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2023年4月30日 (日)

西新井宮本の馬頭観音(足立区西新井本町)

足立区西新井本町は北を環状七号線、西を日暮里舎人ライナーが上空を走る尾久橋通りが通り、道は古い道が多いエリアである。西新井浅間神社の東側を南北にくねりながら走る路地も江戸時代からある道で、歩いているといかにも古い道の様相が漂う。

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その道の一画にかつてあった馬頭観音が消えたのだが、どうも家主様が建替えをされたようで、訪問してみると大理石の屋根囲いを纏った角柱型の馬頭観世音菩薩が祀られていた。元はブロックで作られた堂宇が敷地の南端にあったが、新しい堂宇は北の端にある。

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彫りの見事な馬頭観世音菩薩で、頭上の馬頭もしっかりと残っており、一面六臂である。造立年は分からない。右側面には「光厳貞松信女乃菩提」とあり、右の行は欠けていて読めなかった。左側面には「▢▢四ッ谷▢▢森田屋金▢▢」とあるが意味は分からない。この辺りは江戸時代、明治時代には西新井村宮本となっている。現在は西新井本町で幕府直轄の天領と総持寺領から成っていた。この辺りは西新井村の中でも興野村ともなっていた時代があるようだ。

場所  足立区西新井本町1丁目22-17

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2023年4月28日 (金)

西新井浅間神社庚申塔(足立区西新井)

西新井浅間神社は西新井大師の300m余り西、環七通り脇に立つ小さな神社で、寛永15年(1638)に地元の富士講中が土地を寄進し、富士山浅間大権現を勧請してできたと伝えられる。富士講としては最も古い部類だろうと思う。

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本殿は2畳あるかどうかという小さなものだが、境内はその割に広い。本殿の環七よりに不動明王像があり、その近くに古い富士講の石柱がある。富士山へ33回登頂して建てたものらしく、紀年は天保14年(1843)9月と富士講としては最盛期にあたる。西新井の富士講はその後も続いたが昭和の初期に下火になったようだ。

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冠穴のガードレールが見える境内の端に、二つに折れてしまった板碑型の庚申塔が祀られている。繋げずにこうして固定されているのは珍しい。造立年は極めて古く寛永15年(1638)9月と刻まれている。ここに浅間神社を勧請した年のものである。中央には「奉待庚申諸衆供養二世成就所」と書かれている。

場所  足立区西新井6丁目3-16

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2023年4月26日 (水)

西新井大師の石仏(足立区西新井)

関東三大師はどうもはっきりとはしていないようで、正月になると佐野厄除大師、西新井大師、川崎大師の宣伝が増えるがどれが正しいというものはない。しかし規模的には西新井大師は有力である。東武伊勢崎線の西新井駅で大師線に乗り換えると、昭和の雰囲気の電車が大師前駅に到着する。駅からは東側の光明殿を過ぎて山門まで少し歩く。山門も本堂もすこぶる立派で豪華である。

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山門をくぐり本堂へ向かうと左手に塩地蔵の堂宇がある。塩地蔵はあちこちにあるが、概ねどれも自分の身体の具合の悪い所と同じ地蔵の身体に塩をぬって祈ると快癒するという信心である。

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塩をぬると金属はもちろんのこと石地蔵や石観音でさえも腐食していき段々小さくなっていく。塩地蔵の造立年等は一切分からないが、立て札には「江戸時代より特にいぼ取りその他に霊験ありと伝えられ、御堂内の塩を頂きその功徳ある時、倍の塩をお返しする」という慣わしのようである。

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塩地蔵の裏手には三匝堂(さんそうどう)という一見三重塔に見えるが、江戸時代の栄螺堂(さざえどう)の一種らしい。その手前にポツンと自然石の庚申塔が立っている。石をぐるりと見まわしてみたが「庚申」の文字以外には情報がない。もちろん造立年も不詳である。

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本堂の左手裏に周り、女人堂の裏手に回ると沢山の石仏がある。TATSUさんの「東京都の庚申塔」でここに阿弥陀三尊像がありそれが庚申塔らしいということを知った。隙間がなくて困ったが中央の半分隠れた石仏がそうではないかと推定。見慣れない像形なので実際に見ても自信がない。

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駅の方に戻り光明殿に入る。隅にある大きなお堂は六角堂かと思いきやよく見ると八角堂である。その裏手に沢山の石仏が並べられているが、その中の一基が足立区の資料によると板碑型の庚申塔らしい。造立年は寛永13年(1636)11月と極めて古い庚申塔で、「奉待庚▢▢願▢▢供養所 敬白」と刻まれているようだ。

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八角堂の脇の竹藪の中には自然石の大きな庚申塔がある、文字は残念ながら読み取れない。資料によると「奉待庚申」と書かれているようだ。造立年も不詳である。

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光明殿の裏手にはいくつもの石仏が打ち捨てられるように置かれていた。この庚申塔はその一つである。正面には「庚申塔」と書かれ、その下に三猿の痕跡がある。右脇には安政4年(1857)5月の造立年と「両国薬研堀」の銘がある。

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そのすぐ近くに横たわっていた深い根っこのような基石の地蔵菩薩像だが、この舟型光背型の地蔵も庚申塔である。造立年は文化元年(1804)9月。「西新井村惣津寺 庚申待講中 願主 元明」と刻まれている。並んで横たわっているのは読誦塔のようである。どうも大きな寺院は苦手である。石仏探してうろうろ1時間以上巡ってしまった。

場所  足立区西新井1丁目15-1

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2023年4月24日 (月)

浄閑寺の石仏(荒川区南千住)

住所は荒川区南千住だが東京メトロ日比谷線三ノ輪駅からすぐのところにある浄土宗の浄閑寺は別名「投込み寺」として広く知られている。江戸時代吉原(新吉原)の遊女たちが多数葬られていることによる名前である。

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浄閑寺の創建は明暦元年(1655)で、明暦の大火の2年前。後に川柳に「生れては苦界 死して浄閑寺」と詠われた。現在の浄閑寺と吉原大門とは約1㎞弱離れているが、ここから吉原大門を経て浅草待乳山までは音無川から山谷堀という舟運のルートで、それに沿って日本堤という堤防が築かれていた。

