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2023年3月31日 (金)

東池袋六又交差点の庚申塔(豊島区東池袋)

池袋駅東口のロータリーから北へ向かい王子駅前に行く道は明治通り。昔、浦和ICまで行かないと東北自動車道に乗れない時代、早朝の池袋駅前の明治通りを北上して六又交差点を越えて王子、赤羽、浦和と時間を掛けて走ったものである。この六又交差点周辺には意外なことに庚申塔が2基もある。ひとつは過去に紹介した、庚申ビルの庚申様である。

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帝京平成大学池袋キャンパスの一本手前の路地の奥に自然石の庚申塔と自然石の燈籠があった。場所は東池袋2丁目56番地先である。ところがこの庚申塔が少し前(おそらく2022年)に六又交差点の前のビルの脇に移転していた。

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この庚申塔、造立年は天保13年(1842)2月で、裏側には紀年と「大道村中」という文字がある。大道村が何処かは分からない。私の故郷である山口県に大道(だいどう)という土地があるが絶対に無関係。それ以外では大阪府と熊本県にあるようだがそれも違う。江戸時代の池袋はとてつもない田舎の村で、この辺りは川越街道が小川を渡っていたが人も住んでいないところでおいはぎなどもあったかもしれないような場所である。

場所  豊島区東池袋2丁目60-3

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2023年3月30日 (木)

成宗弁財天社の石仏(杉並区成田東)

神田川支流善福寺川の左岸にある成宗弁財天社は成宗村が出来たのと同じ時代に、水神様として創建されたと伝えられるが年代は不詳。江戸時代の天保11年(1840)に馬橋村などが開削した新堀用水の中継池として水源の弁天池が利用されていたという記録があり、池を掘った土で富士講の築山を作ったが大正時代に壊したという。

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現在は須賀神社の隣にひっそりとある小さな神社だが、歴史はかなりありそうだ。鳥居前にある水路の痕跡などは天保用水の名残りだという。江戸時代から大正時代まで富士講との絡みも深く、関連する石仏も残っている。

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この大日如来像がそのひとつで、造立年は弘化2年(1845)2月。台石正面には「同行 武州多摩郡成宗村 武列橘樹郡烏山 宮本式部」とある。側面には周辺の村々の銘があり、おそらくは富士講へ出発する際の禊の行事に関わるものだろう。

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入口近くには3基の地蔵菩薩像があり、左から昭和32年(1957)4月の造立、中央は昭和36年(1961)4月の建之で「成宗身替地蔵尊 成宗弁天講有志一同」とある。どちらも新しいものだが、右の地蔵は墓石ながら享保8年(1723)5月、享保15年(1730)12月、元文5年(1740)10月の命日が刻まれており、1700年代半ばのものと思われる。

場所  杉並区成田東5丁目29-4

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2023年3月29日 (水)

勝曼寺の石仏(江戸川区新堀)

江戸川区新堀は今は「にいぼり」と読むが、昔は「しんぼり」といったこともあったらしい。新堀にある真言宗の寺院勝曼寺は江戸時代の初め頃の創建と伝えられる。説明板には「約400年ほど前、奥州相馬大勝寺の住僧がこの地に来住し、薮崎隼人、山崎甚太郎らの協力を得て、この寺を建てた」とある。江戸時代初期にしては近代的な名前だと感じた。もっとも元禄時代には将軍の鷹狩の御膳所にもなったそうだ。

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山門を入ると右側に2基の立派な宝篋印塔が立っている。手前にある方が古いようだ。手前の宝篋印塔は延享4年(1747)3月の建立である。基礎部分に記されているのは、「羽黒山、月山、湯殿山供養塔」と「四国、秩父、坂東、西國の巡拝供養塔」。地名の武州葛飾郡東葛西領新堀村に勝曼寺中興第二世の大阿闍梨法印の名が記されている。

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もう一つの宝篋印塔は明治9年(1876)3月の建立で、これほど新しい時代のものは珍しい。こちらの地名は「東京府下葛拾天区五小区という意味不明の地名に続き新堀村と書かれている。江戸時代初期は明治維新で良くも悪くも地名すらも混乱していたのだろう。参道を挟んで本堂に向かって5基の石仏が並んでいた。左端は墓石の舟型阿弥陀如来像、その隣は丸彫の仏形半跏像で正面には「奉造立地蔵尊六十六部二世安楽」とあり、側面には「武蔵国葛飾郡東葛西新堀村」の銘があり、造立年は享保8年(1723)12月とある。

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中央は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は文化元年(1804)9月とあり、左手にショケラを下げている。右から二番目の舟型光背型の聖観音像は蓮花が取れてしまっているが、脇には「奉造立石仏念仏結衆二世安全」とあり、造立年は寛文9年(1669)5月と古いものである。さらに右端の駒型庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄でよく見ると三猿の脇に二鶏が描かれている。元禄10年(1696)10月の紀年が入っており、左側には「女同行十三人」と刻まれている。

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屋根付の地蔵堂には3基の地蔵菩薩が祀られていた。右がとろけた丸彫の地蔵菩薩、中央は新しい丸彫地蔵尊、左が舟型の地蔵菩薩像だが、紀年が分かるのは左端の舟型のみであり、元禄10年(1697)2月の造立年が刻まれているが、右側には戒名があるので墓石であろう。

場所  江戸川区新堀1丁目9-12

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2023年3月28日 (火)

円勝院の石仏(江戸川区鹿骨)

円勝院は鹿骨街道の南側にある真言宗の寺院。創建年代は不詳だが、享禄3年(1530)に中興されたというから鎌倉~室町時代の可能性も高い。当初は1㎞程北の鹿骨鹿嶋神社の辺りにあったが、元禄2年(1689)に火災に遭い現在地に移転した。その後、徳川8代吉宗の鷹狩の休み処にもなり発展したようだ。

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山門を入ると正面に本殿があるが、すぐ左に屋根付きの小堂があって、庚申塔が2基祀られている。左の庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。とりわけ二鶏が大きい。造立年はどこにもない。最初からないのか、側面にあったが消されたのかは分からない。右は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。こちらの造立年は享保7年(1722)9月である。ちょうど吉宗の在位期間になる。

