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2022年12月31日 (土)

加藤家の馬頭観音(練馬区東大泉)

現在の住居表示は練馬区東大泉だが、明治時代は北豊嶋郡大泉村上土支田字中村だろうか。大泉学園駅の近くに1000坪近い敷地の加藤家がある。この辺りにはかつての豪農の宅地がまだ残っているようで同じ規模の邸宅が複数残っている。とはいえ加藤家も敷地内にマンションを建てたりして余計な課税を防いでいるようだ。

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邸宅の門が複数あるがこちらが正門だろうか。その脇の道路際に一基の馬頭観音が祀られている。かつての練馬は都心の台所と言えるような食物の供給地であったから、牛馬に載せてくる日も来る日も都心へ野菜を運んで行ったのだろう。

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現在も馬頭観音にはきれいな仏花が供えられていて、先祖からの感謝を続けているようだ。櫛型角柱型の馬頭観音は上部に馬頭観音を浮き彫りにして、その下に文字が刻まれているが風化していて読み取れない。中央に「馬頭観世音」とあるが、紀年などは▢▢元年▢月と肝心な数字が分からない。おそらくは大正元年(1912)だろうから、そうすると8月以降ということになる。側面には「願▢ 加藤源▢」と刻まれている。

場所  練馬区東大泉1丁目27-35

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2022年12月30日 (金)

笠松墓地の庚申塔(練馬区石神井町)

西武池袋線石神井公園駅から石神井池に向かう途中、右手に笠松墓地がある。訪問時は入口が施錠されていて中に入ることが出来ず、遠くからの確認になってしまった。

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古い地図を見るとこの場所には寺のマークが付いている。大正時代になるとそのマークは墓地のマークに変わっている。つまり明治時代まではここに寺院があったということだろうか。大正4年(1915)に武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が開通してから随分と変化したようだ。いろいろ調べてみたが明治時代以前にあったであろう寺院については分からない。

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遠目の撮影になってしまったが、左端はかなり摩滅の進んだ不動明王か。次は小さな駒型の庚申塔で、正面に「庚申塔」、側面に明治15年(1882)4月の造立年が見える。その隣は背の高い笠付角柱型の庚申塔。この辺りから資料を参考にしているが、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、こちら側の側面には元禄7年(1694)11月の造立年が見える。向こう側には「奉庚申供養 武列豊嶋郡下石神井村」とあるようだ。その向こうには舟型の自走菩薩、先突角柱型の巡拝塔で宝永5年(1708)のものなどが並んでいるようだ。再訪時確認してみたい。

場所  練馬区石神井町3丁目9-19

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2022年12月29日 (木)

宗念寺の石仏(葛飾区細田)

葛飾区細田は江戸時代から明治にかけては南葛飾郡奥戸村で細田と奥戸新田を含むエリアが昭和になって細田となった。慶長年間(1596~1615)に紀州熊野の細田氏がこの地を開墾したという説や、小さな区画の田んぼが多かったからという説があるらしいが、古くは室町時代から人が暮らしたことが分かっている。

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宗念寺は信州大谷派の寺院で、寛永5年(1628)の創建とされる。真宗大谷派というのは京都の東本願寺を本山とする浄土真宗の宗派であるから始祖は親鸞である。雰囲気のある山門をくぐると正面に本堂がある。

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山門の先に面白い石仏があった。葛飾区の資料では荒神面(こうじんめん)としている。荒神面は三宝荒神ともいい、仏法僧の三宝を守護する神とされるが、仏教と神様が混じっている日本らしさがある。怒りの形相だが、不浄を忌み火を好むことからかまどの神様として祀ることが多いらしい。造立年などは不明である。

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宗念寺は駐車場に無縁仏群がある。珍しいパターンである。その中にひときわ大きな舟型光背型の阿弥陀如来像がある。造立年は寛文12年(1672)頃とされている。実は3名の戒名があり、清徳道安大禅定門が寛永6年(1629)5月没、清月妙意大禅定尼が寛文12年(1672)2月、涼竹鏡清大禅定尼が寛永19年(1642)5月没となっていることから、寛文12年頃の造立と推定。

場所  葛飾区細田4丁目15-1

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2022年12月28日 (水)

鼎(かなえ)地蔵(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉に「かなえ通り」という道があり、京成本線の踏切には鼎地蔵なる場所がある。かつてのかなえ通りは上下之割水(小岩用水)が流れていた水路敷でここには鼎橋という橋があったようだ。今は水路ではなく線路を渡る場所になっている。

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左にある巨大な燈籠は葛飾区周辺でしばしば見かけるタイプ。説明の石標があり、「本燈籠は寛延4年(1751)伊予大川藩加藤家六代藩主が将軍吉宗の菩提を弔うために寛永寺に奉納したもの。昭和40年(1965)に鎌倉4丁目の田邊氏が寛永寺より譲り受け自宅に置いていたものを鎌倉地区の文化財としてこの地に移設した」と書かれている。将軍の菩提を弔う大燈籠は結構あちこちで見かける。

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しかし鼎地蔵としての主役はこちらの2基の石仏だろう。左は高さ1.5mほどもある舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は寛文3年(1663)9月と古いものである。「奉造立地蔵菩薩一尊庚申講の供養二世安楽悉当成仏也」とあるので庚申講中によるものである。「武刕葛飾・・」という文字もある。右の笠付角柱型の石仏は庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄に、尊像が左手にショケラを下げている。造立年は安永6年(1777)9月で、右側面に「右 江戸みち 奥戸渡し迄半道 橋向左リ矢切渡しみち」という道標が刻まれている。

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大きな地蔵の左袖に小さな舟型の地蔵があった。紀年等は不明だが、「為閑心院権少僧都広年和尚  遭難者諸精霊菩提」とある。一体何を弔ったものだろうか。

場所  葛飾区鎌倉3丁目46-5

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2022年12月27日 (火)

輪福寺の地蔵(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉にある輪福寺は真言宗の寺院。創建は寛永2年(1625)と古いが現在はこじんまりとした雰囲気の寺院である。大正時代の頃まではほぼ田んぼで鎌倉新田と呼んでいた。

