宮地六地蔵(荒川区荒川)
東京メトロ千代田線町屋駅の南、明治通りの宮地交差点の近くの丁字路に地蔵堂がある。江戸時代の切絵図にも「六地蔵」と書かれている。のぼり旗には「蓮田子育地蔵尊」と書かれており、宮地と蓮田の違いは何だろうと疑問に感じた。この辺りはもともと三河島村で、その中の地名だろうか。江戸時代には既に相当の人口があったようだ。尾久・町屋から宮地を経て坂本(現在の台東区下谷)に出る江戸道が六地蔵の前を通っていた。
右の堂宇には新旧の丸彫地蔵尊が一基ずつあり、左隅にはかなり傷んだ大日如来像(丸彫)が祀られている。一見で六地蔵ではなく、様々な石仏が集められ数が多いので単純に言い慣れた「六地蔵」の通称になったのだろう。堂宇内の石仏の造立年等は分からない。宮地が江戸時代からの地名だというのは明らかだが蓮田については分からず。
堂宇の左脇には大きな石仏が5基並んでいる。一番右の舟型光背型の仏形像は造立年は正保2年(1645)12月とかなり古いものである。最初薬師如来かと思ったが、右手と左手で抱えるように容器らしきものを持っており、右手が施無畏印ではないので何の像か分からない。隣りは彫り込みの素晴らしい駒型の庚申塔。造立年代は不明だが、日月、青面金剛像の下に仰向けの邪鬼、その下には二鶏と対のヒヨコがある。台石には猿らしきものがあるが一猿っぽい。青面金剛は左手にショケラを下げている。
5基の中央は舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、荷役、三猿の図柄で、造立年は寛文12年(1672)霜月(11月)とある。隣りの長細い舟型光背型の石仏も庚申塔で、首の下が折れて補修された跡がある。日月、青面金剛像で三猿は見当たらない。造立年はこれも寛文12年(1672)だが8月のもので、下部には願主名が並ぶ。左端は舟型光背型の地蔵菩薩像。左右に文字があるがほとんど摩滅して消えている。「奉」の文字と、「順礼」の文字がかろうじて見える。
手前にあったのがこの2基の石仏。右は駒型の馬頭観音である。三面の馬頭観世音の首と頭上の馬頭が見えるが胴体はない。左の青面金剛だけが残った無残な石仏は庚申塔。空襲でこうなってしまったのだろうか。荒川区の資料によると延宝8年(1680)の庚申塔に「奉造立青面金剛、二世安楽所」の銘があり、それではないかとしているが、「・・面金剛」「・・祈所」の文字があるので可能性は高い。
郷土史によるとここには庚申塚があったようだが、寛文4年、寛文10年、元禄10年の庚申塔も記されているが現存しない。東京大空襲で残されたのが現在の石仏たちということになるのだろう。
場所 荒川区荒川4丁目10-10
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