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2023年2月 2日 (木)

服部家墓所の石仏(葛飾区西水元)

中川と江戸川の間を繋ぐ大場川、その西の中川寄りの河岸近くにある服部家の墓所には魅力的な石仏がいくつもある。まれにこういう個人墓地に貴重な石仏があることがあるが、ここもその一例である。昭和の初期に氾濫を繰返す中川の流程をまっすぐに付け替えて、もともとの流れに流れ込んでいた大場川の名前が付けられたが、ここの大場川はかつての中川本流である。

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この辺りは昔は袋新田と呼んでいた土地で、北の大場川対岸は当時から今も埼玉県八潮市の古新田という地域である。辺りは新田だらけで、中世から盛んに開拓が行われたのだろう。墓地の裏手に六地蔵がある。区の資料では六地蔵が揃っていることになっているが、現在は右の3基は新しいものになっている。左の3基が元からのもので、左右の基壇に「村中男女講中」とあるが、造立年等の文字は見当たらない。

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六地蔵の近くに大きな2基の石仏がある。右側の舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄4年(1691)11月の造立で、「供養庚申塔  猿ヶ又中新田村」の銘があり、さらに地蔵の足元に三猿が陽刻されているので庚申塔である。大正時代の地図を見るとこの墓地の辺りが猿ヶ又ですぐ南が中新田という地名になっている。左の板碑型の石塔は寛文9年(1691)10月造立の供養塔。「奉造立念仏講供養」とあるので、念仏講中による建立である。

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墓所の中程には駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、よく見ると線刻の二鶏があるようだ。造立年は貞享2年(1685)11月と古い。「奉造立供養庚申塔」「念仏講之衆」という文字も見られることから、江戸時代初期には庚申講中と念仏講中が入り混じって行われていた可能性を想像させる。

場所  葛飾区西水元3丁目32-1

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