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山門脇に舟型光背型の地蔵菩薩像が立っている。光背の全体に偈文がびっしりと刻まれているが、右下に正徳2年(1712)3月の造立年が読み取れる。この地蔵菩薩像は「小夜衣(さよぎぬ)供養地蔵尊」と呼び元々は境内にあった。悪い部分を撫でるとよくなるという言い伝えがある。豪商の抱え遊女であった小夜衣は女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの刑になった。ところが一周忌、三回忌、七回忌の際にその豪商は出火しついに潰れてしまったという言い伝えである。遊郭の人々が厚く弔うようになってからは御利益になったらしい。

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境内から墓所に入るとすぐに「若紫の墓」がある。吉原は江戸時代のものと思っている若い人も多いが、実は戦後まであったのである。この若紫は明治時代の人で吉原随一の美女と言われていた。年季が明け大金持ちに輿入れするのが常だったが、彼女はかねてからの恋人(一般人)と結婚することにした。そんな幸せな時に、無関係な遊女に浮気されて逆上した男が関係のない若紫を殺害してしまった。年季明けまで僅か5日という時であった。

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墓所の奥には「新吉原惣霊塔」があり、それ以外にも新比翼塚、首洗い井戸、猪を描いた豕塚(いのこづか)、ひまわり地蔵など見どころが多数あるが、ここでは割愛する。新比翼塚は目黒不動の比翼塚とは違い、明治初期に品川楼で情死した遊女と政府高官のものである。今は北品川の旧東海道筋で知られるが、街道筋の立て札に「土蔵相模跡」などと書かれており、明治維新の男たちが通った、娼妓4,000人が働いていた場所であることを知る人は少ない。

場所  荒川区南千住2丁目1-12

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2023年4月22日 (土)

猿田彦神社の庚申塔(荒川区東日暮里)

荒川区の日暮里と三ノ輪の間には「カンカン森通り」という興味深い名前の通りがある。東京の人口密集地帯にカンカン森というのが引っ掛かった。その名前の由来がカンカン森通りにある猿田彦神社に由来するという。この神社は「神々森猿田彦神社」という。

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社は小さなものだが、江戸時代には第六天社と呼ばれていたこの場所を「神々森(かんかんもり)」と呼んだ。明治時代まで音無川(石神井川)沿いに開けた田んぼの中にあり、竹藪生い茂る寂しい場所だった。昔はこの神社の前の通りを「第六天通り」と呼んでいたそうだ。江戸時代からの第六天社は後に胡録神社と改名、そしてさらに猿田彦神社となったという。

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本殿の手前右側には複数の石仏石塔がある。説明板によると、実は本殿内には自然石の庚申塔があるらしい。説明板には写真もあったが、コケシ風のもので「猿田彦大神」と彫り込んであるようだが、その写真は昭和30年代のものと記してあった。実物は本殿内を拝観できないので分からない。

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本殿前にはいくつかの石仏石塔があるが、その真ん中にあるのが板碑型の庚申塔。造立年は享保13年(1728)11月である。板碑型としてはかなり新しい時代のものといえる。中央には「奉造立庚申供養」とあり、その上にある梵字(種子)は胎蔵界大日如来を表すもの。下部には12名ほどの願主名が刻まれている。

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庚申塔の近くにあった手水鉢は文化7年(1810)4月が造立年月。何気なく置いてあるが歴史のあるものである。この辺りはかつては金杉村と呼ばれた地域で、北に三河島村、南は上野寛永寺という都市近郊の村であったが、江戸時代は田んぼと溜池の広がる農村地帯だった。

<追記>

ぼのぼのぶろぐも気が付けば3000投稿になりました。東京23区内の坂道探訪に続いた石仏探訪もある程度網羅してきたところで、残りの石仏があちこちまばらになってしまい、仕事やその他野暮用で毎日の投稿が徐々に追いつかなくなってきたので、ここにきて投稿ペースを少し緩めることにしました。次のテーマのことも考え始める必要もあったりするためで、もし毎日楽しみにされている方がいらしたら申し訳ありません。今後ともよろしくお願いいたします。

ぼのぼのぶろぐ管理人

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2023年4月20日 (木)

地蔵堀の石地蔵(荒川区荒川)

明治通り沿いの荒川警察署の隣りに近代的な地蔵堂がある。「地蔵堀の石地蔵(地蔵堀の交通安全地蔵)」と呼ばれる地蔵で、造立年は元文5年(1740)10月とある。丸彫の地蔵座像で、警察署の隣りにあることから交通安全と結びついたのだろうか。

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古い燈籠があり、その手前右にある角柱の標石は昭和3年(1928)11月に三河島の庭師入山が奉納したもの。突き当りには背丈よりも遥かに背の高い丸彫の地蔵座像が見える。浄正寺の住職(第13世寛誉)が村の安穏と五穀豊穣を願って建立したと伝えられる。この前の明治通り沿いには昔は地蔵堀という用水路が流れていた。

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この場所は三河島村の外れで村人の旅立ちや出迎えの場所になっていたという。昔は少し違う場所だったようだが、大正14年(1925)に今の場所に落ち着いた。基壇には「地蔵講中」の文字があり、六角部分には西国、秩父、坂東の名もあることから巡拝塔としての役割もあったようだ。右隣りにある小さな角柱型地蔵は昭和36年(1961)3月建立の交通安全地蔵である。年代的には私の幼少期だが、当時は交通事故で無くなる人が極めて多かった。

場所  荒川区荒川3丁目1-1

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2023年4月19日 (水)

筑土八幡神社の庚申塔(新宿区筑土八幡町)

飯田橋から北西へ大久保通りの坂を上っていくと、400mほどで筑土八幡町の五差路に着く。左向こうに日本歯科大学の神楽坂上フィールドというネットで囲まれたフットサル場の右にフェリーボートのような建物があり、そのさらに右隣りに神社への階段がある。フットサル場もビルもここ数年(2018年以降)に出来たもので、以前にはなかった。しかし東京ドーム裏に続く大通りも実は数年前に開通したもので、すごい勢いで変遷していく街並みの中に筑土八幡神社だけが残されていく感じがする。

