神明の南蔵院は、現在は埼玉県川口市の安行村にあった慈林寺宝厳院の隠居寺として元和5年(1619)に開かれたと言われる。宝厳院は行基が天平13年(741)に聖武天皇の命で創建したという古刹。江戸時代初期のこの地域はまだ開墾もされていない地域だっただろう。江戸時代の地名は久左衛門新田といい、この辺りから川口市にかけては人名+新田という地名が多い。

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山門に至るまでも数十mの参道があり、道路の入口には4基の石碑が立っている。左のひときわ大きな角柱型の石塔は「新四国八十八ヶ所第六番  南蔵院」とあり、西新井組中川通四箇領八十八ヶ所という巡礼地の6番目を表す石碑。江戸時代天保年間に四ヶ領(葛飾郡東葛西領、葛飾郡二郷半領、足立郡淵江領、埼玉郡八条領)の弘法大師像を巡礼する霊場を定めたもの。この石碑は天保12年(1941)のものである。

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中央の2基は馬頭観音である。左の大きい方は正面に「馬頭観世音」とあり、裏に明治39年(1906)8月の造立年がある。右の駒型の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」という文字が見えるだけで、側面は読み取れなかった。右の角柱は荒綾八十八ヶ所霊場の道標で「久左衛門新田、是ヨリ浮塚大仙寺へ六丁」とあり、大正10年(1921)に建てられたものである。

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山門前には自然石の丸石の庚申塔がある。まるで力石のような形で力石よりも大きい。庚申の文字の左側に薄く憲斉書とあるが何のことかは分からない。紀年等もなく不思議な庚申塔である。

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本堂の手前には六地蔵に混じってとろけ地蔵や舟型光背型の大きな地蔵が祀られている。この辺りでは庚申信仰が盛んだったようで、中央の大きな舟型地蔵と六地蔵の向かって右の2躰は庚申講中によるものである。

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左のとろけ地蔵については何も分からない。塩地蔵だったのか、川の中から発見されたのか、雨風にさらされたのか、いろいろな想像をしてみる。右の舟型地蔵は庚申地蔵である。造立年は寛延元年(1748)10月。右側には「庚申▢中▢五人」とあり、左側には「念仏講中十七人」とある。

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六地蔵の2躰については背中に大きく文字が彫りこまれている。端の地蔵の背中には「奉供養庚申待 二世安樂攸」とあり正徳3年(1713)7月の紀年がある。隣りの地蔵の背中にも「奉供養庚申待 二世安樂攸」とあり、同じく正徳3年(1713)7月の造立年が刻まれている。おそらく六地蔵も庚申講中と念仏講中による共同制作なのだろう。

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本堂から墓所への入口には3基の石仏が並んでいる。左端は笠付角柱型の庚申塔。造立年は寛文7年(1667)9月と古いものである。中央には「奉造立庚申供養二世安穏成就攸  施主 敬白」と刻まれている。中央の舟型地蔵菩薩は墓石のようである。紀年は読み取れなかった。右の舟型地蔵菩薩は偉いお坊さんの百回忌に造立されたものらしく、造立年は享保13年(1728)2月とあるが、おそらくこれは命日であって、左側の消えている部分に100年後の文政11年の紀年が刻まれていたのではないだろうか。

場所  足立区神明3丁目18-18

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2022年11月10日 (木)

路傍の巡拝塔(足立区神明)

足立区神明にある南蔵院・天祖神社の前の道は六木と花畑を結ぶ道だが、もともとは江戸時代の開墾後の用水路跡である。東に中川、西に綾瀬川、北に垳川(がけがわ)が流れ、一帯は久左衛門新田と呼ばれた開墾地だった。ただこの道は江戸時代から用水路と並行して付けられていた古い道である。

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その道の辻に古い堂宇が立っていた。格子の中を覗き込むと、中に石仏が一躰祀られている。よく見ると上部に印刻されているのは不動明王らしい。施錠されていなかったので、失礼ながら格子を開けて拝顔した。

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駒型の巡拝塔で、月山、湯殿山、羽黒山と秩父、坂東、西國の百箇所心願成就と記されている。下部左に紀年があるが、戦災か何かで中折れがありその補修で読み取れなくなっている。おそらくは江戸時代後期のものだろう。右側面には「右 市川船橋桜成田道」とあり、左側面には「左 流山我孫子成田道」とあることから道標も兼ねていたようだ。

場所  足立区神明2丁目11-3

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2022年11月 9日 (水)

辰沼稲荷神社の庚申塔(足立区辰沼)