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少し本堂寄りには地蔵堂があり、3基の地蔵菩薩像がある。手前の丸彫の地蔵は新しいもののようだが、後ろの舟型光背型の2基は古いものだと思う。おそらくは江戸時代中期だと思うが、すべて文字が消されてしまっているようで、詳細は分からない。

場所  江戸川区鹿骨1丁目25-23

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2023年3月27日 (月)

密蔵院の石仏(江戸川区鹿骨)

江戸川区にある鹿骨という地域、奈良時代の話に因んでいる。藤原氏によって春日大社の創建の折に、常陸国の鹿島神宮から分霊され、その時に多くの鹿を引き連れて、約1年かけて奈良まで移動した。その時にお供の鹿が死に、この地に葬ったため「鹿骨(ししぼね)」という地名になったという。

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かつての鹿骨地区の中心にあるのが真言宗の密蔵院である。創建年代は不詳だが、江戸時代の中期にはあったとされる。ここから鹿骨街道を東へ進むと間もなく鹿見塚神社がある。この鹿見塚神社に前述のお供の鹿が葬られたとされる。さて、密蔵院の山門を入ると、本堂は左手にある。その本堂の前に石仏がある。

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左の大きい方の駒型の石仏は庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。ただし造立年は見当たらない。台石に講中という文字はあるが年代は不詳である。右の小さい方の駒型は馬頭観音。罵倒が三面の中央の頭部にしっかりと描かれている。下部に出っ張りがあって一見三猿のようだが、じっくり見てみると花の形にも見える。

場所  江戸川区鹿骨4丁目2-3

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2023年3月26日 (日)

本城寺の庚申塔道標(江戸川区鹿骨)

江戸川区鹿骨にある本城寺は日蓮宗の寺院。創建は弘治元年(1555)と古く、千葉県松戸の本土寺の僧が隠棲して草庵を編んだのが始まりとされる。度々災害に遭ったり、弾圧を受けたりしたが現在までに至っている。

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山門は見る限りかなり新しいもので見事な造りである。山門をくぐると正面に本堂、境内も近年かなり手が入れられたらしくとてもきれいである。山門の裏手入って左側に庚申道標が立っている。

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背の高い台石に載せられた庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。台石には大きく「講中」と書かれており、脇に「西 江戸道」とある。側面には「北 浅間道」「南 可わら道」と書かれている。造立年もあり、文化11年(1814)6月と刻まれている。もとは鹿骨三丁目1-9の旧河原道にあったらしい。現在の鹿骨東小学校の傍だが、当時はあの辺りが鹿骨の中心だった。

場所  江戸川区鹿骨4丁目20-1

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2023年3月25日 (土)

北篠崎二丁目会館の石仏(江戸川区北篠崎)

とても広い篠崎公園の北の路地にある北篠崎二丁目会館。その町内会の建物の奥に墓地がある。墓地の入口には石仏がずらりと並んでいた。こういう会館で秀逸だったのは足立区加賀にある加賀町会会館である。

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地域の公会堂などと同じように住民に密着して使われるこういう会館は少なくなった。かつては今を時めく二子玉川ライズのある場所にも、こういう玉川地区の町会会館があって、広い座敷が利用できた。今は珍しい電話ボックスの左側の通路を入っていくと奥が墓所である。

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墓所の塀を背にして並んでいる石仏。左端は角柱型の庚申塔である。正面には「青面金剛」と大きく書かれており、側面に文化4年(1807)4月の造立年が刻まれている。右隣りの舟型光背型の石仏も庚申塔である。造立年はゼニゴケが厚く、かつ摩滅も進んでいて分からない。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。邪鬼は踏まれて地面に埋もれたような図になっている。

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その右には5基の石仏があり、左から地蔵半跏像、舟型の地蔵菩薩像、2基の聖観音菩薩像、右端は舟型の地蔵菩薩である。右端の地蔵には「奉造立地蔵尊」とあるのでおそらく純粋な地蔵だと思うが、他の4基はどうも墓石のようである。文字を読み取ろうとしたが、これらも分厚くゼニゴケが付いていて判別できなかった。おそらくは江戸時代中期から後期のものだろう。

場所  江戸川区北篠崎2丁目20-13

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2023年3月24日 (金)

江戸川土手の庚申塔(江戸川区北篠崎)

江戸川の土手に向かって上る道が左右に股割きのように分かれる地点に庚申塔と地蔵菩薩像が立っている。場所としては江戸川区北篠崎1丁目7番と、北篠崎2丁目28番の境界上にあるような位置である。

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後には卒塔婆が少しだけ立っている。供養に訪れる人がずっといるのだろう。右の地蔵菩薩像は文字が消されてしまったのか、何も書かれたものがない舟型光背型の石仏である。左は駒型の庚申塔で少し集めの石材に陽刻してある。

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正面には造立年があり寛保元年(1741)8月とある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている小さいながらも好作の庚申塔である。古くからこの土手に祀られていたようだが、かつてはこの辺りが篠崎村の笹ヶ崎の中心地であった。

場所  江戸川区北篠崎2丁目28/1丁目7

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2023年3月23日 (木)

土手脇の庚申道標(江戸川区東小岩)

江戸川の右岸の土手を歩いていると、東小岩から北篠崎に入る。この境には用水路が流れていた。興農用水という名前の用水路で、江戸川から取水した水を小岩用水に補給していたようだ。現在この水路筋は興農親水緑道となっている。

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土手脇に鳶長という基礎・足場工事の会社があり、そのマンションの一画に庚申塔と何やら水具が置かれている。水具は上部に滑車があることから、舟を引くなどに用いられたものではないだろうか。庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。三猿は台石にあって少し石質が異なる。

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造立年は正徳5年(1715)7月で、「笹ヶ崎の道標」と呼ばれたもの。右側面には「これより左 いち川へのみち」とあり、左側面には「これよりかわらへのみち」と書かれており、もともとは北側の道の北側(東小岩1丁目32-10)に立っていたらしい。ただ笹ヶ崎という場所としてはここは北の端でもう少し南の一帯が笹ヶ崎の集落だった。

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2023年3月22日 (水)

善養寺参道の石仏(江戸川区東小岩)

江戸川区東小岩の善養寺は規模の大きな寺院。仁王門の南に延びる参道もあり、枝ぶりの独特な松に囲まれて気持ちのいい参道になっている。その参道の入口付近の両脇に石仏が並んでいる。

