葛飾区の新宿(にいじゅく)小学校の南の変形交差点の一角に石仏群がある。道路に囲まれた三角地にはベンチがあり、地元の御老人たちが集って世間話に花を咲かせている。北西には新宿小学校があり、子供も多く、ほっこりする町である。この三角地の南側の路地はかつての水戸街道の旧道で、金町あたりで現在の国道6号線筋になって北東へ伸びていた。
またこの旧水戸街道は柴又帝釈天への道でもあり、その為「帝釈道」とも呼ばれている。石仏群の先には帝釈道碑が立っている。自然石で造られたこの帝釈道碑は明治30年(1897)7月に建てられたもの。
施主は当村石井清吉、石工は亀有の森田常作と刻まれている。千住から東に向かった水戸街道は明治時代半ばまで現在の中川橋を渡し船で渡り、新宿村に。そこからいったん南に行って新宿日枝神社で東に転じ、現在の水戸街道の辺りで佐倉街道と出合う。そこには現在も石橋供養道標がある。佐倉街道と合わさって北上するとこの場所に至るという道筋である。したがってここは水戸街道、佐倉街道、帝釈天道と3つの街道が一緒になっていた交通の要衝だった。
石仏群の右端に並ぶのは舟型光背型の六地蔵尊。同時に造立されたもので、造立年は享保3年(1718)10月と刻まれている。それぞれ部分的な欠損は見られるものの、補修してある。
その左には2基の六十六部供養塔と庚申塔がある。右の小さい方の駒型の供養塔は正面に、「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、宝暦11年(1761)10月の造立。中央の駒型の供養塔にも「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、こちらは宝永5年(1708)9月の造立。「乃至法界自他平等 ▢主安楽即身成仏」とある、左の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、享保7年(1722)11月の造立。刻銘は「奉建立青面金剛一躯為二世安楽也」とあり、三猿の下には願主名と共に新宿町の銘がある。新宿町は新宿村の街道沿いの地名らしい。
左の方には3基の地蔵菩薩像、中央は地蔵かどうかわからない。右の舟型光背型の地蔵菩薩像は宝永3年(1706)10月の造立で、「奉造立六道能化地蔵菩薩二世安楽処」と刻まれている。中央は地蔵なのかその他の仏なのかは不明。右上が大きく欠損し、尊顔も判別がつかない。造立年は宝永7年(1710)12月という文字が読める。左の小さな地蔵菩薩は刻銘が削られてしまっていて詳細は分からない。
これだけの石仏が集まっていることが不思議だったが当時の街道の賑わいやこの先の旅の安全を願う様子などが、こうして石仏を見ていると想像できるから面白い。日陰でホワイトバランスを失敗して画像が暗くなっているのはお許しいただきたい。
場所 葛飾区新宿4丁目7-19
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