足立区辰沼は小さなエリア。東に旧中川、西に綾瀬川、北にその二つを結ぶ花畑運河があり、その地域の中央にある町名。江戸時代から明治にかけては広がる田んぼの中の一画に花畑村辰沼新田(江戸時代は辰沼新田村)の民家が集まっていた。その中心には浄土宗の龍願寺(古い地図には立願寺とある)があり、北の端には辰沼稲荷があった。

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辰沼稲荷は江戸時代の辰沼新田村の鎮守である。創建年代は不詳。鳥居の先に見事な彫りの手水鉢があったが明治時代のものらしい。花畑村という地図もあるが、榎戸村という地図もあり、時代と共に小さな村があっちに付いたりこっちに付いたりした歴史なのだろうか。

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参道にあるのがこの駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫りこまれており、造立年は元禄12年(1699)8月とある。尊像右には「奉庚申待同行九十一人二世安楽所」とある。この小さな村域にそれほどの人が住んでいたのだろうか。

場所  足立区辰沼2丁目15-7

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2022年11月 8日 (火)

赤稲荷神社の庚申塔群(足立区神明)

綾瀬川の左岸、花畑水門の近くにある赤色の目立つ稲荷神社は、星野家(稲荷よりも200mほど北に在った)の屋敷神が大洪水で流され、ここに付着したというので花畑村で祀られるようになったと伝えられる。創建年代は不詳。神社の傍にはかつて花畑村の村役場が置かれていた。

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現在神社の北側には舎人公園通りが通っており、その南側歩道に背を向けて4基の石仏が立っている。一番左の角柱型は馬頭観世音で、大正15年(1926)3月の造立。その右隣りの石仏は上部が完全に欠損しているが庚申塔である。青面金剛像、邪鬼、三猿が確認できる。側面には「流山道」とあり、この辺りに古道流山道が通っていたのだろうか。

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右から二番目の庚申塔も上部が少し欠損しているがおそらくは駒型のものだろう。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、尊像脇には「奉造立庚申供養二世安樂所」とある。造立年は元禄11年(1698)2月。一番右のひときわ大きな板碑型の庚申塔は下部に三猿が陽刻されている。正面には「奉造立庚申供養 結衆 欽言」とあり、こちらの造立年は元禄4年(1691)9月と刻まれている。

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2022年11月 7日 (月)

不動院の石仏(足立区南花畑)

足立区南花畑は単純に花畑の南にあるのでそう呼ばれるのだが、旧町名は花畑町、保木間町、内匠本町などで、不動院は江戸時代は保木間村に属していた。ただ綾瀬川が曲がるこの河畔は明治に入った頃は内匠新田とよばれたが、花又村になった頃の地図では花又榎戸となっている。

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不動院の山門は珍しい北向き。江戸時代はこのすぐ先を綾瀬川が流れていた。その名残りとして古綾瀬川流路跡が残っており、なおかつその川筋が東京と埼玉県の境になっている。不動院は真言宗の古刹で、創建は天喜2年(1054)と古い。

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山門脇には舟型の地蔵菩薩坐像がある。台石には「三界万霊」と書かれており、造立は安政6年(1859)7月とある。その手前にあるのは寺の案内道標。山門をくぐって右手に本堂があり、正面に庫裏。本堂は東向きである。

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本堂脇に4基の庚申塔が祀られている。一番右は駒型の文字塔。日月があり、正面に「庚申塔」と大きく彫られている。脇には「天下泰平」の文字があり、台石には「榎講戸」とあるが、これは榎戸の講中ということであろう。造立年は弘化3ねん(1846)11月である。左の駒型の庚申塔は上部が平たくなっており、青面金剛像、邪鬼の図柄。紀年は見当たらない。

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その左にも駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿があり、青面金剛像は左手にショケラを下げている。三猿の下には別の台石がありまた三猿があるが、これは後付けだろう。造立年は明和4年(1767)2月と書かれていた。一番左は板碑型の庚申塔で、下部に三猿が陰刻されている。造立年は寛文7年(1667)10月と最も古いもの。中央には「奉待庚申二世安楽所」とある。

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庚申塔のさらに奥に在ったのが弁財天。手前の石碑には蛇躰の仏(宇賀神)が描かれ、矢収弁財とあるがこれは矢納(やおさめ)弁財天の誤字だろうか。造立年は嘉永2年(1849)11月。源義光が後三年の役の折、戦勝祈願をし矢を納めたことから起こった神社である。社内に鎮座する弁財天本尊は12年に一度しか開帳されない。次は2025年らしい。

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無縁仏塔の中に舟型光背型の地蔵があり、何となく違うと思ったら、念仏講中によるものだった。「奉造立念仏講衆二世安楽所」と刻まれ、紀年は自信がないが宝暦10年(1760)と書かれているように見える。