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寺の山門脇に煉瓦造りの立派な龕室(がんしつ)があり、中には丸彫の地蔵菩薩立像が祀られていた。見る限りでは造立年等は記されておらず、雰囲気的には江戸時代はおそらく間違いないだろうと思われた。

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輪福寺の裏手には柴又用水の下流域を潤す小岩用水が流れており、新田開発の苦労が沢山の用水路の掘削からわかり、かつそれが近現代になると道筋となって残っている。

場所 葛飾区鎌倉3丁目46-17

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2022年12月26日 (月)

浄光院の石仏(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉にある浄光院は真言宗の寺院で、創建は永禄年間(1558~1569)と伝えられる。近年無住の時代もあったらしいが、本堂も再建されきれいな寺院であった。

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山門を入ってすぐ右手にいくつかの石仏石塔が並んでいるが、そのうちのひとつが舟型光背型の地蔵菩薩像である。大きく刻まれた造立年は文化3年(1806)7月とある。台石には「念仏講中」と刻まれている。地蔵菩薩にはくっきりと円光が描かれているが、尊顔は摩滅してしまっている。

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浄光院の創建年代である室町時代末期は鎌倉新田に人が入って開拓が始まった時期にあたるという。墨田区江戸川区足立区辺りには〇〇新田という旧地名が多いが、徳川江戸入城以前は低湿地帯が殆どを占めており、開拓には苦労があったはず。しかし民家がある程度集まると、寺院と神社ができるという日本人らしい村づくりを経て今があることを、静かな境内では感じることができる。

場所  葛飾区鎌倉1丁目31-3

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2022年12月25日 (日)

大珠院の石仏(葛飾区鎌倉)

葛飾区に鎌倉というところがある。諸説あるが元々鎌倉新田という開発でできた土地。相模の鎌倉と直接的な関係はないようだ。もっとも関東には縦横無尽に鎌倉街道が通っているから、鎌倉の地名はあちこちで見かける。現在の柴又街道(都道501号)は金町から江戸川区一之江までまっすぐに伸びているが、その柴又街道沿いに大珠院がある。

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真言宗の大珠院は寛永3年(1626)の創建。写真の右端に暗く写っている宝篋印塔は徳川吉宗の子である徳川宗武が側室の為に建立したものとされる。この寺は宗武の隠居寺だったそうである。五輪塔の手前、道路側に地蔵菩薩が並んでいる。

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背の高い丸彫の地蔵菩薩像は明和3年(1766)3月の造立。台石正面に「奉造立地蔵尊像」と書かれている。総高は2.5mほどもあり大きいが、その右にある舟型光背型の地蔵菩薩像はそれに比べると随分小さい。こちらは寛延3年(1750)8月の造立。施主おくらとあるので女性だろうか。江戸時代の女性は意外に活発である。

場所  葛飾区鎌倉4丁目4-3

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2022年12月24日 (土)

医王寺の石仏(葛飾区柴又)

京成成田空港線の新柴又駅の傍にある薬王山医王寺は真言宗の寺院。創建は応永4年(1407)と古く、当所は薬王寺として創建された。下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたが、戦国時代の国府台合戦で罹災し江戸時代に入って医王寺と改めた。

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高架の前に立派な山門があり、その向こうに石仏が見える。もともと江戸時代は江戸川のすぐ近くにあったようだが、大正4年(1915)に現在地に移転している。

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並んでいる石仏の一番左は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像が陽刻され、台石に三猿が彫られている。造立年は享保2年(1717)7月。尊像右に「奉新立青面金剛二世安楽祈所」とあり、左側の紀年の下に「同行衆中」とある。隣りのひときわ大きな舟型の地蔵菩薩は紀年が見当たらず、葛飾区の資料では江戸時代のものとしている。尊像脇には「尊像二世安楽 念仏講」「奉造立地蔵菩薩」と刻まれている。右の舟型の如意輪観音像は宝永6年(1709)6月の造立。「奉新造立如意輪観自在尊像 願主施主 二世安楽所」とある。右端の小さな石仏は不動明王像。

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更にその右にあったのが、この角柱型の供養塔。正面には「讃岐国甲山寺写」とあることから四国八十八ヶ所第74番の香川県讃岐国にある甲山寺に因むものか。右側面には寛政4年(1792)7月の造立年の他に「大和国南円堂」とあるが、これは奈良の興福寺にある南円堂(西国第9番)を指していると思われる。甲山寺は医王山甲山寺であるから同じ山号である。

場所  葛飾区柴又5丁目13-6

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2022年12月23日 (金)

題経寺墓地の石仏(葛飾区柴又)

柴又帝釈天の題経寺の墓地は帝釈天の境内ではなく、900mほど南の京成成田空港線の新柴又駅の北にある。境外墓地というものは意外に質素なものだが、この題経寺の境外墓地はなかなか立派な門構えと敷地であった。

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門の中に入ると左手に、浅間山噴火川流溺死者供養碑というものが立っている。天明3年(1783)7月に題経寺の住職主導で建立された供養塔である。武州葛飾郡東葛西領柴又村の銘がある。

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浅間山の天明の噴火は同年7月5日から8日にかけて発生。関東一帯は甚大な被害を受けたが、利根川上流の吾妻川(八ッ場ダムで有名)では山津波と降灰で川が堰き止められた後、決壊して下流は大洪水、死者2000人余りとなった。利根川を流下した溺死体は多数がこの柴又の地に流れ着いた為にその供養のため建てたものである。当時の江戸川は利根川と繋がっていた。

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さらに墓所の方に入っていくと脇に石仏が並んでいる。左の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保2年(1717)3月と刻まれている。左側には「奉造立二世安楽所」と書かれている。右の舟型光背型の石仏はどうも菩薩っぽい。寛文9年(1669)9月の造立年が刻まれており、「庭講中」と書かれている。「庭」が何を指すのかは分からない。

場所  葛飾区柴又5丁目9-22

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2022年12月22日 (木)

柴又帝釈天(葛飾区柴又)

