遍照院の石仏(葛飾区水元)
水元にある遍照院は真言宗の寺院で仏生山和銅寺という寺名の古刹。開創は和銅元年(708)と伝えられるが古すぎてピンとこない。時代としては奈良時代の中期で、大宝律令(701)が制定された後、日本最初の貨幣である和同開珎が発行されたのが和銅元年(708)。2年後に平城京への遷都が行われた。元明天皇と藤原不比等の時代で、ほぼ物語のような感覚でとらえている。当時は東山道が東国へのメインルートで東海道はサブルートであった。そんな時代の創建である。
山門脇にあるのが舟型光背型の六地蔵。造立年は最右の地蔵に記されており、宝暦8年(1758)12月の紀年がある。刻銘としては「猿又講中 願主五右衛門」の文字が見られる。猿又村があったのはここからかなり西の地域だが、古刹だけに周辺に檀家が広がっていたのだろう。
本堂の前まで進むと宝篋印塔と並んだ青石の石仏がある。巨大で分厚いがこれは板碑らしい。「遍照院異形板碑」という説明板がある。制作年代は中世だと思われるが記述はない。この板碑はかつて閘門橋付近の堤上の「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下にあったものらしい。上部には蓮座に阿弥陀種子が刻まれている。脇の宝篋印塔は正徳5年(1715)霜月(11月)の造立年がある。
異形板碑の近くにあったのが板碑型の古い庚申塔。造立年は万治3年(1660)6月と庚申塔の中でも極めて古い時代のもの。「奉造立庚申供養石塔二世安楽所 施主敬白」と刻まれており、三左衛門以下16名の願主名が刻まれている。その下には蓮華蓮葉が描かれており、時代を感じさせる。
その近くには駒型の文字塔の庚申塔があった。中央には「造立青面金剛 猿(ヶ)又村道」とあり、両脇に宝永元年(1704)5月の造立年が記されている。側面には道標も刻まれているが読み取れなかった。
参詣者駐車場の近くには駒型の馬頭観音がひっそりと植込み脇にあったが、ゼニゴケがこびりついていて側面の文字は確認できなかった。おそらくは大正時代くらいのものではないだろうか。葛飾区の資料では遍照院には他にも多数の古い石仏があることになっているが、墓所への立ち入りは今回できなかったのが残念である。
場所 葛飾区水元5丁目5-33
| 固定リンク
コメント