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参道の向こうには朱の仁王門と本堂が遠望できる。参道の左右の道路側にはそれぞれ「小岩不動尊」と大きく書かれた石柱が立っており、その脇に庚申塔などが並ぶ。この両脇の石造道標は「小岩不動尊逆井道向石造道標」「小岩不動尊市川向石造道標」と呼ばれ、かつては善養寺の小岩不動尊への道標として、一方は逆井の渡し方面へ、もう一方は市川への道標で、元佐倉道あたりにあったと考えられる。

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左側は、右から出羽三山供養塔と2基の庚申塔がある。出羽三山供養塔は前面に「羽黒山 湯殿山 月山供養塔」とあり、右面には「天下泰平 國土安穏」その下に「一結講中 二世安楽」と書かれている。造立年は文化6年(1809)3月。真ん中は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が陽刻され、台石に三猿が描かれている。「奉造立庚申尊一体為二世安楽也」とあり、造立年は元禄4年(1691)11月。左は角柱型の「庚申堂」と大きく彫られたもので、手前に合掌猿がある。造立年は不明。石川博司氏によると左の2基は小岩駅南の一画に在ったものらしいが、もう1基、天保10年(1839)の駒型庚申塔もあったとあり、左の石碑は庚申堂の前にあったのではないだろうか。

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参道の右側には2基の庚申塔がある。左は駒型に「庚申塔」と大きく書かれたもの。台石には邪鬼が彫り込まれている。造立年は文政13年(1830)11月とある。右は「青面金剛」と彫り込まれた庚申塔で、こちらは台石に三猿が描かれている。造立年は文政5年(1822)7月とある。石川博司氏の資料では善養寺に8基の庚申塔があると記録されているが、さて何基残っているのだろう。

場所  江戸川区東小岩2丁目23番地先

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2023年3月21日 (火)

萬福寺の石仏(江戸川区東小岩)

江戸川区の東に流れる江戸川は千葉県との都県境の川。川沿いには篠崎街道が走っているが、この道は江戸時代からの街道筋である。少し千葉街道寄りに小岩村、その南には笹ヶ崎村があった。小岩村の南の端に在ったのが真言宗の萬福寺で、創建は天文5年(1536)と古い。昭和30年代前半に大活躍した横綱栃錦の菩提寺でもある。

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山門を入ると正面に本堂があり、左手に沢山の石仏が並んでいる。しばらく拝観したが、概ね墓石のようで江戸時代中期のものが多かった。

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山門内の左側の植込みに2基の石仏が並んでいた。左は舟型光背型の地蔵菩薩。尊像の右に「奉▢▢菩薩二世安楽」とあり、造立年は元禄2年(1689)8月とある。右は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。側面には「奉造立大青面金剛一躯」とあり、反対側には享保5年(1720)10月の造立年が刻まれている。

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山門前に六地蔵の小堂があり、その脇に地蔵と祠が並んでいた。地蔵菩薩の方は溶け方から推量るに塩地蔵であったような感じ。紀年などは分からない。右の祠が、これは珍しく巡拝塔である。正面に「秩父三十四ヶ所、西國三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所」とあり、側面には「順礼成就二世安楽」とある。造立年は明和丁亥年とあるので明和4年(1767)7月だろう。巡拝塔は割と年代がはっきりしていて、1700年頃から1850年頃までのものが殆どである。これは初期のものなのでこういう祠型なのだろう。

場所  江戸川区東小岩2丁目2-4

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2023年3月20日 (月)

南小岩小学校角の庚申塔(江戸川区南小岩)

江戸川区南小岩は総武線小岩駅の南の一帯で、西は新中川と鹿本通り、東は都道501号線に挟まれたエリア。鹿本通りという通り名の由来は、昔このあたりが鹿本村だったことから来ている。千葉街道(現在の国道14号線)に広がる村で、小字としては千葉街道周辺が「上」で、少し南に下り現在の南小岩小学校辺りが「中」と呼ばれていた。

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南小岩小学校の体育館がある(現在小学校は工事中)角に屋根付きの堂宇があり、その中に庚申塔が祀られている。駒型の角柱に「青面金剛」と大きく彫り込まれている。一面ゼニゴケに覆われているので分からないが資料によると上部に日月があるらしい。台石には三猿が描かれているが花で見えづらかった。

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造立年は文化7年(1810)9月で、「仲曽根講中」と刻まれている。辺りに仲曽根という地名がないか調べてみたがどうも不明である。さらに調べてみると江戸川の上流(江戸時代は江戸川と呼ばず、太日川と呼んでいた。太日川はもともと利根川の下流で東京湾に流れ込んでいたが、徳川の江戸入城後、治水の為に利根川を東に流す大工事を行い、江戸川は江戸にとって重要な舟運の道となった。その上流の流山あたりに中曽根下谷新田という土地があったらしいが、それと関係があるのだろうか。

場所  江戸川区南小岩4丁目16-1

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2023年3月19日 (日)

宝林寺の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区北小岩にある宝林寺は真言宗の寺院。創建は説明板によると、慶長12年(1607)に没した大秀法印が創建したとなっているので、1600年前後だろう。ここはちょうど旧佐倉道が江戸川を渡る小岩市川の渡しに設けられた御番所の前で、旅人が滞留した場所である。境内には渡場にあったという成田詣での人々が建てたという常燈明が保存されている。

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門前には大きなタブノキがあり、幹を囲むように石仏が並んでいる。右手奥には無縁仏塔の塚もあり、寺の外にこれだけ並ぶのは珍しい。このタブノキは区の保護樹のようだ。この数倍のタブノキが東大井の旧仙台坂(くらやみ坂)に在ったのを思い出した。

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左端にあるのが駒型の庚申塔で、正面に大きく「庚申塔」と彫り込まれている。造立年は文化元年(1804)10月で、「伊與田(伊予田)御番所西村講中」とあり、左右に各4名ずつ計8名の願主名が刻まれている。その右隣りは、舟型光背型の地蔵菩薩像だが、尊像右に「奉造立庚申講人数一所」とあるので庚申地蔵である。造立年は寛文10年(1670)9月と古いもの。