フーテンの寅さんで日本人なら誰でもその名を知っている柴又帝釈天。正式には日蓮宗の題経寺というお寺である。創建は江戸時代初期の寛永6年(1629)だが、安永8年(1779)の本堂改築の折に梁の上から日蓮上人の自刻と伝えられる帝釈天像の版木(板本尊)が庚申の日に発見され、柴又帝釈天として有名になった。

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以来発見の日に因んで庚申の日を縁日として、江戸では有名な「柴又の帝釈天」として多くの参詣者がいる寺院となった。二天門も見事で、その正面は本堂ではなく帝釈堂である。本堂は右に並ぶ建物。江戸時代の新編武蔵風土記に描かれた題経寺はもっと質素な感じだが、いつからこんなに豪華になったのだろうか。

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二天門と南大門の間にひっそりと立っていたのがこの帝釈天出現由来碑である。この碑は弘化2年(1845)5月に建てられたもので、前述の由来を漢文で記してある。

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個人的に興味をそそったのはこの草木供養の碑である。東京には8基ほどあるが、その他は殆ど山形県置賜地方に集中しており、全国で170基程度で県外では20基ほどしかないもの。勿論新しいもので、東京造園組合が60周年記念で平成16年(2004)に建立したものである。題字は石原慎太郎(当時の東京都知事)による。

場所  葛飾区柴又7丁目10-3

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2022年12月21日 (水)

真勝院の石仏(葛飾区柴又)

帝釈天の北にある真言宗の寺院が真勝院。相当な古刹で、創建年は大同元年(806)と伝えられ、江戸時代までは柴又八幡神社の別当を務めていた。帝釈天の題経寺は江戸時代初期の創建であるから、真勝院はそれ以前のこの地の中心とも考えられる。

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入口は豪華な山門。その先は真っ直ぐな参道で正面に本堂が立つ。本堂に向かう参道の右手にいくつもの石仏が並んでいる。

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本堂の手前にひときわ目立つ立派な5基の石仏が並んでいる。「五智如来像」といい、密教では大日如来の智慧を5つに分け5仏に充てている。右から、阿閦如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来で、中央の大日如来がAKB48ならぬセンターの役目。右に笠付角柱型の石塔があり、万治3年(1660)10月に柴又村の名主済藤次良衛門と相模伊勢原村の鳥居九良佐右衛門らにより逆修供養のために建てられたとある。

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鐘楼の階段の下には廻国供養塔が一基ぽつんと立っている。なんとも不思議な立ち位置である。この供養塔は正面に「奉供養日本廻国六十六部 二世安楽攸」とあり、造立年は享保12年(1727)7月と刻まれている。

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鐘楼の山門側には無縁仏塔があり、綺麗に整列しているが、その最前列にあるのが舟型光背型の六地蔵菩薩。左の2基は後年の再建だと思われるが、葛飾区の資料では江戸時代造立としている。「真言講中」という文字もみられる。

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無縁仏塔の中に異質な雰囲気の馬頭観音があった。新しいもので昭和35年(1960)5月の造立とある。願主名は秋山シンと書かれている。戦後の馬頭観音は意外に少ない。

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無縁仏塔の後ろの方に並ぶ立派な舟型の聖観音像が目に入ってくる。造立年は寛文9年(1669)9月とあり、「奉造立観音尊像念仏▢人▢二世安楽所」と刻まれている。願主名がいくつも刻まれているので、念仏講中によるものだろうか。

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無縁仏塔の右、墓所側に立っていたのがこの大きな舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は削られていて分からないが葛飾区の資料では江戸時代となっている。その他の刻銘なども削り取られた痕跡があり不明。この刻銘を削り取った石仏をしばしば見かけるが、どういう目的で削っているのだろうか。

場所  葛飾区柴又7丁目5-28

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2022年12月20日 (火)

柴又八幡の馬頭観音(葛飾区柴又)

柴又にある柴又八幡神社の創建年代は不詳。その後の発掘(昭和40年頃)で、この神社は6世紀~7世紀の直径20~30mの円墳の上に築造された神社であることが分かった。江戸時代の柴又村の鎮守として親しまれてきた神社である。

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境内には柴又用水の碑などがあり、柴又という土地が微高地であったことから、水の確保が難しく、天保6年(1835)に何とか用水が引かれて状況が改善されたとある。ブラタモリでもキャサリン台風の時ですら帝釈天には水は浸水しなかったとやっていた。

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社殿の左側に複数の祠が祀られているが、その中に一基だけ馬頭観音がある。舟型の馬頭観世音菩薩で、造立年は文化14年(1817)4月。柴又村の銘もあることからこの地のものであろう。

場所  葛飾区柴又3丁目30-24

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2022年12月19日 (月)

良観寺の石仏(葛飾区柴又)

京成金町線は金町から柴又の間、広大な金町浄水場の脇を走る。この浄水場は東京23区、武蔵野市、三鷹市、町田市、多摩市、稲城市に水道を供給している。もっとも都内の水道は各地の浄水場の水が混じっているので、すべてを供給しているというわけではない。帝釈天の北側に浄水場が出来たのは大正15年(1926)だからもうすぐ百年になる。

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浄水場とは京成金町線の線路を挟んだ西側にある良観寺は真言宗の寺院で、創建年代は不詳ながら、室町時代末期~江戸時代初期の間に創建された念仏堂が起こりだとされる。当時は念仏講が盛んになったころである。

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山門をくぐるとすぐに右手に舟型光背型の六地蔵が並んでいる。造立年は文化4年(1802)2月というものと、文化4年7月というものがあった。「先祖代々一切精霊為菩提也」と書かれている。若干大きさと形が違うので、もしかしたら後に集めて六地蔵にされたのかもしれない。後ろに回ってみると一番右のお地蔵様は「1984年8月再建」と西暦で書かれていたが、他の5基は江戸時代のようである。

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山門の脇にある舟型光背型の大きな地蔵菩薩像は文久元年(1861)3月の造立と書かれている。「奉造立延命子育地蔵尊」とあるので、子供がちゃんと育つことを祈願して建立されたものだろう。3人の子どもの戒名があり、嘉永7年(1854)10月、安政3年(1856)12月、安政6年(1859)2月の命日が刻まれていた。

