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2023年4月11日 (火)

志演尊空神社の庚申塔(江東区北砂)

江東区北砂には砂町銀座という都内有数の商店街がある。戸越銀座がメディアにはよく取り上げられるが、個人的には砂町銀座とジョイフル三ノ輪が好みかもしれない。砂町銀座の西の端は都道306号線で砂町銀座入口という交差点である。その少し南にあるのが志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)という珍しい名前の神社。

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志演尊空神社は志演神社と尊空神社が合併して昭和22年(1947)に出来た神社だが、志演神社の方はもともとこの地域(八右衛門新田)を開拓した際、寛永元年(1624)に創建した。当時は深川稲荷と言っていたが、元禄年間に徳川綱吉が鷹狩りの途中で立ち寄り、「民の志を演ぶる事殊勝なり」と言って志演神社と改名させたという。志演神社も村内にあった尊空神社も東京大空襲で焼失してしまったので、ここに合併したという経緯。

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本殿前に対で立っている石塔は右側がかなり欠損しているものの、左側はほぼ無傷で残っている。造立年は正保4年(1647)10月と刻まれている。正面には「奉▢▢石塔▢▢深川稲荷」とあるので、綱吉以前のものである。

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本殿前境内にはもう一つ、東京都内最古の力石がある。説明板の「最古」という部分に訂正がありそうなので他にもっと古いものがあるのかもしれないが、東京神社庁のHPには日本最古の力石と記されている。そのHPには神社は通称「ごまの稲荷」と呼ばれているらしいが、このゴマは食べるゴマではなく護摩(祈祷)のことである。正徳年間に疫病が流行し護摩行をすると収まったのでご利益とされたようだ。この力石の造立年は寛文4年(1664)2月で地元では志乃武石と呼ばれているという。

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本殿の裏手に回り込む。そこには墓地があり、墓地の左手、ちょうど本殿の真裏に多数の庚申塔が祀られていた。一番手前にあったのがこの板碑風の庚申塔で、三猿のデザインが特徴的である。文字はかなり摩滅しているが、寛文元年(1669)10月の紀年がある。中折れは空襲の痕跡だろうか。

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その隣にも板碑型の庚申塔がある。上部が欠損している。「青面金剛 庚申供養」の文字があり、延宝8年(1680)4月の紀年がある。「道行十三人、内道行七人(七なのか十にキズが付いているのかは微妙)」と両脇にあり、最下部には願主名が並ぶ。

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手前から三番目の庚申塔は駒型で三猿のみの図柄。ただし土中に埋まっている台石にも三猿がある。上部には「青面金剛南無阿弥陀仏」とあり、脇に延宝3年(1675)8月の造立年がある。三猿の下には「道行三十三人」と書かれている。

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四番目の庚申塔はきれいな状態。駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。二鶏が線刻されている。右上に「奉供養諸願成就」とあり、左には元禄6年(1693)11月の造立年がある。元禄が新しいと感じる恐るべき庚申塔群である。三猿の脇には「新田」という文字がある。江戸時代後期のこの辺りの地名は久左衛門新田である。

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ケヤキの木を挟んで左側にはもう一基、駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、三猿の下に二鶏がある。造立年は延宝8年(1680)8月で、「武刕葛鹿郡西葛西領 八〇新田」の銘があるが、延宝年間の頃は八右衛門新田という村名だったのだろう。

ちなみに日本最古の力石は現在は、埼玉県久喜市の樋ノ口八幡神社の寛永9年(1632)の力石が発見されたので、志演尊空神社の説明板には修正がされていたと思われる。

場所  江東区北砂2丁目1-37

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