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隣りには2基の舟型光背型の地蔵菩薩像があるが、右の小さい方はどうも墓石らしい。左の首の部分から折れた痕跡の残る地蔵は、正徳3年(1713)6月の造立。「▢▢智三世一切仏奉造立念仏講中」と右にあり、左には「法界性切唯心造」とある。江戸中期には念仏講中も盛んだったのだろう。

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その横の満員電車に乗ったような丸彫の六地蔵はくっつき方がユニークであった。造立年等を探してみたが、文字が見当たらなかった。石質が異なるようでもあるが、大きさはほぼそろっておりもともと六地蔵として造られたものだろうと思う。

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その先の無縁仏塔の手前には板碑型の小さな墓石と、駒型の庚申塔が立っている。駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は貞享3年(1686)12月とある。上部に「奉供養」の文字があるが、それ以外は読み取れない。下部にあるのは願主名だろうか。脇の小さな板碑型の石塔は、延宝6年(1678)のものである。庚申塔の後ろに移っている御影石の石仏は平成元年(1989)9月に建てられた馬頭観音である。これほど新しい馬頭観音は珍しい。

場所  江戸川区北小岩3丁目23-11

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2023年3月18日 (土)

御番所町の石造道標(江戸川区北小岩)

民家の塀のくぼみに「御番所町の慈恩寺道石造道標」がぽつりと立っている。実は一度通り過ぎてしまった。駅の方角から来ると塀の陰になって気づかないのだろう。江戸時代の初め、両国から竪川(たてかわ)の北岸を東に進み、逆井(さかさい)の渡しで旧中川を渡り、小岩で現在の江戸川を渡って房総へ向かう街道が開かれた。「元佐倉道」と呼ばれ、明治8年(1875)には千葉街道と改名している。

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江戸の防衛のために江戸川には橋が架けられなかったので、ここ小岩には小岩市川の渡しがあり、小岩側に小岩市川の関所(御番所)が置かれた。番所は時代が変わって明治2年に廃止されるまで続いた。佐倉道と共に賑やかだったのはここで分岐していた岩槻への慈恩寺道である。江戸時代には霊場巡拝が庶民の間で流行し、西國、秩父とならんで坂東三十三ヶ所霊場もその対象となった。そのひとつである岩槻の慈恩寺へ向かう道ということで慈恩寺道と呼ばれるようになったのである。

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石造道標の正面には「右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち」、右面には「左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛」、左面には「右 いち川みち」とあり、造立年の安永4年(1774)8月が刻まれている。それに続いて「北八丁堀 石工 かつさや加右衛門」とある。実は株は埋まっているし、右面は狭くて見えないので説明板を参照させていただいた。道標は250年もの間ここに立ち、人々を導いてきたのである。

場所  江戸川区北小岩3丁目23-7

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2023年3月17日 (金)

伊予田の観音道標(江戸川区北小岩)

京成本線の江戸川駅の東は江戸川橋梁、川を越えると千葉県になり国府台の駅。東京の東端ともいえる江戸川駅の改札前の通りがかつての岩槻街道、元佐倉道である。この辺りは小岩村で、国府台に渡るための渡し船は小岩市川の渡しと呼ばれ、近くには番所(関所)があった。

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佐倉道は房総の諸大名が参勤交代をする街道であるとともに、江戸の町民たちはここを通って成田山への参詣をしていた。多くは江戸小網町から舟で行徳まで行く者が多かったが、陸路もまた盛んだったらしい。佐倉道が小岩市川の渡しで千葉に向かうのとは分岐して、北に向かっては岩槻街道が伸びていた。分岐してすぐにこの道標があったと思われる。

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正面には「是より浅草観世音道 二里六丁」右には「右 船橋 市川道」、左には「左 新宿道 岩槻慈恩寺迄七里」(それぞれ誤字などは現代風に修正)と書かれている。この道標の造立年は安永4年(1775)とあるが、どうも近くから移設されたらしい。こういう道標は古の人々の息吹が感じられて興味がわく。

場所  江戸川区北小岩4丁目37-2

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2023年3月16日 (木)

十念寺の石仏(江戸川区北小岩)

十念寺は真言宗の寺院で元和元年(1621)の創建。他の寺社が江戸川右岸沿いにあるのに対して、十念寺だけが現在の江戸川堤防線沿いにある。江戸川も江戸時代以前は洪水を繰返したので、もともとの川の土手はこの辺りだったことが想像できる。これより東の江戸川沿いに開拓されたのが小岩田村で、十念寺はかつての中小岩村に位置している。

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本堂は素晴らしいシンメトリーの造りで屋根瓦の曲線が秀逸である。広々とした境内の西側に墓地があり、本堂の周りはゆったりとしている。本堂と向かい合うように小堂があり、その脇に石仏石塔が並んでいる。

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一番奥に在ったのがガラスのショーウィンドウに入った板碑2基。右の板碑は延文6年(1361)の造立、左の板碑は元応元年(1319)の造立で、左側の板碑は江戸川区の有形文化財になっている。寺の創建よりもはるかに昔の板碑だが、十念寺の旧本堂の縁の下から発掘されたもの。これ以外にも十念寺では10枚ほどの板碑が発掘されたという。

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板碑の手前には大きな駒型角柱で「庚申塔」と刻まれた庚申塔がある。基壇に「講中」とこれも大きく書かれており、側面には文化10年(1813)9月の造立年がある。反対側には「右両国江 三り、左市川江 三丁、左松戸江 一り、右河原江 一り」と書かれており、江戸川区の資料には「中小岩の庚申塔河原道石造道標」と記されている。左の駒型の下部が欠損した庚申塔は摩滅が進んでおり紀年は分からない。邪鬼と台石の三猿は確認でき、側面には道標があるが右面の「左りいちかわみち」しか読めない。基壇には「庚申講中」とある。こちらは「中小岩の庚申塔市川道石造道標」という名前のようだ。

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更に手前に2基の庚申塔があり、右の小さい方は上部に日月があり尊像は猿田彦大神の立像である。造立年は元治元年(1864)11月とあるが、猿田彦大神の顔は少し怖い。左の大きな駒型の庚申塔は、元禄5年(1692)11月のもので、こちらの方が遥かに古いのだが傷みが少ない。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、右上には「奉供養庚申爲二世安楽大菩提也」、下部には「中小岩村 同行廿四人」と刻まれている。

場所  江戸川区北小岩5丁目32-5

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2023年3月15日 (水)

