JR常磐線金町駅の北東、江戸川の土手の近くにある浄土宗の寺院が光増寺。創建年代は貞応元年(1222)で法海というお坊さんが庵を結んだのが始まりという。元仁元年(1224)に親鸞が立ち寄った際に法海が帰依し、浄土真宗光増寺となった。戦国時代に国府台決戦で焼失したが、天正15年(1587)に浄土宗として中興した。

江戸時代は水戸藩に繋がる水戸街道が近い為、水戸徳川家の立ち寄り所になっていた為、寺には徳川家の紋所がある。古刹だけに境内には様々な年代の石仏が祀られており面白い。

まず目に入るのは立派な屋根に守られた舟型光背型の六地蔵菩薩。年代的には享保11年(1726)~享保13年(1728)のものを纏めている。右から「奉造立金剛源地蔵大菩薩 念佛講敬白」「金町上村」とあり、享保11年7月の造立。右から二番目は享保12年8月、三番目は享保12年11月で「金町上念仏講中」とある。左から三番目は放光王地蔵で紀年はないが「金町上念仏講中」の文字、左から二番目は「金町上村念仏講中」、そして左端は享保13年7月の造立で、こちらも「金町上念仏講中」とある。

六地蔵の脇にあるのがこの舟型の地蔵菩薩像。かなり風化が進んで文字が読めない。葛飾区の資料を参考にすると、元禄7年(1694)7月の造立で、「そうか迄二里半」「これよりミぎ いわつきおんじミみ」とあるらしい。蓮台には「金町村」の文字がある。

少し山門寄りにあったのが上の庚申塔と地蔵菩薩。左の庚申塔は舟型光背型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。宝暦5年(1755)12月の造立で、「再建立 金町村講中」とあるので実はさらに歴史を遡るもののようだ。右の舟型地蔵菩薩は元文6年(1741)正月のもの。「これより左いわつきじおんじ道」とある。戒名もあるのでもともと墓石の可能性もある。

本堂に向かって左側には大きな舟型の勢至菩薩像。「念仏講之結衆」とあり、造立年は寛文13年(1673)正月と刻まれている。蓮台には「武州葛飾郡葛西之庄金町上郷」とある。右隣りは舟型の聖観音菩薩像。造立は元禄5年(1692)7月で「念仏講結衆 金町村同行五十人」の文字がある。

その先の舟型光背型の地蔵菩薩像はおそらく墓石である。「妙春信尼」の文字があるが、造立年は寛文10年(1670)2月の紀年がある。右の花の後ろにある自然石は馬頭観音。大正6年(1917)11月と刻まれている。

本堂前にあった舟型光背型の阿弥陀如来像は葛飾区の資料には載っていなかった。戒名があるのでこれも墓石らしい。左側に造立年が刻まれているが、延宝3年(1675)とある。

本堂前に在ったこの不思議なデザインの舟型の石仏はよく見ると馬頭観音である。三面八臂の尊像で、顔が面白い。台石の側面に、天明4年(1784)10月の紀年と、「金町上村 講中」の文字が見られる。

山門近くに在った太子堂の脇に大きな巡拝供養塔と聖観音があった。巡拝供養塔は「月山 湯殿 羽黒 三山大権現」と大きく書かれており、金町村講中の文字がある。造立は安永3年(1774)正月とある。右の聖観音像は元禄8年(1695)12月のもので、これは戒名があり墓石である。

太子堂の向かいを少し入ったところにこの2基の地蔵菩薩がある。どちらも舟型光背型だが、左側は享保17年(1732)正月の紀年。右側の文字は残念ながら削られてしまっていた。右の地蔵菩薩は宝暦13年(1763)3月の造立。こちらも右側の文字が削られている痕跡がある。光増寺は歴史の古い寺院だけに極めて沢山の石仏があって、つい長居してしまった。
場所 葛飾区東金町6丁目20-17
最近のコメント