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この写真はまだ道路が開通する以前に訪問した時のものだがこの画角は昔とほぼ変わりない。筑土八幡神社は今から1200年前、嵯峨天皇の頃に創建されたとされる。筑紫の宇佐神宮の宮土を礎(いしづえ)にして建てたので筑土八幡宮と呼ばれる。面白い地形だが、縄文時代はここが岬の突端だったようだ。江戸時代までは飯田橋駅まで入江から舟運があり、今でも「揚場町」という荷揚げ場の地名が残っている。

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階段を上ってけいだいにいたると銀杏の大木の脇に大きな舟型光背型の庚申塔が立っている。極めて珍しいタイプの庚申塔で、二猿が向き合うようにしており、猿は桃ノ木の実を取っている。上部には日月が見られるが、このタイプは殆ど例がない。造立年は寛文4年(1664)5月。雄猿が雌猿に桃を食わせるという姿が愛らしい。

場所  新宿区筑土八幡町2-1

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2023年4月18日 (火)

三峯神社の庚申塔(荒川区荒川)

荒川区役所の明治通りを挟んだ向かいのビルの間にある三峯神社。明治通りを歩いていても見逃してしまうかもしれないような入口である。明治通りは古い幹線道路で戦前からあったが、さすがに関東大震災以降の開通である。明治通りよりも古いのは区役所の東を走る都電荒川線で、現在の荒川区役所前駅(電停)は大正時代以前の王子電気軌道時代は「千住間道(せんじゅかんどう)」という駅名で、今も都電と千住間道は交差している。

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三峯神社は袈裟塚耳無不動と共に、現在の明治通りの向かい辺りにあった仙光院(明治元年廃寺)にあったものを三峯神社と共に明治29年(1896)に現在地に移転した。新吉原遊女紅山と悲恋に落ちた仙光院住職の光慧(こうえ)は悪い病で耳が落ち腰も抜けた為、寺の門前に袈裟塚を造り不動明王を安置して祈願した。この不動尊の台座には宝暦10年(1760)9月の紀年がある。「武蔵国豊嶋郡東叡山領三河島」の銘もある。

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左が三峯神社、右が袈裟塚耳無不動である。三峯神社には狼の狛犬が2対ある。手前の両脇には耳と鼻がそれぞれ欠けて補修した狛犬があり、こちらは昭和12年(1937)9月の建立、左奥にはそれ以前のものだろうかもう一対の狛犬があり、こちらは昭和4年(1929)4月である。造立年が近いのでもしかしたら2対4基が並んでいたのかもしれない。若干稲荷の狐の影響を感じる狼狛犬である。

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不動尊の後ろには古い3基の庚申塔が祀られている。左の大きい板碑型の庚申塔は慶安5年(1655)8月の造立で、中央には「奉造立本地青面金剛待攸」、脇には「結衆諸▢▢▢二世安穏所」とり、下部に清水姓の願主名が並んでいる。中央の板碑型庚申塔は延宝4年(1676)10月造立で、「奉造立庚申待尊容一躯為結衆二世安穏也」の文字がある。願主名は田中姓と清水姓が多い。右の小さい方の板碑型庚申塔は元禄4年(1691)11月造立。「奉供養庚申講中二世安楽攸」の文字があり、こちらは願主名の姓はバラバラで飯田姓のみ2人いる。これだけ古い庚申塔が集まっているのは珍しい。

江戸時代の切絵図を見ていて気になったのは、明治通り沿いにはかつて農業水路が流れており、仙光院から離れたこの水路脇に「石不動」の文字がある。現在の三峯神社の西隣にあたるので、もしかしたら袈裟塚不動は江戸時代には既に現在地にあったのかもしれない。

場所  荒川区荒川3丁目22-10

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2023年4月17日 (月)

浄正寺の石仏(荒川区荒川)

JR常磐線(上野東京ライン)の三河島駅の北にある浄正寺は浄土宗の寺院。山門から本堂の間には数多くの石仏がある。ほとんどが墓石だが、江戸時代のものが多く見どころも多い。創建は文亀3年(1503)というからまだこの辺りにはほとんど人が住んでいない時代だろう。三河島の地名の由来の一説に三つの川が交わる場所であったというのがある。三つの川は隅田川の支流だろうか、詳しいことは分からず。

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山門から本堂まではそこそこ距離があり、植栽の間に見え隠れするいくつもの石仏を楽しみながら進む。本堂の手前左にブロンズの観音像がある。「三河島観音」と呼ばれる観音像である。

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60年余り前の昭和37年(1962)5月3日、常磐線三河島駅構内で貨物列車が脱線し、そこに上野発松戸行の電車がぶつかって脱線。ところが今度は上りの取手発上野行の列車が線路上を非難する松戸行の列車から降りた乗客たちを次々と轢死させながら、先の2編成の脱線列車に追突するという史上まれに見る悲惨な事故である。この事故では160人もの人命が失われ、以後国鉄はATS(自動列車停止装置)の整備を進めるようになった。私も小学校に上がる前だがこの事故と30年後の信楽鉄道の事故はよく覚えている。

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さて、多数の石仏があるがほとんどが墓石と書いた。しかしこの三界万霊塔として立つ舟型光背型の地蔵菩薩像は庚申地蔵である。造立年は寛文6年(1666)10月と古いもの。尊像右には「若有衆生造立仏像本仏心来入於像中」とあり、左には「奉待甲(庚)申一国一人得往生其国衆生皆往生」と刻まれている。

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植込みの中にあった石仏の中で、この舟型光背型の聖観音菩薩像は墓石でない可能性が高い。造立年は寛文11年(1671)6月と書かれており、中央が戦災によるものか中折れしている。その下の方には多くの願主名の痕跡があるが、熱火によるものだろうか溶けて摩滅したようになっていて読み取れない。