真光院の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区の江戸川右岸沿いにはぽつりぽつりと寺院や堂宇、石仏がある。江戸時代からこの道は村々を結ぶ幹線路だったらしく、「慈恩寺道」という名前が各所に出てくる。慈恩寺は坂東三十三ヶ所霊場第12番の寺院で岩槻にある。八潮市から水元、金町を経て小岩に南下する道がその道で岩槻道とも言われたらしい。

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真光院は真言宗の寺院で、慶長7年(1602)の創建。南葛八十八ヶ所霊場の第26番である。山門の左側には大きな角柱石塔があって、「両大師供養塔」とある。弘法大師とあとは誰だろう?調べてみると慈眼大師(天海)と慈恵大師(良源)と書かれていたが天台宗の表現なので、よくわからない。そして右側には堂宇があり、その内外に石仏が並んでいる。

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左端の自然石は馬頭観音。「馬頭観世音」と中央に刻まれており、明治41年(1908)5月の造立年に吉永という名前が書かれている。その右には駒型の庚申塔。日月はなく、青面金剛像、邪鬼のみの図柄で、造立年等も何も書かれていない。堂宇入口を挟んだ右側の駒型角柱は「青面金剛」と大きく刻まれた庚申塔。こちらは文政11年(1828)5月の造立年がある。堂宇内にある大きな舟型光背型の石仏には二つの尊像があるが何も刻まれていないので不詳。

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墓所入口の無縁仏群の中に古い聖観音像があった。尊像右に「奉逆修為妙真禅定尼菩提也」とあり、造立年は延宝9年(1681)6月と刻まれている。当時の墓石だろうが、逆修ということは生前に建てられたということだろうか。

場所  江戸川区北小岩4丁目41-6

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2023年3月14日 (火)

正真寺の石仏(江戸川区北小岩)

正真寺は江戸川区北小岩の江戸川右岸堤防の脇にある真言宗の寺院で、慶長6年(1601)に国府台合戦の戦場となったこの土地に堂宇を建てたのが始まりとされる。国府台合戦は戦国時代の1538年~1564年にかけて小田原北条氏、里見氏、その他房州の武士が戦ったもので、後期の江戸川周辺が戦場であった。

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山門をくぐると左手に南葛八十八ヶ所霊場の第27番札所の大師像がある。その近くに別の堂宇があり、そこには舟型光背型の地蔵菩薩像と思しき石仏が祀られていた。錫杖を持っていることから地蔵と判断したのだが、脇の塔婆には「南無遍照金剛」と書かれており、もしかしたら大師像なのかもしれない。

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振り返って山門脇を見ると駒型の庚申塔が立っている。入口の正真寺の説明板にも書かれていた「小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標」である。駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は享保8年(1723)6月と書かれている。かつて小岩村の大字の中で江戸川沿いが小岩田(現在の北小岩4丁目)、西に中小岩が隣接、南にいくと伊予田だった。

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尊像左側には「これより左ばんどうみち」とあるのが道標と言われる理由だろう。側面には「葛西領小岩田村 庚申講中 観音堂別当 了圓」と書かれている。観音霊場の道ということで岩槻道か浅草道を意味していると説明板に書かれているが、漢字で書くと坂東道で余計に方角が分からなくなる。

場所  江戸川区北小岩7丁目27-5

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2023年3月13日 (月)

慈恩寺道の石仏(江戸川区)

北小岩の江戸川堤防の近くに地蔵堂がある。南から北上してきた岩槻道と佐倉道が出合う。岩槻道はここから江戸川の右岸を北上して柴又帝釈天に向かう。この辺りはもともと三谷と呼ばれた土地で、南には上小岩という集落があったが、今は北小岩の住居表示でまとまっている。

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写真の右奥、道路の突き当りが江戸川堤防。堂宇の後ろには親水緑道がある。堂宇の中には石仏が3基祀られており、中央は丸彫の地蔵菩薩で、これはかなり新しいもののようである。

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堂宇内左にある駒型の角柱には「馬頭観世音」と書かれている。造立年は弘化2年(1945)2月である。右端の大きな笠付角柱型の石仏は中央に地蔵菩薩が陽刻されている。地蔵の右には「奉供養西国坂東秩父百箇所諸願成就所」とあり、枠に「同行12人」と書かれたその下に願主名が刻まれている。また角柱の側面には「右岩付(岩槻)慈恩寺道 岩付(岩槻)迄七里」「これより左 千手(千住)新宿迄壱里 千手(千住)迄弐里半」とある。新宿は都心の新宿ではなく当然新宿(にいじゅく)のこと。この角柱地蔵道標の造立年は正徳3年(1713)7月と刻まれていた。ちなみに慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹。

場所  江戸川区北小岩8丁目29番地先

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2023年3月12日 (日)

小岩田八幡神社の石仏(江戸川区北小岩)

江戸川区北小岩にある小岩田八幡神社は創建年不詳だがかつての小岩田村の鎮守であった。現在の拝殿は大正2年(1913)に建替えられたもの。江戸川の右岸にあたるこの地域は昔は三谷という地名であった。

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鳥居は江戸川の方角に立っている。昔から参道は東向きだった。現在はすぐに江戸川の堤防だが、昔は現在の河川敷にあたる場所には多くの人々が住んでいた。そこが三谷の中心だったのである。鳥居をくぐると右手に北原白秋の歌碑、その先には古い手水鉢があり、文政7年(1824)霜月と記されている。

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本殿にお詣りをして右側にある地蔵堂を覗いてみると、堂内の奥の観音開きの向こうに舟型光背型の地蔵菩薩立像が祀られていた。この地蔵は万治元年(1658)造立の江戸川区内最古の庚申塔(庚申地蔵)だと資料にもある。もともと三谷地蔵として住民に親しまれていた地蔵だが、昭和36年(1961)に神社に移された。

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神社は脇の細い通路から西側の道に出ることができる。その脇がおそらく宮司さんのお宅だと思われるが、そのお宅の南側に新しい地蔵堂が建てられており、その中に比較的最近のものと思われる丸彫の地蔵菩薩像と、南葛八十八ヶ所霊場の札所にある大師像が祀られている。小岩田八幡神社は南葛八十八ヶ所の第24番札所でもあり、大正期に盛んになった巡礼が今も守られている。