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すぐ近くに在ったこの半跏像も立派な丸彫の仏像である。地蔵なのかそうではないのかは分からない。寛保3年(1743)10月の造立年が刻まれている。明治時代には金町線は「帝釈人車鐡道」と地図に記されている。明治30年(1897)に金町駅が出来て柴又帝釈天への参詣客が急増した。その為敷設されたのだが、車両は1両に6人乗り、現在の軽バンのような大きさで人間が押していたという。

場所  葛飾区柴又3町目33-13

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2022年12月18日 (日)

高砂の子育地蔵(葛飾区高砂)

京成高砂駅で京成線は京成本線、北総線、京成金町線に分岐している。北側を曲がって北上していくのが単線の京成金町線で、駅は柴又と京成金町のみである。この京成金町線が走る北側の路地に子育地蔵と弘法大師像の堂宇が並んでいる。

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左奥が弘法大師像で、南葛八十八ヶ所霊場の第16番である。南葛八十八ヶ所は大正12年に葛西の農民宇田川万次郎が発願してできたローカル霊場巡りである。右の堂宇には舟型光背型の地蔵菩薩が祀られている。堂宇の向かいに日蓮宗の妙栄院があるが、この大師像と子育地蔵の管理は高砂駅の西にある観蔵院が受け持っている。

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なかなか立派な舟型地蔵だが、下半身が溶けるように摩滅している。塩地蔵として塩をかけられたのだろうか。造立年は寛文3年(1663)8月と古いものである。尊像の右には「奉新造立地蔵菩薩尊像一体」と刻まれている。明治時代の地図をみると線路に沿って北東へ繋がる道は明治以前からあった道すじ。子育地蔵の場所には鳥居の印がある。大正時代くらいまでは神社があったようだ。

場所  葛飾区高砂5丁目47-5

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2022年12月17日 (土)

高砂天祖神社庚申塔(葛飾区高砂)

葛飾区高砂にある天祖神社はかつての曲金(まがりかね)村の鎮守で中世の勧請と伝えられる。当時この地には葛西御厨(かさいみくりや)という荘園があり、伊勢神宮の御厨であった。鎌倉時代この地を支配していた葛西氏による勧請。

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高砂天祖神社の北側には現在京成本線が走っている。鳥居は南向きに立っており、線路を挟んで北側には別当寺であった観蔵寺がある。鳥居の前を東西に走る路地は昔の帝釈天道のひとつで、現在の高砂橋の辺りで中川を渡る曲金の渡しで青戸から渡ってそのまま東進して柴又帝釈天に参詣する道であった。鳥居の脇には2基の庚申塔が立っている。

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左のやや背の高い方の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。青面金剛の左手にはショケラが下がっている。造立年は寛政4年(1792)2月とある。右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。かなり風化して読みにくいが、右側面に安永4年(1775)正月の紀年がある。

場所  葛飾区高砂2丁目13-13

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2022年12月16日 (金)

下河原の庚申堂(葛飾区高砂)

葛飾区高砂の北の端に近い亀有警察署亀田橋駐在所の脇の路地に庚申堂がある。亀亀で両津カンキチが出てきそうだが、普通の住宅街の駐在所で、都内ではこの住込みタイプの交番はあまりない。橋もないのに亀田橋とは、と不思議に思った。下河原という古い地名は中川の左岸の字名で中川を挟んで青戸がある。この交番の前を北から下りてきて、左折して庚申堂の前を通り、柴又へ向かう道はかつての佐倉街道であり、庚申堂は街道に面していた。

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庚申堂のあるお宅は矢作家という古くからあるお宅で、亀田橋というのはここを流れていた上下之割用水(西井堀)に架かっていた橋である。古道が通っていたからこそ、今は何もない場所に亀田橋という地名が残る。都心でも多くの〇〇橋という地名が残っており、坂と橋は江戸のランドマークだということができる。

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堂宇内の石仏は左端に角柱型の石塔があり、上部の前面、左右面にそれぞれ一猿、計三猿が陽刻されている。正面には「是より右 下河原村 左 さくら海道」、右面には「下之割への道」、左面には元禄6年(1693)6月の造立年が刻まれている。下の割というのは東葛西領の南側の地域で現在は江戸川区になる。隣りの小さな如意輪観音像は江戸時代のものらしいが、詳細は不明。新しい櫛型の地蔵菩薩像は台石に「下河原 北向地蔵」と書かれている。下河原は新宿の小字でここの石仏のいくつかはそこにあったものらしい。

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右から三番目には舟型光背型の地蔵菩薩像があるがかなり摩滅が進んでいる。造立年は正徳2年(1712)10月。「奉納庚申供養仏講中」とあることから庚申地蔵と思われる。「左 やわたみち」という文字も見られるので、これは本八幡のことだろうか。その右は小さな比丘尼の像で、右端は如意輪観音像。どちらも江戸時代のものとされている。

場所  葛飾区高砂6丁目13-27

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2022年12月15日 (木)

西念寺の石仏(葛飾区新宿)

葛飾区新宿の中川左岸にある西念寺は浄土宗の寺院で、創建は文安5年(1448)僧浄円が結んだ草庵を始まりとしている。寺院としての創建は天文元年(1532)とされる。時代としては室町時代になる。

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長い参道を進むと山門があり、その先の本堂まで一直線でなかなか気持ちのいいものである。山門をくぐると本堂までの右手に庫裏、左手に複数の石仏が並んでいるがほぼすべてが墓石のようだ。

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本堂の左脇に背の高い丸彫の地蔵菩薩像がある。これが葛飾区の記録にある寛保2年(1742)11月造立の地蔵と思ったが、よく調べてみると記載の地蔵はいくつかの欠損があり補修されていると記されている。確かに記載通り錫杖は欠損して補修した跡があるが、これがその地蔵かどうかは文字が読めなかったので自信がない。