場所  荒川区荒川3丁目53-1

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2023年4月16日 (日)

観音寺の庚申塔(荒川区荒川)

東京の環状六号線でもある山手通りが京成本線の新三河島駅をくぐる辺りから東は長い高架になり宮地の交差点で千代田線の上を走る都道457号線を跨ぐ。その高架が下りきったところにあるのが真言宗の観音寺。創建は天文年間(1532~1553)と言われるので徳川の江戸入城以前からある。

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観音寺は徳川将軍の鷹狩の御膳所であった寺だが、江戸時代の三河島は鶴の飛来地で、農閑期になると竹の囲いをめぐらせて鶴のえ付けが行われた。徳川将軍は八代吉宗以降しばしばここで鷹狩りを行ったようだ。鶴は将軍に珍重され、「鶴御成り」と将軍の鷹狩りを呼んだらしい。観音寺に将軍が来るときは、山門ではなく東の竹藪を切り開いで出入りしたという。

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庫裏の手前、本堂の右手に東の墓所があるが、この方向から将軍は入って来たのだろう。その墓所の一画に駒型の小さな庚申塔が立っている。青面金剛像の痕跡は残るものの詳細は摩滅が進んでて分からない。石質からすると江戸時代後期のものだろうか。明治初期の可能性も捨てがたい。

場所  荒川区荒川4丁目5-1

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2023年4月15日 (土)

宮地六地蔵(荒川区荒川)

東京メトロ千代田線町屋駅の南、明治通りの宮地交差点の近くの丁字路に地蔵堂がある。江戸時代の切絵図にも「六地蔵」と書かれている。のぼり旗には「蓮田子育地蔵尊」と書かれており、宮地と蓮田の違いは何だろうと疑問に感じた。この辺りはもともと三河島村で、その中の地名だろうか。江戸時代には既に相当の人口があったようだ。尾久・町屋から宮地を経て坂本(現在の台東区下谷)に出る江戸道が六地蔵の前を通っていた。

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右の堂宇には新旧の丸彫地蔵尊が一基ずつあり、左隅にはかなり傷んだ大日如来像(丸彫)が祀られている。一見で六地蔵ではなく、様々な石仏が集められ数が多いので単純に言い慣れた「六地蔵」の通称になったのだろう。堂宇内の石仏の造立年等は分からない。宮地が江戸時代からの地名だというのは明らかだが蓮田については分からず。

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堂宇の左脇には大きな石仏が5基並んでいる。一番右の舟型光背型の仏形像は造立年は正保2年(1645)12月とかなり古いものである。最初薬師如来かと思ったが、右手と左手で抱えるように容器らしきものを持っており、右手が施無畏印ではないので何の像か分からない。隣りは彫り込みの素晴らしい駒型の庚申塔。造立年代は不明だが、日月、青面金剛像の下に仰向けの邪鬼、その下には二鶏と対のヒヨコがある。台石には猿らしきものがあるが一猿っぽい。青面金剛は左手にショケラを下げている。

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5基の中央は舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、荷役、三猿の図柄で、造立年は寛文12年(1672)霜月(11月)とある。隣りの長細い舟型光背型の石仏も庚申塔で、首の下が折れて補修された跡がある。日月、青面金剛像で三猿は見当たらない。造立年はこれも寛文12年(1672)だが8月のもので、下部には願主名が並ぶ。左端は舟型光背型の地蔵菩薩像。左右に文字があるがほとんど摩滅して消えている。「奉」の文字と、「順礼」の文字がかろうじて見える。

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手前にあったのがこの2基の石仏。右は駒型の馬頭観音である。三面の馬頭観世音の首と頭上の馬頭が見えるが胴体はない。左の青面金剛だけが残った無残な石仏は庚申塔。空襲でこうなってしまったのだろうか。荒川区の資料によると延宝8年(1680)の庚申塔に「奉造立青面金剛、二世安楽所」の銘があり、それではないかとしているが、「・・面金剛」「・・祈所」の文字があるので可能性は高い。

郷土史によるとここには庚申塚があったようだが、寛文4年、寛文10年、元禄10年の庚申塔も記されているが現存しない。東京大空襲で残されたのが現在の石仏たちということになるのだろう。

場所 荒川区荒川4丁目10-10

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2023年4月14日 (金)

東砂天祖神社の庚申塔(江東区東砂)

東砂天祖神社は元禄10年(1697)に深川神明宮の分霊を勧請して創建された神社。八郎右衛門新田の鎮守であった。言い伝えによると、江戸時代境内には松の巨木があり、時折その枝に光るものがあり、村人はそれを祀ったという。

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鳥居の先に見える対の立派な燈籠がある。この燈籠は元禄14年(1701)の建立のものと、文政12年(1820)のものがあり、もしかしたら片方は再建かもしれない。本殿の右奥には水神、龍神、稲荷神社があり、稲荷神社の脇には古い庚申塔がある。

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角柱で三面に一猿(計三猿)が陽刻されており、正面には「奉供養庚申結衆二世安楽」と書かれている。造立年は元禄14年(1701)8月で、神社の創建直後である。神社のある八郎右衛門新田は万治年間(1658~61)に深川村の名主深川八郎右衛門が開拓したことから、八郎右衛門新田という村名になった。

場所  江東区東砂6丁目13-4

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2023年4月13日 (木)

子育地蔵堂(江東区東砂)

東砂天祖神社の向かいに7坪ほどの地蔵堂がある。「子育地蔵堂」と呼ばれている。堂宇の手前左に標柱があり、右手前には庚申塔がある。なかなかこれだけの境内を持つ子育地蔵堂は少ない。

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玉垣もしっかりしたもので、石標には大正4年(1915)7月に榎本市九郎という人物が境内を寄贈したようだ。地蔵堂そのものは昭和16年(1941)7月に地元の多数の人々によって建立されている。ただ木材を見る限り、近年再建された可能性が高い。

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堂内に祀られている地蔵菩薩は丸彫で、造立年等詳細は分からない。高さは背丈よりも少し低いくらいで、やさしい顔のお地蔵様である。