場所  江戸川区北小岩8丁目23-19

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2023年3月11日 (土)

長延寺の地蔵(杉並区和田)

杉並区和田の路地通りにある曹洞宗の長延寺。どこかで聞いた名前だと思って記憶を辿ってみると、市ヶ谷に長延寺坂という坂道があったのを思い出した。江戸時代には坂の上に長延寺があったはずである。現在でも町の名前は市谷長延寺町である。

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その長延寺がここ杉並の一画に移転していたとは驚くとともに探し人に出会えたような不思議な感覚であった。長延寺は文禄3年(1594)に市谷長延寺町に創建したが、明治42年(1909)に杉並の現在地に移転している。この山門の前にある建物は庫裏で、その左手に本堂がある。山門を入ってすぐ左手に地蔵堂がある。

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左の白っぽい新しいものが作恵地蔵。造立年は昭和22年(1947)5月と新しい。右の丸彫の地蔵菩薩像はぼたもち地蔵と呼ばれている古い地蔵だが造立年は不詳。寺の門前に信心深い夫婦が住んでいたが、なかなか子宝に恵まれず、この地蔵に願を掛けて男児をようやく産んだ。しかしながら産後の肥立ちが悪く、母子ともに危うい状態だったところ、地蔵が化身したという小僧がぼたもちを持ってきて母子に食べさせると、間もなく母も元気になり母乳が出て子も元気になったという言い伝えがある。この話はおそらく市谷長延寺町時代のことではないかと私は考えているが、『まんが日本むかしばなし』にも『おけ屋とお地蔵さま』という話で取り上げられた時には杉並の長延寺となっていたようだ。

場所  杉並区和田1丁目44-24

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2023年3月10日 (金)

妙法寺の石仏(杉並区堀ノ内)

杉並区堀ノ内にある日蓮宗の妙法寺は都内でも有数の規模の寺院である。元和年間(1615~1623)に真言宗だった寺院が日蓮宗に改宗となり始まったことが伝えられるが、真言宗時代のことは殆ど分かっていないようである。この辺の宗派の関係については私は殆ど分かっていない。もともと宗派というのが好きではないので食わず嫌いの面もある。

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巨大な山門の脇にある対の燈籠は、安永2年(1773)につ組、ね組および文政4年(1821)にれ組、ろ組と江戸市中の火消したちによって奉納されたものだが、基壇は明治の年号が入っている。山門自体は東京都の重要文化財で、天明7年(1787)の建立。万治年間(1658~1661)に徳川四代家綱が赤坂日枝神社に寄進したものを、明治元年にここに遷座したらしい。

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建築物は本堂や祖師堂、二十三夜堂など有名なものが多いが、何気なく置かれている石塔石仏の類がなかなか珍しかったりする。この写真はさりげなく本堂脇に2基立っていたが、どうも見た感じキリシタン燈籠のようである。文字は何もない。

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日朝堂の裏にポツンと立っているこの燈籠は、竿部をよく見ると延宝9年(1681)6月の造立年が刻まれている。時代的に傷んでいてもおかしくないがきれいな状態で保たれているのが素晴らしい。

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墓所に入ると空が広い。手前にある無縁仏塔群の脇に立っていたのがこの駒型の石仏。描かれている主尊は阿弥陀如来らしい。上部にちいさく日月が描かれており、下部には横向きに二猿がいる。造立年等は文字が全くないので分からないが、庚申塔であることは間違いないだろう。

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墓地の真ん中あたりにある荻野家の墓所には珍しい三角形の庚申塔があった。正面に「庚申」と彫り込まれ、その下に三猿が描かれている。三角形の庚申塔は青山墓地近くでも見かけたが、あちらは江戸時代末期の慶応元年(1865)の造立だった。他にもいくつかあるがあまり古い時代のものではなさそうである。

場所  杉並区堀ノ内3丁目48-8

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2023年3月 9日 (木)

清見寺の石仏(杉並区梅里)

青梅街道に面して北側からアプローチする清見寺は曹洞宗の寺院。寛永元年(1624)の創建と伝えられ、この地に江戸時代初期からある。江戸時代から近代にかけて、この辺りは馬橋村、馬橋と呼ばれてきた土地で、青梅街道は当時から往来が多く、清見寺の南には関口や松ノ木などという集落が広がっていた。現在の梅里という地名は昭和43年(1968)に付けられた新しい地名で青梅街道に面した里ということで梅里と付けたものである。

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現在の清見寺の本殿はとても大きく、見上げるような規模である。戦後の建物と思ったら実は昭和11年(1936)の建築であった。また明治8年(1875)から約10年間、桃園小学校の分校が置かれていた。現代のように寺域が町の喧騒から別世界に入ったような感覚ではなく、街と共にある寺という存在だったことが想像できる。

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寺は往来のある青梅街道に面しているため北側から入るが、その入口に堂宇があり舟型光背型の地蔵菩薩像が祀られている。「北向清顔地蔵」とも呼ばれるこの地蔵は、寛文4年(1664)9月の造立で、尊像脇に戒名があるので元々墓石だったようだ。いつからか青梅街道の往来を見守る地蔵尊になったと思われる。

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本堂の前には無縁仏塔があり、その主尊がこの丸彫の地蔵菩薩像。年代は不詳だが江戸時代ではあるだろう。下部正面に「日本回国奉納大乗妙典六十六部供養」とある。曹洞宗では珍しいが、江戸時代はいろいろな境目がごっちゃ混ぜになった傾向もあるので、ないわけではない。「武列多摩郡阿佐ヶ谷村、野方領馬橋村などの銘も刻まれている。

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無縁仏塔の脇に大木の切り株のような台石に載せられた角柱型の馬頭観音がある。三面がはっきりとした馬頭観音で、造立年は大正11年(1922)9月、施主は浅賀富蔵とある。大正年間にこれだけ手の込んだ馬頭観音は少ない。

場所  杉並区梅里2丁目11-17

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2023年3月 8日 (水)

海雲寺の石仏(杉並区成田東)

海雲寺は天桂寺に隣接する同じく曹洞宗の寺院。天桂寺がもともと江戸時代から杉並に在ったのに対して、海雲寺は異なる変遷を持ち、まずは慶長16年(1611)に江戸八丁堀に創建している。間もなく武家屋敷の拡大の為か、寛永12年(1635)になって浅草八軒寺町へ移転を余儀なくされており、現在地に引っ越してきたのは明治43年(1910)のことである。

