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2023年5月30日 (火)

出世子育地蔵堂(豊島区千早)

池袋を流れていた谷端川という河川は有楽町線の千川駅あたりからいったん南へ流れ、西武池袋線の椎名町駅をパイロンのようにして180度流れを変え北流していた。かつてはこの川のカーブの内側の舌状台地に多くの人家があり、この辺りを地蔵堂と呼んでいた。

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今は町の一角に地蔵大菩薩御堂と書かれた数坪の境内を持つ地蔵堂がある。もともと長崎という地名は九州の長崎とは無関係で、小田原北条氏の家臣であった長崎次郎高重がこの辺りを拝領していたことに由来している。かつては千早町1丁目44番地先にあったという地蔵堂だが、今の場所でいうと少し西の城西大学附属高校のあたりである。

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堂内の地蔵は殆ど拝観できないが隙間から写真を撮らせていただいた。丸彫の地蔵菩薩のようだが、戦災で傷ついたのか顔には補修の跡が見られた。100年以上前に金剛院に預けられていたが、昭和50年(1975)にこの地蔵堂を建立してここに移したようである。造立年等は分からないが江戸時代は間違いないだろう。

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境内には自然石の馬頭観世音菩薩もある。こちらは大正14年(1925)10月建之と刻まれている。上部に馬頭観世音が陰刻(線刻と点描)で描かれている。また植込みの中には「舗石建立塔」なるものがあり、下部には道標が刻まれていた。こちらは寛政13年(1801)2月の造立と書かれていた。

場所  豊島区千早1丁目23-3

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2023年5月28日 (日)

墓地前の庚申塔(豊島区長崎)

長崎公園の北側から東に延びる古道には、保健所通りという南北の道との辻に観音堂がある。その先をさらに東に進むと、100mほど先の辻にまた小さな墓地がある。その墓地の角に屋根付きの堂宇があり、2基の庚申塔が祀られている。

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都内を網羅するように歩き回って感じるのは、こういう路傍の石仏がある街は優しい街だということである。お金をかけて祀っているわけではなく、近所の人々の心で支えられている感じがとても強い。明治時代の地図にもここには墓地の印がある。当時の地名は「西原」と言ったらしい。東に進むと谷端川を渡って長崎の金剛院に繋がっている。

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2基の庚申塔、右の笠付角柱型の庚申塔は延宝8年(1680)正月の造立年がある。日月、青面金剛像、三猿、二鶏が陽刻され、右側面には「奉供養青面金剛二世安楽攸 寄進 成真 奥」と刻まれている。左の小さい方は舟型光背型の庚申塔で、寛文2年(1662)の造立。月については欠けていて不明。「奉供養庚申待二世興樂所 敬白 嶋田」と書かれている。辻にある路傍の石仏だが、都内でもかなり古い時代のものである。

場所  豊島区長崎3丁目29-22

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2023年5月26日 (金)

観音堂の石仏(豊島区長崎)

豊島区立長崎公園の北側の道を東に進む。この道も江戸時代からある古い道筋で、古道らしい緩やかな曲がり方をしている。公園から数十m進むと左側にブロック塀があり、小さな墓地がある。

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近藤さんというお宅のようだが、門柱の左側には「観音堂」という表札もある。このブロック塀の向こう側は数十基の墓石のある墓所になっている。失礼ながらお邪魔させていただいた。

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辻の側に妙に立派で精巧な陽刻の石仏がある。観音様っぽい座像で、右手は来迎印の右手らしく、左手は蓮花の茎を持つので、聖観音だろうか。よくわからない。種類としては巡拝供養塔である。月山、湯殿山、羽黒山、西國、四国、秩父、坂東、百八十八ヶ所巡拝供養塔と書かれている。造立年は分からないが、2人の命日があり、文久元年(1861)と安政4年(1857)なので、江戸時代末期のものだろう。

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ブロック塀の傍にあった丸彫の地蔵菩薩像は古いもので、延宝2年(1674)の紀年が入っている。「光明真言」と中央に書かれ、武刕豊嶋郡長崎村の銘がある。これらの石仏以外に庚申塔が1基あったはずだが、見当たらなかった。

場所  豊島区長崎3丁目28-1

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2023年5月24日 (水)

長崎路地裏の庚申塔(豊島区長崎)