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堂宇の右手前にある庚申塔は保存状態が極めて良いものである。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は正徳2年(1712)8月と刻まれている。右上には「奉供養青面金剛 現世安穏 後生善處祈」と書かれている。

場所  江東区東砂7丁目12-2

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2023年4月12日 (水)

砂村新田六地蔵(江東区南砂)

江東区には北砂、南砂、東砂、新砂という「砂」の付く地名がある。西砂は残念ながらない。その砂の地名の中心がここ砂村新田である。明治22年(1889)に砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の砂を取って命名したらしい。砂村が後に砂町に昇格して、それが砂町銀座になる。

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区立第四砂町小学校の北にあるこの六地蔵は古くから砂町の中心であった。現在でも都道葛西橋通りには六地蔵クリニックなる名前の医院があったりする。第四砂町小学校の辺りはかつて百島と呼ばれ、物寂しい土地であった。水路が入り組んだこの百島に六地蔵が東向きに置かれていたという。これらがいつ建立されたのかは不明だが、江戸時代からあったことは確からしい。

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砂村新田の南側には大名の下屋敷がずらりと並んでいたが、これは大名に開拓をさせるためである。地蔵のすぐ南は熊本の肥後熊本領で、隣に長門萩藩毛利家の下屋敷があったりした。明治維新を経て大正時代になると、砂村新田は人口も増加し賑わいを見せるようになる。しかし第二次世界大戦での東京大空襲で六地蔵は灰と化してしまった。今の六地蔵は昭和27年(1952)に再建されたものである。

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六地蔵の右奥に一基の庚申塔が祀られている。駒型の庚申塔で、三猿のみが大きく陽刻されている。造立年は延宝3年(1675)8月と庚申塔の中では古いものである。三猿の上には「南無阿弥陀仏」とあり、これも空襲によるものか袈裟切りされたように割れ目が走っている。三猿の下には願主名が並んでいた。

場所  江東区南砂2丁目28-27

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2023年4月11日 (火)

志演尊空神社の庚申塔(江東区北砂)

江東区北砂には砂町銀座という都内有数の商店街がある。戸越銀座がメディアにはよく取り上げられるが、個人的には砂町銀座とジョイフル三ノ輪が好みかもしれない。砂町銀座の西の端は都道306号線で砂町銀座入口という交差点である。その少し南にあるのが志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)という珍しい名前の神社。

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志演尊空神社は志演神社と尊空神社が合併して昭和22年(1947)に出来た神社だが、志演神社の方はもともとこの地域(八右衛門新田)を開拓した際、寛永元年(1624)に創建した。当時は深川稲荷と言っていたが、元禄年間に徳川綱吉が鷹狩りの途中で立ち寄り、「民の志を演ぶる事殊勝なり」と言って志演神社と改名させたという。志演神社も村内にあった尊空神社も東京大空襲で焼失してしまったので、ここに合併したという経緯。

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本殿前に対で立っている石塔は右側がかなり欠損しているものの、左側はほぼ無傷で残っている。造立年は正保4年(1647)10月と刻まれている。正面には「奉▢▢石塔▢▢深川稲荷」とあるので、綱吉以前のものである。

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本殿前境内にはもう一つ、東京都内最古の力石がある。説明板の「最古」という部分に訂正がありそうなので他にもっと古いものがあるのかもしれないが、東京神社庁のHPには日本最古の力石と記されている。そのHPには神社は通称「ごまの稲荷」と呼ばれているらしいが、このゴマは食べるゴマではなく護摩(祈祷)のことである。正徳年間に疫病が流行し護摩行をすると収まったのでご利益とされたようだ。この力石の造立年は寛文4年(1664)2月で地元では志乃武石と呼ばれているという。

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本殿の裏手に回り込む。そこには墓地があり、墓地の左手、ちょうど本殿の真裏に多数の庚申塔が祀られていた。一番手前にあったのがこの板碑風の庚申塔で、三猿のデザインが特徴的である。文字はかなり摩滅しているが、寛文元年(1669)10月の紀年がある。中折れは空襲の痕跡だろうか。

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その隣にも板碑型の庚申塔がある。上部が欠損している。「青面金剛 庚申供養」の文字があり、延宝8年(1680)4月の紀年がある。「道行十三人、内道行七人(七なのか十にキズが付いているのかは微妙)」と両脇にあり、最下部には願主名が並ぶ。

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手前から三番目の庚申塔は駒型で三猿のみの図柄。ただし土中に埋まっている台石にも三猿がある。上部には「青面金剛南無阿弥陀仏」とあり、脇に延宝3年(1675)8月の造立年がある。三猿の下には「道行三十三人」と書かれている。

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四番目の庚申塔はきれいな状態。駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。二鶏が線刻されている。右上に「奉供養諸願成就」とあり、左には元禄6年(1693)11月の造立年がある。元禄が新しいと感じる恐るべき庚申塔群である。三猿の脇には「新田」という文字がある。江戸時代後期のこの辺りの地名は久左衛門新田である。

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ケヤキの木を挟んで左側にはもう一基、駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、三猿の下に二鶏がある。造立年は延宝8年(1680)8月で、「武刕葛鹿郡西葛西領 八〇新田」の銘があるが、延宝年間の頃は八右衛門新田という村名だったのだろう。

ちなみに日本最古の力石は現在は、埼玉県久喜市の樋ノ口八幡神社の寛永9年(1632)の力石が発見されたので、志演尊空神社の説明板には修正がされていたと思われる。

場所  江東区北砂2丁目1-37

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2023年4月10日 (月)

治兵衛稲荷の庚申塔(江東区北砂)

江東区北砂にある治兵衛稲荷はかつてこの地が治兵衛新田だったことからの社名である。治兵衛新田村だった頃は村の鎮守で、この治兵衛新田を開発した治兵衛という人が京都の伏見稲荷から分霊して慶安年間(1648~1652)に創建したと伝えられる。