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山門は珍しく北西側にあり、くぐると正面に本堂がある。本堂までの左側には石仏が並び、その背後が墓所になっている。天桂寺、海雲寺は善福寺川の左岸にあり、河岸段丘を上がったところに立っている。寺社地としては典型的なロケーションと言える。

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本堂の手前に珍しい燈籠が立っている。燈籠というよりは燈籠によく似た六地蔵幢と言った方がいいだろうか。竿部には元禄16年(1703)10月の造立年が刻まれており、「奉造・・・」とあるが欠けていて読み取れない。何とも不思議な六地蔵幢である。

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その手前の堂宇に祀られていたのがこの木食上人の像と櫛型角柱型の馬頭観音である。杉並区の資料によると木食上人座像は安永9年(1780)正月の造立。「日本回国木食天無僊春比丘肖像行年百貮歳死」とあるらしい。一方の馬頭観音は尊像は不詳だが、「伝馬頭観音」と資料にはある。「武州多摩郡田はた村内 せき口」というのは関口の地蔵や海雲寺あたりの地名。この馬頭はもとは成田東3丁目28-2にあったものとされる。

場所  杉並区成田東4丁目18-9

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2023年3月 7日 (火)

天桂寺の石仏(杉並区成田東)

天桂寺は杉並区成田東にある曹洞宗の寺院。創建は寛永10年(1664)とされ、小田原北条氏の重臣であった松田康秀の家臣で、北条氏滅亡後江戸幕府の旗本になった岡部吉正が田端村(現在の成田東)の領主となった際に開山したという。「杉並」という地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来すると言われ、天桂寺には岡部氏の墓所がある。

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山門脇には3m×2mほどの大岩があり、そこに「天桂寺」と彫り込まれている。武家が造らせた寺だけに、城郭にある巨石(鏡石)のような意味合いがあるのだろうか。山門の正面には本堂があり、右手に庫裏、左側に墓所がある。

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山門を入るとすぐ右手に3基の背の高い石仏が並んでいる。右端は昭和50年代に建てられたという水子地蔵。中央の丸彫の地蔵菩薩像は寛政7年(1795)10月造立で、台石正面には「奉造立地蔵再菩薩」とあり、側面には「武列多摩郡田端村之内 関口講中貮拾件 馬橋村講中三軒 阿佐ヶ谷村講中三軒」とある。裏面には「江戸本材木町八丁目」の石工名があり、これは現在の宝町あたりだろうか。そして左端が庚申講中による聖観音像で、造立年は寛文4年(1664)7月と古いもの。文字が多数刻まれており、「念仏講男女廿一人」「奉供養庚申講中所願成就之所」「武州多東郡田端村」などの銘がある。

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墓所にはひっそりとこの駒型の馬頭観音が立っている。駒型の角柱に「馬頭観音」と刻まれている。造立年は昭和2年(1927)9月と新しいもので、側面には「健(建立の意味の誤字か) 大場幾吉」とある。

場所  杉並区成田東4丁目17-4

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2023年3月 6日 (月)

円蔵院門前の石仏(江戸川区南小岩)

JR総武線小岩駅近くにある円蔵院は真言宗の寺院で、天文年間(1732~1555)の開山とされる。この辺りはかつては小岩村の沖と呼ばれていた集落である。隣りには沖天祖神社があり、円蔵院はこの別当寺であった。

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円蔵寺の南には元佐倉道が通っており、成田山や佐倉方面への往来が多かったようだ。北側には総武線が走り、小岩駅は明治32年(1899)の開業で当時は総武鉄道。明治40年(1907)に国有鉄道になっている。円蔵寺はこの総武線の線路から程近い場所に在り、門前には大きな堂宇がある。

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堂宇内には4基の石仏が祀られている。左端は駒型の庚申塔で、上部に日月の装飾があり、正面には「青面金剛」と大きく文字が彫られている。台石には三猿が陽刻されており、右側面には「沖講中」の銘がある。造立年は寛政9年(1797)9月である。右の上部が欠損した駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。青面金剛の左手にはショケラが下がる。左側に宝暦9年(1759)7月の造立年がある。

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右の2基はともに地蔵菩薩像で、左の丸彫の地蔵は文字が見られず造立年等は不詳。右の舟型地蔵もかなり風化と摩滅が進んでいて文字が一部読めない状態。造立年は元禄12年(1699)とある。右には「奉新造六道▢▢▢▢」とあり、左には「二世安楽也」と刻まれている。

場所  江戸川区南小岩6丁目16-28

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2023年3月 5日 (日)

上一色天祖神社庚申塔(江戸川区西小岩)

新中川の東側(左岸)、都道315号線の上一色橋と、鉄道マニアの知る新金貨物線の中川放水路橋梁の間にあるのが上一色天祖神社。南北両方に鳥居があり、どちらからもアクセスできるようになっているが、神社本殿は南向き。中川放水路が出来たのは昭和中期だが、遥か昔からこの地には南からアプローチする天祖神社があった。

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写真の鳥居は北側の入口。天祖神社の創建は不詳ながら、かつての上一色村の鎮守だったらしい。江戸時代後期には祭りが記録されているし、寛永16年(1639)の棟札があるそうなので、江戸時代以前からあったと考える方が自然だろう。

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北側の鳥居の脇には屋根付きの堂宇があり、駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、青面金剛の頭上には「奉供養」、右下には「庚申講中」とあり、左側には正徳4年(1714)9月の造立年が刻まれている。

場所  江戸川区西小岩2丁目2-8

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2023年3月 4日 (土)

奥戸地蔵堂(葛飾区奥戸)

奥戸街道が新中川を渡る奥戸新橋の少し南の辻に立つ堂宇がある。なかなか立派な堂宇で、数坪の敷地に立っている。この辺りは江戸時代は奥戸村の外れで、これより東は上一色という集落だった。堂宇の前の南北の道は当時の中井堀が流れていた水路筋で、周辺は一面の田んぼだった。