場所  足立区南花畑3丁目25-8

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2022年11月 6日 (日)

延命寺の石仏(足立区竹の塚)

真言宗寺院の延命寺は説明板によると、延慶2年(1309)の創建となっている。鎌倉幕府が衰退し始めた時代。鎌倉時代も大地震が多く、関東では1213年、1227年、1230年、1240年、1241年、1257年、1293年と大地震が鎌倉を襲っている。一方近畿地方では1299年、1317年、1325年、1331年と立て続けに大地震が起こったと記録されている。1293年の鎌倉の地震では、鎌倉の寺院が多数焼失した。おそらくは1200年代は駿河トラフの活動、その後は南海トラフ(東南海トラフ)の活動時期に入ったと思われるが、地震は権力の盛衰に大きな影響を及ぼした。

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そんな時代に創建された延命寺には見事な山門がある。如意門という形式の山門で、昭和51年(1976)に佐渡より移築された。建築は宝暦4年(1754)に高山の名工梶原某の創建とされている。像形や細部も秀逸でしばし見入ってしまった。

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その山門の下に大きな燈籠が立っている。実は境内にも同じものが(おそらく対のもの)ある。竿燈には「奉献 石燈籠 両座、武州東叡山、大猷院殿 尊前」とあり、慶安5年(1652)4月の建立年がある。寄進したのは松平備前守源隆綱とあるが、当時の大名は徳川将軍から名前を戴いているので皆同じような名前になっている。この石燈籠は三代家光が全国の大名に造らせたもののひとつで、一旦寛永寺に寄進されたのち、各地の寺院に払い下げられたものらしい。境内にある方は二代秀忠の時代のものらしく、寛永9年(1632)の建立で、溝口出雲守源宣直という大名によるものである。

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境内には笠付角柱型の庚申塔がある。時代は比較的新しく、天保12年(1841)2月とある。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、側面には2月求法日とあるが、求法(ぐほう)と言うのは仏教の教えや悟りを開く道を求めることらしいので、庚申講中で信心を誓ったりしたのだろうかと想像してしまった。

場所  足立区竹の塚5丁目26-14

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2022年11月 5日 (土)

十三仏堂の庚申塔(足立区竹の塚)

足立区竹の塚を南北に走る旧日光街道は江戸時代、将軍の日光御成道として栄えた街道である。その街道筋に面した袋地の奥にあるのが十三仏堂。十三仏堂の創建は不詳だが江戸時代初期の石仏石碑が境内にはある。

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このお堂は旧保木間村の三ノ輪厨子によって守られてきたとあるが、厨子というのは仏壇のような観音開きのものを指すので、おそらくは職人集団のようなものだろう。堂内には入れないが、中には十三仏のうちのほとんどがあるらしい。十三仏とは、初七日から三十三回忌までの十三回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿閦・大日・虚空蔵を指す。

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お堂の裏側に回り込むといくつもの石仏石碑が置かれていた。上の写真は駒型の庚申塔。正面中央に大きく「庚申塔」とあり、側面には造立年が、天保9年(1838)3月と記されている。その下には「三輪講中」とあるが、これは十三仏堂を守ってきた三ノ輪厨子のことであろう。

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五輪塔の手前に立てかけられるようにしていたのが板碑型の庚申塔。下部には三猿が陽刻されている。造立年は寛文11年(1671)2月で、中央には「奉納庚申供養諸願成就 ▢▢ 敬白」とあり、三猿の下には12人の願主名がある。

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その右手のいくつかの石仏石塔がある左端には駒型の庚申塔があった。文字をよく読まないと庚申塔とは分からないが、正面には「奉供養庚申待」と書かれている。下部には願主名が並び、造立年は元禄3年(1690)10月とある。

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右の端には上部が欠損した地蔵があり、その脇に在ったのがこの板碑型の庚申塔。中央に刻まれた文字は「奉造立庚申供養安楽之所」と書かれている。造立年は承応3年(1654)4月で、「人数八人」と右下にあるが、左下の文字が読み取れなかった。これらの他にも少し新しいと思われる舟型の六地蔵や「甘▢▢塚」と刻まれた石塔があったりして、子供ならかくれんぼをしてビビるような雰囲気の堂裏であるが、400年の歴史がひっそりと佇んでいるような落ち着く場所でもあった。

場所  足立区竹の塚5丁目34-14

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2022年11月 4日 (金)

宝積院の石仏(足立区西保木間)

足立区保木間は国道4号線より東側、西保木間は西側になる。西保木間の北の端には毛長川が埼玉県との県境として流れており、その先は草加市谷塚になる。むかしの日光街道はこの4号線よりも少し西側の西保木間と竹の塚の境を北上していた。