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境内が1mほど高いのはこれまでの水害と関係があるのだろうか。神社はこじんまりとした敷地だが、どことなく歴史を感じさせる。鳥居をくぐってすぐにさりげなく水道受けにされている水鉢を見て驚いた。

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手水鉢には寛政5年(1793)5月と造立年が書かれている。「治兵衛新田氏子中」という文字が左側にある。この230年前の水鉢を普通の水受けとして使っているところが庶民らしくていい。価値を知る人が皆に知ってもらおうと文字を赤く染めているのだろう。

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本殿の左側奥にやや大きめの平成16年(2004)に建てられた堂宇がある。堂宇の中には新しい丸彫の地蔵菩薩と駒型(と思われる)の庚申塔が祀られている。庚申塔は上部が欠損しているがおそらくは空襲によるものだろう。この辺りも昭和20年(1945)3月の東京大空襲では焼け野原になったところである。庚申塔の上部が欠損しているので日月の確認はできないが、青面金剛、邪鬼、三猿が描かれている。脇に立つ石柱には「この庚申塔は享保初期のもので神社わきの大師道に建立されていましたが、昭和21年境内に移されました」とある。庚申塔の側面には享保3年(1718)9月の紀年が刻まれている。

場所  江東区北砂3丁目21-11

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2023年4月 9日 (日)

崎陽軒裏庚申塔(江東区大島)

江東区大島に私の大好きなシューマイ弁当で知られる崎陽軒東京工場があり、その脇道の先、崎陽軒の敷地の一部に庚申塚がある。右側に堂宇があり、丸彫の地蔵と庚申塔が祀られており、堂宇の左側には自然石で造られた「庚申塚」と書かれた石碑が立っている。

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庚申堂の中の地蔵菩薩は最近再建されたもののようだ。右側にある舟型光背型の庚申塔も新しいもので、造立年は昭和38年(1963)12月、東京オリンピックの前の年である。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、青面金剛は左手にショケラを下げている。裏側には願主名もあり、藤田常吉ほか4名の名前がある。この庚申塔、石川博司氏の資料によると再建されたものらしい。

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庚申堂の前の道を東に進むと、間もなくJR東日本の越中島支線の架道橋が見えてくる。この架道橋は「庚申架道橋」という名前。説明板が立っていた。煉瓦造りの様子から見てかなり古そうである。昭和4年(1929)に敷設されているからかれこれ100年近い。すぐ南にある小名木川橋梁もトラス式で年季の入った鉄橋である。

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説明板によると、昔この道は庚申道と呼ばれていた。崎陽軒脇の庚申塔は「釜屋堀庚申様地蔵尊」という名前があるようだ。堂宇は当時から突き当りにあり、庚申道の脇には水路が通っていた。この水路(小川)で子供をたらいに入れて流すと厄払いになるという言い伝えもあった。新大橋通りが開通する以前はこの道が東西の主要路で店舗もいくつも並んでいたそうである。

場所  江東区大島1丁目1-25

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2023年4月 8日 (土)

陶首稲荷神社の石仏(江東区東砂)

江戸の水運の動脈でもあった小名木川は、天正18年(1590)に江戸入城した徳川家康が関東各地からの物資をつつがなく運ぶために開削した運河である。水の確保のための治水工事も凄いが、大人口が生きるための塩を行徳から運ぶためにこの運河も作った。開削に関わった小名木四郎兵衛の名前をとって小名木川と呼ばれた。

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利根川筋から江戸湊(東京湾)に流れ込んでいたのは現在の旧中川。その旧中川と小名木川の丁字路にあったのが番所で、上の写真はその近くの都道の番所橋から撮ったもの。右の白いビルがパラマウントベッドの本社ビルで、その右下にあるまるでパラマウントの社内稲荷のような神社が陶首稲荷神社である。

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しかしこの小さな屋敷神のような陶首稲荷はただモノではない。もともと江戸時代はこの辺りから南にあった又兵衛新田、太郎兵衛新田、中田新田という小さな村々の鎮守であった。創建は小名木村の又兵衛がここに新田を開拓した寛永年間(1624~1644)である。社の右側には3基の石仏石塔がある。

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左端の角柱は土公神(どこうしん)とあり、土を司る神らしい。またかまど神とされることもある。造立年は昭和28年(1953)11月と新しい。中央は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、そして台石に三猿があり、青面金剛の左手にショケラが下がる。造立年は天保15年(1844)2月と書かれている。右端の自然石の石碑には「道祖神」と書かれている。脇には「海軍中将佐藤鐵太郎」とあり、造立は昭和26年(1951)9月だが、その前からあったものが大空襲で破壊されてしまったための再建である。元のものは寛永3年(1626)からあったらしく、安政3年(1956)、明治13年(1880)、大正6年(1917)の津波や水害について記述している。

場所  江東区東砂2丁目14-5

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2023年4月 7日 (金)

子安庚申堂(江東区大島)

東大島神社が空襲で焼失した地域の神社を纏めて戦後に創建されたが、そのうちのひとつが子安稲荷神社でかつては平方村の鎮守であったらしい。その名残が今も残っていて、町の一角に子易児童遊園という小公園がある。戦前はここに稲荷神社と池があったようだ。平方村の歴史がこの神社の言い伝えに残っており、江戸時代初期に摂津の枚方より移住してきた人々が開拓した村とされている。枚方が平方となった訳だ。

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庚申堂の脇にある石碑にはこの庚申堂を近年建てた時のことが書かれており、昔のことは記されていない。ただ立派な堂宇で、平方村から来た人々が坂東の片田舎で繋がりを保つために様々な講中を作り、その一つが庚申講中だったのだろう。堂宇内には黒っぽい石の駒型庚申塔が祀られている。

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日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、台石にある造立年は正徳2年(1712)7月、平方村中の銘もある。刻まれている願主名は7人銘ほどで、苗字があるので開拓もそれなりに成功したのだろうか。小名木川が近く、番所から本所方面への舟運にも絡んでいたかもしれない。子安稲荷神社の創建年代は開拓の進んだ万治年間(1658~1661)で、猿江神社(江東区猿江2-2-17) が兼務していたらしい。