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そこから墓所に入ると5基の石仏が祀られている。左に2基の角柱型石塔、中央が観音像。その右は八臂の観音像で、右端が地蔵菩薩である。左の3基については、「生簀守の墓」とされており、中央の舟型光背型の観音像は矢作藤左衛門銘供養碑となっている。この辺りには将軍がしばしば鷹狩りに訪れており、その時に食膳に供する魚として、新宿村の生簀の魚を献上した。「池守を矢作籐左衛門といひ、月俸を賜りしとそ、子孫今も村内に居れり」と『新編武蔵風土記』にあるようだ。観音像には法名と▢▢▢天正月九日という文字があるが、肝心の紀年部分が欠損している。

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右から2番目は珍しいはち臂の観音像で、「奉供養肝(寒の誤字)念仏志施主 順逆菩提」とある。造立年は享保7年(1722)秋7月とある。今でいえば8月の下旬で初秋という時季だろうか。右の地蔵菩薩像にも「解念仏供養」とあるが、説明板によると「解(とき)念仏供養」といいもとは「斎」念仏というそうで、昼の食事の前に行う念仏講の供養塔らしい。造立年は不明だが、説明板では観音像と同時代としている。

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近くの無縁仏群の主尊として舟型光背型の地蔵菩薩像がある。葛飾区の資料では無縁仏の主尊は丸彫の江戸時代の地蔵菩薩像と書かれている。しかしここには丸彫の地蔵はなかった。この地蔵も立派なものだが造立年等は読み取れなかった。

場所  葛飾区新宿2丁目4-13

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2022年12月14日 (水)

宝蓮寺の石仏(葛飾区新宿)

葛飾区新宿にある宝蓮寺は真言宗の寺院。創建は天文元年(1532)で織田信長の生まれた2年前、室町時代末期である。関東では北条早雲が支配を進めたころで江戸のこの辺りはまだまだ未開の地だった。

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宝蓮寺は水戸街道を東進し中川を渡し船で渡った先で、水戸街道が右に折れる角の地にあたる。中川橋の東岸の新宿小学校西の交差点から南に向かう道がかつての水戸街道である。昔は渡し舟を下りた正面にこの山門が見えたのだろう。境内には多くの石仏があるが、古い墓石が多い。

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道路側の塀の手前の植込みに駒型の庚申塔があった。日月、青面金剛像、邪鬼、一猿、一鶏が描かれており、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は不詳だが、葛飾区の資料によると江戸時代か…とある。台石にも文字があるようだが土中に埋まっている。

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本堂の左手前には小堂宇が並んでいるが、そのうちのひとつに枯れ木のようになった石仏が祀られている。調べてみると「塩地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩のようである。年代等は分からないが、地蔵菩薩像と伝えられている。その脇には2枚の板碑が立てかけてあった。

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梵字は読めないが、左の板碑は文明5年癸巳とあるから西暦では1473年で8月。寺の創建よりも古い。右の板碑は上部が欠損しているが、天文11年(1542)のもので、これは創建以降のものである。秩父青石がいかに丈夫かがよくわかる。

場所  葛飾区新宿2丁目11-22

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2022年12月13日 (火)

かんのん橋の石仏(葛飾区新宿)

新宿小学校の南に馬頭観音堂がある。数坪もある大きな観音堂だが、施錠されていて中にある本尊の馬頭観音は拝せなかった。堂内には安永3年(1774)10月造立の馬頭観世音菩薩の石仏が祀られているらしい。

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この観音堂の南隣りに「かんのん橋」のモニュメントがある。昔はこの辺りは農業用水が張り巡らされ、ここには上下之割用水という水路があって橋が架けられていたのだろう。北隣の民家側にいくつかの石仏が並んでいる。

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手前に在ったのは立派な舟型光背型の地蔵菩薩像。高さは1.4mほどあり、尊像右に「寒念仏志衆中現世安穏後生善生」と書かれている。左側には造立年があり、正徳元年(1711)12月の造立で、願主は伝心とある。この地蔵菩薩は以前は帝釈道の石仏群のところにあったもので、こちらに移設したようだ。

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その先には新しい馬頭観世音と大きく彫りこまれた石塔がある。願主名が石川良蔵とあるが、造立年はおそらく裏にあるのだろうけれど、金網で確認することが出来なかった。

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その奥に在ったのが、風化による剥離がかなり進んだ馬頭観世音。おそらく駒型だったのだろうか。側面には文化2年(1805)12月の造立年が刻まれている。下部には「新宿 馬持▢」とあるので、水戸街道で馬による運搬を行っていた人によるものだろう。

入口にある黒御影石の石塔には「東葛西領新宿町は往路駅停の役割を持ち、人馬や荷駄の輸送にあたった乗継場があり、多くの馬が使われた。この地は宿場時代の馬捨場で、死亡した牛馬の供養のために三面の馬頭観世音像を安置した馬頭観音が正徳元年(1711)に建立され、今日に至っている。庭には牛馬供養、犬供養、寒念仏などの碑があり…(後略)」と書かれている。

場所  葛飾区新宿2丁目24-10

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2022年12月12日 (月)

帝釈道の石仏群(葛飾区新宿)

葛飾区の新宿(にいじゅく)小学校の南の変形交差点の一角に石仏群がある。道路に囲まれた三角地にはベンチがあり、地元の御老人たちが集って世間話に花を咲かせている。北西には新宿小学校があり、子供も多く、ほっこりする町である。この三角地の南側の路地はかつての水戸街道の旧道で、金町あたりで現在の国道6号線筋になって北東へ伸びていた。

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またこの旧水戸街道は柴又帝釈天への道でもあり、その為「帝釈道」とも呼ばれている。石仏群の先には帝釈道碑が立っている。自然石で造られたこの帝釈道碑は明治30年(1897)7月に建てられたもの。

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施主は当村石井清吉、石工は亀有の森田常作と刻まれている。千住から東に向かった水戸街道は明治時代半ばまで現在の中川橋を渡し船で渡り、新宿村に。そこからいったん南に行って新宿日枝神社で東に転じ、現在の水戸街道の辺りで佐倉街道と出合う。そこには現在も石橋供養道標がある。佐倉街道と合わさって北上するとこの場所に至るという道筋である。したがってここは水戸街道、佐倉街道、帝釈天道と3つの街道が一緒になっていた交通の要衝だった。