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竹の塚で日光街道から東に分かれて千葉県方向に向かうのが流山道と呼ばれた古道。この流山道にある宝積院と氷川神社はその昔戦国時代の武将千葉氏の陣屋だったと伝えられる。この道沿いには昔から人が住み、西新井大師と成田山の間を往来する参詣者で賑わったという。宝積院は保木間氷川神社と並んでおり、氷川神社ともに慶長年間(1596~1615)に創建されたという。

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本堂の先右手に舟型光背型の六地蔵がある。造立年は読み取れなかったが江戸時代のものと思われる。実は六地蔵の左のクロマツの脇に板碑型の庚申塔が立てかけてある。

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図柄は板碑型に三猿のみ。文字が読み取れない。足立区の資料によると、中央には「奉待庚申供養成就所 敬白」とあり、その脇に延宝7年(1679)10月の造立年が刻まれている。下部には願主名が8名記されているようだ。資料は昭和60年頃の情報で、その時代も同じように立てかけてあったようなので、何かの事情があるのだろう。

場所  足立区西保木間1丁目11-4

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2022年11月 3日 (木)

大乗院の庚申塔(足立区西保木間)

足立区西保木間にある大乗院は正式には古谷野山大乗院宝持寺という。創建は古く平安時代とされているが詳細は不明。鎌倉時代の板碑なども出土しているそうで、昔は広大な寺院だったと言われる。山門は西保木間1丁目13あたりにあったというから、山門からここまで500mほどあり、まさに山門をくぐって数分歩いてやっと本堂に着くという広さだったのだろう。

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正面の山門は閉まっていた。武家屋敷の雰囲気がある重厚な山門だが、東側の門から普通に入ることができる。本堂は妙に綺麗だと思ったら、文化15年(1818)築の本堂を、平成27年(2015)に建て直していた。

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本堂前に在ったのが2基の庚申塔。左の大きい方の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で左手にはショケラが下がっている。台石には大きく「講中」とあり、造立年は明和3年(1766)10月である。右の小さい方の駒型庚申塔は日月の下に文字、その下に三猿が描かれている。造立年は貞享元年(1684)10月で、正面には「奉庚申供養・・二世安楽」とある。三猿の下には9人の願主名が刻まれていた。

場所  足立区西保木間2丁目14-5

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2022年11月 2日 (水)

玉蔵院の石仏(足立区保木間)

足立区保木間にある玉蔵院は真言宗の寺院で、創建は文明18年(1486)と古い。年代的には京都の応仁の乱が終り、各地で一揆が勃発し乱世に向かって世の中が進んでいく時代である。

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山門からまっすぐに伸びた参道は正面に新しい本堂を据えて絵になる景色である。玉蔵院の創建者は九州の空眼法師という人物と伝えられる。保木間という地名は、その昔一帯が低地で水難が多く、人々が小川や湿地に杭を打ちこんで開墾したことから付いた地名とされている。

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本堂の手前に左右に分かれた六地蔵菩薩と中央に丸彫の地蔵、そして右端に駒型の庚申塔が並んでいる。中央の丸彫の地蔵菩薩は台石に「開運地蔵尊」とあるが詳細は不明。舟型の六地蔵は、寛延2年(1790)7月の造立で、ほぼそろっているが微妙に右の2基の像形が異なる気がする。

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右端の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右側面には「奉待庚申供養成就」とあり、左側面には紀年が入っている。造立年は寛政9年(1797)11月で、基壇には「保木間村講中」の文字と、沢山の女性名が願主名として刻まれている。

場所  足立区保木間4丁目29-16

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2022年11月 1日 (火)

西光寺の庚申塔(足立区保木間)

足立区保木間4丁目は江戸時代から保木間村の中でも比較的人口が集中している地域であった。南のほきま丁目は大部分の内だったが西光寺の辺りは民家が多く、この辺りだけは僅か数十㎝ではあるが微高地になっている。

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日光街道から東へ分岐した村道が保木間村と竹塚村の間を通っており、西光寺はこの村道の南側で保木間村側にあった。門脇には角柱型で印刻された不動明王があり、成田山への道標である。造立年は万延元年(1860)11月で、「成田山 是より十六里」とある。保木間の不動明王像道標と呼ばれ、「榎戸迄二十丁」「是より西 新井大師 一里二十丁」「大鳥江 二十丁」と続く。

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境内に入ると本堂の前に舟型光背型の庚申塔がある。造立年は元禄9年(1696)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛の右には「奉造立庚申像一躯結衆本願」と刻まれている。保存状態の極めて良い庚申塔である。

場所  足立区保木間4丁目38-2

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