光増寺跡の石仏(葛飾区東水元)
東水元にいつ廃寺になったか分からない寺がある。光増寺という寺院だが、小堂と墓所はきちんと残っており管理されている。敷地内には消防団の倉庫があり、火の見やぐらもあって昭和感に満ちている。
古い地図を探してみたが、明治時代も大正時代も墓地の印はあるが寺の卍マークはない。さらに昔の江戸時代の切絵図を見ると光増寺から水元公園脇の熊野神社あたりまでを含めたエリアが寺社地のピンク色で塗ってある。
本堂の斜め前の墓所入口には駒型の庚申塔が立っている。ゼニゴケが多いが、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。三猿は大部分が土中に埋まっているようだ。造立年は宝暦9年(1759)5月。尊像右に「奉造立供養 庚申大青面金剛」とあり、左側には「小合新田講中」と記されている。小合新田はこの地の北西に広がる大場川河畔の古い地名。この辺りは江戸時代は上小合村であった。
庚申塔の隣には「奉唱日紀念仏供養塔」と書かれた櫛型角柱型の石塔がある。造立年は弘化3年(1846)3月とあり、右面には「天下泰平・・・」とあり、左側にも「普門品・・・」と書かれている。
向かいには六地蔵を挟んで2基の地蔵菩薩がある。左端の舟型光背型の地蔵菩薩は貞享4年(1687)7月の造立で、「奉供養念仏講為二世安楽」「同行百人」の文字がある。右端の丸彫の地蔵菩薩像は宝永4年(1707)10月の造立で、台石には「奉供養 小合新田 念佛講」とあるようだ。また「童男童女二百余人」とも刻まれており、この辺りの人口は果たしてどれだけいたのかと驚く。舟型の六地蔵は享保12年(1727)の造立。こちらは同行三十五人と、通常感覚では多いがさすがに少なく感じてしまう。
墓所の中に倒されてしまった珍しい聖観音菩薩坐像があった。首が見当たらない。造立年は元禄9年(1696)12月。石仏が自然に倒れたものであれば致し方ないが、人の手によるものだとするとなんと罰当たりなことかと嘆かわしくなる。とはいえ、この石仏は像高だけで1m近くあるので起こすことは至難である。困ったものである。
場所 葛飾区東水元5丁目33番地先
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