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石仏群の右端に並ぶのは舟型光背型の六地蔵尊。同時に造立されたもので、造立年は享保3年(1718)10月と刻まれている。それぞれ部分的な欠損は見られるものの、補修してある。

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その左には2基の六十六部供養塔と庚申塔がある。右の小さい方の駒型の供養塔は正面に、「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、宝暦11年(1761)10月の造立。中央の駒型の供養塔にも「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、こちらは宝永5年(1708)9月の造立。「乃至法界自他平等 ▢主安楽即身成仏」とある、左の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、享保7年(1722)11月の造立。刻銘は「奉建立青面金剛一躯為二世安楽也」とあり、三猿の下には願主名と共に新宿町の銘がある。新宿町は新宿村の街道沿いの地名らしい。

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左の方には3基の地蔵菩薩像、中央は地蔵かどうかわからない。右の舟型光背型の地蔵菩薩像は宝永3年(1706)10月の造立で、「奉造立六道能化地蔵菩薩二世安楽処」と刻まれている。中央は地蔵なのかその他の仏なのかは不明。右上が大きく欠損し、尊顔も判別がつかない。造立年は宝永7年(1710)12月という文字が読める。左の小さな地蔵菩薩は刻銘が削られてしまっていて詳細は分からない。

これだけの石仏が集まっていることが不思議だったが当時の街道の賑わいやこの先の旅の安全を願う様子などが、こうして石仏を見ていると想像できるから面白い。日陰でホワイトバランスを失敗して画像が暗くなっているのはお許しいただきたい。

場所  葛飾区新宿4丁目7-19

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2022年12月11日 (日)

慶円寺の石仏(葛飾区新宿)

葛飾区新宿(にいじゅく)は新宿が有名になりすぎたのでなかなか読めなかったりする地名。川越市にあるのは新宿(あらじゅく)でそれぞれ読み方が異なるのは興味深い。葛飾の新宿はにい宿の渡しがもともと中川にあり、水戸街道の宿場であった。同時に佐倉成田街道と水戸街道の分岐点でもあった交通の要衝である。

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新宿5丁目にある慶円寺は浄土宗の寺院で、当地の村民である五郎右衛門夫婦が出家して創建したとされる。ただそれがいつの時代のことかは分かっていないようだ。横に広く伸びる松の樹がすばらしい。この松の枝の下にいくつかの石仏が祀られている。

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本堂に近いところにあったのがこの舟型光背型の地蔵菩薩像。正徳4年(1714)12月の造立で、高さは1.4mほどもある。尊像脇には「寒念仏志衆中現世安穏後生善生」と刻まれていることから念仏講中によるものだろう。下部に願主伝心とある。

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墓所よりに在ったのがこの舟型光背型の如意輪観音像。造立年は天和2年(1682)4月と読めたが、墓石かもしれない。もしこの石仏が開山当時からここに在ったとすると、寺の創建は江戸時代初期ということになるだろう。

場所  葛飾区新宿5丁目5-2

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2022年12月10日 (土)

大円寺の石仏(葛飾区金町)

葛飾区の常磐線金町駅のすぐ南にある大円寺は真言宗の寺院。こじんまりとしたお寺で大きな本堂があるわけではないが、江戸時代の創建と伝えられる歴史ある寺。詳細は分からないが、東金町(ひがしかなまち)にある金蓮院の門徒が開いたという。

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この辺り、江戸時代は金町村という土地で、西に接していたのが新宿村(にいじゅくむら)。金町という地名は室町時代から使われてきた地名で、由来は諸説あるが、水戸街道がクランクになっており(防衛上の設計)、それを曲金(まがりかね)と呼ぶようになった。曲金の町でカナマチとなったという説があるらしい。

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境内に在ったいくつかの石仏のうち、上の写真の舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄11年(1698)8月の造立。文字はかなり風化して読めなくなっており、紀年の下にある「施主 敬白」というのがかろうじて見える。

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入口近くに並んでいた丸彫の地蔵菩薩坐像は背中や台石の文字が消えてしまっていた。葛飾区の資料によると江戸時代のものらしく、元は護国寺(文京区大塚)にあったものを移したという。

場所  葛飾区金町5丁目30-6

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2022年12月 9日 (金)

照明寺の石仏(葛飾区新小岩)

新小岩にある真言宗の照明寺は小松川境川の右岸に位置している。元々この地は正福寺があった場所で、正安3年(1301)に正福寺がここ下小松村から上小松村へ引っ越したのでこの場所に創建されたという寺院である。元寇ののちの鎌倉幕府の弱体化の時代で、正福寺・照明寺ともに真言宗の寺院だが平安時代の密教として空海が開いた宗派。周辺には真言宗の寺院が比較的多い。

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とてもきれいな境内であるが本堂は安政2年(1855)の安政大地震の後に再建されたものという。もちろん明治時代と大正時代に大規模な補修がされたらしいが、歴史と風格を感じる本堂である。

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本堂手前にある堂宇には六地蔵+中央像がある。中央の大きな丸彫地蔵菩薩像についてはかなり風化が進み文字も読めない。両側の六地蔵は享保11年(1726)10月の造立で、「万界霊位」「三界万霊」「二世安楽」などいろいろな言葉が刻まれている。

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本堂裏手にまわると堂宇の中に舟型の仏像と丸彫の地蔵菩薩像がある。舟型の方は比丘尼像のようだが、造立年などは確認できなかった。台石の願主名から推するに近代のものだろう。手前の丸彫の地蔵は安永8年(1779)6月の造立年が刻まれている。右手前の「講中」という台石がいささか気になった。

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小堂の手前には笠付角柱型の庚申塔と角柱型の馬頭観音がある。庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛は八臂である。左側面に明和7年(1770)9月の造立年があり、右側面には「奉供養大青面金剛尊像」と刻まれている。馬頭観音は比較的大きいもので、大正3年(1914)9月のものである。

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一番本堂寄りには2基の舟型光背型の聖観音像があったが、これはどちらも墓石のようである。左の大きい方が延宝6年(1678)8月のもの、右の小さい方が延宝3年(1675)5月のもので、どちらも摩滅はしているが古いものである。