場所  江東区大島8丁目19番地先

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2023年4月 6日 (木)

東大島神社の庚申塔(江東区大島)

都営新宿線東大島駅と大島駅の間にある神社で、大島(おおじま)地区東部にあった永平稲荷神社・子安稲荷神社・小名木稲荷神社・北本所牛島神社・南本所牛島神社の五社が昭和24年(1949)に合併し東大島神社が創立した。というのもこの辺りは昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焦土と化してしまった為で、石仏にも破損部分が多い。

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戦後の神社ではあるが、鳥居や燈籠は戦前のものが使われている。わかっている範囲では合併前の小名木稲荷神社は天正年間(1573~1592)の創建、子安稲荷神社は平方村の鎮守で、現在の小名木川北岸の小さな村だった。境内の南西角に祀られた石仏石碑はかつての記録のようにまとめられている。

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写真の六角石塔は、水の神様である岡象女命(みつはのめのみこと)、山の神様である大山祇命(おおやまつみのみこと)、道の神様である猿田彦命(さるたひこのみこと)、芸能の神様である天鈿女命(あめのうづめのみこと)、土の神様である埴山媛命(はにやまひめのみこと)の五神と文政6年(1823)立秋の紀年が刻まれている。

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すぐ近くには上部が大空襲で欠損してしまった駒型の庚申塔も祀られていた。造立年は天明7年(1787)年11月で、紀年は左右側面にある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、青面金剛の左手にはショケラもある。この庚申塔はもともとは南本所牛嶋神社にあったものとされている。南本所というのは神社の東側、現在は大きな団地やマンションがあるエリアで、江戸時代は「南本所出村」とあることから明治時代に南葛飾郡から本所区に編入されたころの地名の名残りであろう。台石には願主名も刻まれている。

場所  江東区大島7丁目24-1

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2023年4月 5日 (水)

善養寺境内の石仏⓶(江戸川区東小岩)

善養寺仁王門をくぐり本堂にお参りを済ませ、影向の松と江戸川寄りの石仏を拝したのち、再び仁王門前に戻り大師堂に挨拶。真言宗であるからとうぜん弘法大師(空海)である。仁王門の脇に立て札があり、四国八十八ヶ所の巡拝の御利益があるという新四国遍路道に入る。その手前には一基の駒型の庚申塔が立っていた。

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庚申塔の造立年は享保3年(1718)9月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。紀年は右側面に年が、左側面に月日が大きく彫り込まれている。庚申塔の先の遍路道にはいると数えきれないほどの石塔石仏がずらりと並んでいる。反対側の出口の脇には鐘楼があり、その先には仁王門とは別の西側の山門である不動門がある。

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善養寺は真言宗の寺院であるとともに「小岩不動尊」としても知られている。なぜ不動尊がクローズアップされるのか、成田不動との関係が深いのかなど少し宿題。「小岩不動尊逆井道向石造道標」「市川向石造道標」が江戸川区の文化財として記録されているが、善養寺参道の石仏の項で触れている。

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不動門の前には江戸川周辺にはしばしばみられる「浅間山噴火横死者供養碑」がある。天明3年(1783)7月に浅間山が大噴火を起こした。富士山の宝永噴火から3/4世紀が経った頃のことである。山麓では山津波が起こり、多数の犠牲者の遺体が利根川、江戸川を流下してこの地にも流れ着いた。下小岩村の人々はそれを丁寧に埋葬し、寛政7年(1795)の十三回忌にこの供養塔を建てたものである。昭和30年頃からこの石碑は行方不明になっていたが、昭和47年に寺内で発見されここに再建された。

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不動門から道路に出る手前に大きな木造の堂宇があり、覗いてみると3基の石仏が祀られていた。左端にあったのは駒型(角柱)の庚申塔で、正面上部に日月、その下に大きく「青面金剛」と彫り込まれ、台石には「庚講」とある。側面に紀年があり、文政8年(1925)2月の造立。

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中央は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。側面には寛政2年(1790)10月の造立年が大きく刻まれている。三猿は比較的珍しい横向きである。右端手前の上部ががっつり欠損しているのは馬頭観音である。馬頭部分も削られてしまっている。側面を見てみたが紀年は確認できず。欠損がなければかなり秀逸の馬頭観音かと思う。

場所  江戸川区東小岩2丁目24-2

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2023年4月 4日 (火)

善養寺境内の石仏①(江戸川区東小岩)

少し前に善養寺参道の石仏を紹介した。真言宗の寺院である善養寺は大永7年(1527)に山城醍醐山の僧が当地へ下向し、草庵を結んで創建したと伝えられる。江戸時代には幕府にも認められかなり大きな寺院になったようだ。南の参道からアプローチすると豪壮な赤い仁王門が出迎えてくれる。

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仁王門をくぐると正面には影向(ようこう)の松が広がり、その向こうに本堂が見える。本堂の右手前には小岩不動尊の不動堂があり、左には庫裏を兼ねた影向伝が並ぶ。仁王門の並びの塀沿いには四国八十八ヶ所の霊場があり、西側にも不動門がある。山門が南と西にあるのは珍しい。

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影向の松は国指定の天然記念物。推定樹齢600年というから室町時代の初期から生きているわけである。樹種はクロマツで、東西31m、南北28mに広がり、四国にある岡野松と並んで東西の横綱とされている。訪問時は桜吹雪が影向の松に降りかかり、なかなかの風情であった。

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不動堂の脇に無縁仏塔がある。無縁仏塔の左右側面には丸彫の地蔵菩薩像が3体ずつ、計6体で六地蔵を成している。これは無縁仏塔とは呼べないかもしれないと思ったのは、この六地蔵菩薩は台石に「奉造立供養六地蔵尊」とあり、「二世安楽所」と書かれているのでもともとの六地蔵である。造立年は享保16年(1731)9月とある。

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無縁仏塔の頂上にある舟型光背型の地蔵菩薩像にも「奉造立地蔵菩薩法印〇〇」とあり、造立年は享保5年(1720)5月と刻まれている。下部正面の中心となる存在の丸彫の地蔵菩薩像がおそらく主尊なのだろうが、こちらの紀年は見当たらなかった。

