(長命寺の続き)
2基の庚申塔の先にあるのは舟型光背型の聖観音像と如意輪観音像である。聖観音像は元文3年(1738)7月の造立で、「月妃童仙信士」と書かれているが、戒名が男性なのか女性なのかわからないところが面白い。身分のあるお妃さまの産んだ男の子を弔ったものと考えるのが自然だろうか。隣りの舟型如意輪観音像は宝永8年(1711)2月の造立で、これは「南無阿・・・」と剥離で読めないが墓石ではない可能性もある。

その先には馬頭観音が5基並んでいて、長命寺でなければこれだけでも壮観である。左端の角柱型は正面に「馬頭観世音」、側面に明治30年(1897)8月の造立年と「渡辺紋之丞建之」とある。2基目は上部が欠損しているがこれも角柱型だろう。正面には「馬頭観世音」の文字と明治37年(1904)8月の紀年があるが、右側面には明治40年(1907)4月の造立年と「施主 本橋三治郎」とあるから右側面が造立年で正面は馬の没年月があるのだろう。

真ん中の三番目も角柱型。正面は「馬頭観世音」、側面には大正12年(1923)4月の造立年と大野善吉という願主名が彫られている。右から二番目は上部が欠損しているので角柱型かどうか不明。正面上部の馬頭観世音座像は頭部が欠損、その下に「馬頭観世音」とあり、文化8年(1811)9月の紀年がある。側面には「武刕豊嶋郡谷原村 施主 杉浦清蔵」と書かれている。一番右の剥離がかなり進んだ背の高い舟型らしいものも馬頭観音である。造立年は文化13年(1816)、剥離部分は資料で確認したが、「武刕谷原村 世話人」「下石神井村 世話人」という文字があり、二つの馬頭観音(角柱型と舟型)を上下で合体したものとされる珍しいもの。

馬頭観音の先で道は右に折れるが、その先には御廟橋があり、左手前に角柱型の巡拝供養塔がある。基壇には「依田」の名前があり、正面は「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 百番巡礼供養塔」と書かれている。側面には文化15年(1818)3月の紀年と、江戸牛込横寺町 施主瓦屋徳兵衛建之とある。新宿区は江戸時代の町名がそのまま残されている地域が多く、現在も新宿区横寺町として残っている。神楽坂の坂上で、現在の大江戸線牛込神楽坂駅の北側にあたる。

対面にも巡礼供養塔がある。こちらは基壇に田中の銘がある。正面には「秩父四国西国坂東 奉納大乗妙典供養方墳」とあるが、方墳という表現は珍しい。側面には「武州豊嶋郡練馬領下田柄村 願主 田中祐次郎」の銘があり、明治4年(1871)の紀年がある。ここからは御廟橋を渡らず戻る方向に参道の反対側(右側)を見ていく。

右隣りの丸彫の地蔵菩薩像は文化10年(1813)2月の造立。台石正面には「講中▢▢為二世安楽也」側面には施主熊右衛門の銘がある。地蔵の顔はほぼ剥離して原形をとどめないが、お坊さんの弔いの石仏のようでもある。

隣りに在ったのは、笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。左側面には安永5年(1776)10月の造立年と「左 石神井みち 二世あんらくの為」とあり、右側面には「武刕豊嶋郡谷原村講中拾二人 右 田中道 願主 大沢小三良」と刻まれている。この庚申塔は以前は富士見台1丁目19番にあったもので、平成6年の資料にはなく、昭和末期の資料には富士見台にあるとされているので、平成年間に移設されたものだろう。

角を曲がると角柱型の庚申塔がある。正面には「庚申待供養」と彫りこまれている。その傍には「武州谷原邑 講中廿七人」とあり、左側面には「願主 増嶋新右衛門」の銘、右側面には宝暦11年(1761)8月の紀年が見られる。

その右隣りにあった櫛型角柱型の石塔は、どうやら墓石らしい。正面には「二世安樂攸」とあり、造立年は宝永8年(1711)3月。台石に「浅草 田町 道印 講中」とあるから紛らわしい。右側面には「願主 山城屋嘉兵衛 日野屋久兵衛」とある。

その右の樹のたもとにある角柱型の庚申塔。シンプルに正面には「庚申塔」と大きく彫られている。左側面には「谷原村 増嶋五右衛門 同村 田中大五郎 親類七名」とあり、右側面には明治14年(1881)9月の造立年が描かれている。

樹木の反対側には駒型の馬頭観音がある。表面は剥離しているが、明治28年(1895)の造立年が読める。側面には「横山氏」と書かれていた。ここで奥の院の参道の入口に戻ってきたことになる。次は奥の院へ進み、御廟橋を渡った先を見てみよう。
場所 練馬区高野台3丁目10-3 長命寺境内
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