西武池袋線東長崎駅から東に向かって路地道を進む。今でこそ住宅密集地域だが、江戸時代の切絵図を見るとほとんど家はない。この辺りは長崎村で、豊島区立長崎公園の南側を東西に走る道が昔からあった道。それが証拠にこの道だけがカーブを描いて伸びている。

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その古い道から南に一本下った道から、古道に並行した路地がある。この路地のアパートの階段の前に何故か一基の庚申塔が立っている。不思議な庚申塔の在り方である。豊島区の庚申塔資料(昭和55年)を見ても載っていない。しかし石川博司氏の情報には明治2年の庚申塔があるということが記されている。

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板碑風の庚申塔で、上部に日月、中央に「庚申」と大きく書かれ、下の方に三猿が描かれている。左側面には「願主 金太郎」とあり、右のブロック塀との隙間にiPhoneを忍ばせると造立年があった。明治2年(1869)11月と読めたが、TATSU氏のサイトでも確認すると間違いないようだ。己巳という文字もあった。

場所  豊島区長崎4丁目23-11

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2023年5月22日 (月)

心法寺の石仏(千代田区麹町)

千代田区には2基しか庚申塔がない。一基は秋葉原の柳森神社、もう一基が四ツ谷駅近くの麹町にある心法寺である。心法寺は慶長2年(1597)に開山した浄土宗の寺院で、開基は徳川家康である。ここ以外にもいくつか徳川家康開基という寺院はあるが、千代田区内の寺院が悉くなくなっていったのにここだけは今でもしっかりと残っていることが喜ばしい。

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門を入ると正面にこじんまりとした本殿がある。周辺の巨大なビル群の中で、心法寺の境内は本当に空が広い。千代田区内で墓所を持つ唯一の寺院でもある。江戸時代末期の切絵図を見ると、周辺には複数の寺院がある。心法寺の隣りに常仙寺、そして栖岸院(せいがんいん)があったようだ。

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本堂手前にあるのがこの塩地蔵である。どうも右も左も塩地蔵のようだが、造立年等は分からない。脇の説明書きには「墓地内の六地蔵と並び二百年以上前の麹町の資料にも記されている」とあるから、江戸時代中期のものだろう。

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本堂を右手に回り込むと古い銅製の梵鐘、水盤、庚申塔が祀られている。梵鐘は延宝4年(1676)に鋳造されたもの。水盤は万延2年(1861)に寄進されたものである。間にある庚申塔は駒型の立派なもので、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿、そしてショケラが陽刻されている。造立年が側面にあり、宝暦2年(1752)9月と彫られている。

場所  千代田区麹町6丁目4-2

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2023年5月20日 (土)

柳森神社の庚申塔(千代田区神田須田町)

都心には古いものが少ない。とはいえ江戸城内郭外郭の城壁や掘など、為政者側のものは意外に残っている。しかし民衆の親しんだものは殆どが時代と共に壊され失われてしまった。千代田区は江戸時代は大半が大名屋敷で、だからこそこの小さな柳森神社は貴重な存在である。

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秋葉原の中央口から出てワシントンホテルそばのガード際にある小径を進むと神田川を渡る人道橋「かんだふれあい橋」がある。この橋の上からは柳森神社を裏側から望むことができる。もともと秋葉原は北国からの貨物の鉄道終点駅で、ヤッチャバが賑わっていた場所である。神田川のこの場所に鉄橋が出来たのは昭和に入る直前である。まだ100年しか経っていない。

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柳森神社の創建は長禄2年(1457)と古く、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして柳を多く植え、京都の伏見稲荷を勧請したのが始まりとされる。江戸三森とは柳森、烏森、椙森(すぎもり)である。本殿脇を通り社務所手前に駒型の庚申塔が祀られている。造立年は正徳5年(1715)で月は分からず。日月、青面金剛とあり、足元の膨らみがおそらくは邪鬼だろうと思われる。三猿は無いのか、あっても土中である。千代田区に2基しかない庚申塔のひとつである。

場所  千代田区神田須田町2-25

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2023年5月18日 (木)

回向院の石仏(墨田区両国)