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無縁仏塔の右には舟型光背型の阿弥陀如来像がある。これは上部に日月があり、右下には「奉造立庚申待結衆二世安楽」とあることから庚申地蔵である。造立年は天和2年(1682)9月と書かれている。右の板碑型の三界万霊塔は文化5年(1808)5月のもので、下部には蓮が描かれている。1800年代の板碑型は珍しい。

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さらにその右に進むと上部が欠損した舟型光背型の地蔵菩薩像ともう一基舟型の地蔵菩薩像がある。左の頂部が欠けた地蔵は元禄15年(1702)2月の造立で、右肩のところに「奉供養庚申待二世安楽祈処」とあることからこれも庚申地蔵である。右側の地蔵菩薩には、「為地蔵講中十三人菩提也」とあり、右側には享保8年(1723)6月の造立年が刻まれている。

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その向かいにあるのがこの舟型光背型の地蔵菩薩像で、こちらは宝永2年(1705)9月の紀年が刻まれており、下部には僧侶の名前らしきものが書かれている。何の地蔵菩薩なのかは分からない。善養寺にはこれ以外にもまだまだたくさんの石仏があって、楽しい時を過ごすことが出来た。

場所  江戸川区東小岩2丁目24-2

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2023年4月 3日 (月)

宝塔寺の庚申塔(品川区東五反田)

国道一号線五反田駅東の相生坂の南側に雉子神社とならんでいるのが宝塔寺。ただし雉子神社の入口は国道1号線側だが、宝塔寺の山門は国道1号線をくぐる路地側にある。雉子神社の別当がこの宝塔寺だが、創建はこの地ではなく南品川漁師町に文亀2年(1502)に開いたとなっている。南品川漁師町はかつての目黒川河口の砂州に出来た町で、現在の台場小学校のあたりである。

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宝塔寺は万治年間(1658~1661)に下大崎の一柳播磨の上屋敷の傍に移転した。現在の五反田駅の目黒川橋梁辺りである。しかし目黒川の洪水に度々苦しめられたため、今の場所に移ったと伝えられる。山門をくぐり右に回り込むといくつかの石柱石塔がある。

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右の板碑型の石仏は寛文8年(1668)10月造立の庚申塔である。大きな三猿が長細く陽刻されている。正面には「南無青面金剛守護所」とあり、右側面には「南無阿弥陀仏」、左側面には「庚申供養為二世安楽也」と刻まれている。下部には願主名もある。左の笠付角柱型の石仏も庚申塔。造立年は寛文12年(1672)霜月で、正面には「並青面金剛御守護所」とある。正面下部の線刻の三猿が魅力的である。両側面には蓮の花葉が描かれている。どちらも目黒川沿いにあった頃のものだろうか。

場所  品川区東五反田1丁目2-29

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2023年4月 2日 (日)

本立寺の地蔵(品川区東五反田)

国道1号線に面した本立寺(ほんりゅうじ)は日蓮宗の寺院。創建はこの地ではなく上目黒村で、慶長2年(1597)のことである。江戸時代に入って、五反田のこの地(おそらく当時は品川台町という町名)にあった恵性寺が廃寺となった跡地に移転してきたという。

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山門をくぐると右手に地蔵堂がたっている。なかなか大きな地蔵堂で、中を拝見すると3基の地蔵菩薩像が祀られていた。そばに説明書きがあり、この3基の地蔵菩薩像は土中より現れ、病を治したという。昔、寺の前に花屋がありその使用人に宮内長二郎というものが居た。大正2年(1913)の夏に彼は高熱を出し、医者が見ても分らず。そんな時寺の住職の知人が見舞いにやってきて題目を唱えた。

その夜地蔵がその知人の夢に出てきて「寺の境内に3体の地蔵が埋もれている、それを掘り起こして拝めば病は治る」といった。すると指定の場所から地蔵が3体出てきて宮内の病もすっかり治ったという。信じる信じないは自由だが、地蔵菩薩にはこの手の言い伝えが多い。

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実際には地蔵菩薩は中央だけで、左は普賢菩薩っぽい容姿で元禄11年(1698)3月の紀年、中央の地蔵菩薩像は元禄6年(1693)8月、そして右の聖観音菩薩は元禄7年(1694)8月の造立年が刻まれている。ただ、字体がどうも江戸時代らしくない。石も鑿の後が見られないので、時造立年代は正直分からない。それでも霊験あらたかであれば問題ないと思う。

場所  品川区東五反田3丁目6-17

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2023年4月 1日 (土)

了真寺門前の石塔(品川区東五反田)

国道1号線は御殿場駅で山手線と交差して白金台方面へ上る。この坂は相生坂と呼ばれた坂で、かなりの急坂だったが、さすがに国道1号線になるとなだらかに改修され、幅員が広いこともあって坂道を意識しづらくなった。都心に向かうと右手に雉子神社があり、その先に本立寺がある。国道の対岸にあるのは曹洞宗の了真寺である。

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了真寺の山門はちょっと変わっている。山門の両側には、右に「曹洞宗了真禅寺」という石柱があり、左側には笠付角柱型の大きな「猿町帝釈天安置」と書かれた石柱が立っている。江戸時代この辺りは品川台町と言ったが、坂の上は白金猿町という地名だった。猿町は「去る町」という説もあったりして、ここから下って目黒川を渡ると江戸の街を離れるという感覚だったのだろう。

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石柱の側面には「当山帝釈天と猿町の起源」と題して、長い説明が刻まれている。昔の東海道だったこの地は交通の要衝で、南北朝時代の新田義貞がここに庵を建てて、帝釈天を祀った旨のことが書かれている。了真寺の創建は貞応2年(1653)だからそれよりもはるかに昔の話である。帝釈天を祀ったことから「申町」となったのが「猿町」に転化したという。そういえば、北馬込の崇福寺の石仏のコメントでSALさんから白金猿町のことを教えていただいた。

場所  品川区東五反田4丁目7-21

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