砂村新田六地蔵(江東区南砂)
江東区には北砂、南砂、東砂、新砂という「砂」の付く地名がある。西砂は残念ながらない。その砂の地名の中心がここ砂村新田である。明治22年(1889)に砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の砂を取って命名したらしい。砂村が後に砂町に昇格して、それが砂町銀座になる。
区立第四砂町小学校の北にあるこの六地蔵は古くから砂町の中心であった。現在でも都道葛西橋通りには六地蔵クリニックなる名前の医院があったりする。第四砂町小学校の辺りはかつて百島と呼ばれ、物寂しい土地であった。水路が入り組んだこの百島に六地蔵が東向きに置かれていたという。これらがいつ建立されたのかは不明だが、江戸時代からあったことは確からしい。
砂村新田の南側には大名の下屋敷がずらりと並んでいたが、これは大名に開拓をさせるためである。地蔵のすぐ南は熊本の肥後熊本領で、隣に長門萩藩毛利家の下屋敷があったりした。明治維新を経て大正時代になると、砂村新田は人口も増加し賑わいを見せるようになる。しかし第二次世界大戦での東京大空襲で六地蔵は灰と化してしまった。今の六地蔵は昭和27年(1952)に再建されたものである。
六地蔵の右奥に一基の庚申塔が祀られている。駒型の庚申塔で、三猿のみが大きく陽刻されている。造立年は延宝3年(1675)8月と庚申塔の中では古いものである。三猿の上には「南無阿弥陀仏」とあり、これも空襲によるものか袈裟切りされたように割れ目が走っている。三猿の下には願主名が並んでいた。
場所 江東区南砂2丁目28-27
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