場所  葛飾区新小岩3丁目19-6

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2022年12月 8日 (木)

小松の足止の道陸神(葛飾区新小岩)

JR総武線新小岩駅の東、住宅街の中に広い空き地があり、小社が祀られている。新小岩天祖神社の末社と書かれているが、武蔵御嶽神社の祠と板碑型の庚申塔、そして出羽三山供養塔が並んでいる。昔は小松川境川の右岸で下小松と呼ばれていた地域である。

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なぜこれほどまでに空き地が広いのか不思議だが、どうも昔から社地として扱われてきた土地のようである。右端にある武蔵御嶽神社の小祠は昭和の初め頃に御注連縄(しめなわ)講という集団の役員が招聘したものらしい。御嶽山は青梅奥多摩の御嶽で、多摩川流域にはこの講中が多いが、ここにまで広がっていたとはいささか驚いた。

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屋根付の下にあるうち、右の板碑型は庚申塔である。正面には「奉造立庚申待二世安楽之所」とあり、延宝7年(1679)9月の造立年が刻まれている。縁には「同行十七人」と書かれている。この辺りではこの庚申塔を塞ノ神として祀り、「小松の足止めの道陸神」と呼んで来たらしい。嫁や婿等の家出人の足を止めて帰らせ、また願を掛けると古い家出人が不思議と戻ってくるというご利益があるらしい。左の駒型石塔は出羽三山供養塔で、月山、湯殿山、羽黒山供養塔と刻まれている。上部には日月が陽刻されていた。

場所  葛飾区新小岩3丁目12番地先

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2022年12月 7日 (水)

六字名号塔(葛飾区新小岩)

葛飾区の総武線新小岩駅の南に葛飾区と江戸川区の区境がある。この区境は小松川境川の川筋になっているが、かつてはこの境川沿いに民家が集まっていた。のどかな農村風景が戦前までは見られたようである。江戸川区本一色から北上する鹿骨街道が総武線を渡る小松橋の南の袂近くに一基の石塔が立っている。

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葛飾区の説明板があり「六字名号塔」とある。江戸時代中期以降、多くの廻国行者が全国各地に廻国供養塔を建立した。廻国行者は六十六部廻国供養といい、66か国を巡拝して一国一ヶ所の霊場に法華経を一部ずつ奉納する活動を行っていた。この六字名号塔の正面には「南無阿弥陀仏」と書かれている。供養塔の造立年は享保16年(1731)11月で、佐藤次良ヱ門という人物が中心となって建立。右側面には「三界万霊」、左側面には「念仏修行橋造立上下之割村々志為二世安楽」と刻まれている。

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説明板によるとこの供養塔には逸話があり、願主の佐藤次良ヱ門は一年の間に二人の子供を亡くし、その供養のために廻国行者となり全国行脚をしたという。帰村後、村を流れる枝川の端の基礎部分を寄進し、橋の安全、子供の供養、旅の安全を祈願してこの供養塔を建立したという。1700年代前後の造立の廻国供養塔はあちこちにあり、同じような背景を持っているのだろうといささか深く思うところがあった。

場所  葛飾区新小岩4丁目32番地先

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2022年12月 6日 (火)

光照寺の石仏(江戸川区本一色)

江戸川区本一色(ほんいっしき)にある光照寺は真言宗の寺院で創建は嘉慶元年(1387)という古刹である。但し、当所は慈眼寺という名で開き、延享2年(1745)に光照寺と改名。江戸時代には本一色村には光照寺のほかに円勝寺があったが、明治5年(1872)に廃寺。その円勝寺があった土地に光照寺が移転した。円勝寺は元亀2年(1571)の創建であった。

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本一色は「もといっしき」と読んだ時代もあるらしい。江戸時代から続いた本一色村は明治22年(1889)に鹿本村に合併となっている。鎌倉時代に一色村という村があり、上一色と本一色に分かれた。荘園時代のことである。もとは一色氏という名前からくるという説がある。この辺りは寺の創建なども考えると古くから人の営みがあった場所であろう。

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本堂手前右側には2基の庚申塔が立っていた。右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、元禄4年(1691)9月の造立。右肩に「奉供養庚申」、左肩に「為二世安楽也」とある。左の庚申塔も駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。側面を見ると左右下部に大きな鶏が対になっている。青面金剛の左手にはショケラが下がっている。造立年は宝暦9年(1759)7月で、右側面の鶏の上に「権大僧都永慶代」と刻まれている。

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庚申塔の左手の堂宇には舟型光背型の地蔵菩薩像がある。明治2年(1869)8月の造立で、尊像左に「延命地蔵尊」とある。まだまだ子供が産まれてもなかなか育たずに死んでしまう時代、現代のような新生児生存率になったのは戦後のことだから、昔の人々の元気に育ってほしいという気持ちはとても大きかったのだろう。

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地蔵の堂宇の後ろに宝篋印塔が立っていた。この宝篋印塔の文字を読んで寺の歴史を改めて感じた。「東武葛西郡葛西本一色邑 紫雲山円勝寺住法印永範敬白」と記されていたので、明らかに光照寺が移転する以前からここにあった廃寺となった円勝寺のものである。造立年は元文2年(1737)11月とある。

場所  江戸川区本一色3丁目16-28

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2022年12月 5日 (月)

松本橋の庚申塔(江戸川区松本)

松本橋は新中川に架かる橋で現在車両通行止めにして工事を行っている(2022年現在)。旧橋は新中川の開削終了に合わせて昭和31年(1956)に架設されたが、60年以上が経過して老朽化が進んだのと、幅員が狭いことで、架け替えになった。おそらく来年は通れるはずである。

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橋への取り付け道路が上り坂になる手前に小さな堂宇があり、その中に庚申塔が祀られている。この新中川が昭和の中期に出来たことを知らない人も多いかもしれない。それ以前は長閑な農村風景が広がっていたようだ。

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庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。青面金剛は左手にショケラを下げている。右側面には造立年があり、明和7年(1770)7月とある。左側面には「願主 新五郎」と刻まれているが、苗字は分からない。江戸川区の無形文化財に「松本の念仏講」があるが、その念仏講はすぐ北にある光蔵寺に集まっていたらしい。庚申講は少数派だったのだろうか。