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堂宇の格子戸を開けさせていただいて中の石仏を拝ませていただく。右には大きな舟型光背型の地蔵菩薩像がある。造立年は宝永3年(1706)10月で、「奉造立地蔵菩薩二世安楽也」と刻まれている。左側はかなり摩滅が進んでいるが舟型の庚申塔である。日月は摩滅して不明、青面金剛像に邪鬼と三猿が確認できる。また左手にはショケラが下がっている。庚申塔の年代は不詳だが江戸時代中期だろうか。

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格子戸の脇に説明書きが貼ってある。江戸時代宝永年間にここに在った角屋という家の前に地蔵が建てられた。風雨で傷むのを見かねて大正時代の中頃に地元の有志が御堂を作り奉納した。今の堂宇は昭和42年に建替えたものとある。ところがこの説明書きによると、左の石仏は馬頭観音で、文化7年(1810)観音湯(おそらく銭湯だろう)西の路上に建てられたものとある。しかし像形はやはり庚申である。観音湯(福島家)が堂宇を建てて祀っていたが、平成7年にここに移されたとある。

場所  葛飾区奥戸6丁目12-16

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2023年3月 3日 (金)

宝蔵院の石仏(葛飾区奥戸)

奥戸という地名はもともと奥津が転訛したもの。東京の低地には青戸、亀戸など「戸」の付く地名があるが、元は港を表す「津」があって、舟運に関わる土地には津や戸が付くことが多い。奥戸周辺は古くから人が住み、昭和の初めまで奥戸村であった地域。この辺りは奥戸新田という集落で、新中川は昭和13年~昭和38年にかけて掘削された人工河川なので、それ以前は農業地と用水路が広がる農村地帯だった。

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宝蔵院は真言宗の寺院で、応永2年(1395)の創建。南葛八十八ヶ所の第7番札所。境内は樹木が多いが、石仏の数も極めて多い。多数は墓石だが、本堂前にも数十基、脇の薬師堂周辺にも同じくらいの数の石仏が並んでいる。

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本堂前の石仏群の中でひときわ大きく目立つのがこの舟型光背型の地蔵菩薩。「ほれ地蔵」と呼ばれているらしい。造立年は寛文2年(1662)7月と古い。「建立念仏講也」「地蔵菩薩二世安楽所」と刻まれている。下部には多数の願主名が刻まれている。

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薬師堂の脇に在ったこの舟型地蔵は墓石だが、寛文13年(1673)3月とこれも古いもの。その先にずらりと石仏が並ぶエリアは「賽の河原」と名付けられており、宇田川家の地蔵が数十基、それ以外にも、元禄6年(1693)の聖観音、元禄7年(1694)の釈迦如来、寛文12年(1672)の釈迦如来、天和3年(1683)の地蔵菩薩、寛文13年(1673)の釈迦如来などがずらりと並んでおり、しばし拝観してしまう。

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宝蔵院の入口は3方向にあるが、東側が本来の山門にあたる。その山門の近くに在ったのが、この笠付角柱型の阿弥陀三尊像である。造立年は寛文11年(1671)10月。角柱の正面と両側面に、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩が彫り込まれている。像の下部正面には紀年と「奉造立四面塔」「為日記念仏二世安楽也」とあり、各面には沢山の願主名が刻まれていた。

場所  葛飾区奥戸8丁目5-19

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2023年3月 2日 (木)

専念寺の石仏(葛飾区奥戸)

環状七号線から一本入った所にある浄土宗の専念寺は、元和8年(1622)に創建された。南葛八十八ヶ所霊場の第15番札所になっている。山門はさりげない樹木に囲まれており、植木屋さんに入っていくような感覚である。

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明治の初め頃は無住の寺だったが、今はきれいな寺院である。この辺りは明治時代までは奥戸新田と呼ばれた地域で、当時はまだ新中川は掘削されておらず、南北に中井堀という農業用水が流れていた。また専念寺の北側には西井堀という用水路があって、寺の北あたりから西に流れを変え、奥戸村の農業を支えていた。

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本堂脇には無縁仏塔があり、上部に3基の大きな石仏がある。左は舟型光背型の釈迦如来像で、墓石のようだが、造立年は元禄5年(1692)10月である。中央の主尊と思われる丸彫の地蔵菩薩像は笠を被った珍しい形。基壇には「奉造立」とあるが、その下にあるのは延宝、寛文などの年号で、これももとは墓石だったのかもしれない。ただし葛飾区の資料によると裏面に「西国秩父坂東所願成就所」とあるようだ。右の舟型光背型の地蔵菩薩は貞享4年(1687)8月造立の古いもの。願主名が多数刻まれているが、蓮台に「はしば」「小谷村」の銘が見える。一体どの辺りだろうか。

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墓所の奥にある歴代住職の墓地の一画に珍しい石仏がある。一見釈迦如来坐像だが、釈迦如来は右手上向き(施無畏印)、左て下向き(与願印)で、合掌は勢至菩薩などで多いので、この尊像が一体何なのかは分からない。造立年は享保15年(1730)5月とある。

場所  葛飾区奥戸8丁目10-3

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2023年3月 1日 (水)

妙厳寺の石仏(葛飾区奥戸)

奥戸にある妙厳寺は真言宗の寺院。創建は応永22年(1415)と伝えられる。南葛八十八ヶ所の21番札所になっている。本堂と墓所はあすなろ幼稚園と幼稚園の運動場に挟まれており珍しい地形である。

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山門をくぐると正面に本堂、左側に庫裏があり、右の運動場脇から墓所に抜けるようだ。運動場との間の狭い空間に大きな宝篋印塔が立っている。

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この宝篋印塔は元文4年(1739)12月に建立されたもので、「武州葛飾郡奥戸邑 八王子山妙厳寺」とある。保存状態が極めてよく、文字もほぼ読める。宝篋印塔の奥に墓所があるのだが、檀家以外立入禁止とあったので遠慮した。葛飾区の資料に載る地蔵菩薩などがあるようだ。

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門前と門中に1mほどの高さの道標が立っている。葛飾区の道標資料にも載っていないものである。門前の角柱には崩し字で地名があるが私には読み取れない。大阪などとあるがそれはないだろう。左の門前のものは文化2年(1814)の建立、右の門内のものは明和4年(1767)である。門内のものも左大川道、右第九番・・・とあるが第九番は「路辺」(奥戸8-3-13)らしく今はそれらしきものはない。

場所  葛飾区奥戸3丁目28-10

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