場所  江戸川区松本2丁目31番地先

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2022年12月 4日 (日)

菅原橋の地蔵(江戸川区松本)

国道14号線千葉街道が通る江戸川区におそらく日本で最も多い11差路を有する菅原橋交差点がある。千葉街道の南側を歩いていてそのまま進みたいのだが、横断歩道ですら3本渡らないと前に進めない。菅原橋というだけあってここはかつて佐倉道だった頃は複数の用水路と道が交差する橋であった。

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近代になって水路をすべて暗渠化して道路にしたので、こんな複雑な交差点が出来上がってしまったのであろう。基本的には千葉街道に対して鹿骨街道が交差して、それに向かって3本の道が集まっている。これだと7差路だが、暗渠道が絡まり合って+4で11差路という訳である。この交差点の千葉街道南側に地蔵堂があり、真新しいお地蔵さまがいらっしゃる。

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実はこの地蔵は2016年頃に新しく建て直されたもので、きっと古い地蔵があったはずと調べてみた。2009年頃まではここにも古い堂宇がありその中にとろけて最後のアイスバーのようになってしまった舟型光背型の地蔵菩薩像があったようだ。残念ながらその地蔵菩薩像の詳細は分からない。新しいお地蔵様は可愛い子供のような容姿。台石に何か書いてあるが御影石なので文字が全く読めない。きっとここのお宅は何百年もこの場所の地蔵を守って来られたんだろうなと想像して頭が下がる。

場所  江戸川区松本1丁目34

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2022年12月 3日 (土)

東小松川中道の庚申塔(江戸川区中央)

国道14号は八蔵橋で五分一通りの筋に折れて北東に向かう。五分一通りからの道筋はかつての佐倉街道(千葉街道)で、江戸時代の初期に開かれた街道筋。明治時代になって千葉街道として整備された。江戸時代から昭和初期にかけては境川に架かる八蔵橋を過ぎると辺り一面の水田地帯であった。

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現在ミニストップの辻にある堂宇に一基の庚申塔がある。この千葉街道に接続する路地はこの先不思議な曲がり方をしながら東に進むが、この細道がかつての河原の渡しに繋がる道のひとつだった。河原の渡しは江戸川区東篠崎と市川市行徳の河原地区の間の江戸川の渡しである。

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駒型の庚申塔で江戸川区によると「東小松川中道の庚申塔河原道石幢道標」という名前が付いている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は文化5年(1808)12月とある。台石の正面には「是よりかハら道」とあり、側面には「両国マテ二里 市河マテ一里」とあるが、市河は市川のことだろう。江戸時代の日本人はそこそこの識字率があったらしいが、やはり庶民は音としての言葉がメインで、文字は当て字が多いので面白い。

場所  江戸川区中央3丁目2-16

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2022年12月 2日 (金)

光福寺の石仏(江戸川区松島)

江戸川区松島にある真言宗の光福寺は長松山延命院光福寺といい、開山は天文元年(1532)と古い寺院である。通称「五分一不動尊」あるいは「いちょう寺」と呼ばれるらしい。五分一というのはかつてのこの辺りの地名で、古道である佐倉街道(千葉街道)はこの寺の前を通っていた。現在の五分一通りがその街道筋で、北東に進むと八蔵橋交差点で南からきた現代の千葉街道(国道14号線)が合流する。八蔵橋は千葉街道が境川を渡った橋名である。そのひとつ江戸寄りの支流に架かっていたのが五分一橋である。

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本堂横に大きな不動堂がありその中に不動尊が祀られているらしい。その本堂と不動堂に挟まれた裏手に大きな銀杏の樹がある。幹回り5m近い古木である。本堂手前の石仏を拝観していると、住職が帰ってこられ、いろいろな古い石仏を紹介して下さった。

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まずは駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。左側面に造立年があり、延享3年(1746)9月と書かれている。右側面には「奉造立青面金剛  西場講中 敬白」とある。西場という地名はどこにあたるのかは分からない。

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無縁仏群の主尊がこの舟型光背型の地蔵菩薩像である。文字が摩滅していて造立年は不明だが、頂部に「奉造立供養」と刻まれている。台石にはこの地蔵尊を無縁仏群の主尊にした記録があり、大正3年(1914)9月に三代目関口又左衛門という人物が寄進したとある。周りの無縁仏がほとんど江戸時代初期から中期のものなので、おそらくこの主尊もその時代ではないかと思われる。

場所  江戸川区松島1丁目9-24

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2022年12月 1日 (木)

東福院の石仏(江戸川区松島)

江戸川区松島にある東福院は真言宗の寺院。創建は寛永8年(1631)で江戸時代の初期。徳川家光の在位時代である。大和地方の人である秀円僧都という僧が西小松川にやってきた時に、土地の宇田川家、関口家、宮家などが迎え、この地に留まって一寺を建立した。

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立派な山門が建っているが、寺の入口は左の鉄扉からである。山門の裏手にはすぐに本堂があり、左の塀沿いに無縁仏塔群やその他石仏が並んでいる。山門脇の庚申塔はもとは大進路(旧小松川村の二つの鎮守である新小岩香取神社と西小松川天祖神社を結ぶ道)の道筋に在って、昭和31年に東福院に移転したもの。

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山門脇には大きな基壇の上に駒型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、二童子、三猿、四夜叉の図柄で、青面金剛の左手にはショケラっぽいものがあるが詳細不明。なかなか盛りだくさんな庚申塔である。尊像右には「奉造立青面金剛石」、左にはそれに続いて「像一躯為二世安楽」とある。江戸川区の資料によると享保12年(1727)の造立と推定されている。西小松川村の道ヶ島の庚申講中によるものだという。

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境内に入ると左側に2基の地蔵菩薩像が並んでいる。左側はとろけてしまい何も判別できない。右側の舟型光背型の地蔵は、元禄6年(1693)癸酉2月に造立されたもので、施主男女三十人とある。

場所  江戸川区松島3丁目38-18

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