JR総武線両国駅の南にある浄土宗の回向院は、江戸時代最大の明暦3年の大火(振袖火事:1657)の死者を埋葬したのが起源。明暦の大火の死者数は諸説あるが10万人超という説もあるが、数万人というのが有力だと言われている。当時の江戸の人口が60~70万人だったことを考えると1割前後の人々が焼死したことになる。

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その後江戸町民の身近な寺院となり、勧進相撲なども行われ、現在の国技館が両国にある所以でもある。その後さまざまな災害の被害者を弔う寺院として、水難被害者、船舶事故被害者、安政大地震の被害者、関東大震災の被害者など、多くの災害による被害者の供養の象徴でもある。

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海難供養塔も多数あり、その中でも一番古いのがこの珍しい帆掛け船の形をした供養塔である。造立年は寛政元年(1789)で「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」という供養塔。並ぶ供養塔の中ではもっとも小さいものだが、危険を負いながら海に消えていった船乗りたちの供養塔らしいものである。

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廻船水難者の供養塔の前に在った石仏で目立ったのはこの笠付角柱型の石仏である。正面に阿弥陀如来を配したこの大きな石仏は念仏講中によるもののようである。造立年は寛文4年(1664)8月で、「南新堀大川端」の銘がある。明暦の大火の7回忌のものだろうか。

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供養塔群の裏手、水子地蔵の脇に立派な地蔵六面幢がある。造立年は寛政4年(1792)8月。正面には「回向院拾七世 南無阿弥陀仏」とあるが、「安政2年10月2日夜四時大地震…」とあることから、安政の大地震の供養塔と思われる。

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塀に近い隅に生垣があり、「鼠小僧供養墓」の説明を書いた紙が貼られている。鼠小僧は実在の盗賊で、寛政9年(1797)に生まれ、天保3年(1832)に浅草で処刑されている。その生垣の中に3つの小さな石仏があり、その中央にあるのが上部欠損しているが三猿が描かれた庚申塔である。右面には正徳5年(1715)4月と刻まれているが、左側面には元禄12年(1699)9月の紀年がある。戒名があることからどちらも没年であり、造立年ではないようである。

場所  墨田区両国2丁目8-10

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2023年5月16日 (火)

旧安田庭園の石仏(墨田区横綱)

両国国技館の北にある旧安田庭園は、元禄年間に綱吉の生母桂昌院の実弟本庄因幡守宗資(むねすけ)の下屋敷として拝領。本庄宗資は後の茨城県の常陸笠間藩藩主だが、中央に「心」字をかたどった池を配置し、隅田川の汽水を引いて汐入の庭園として完成させた。明治時代には安田財閥創始者安田善次郎の邸宅だったが、没後は東京市に寄贈された。

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池の向こうにあるコンクリート壁の建築物は刀剣博物館である。元々刀剣博物館は渋谷川支流河骨川の源頭にあたる参宮橋と初台の間にあった。2018年にこちらに数倍の規模の建物を立てて引っ越してきたが、刀剣女子のブームの影響もあるのだろうか。

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刀剣博物館から見ると心字池の対岸には築山があり、その麓に駒留稲荷がある。安田邸の頃は屋敷稲荷だったのだろうか。神社手前右(写真の右下)の手水鉢は寛政12年(1800)2月の造立年が刻まれている。稲荷の前には駒止石という大きな岩があり、その謂れが書かれている。徳川家光の時代、寛永8年(1631)の隅田川大洪水で、旗本阿部忠秋が馬で川を横切り被害調査をしてこの岩に馬と止めて休んだというもの。その後駒止稲荷が置かれたようだ。

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築山の上には大きく三猿を描いた手水鉢がある。欠損した向こう側の面には▢化6年正月と書かれている。おそらくは文化6年(1809)だろう。その向こうの角柱は何かの供養塔だろうか、享和3年(1803)8月の造立年がある。それぞれかなり傷んでいるが、江戸時代のものがさりげなく置かれているのは面白い。

場所  墨田区横綱1丁目12-10

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2023年5月14日 (日)

清澄庭園の石仏(江東区清澄)

東京メトロ門前仲町駅と都営新宿線清澄白河の間にある清澄庭園は都内にいくつかある一般公開された大名庭園の名残りのひとつである。入園料は150円(65歳以上は70円)と安く静かでのんびり散策できる。江戸時代は紀伊国屋文左衛門の屋敷だった所を、江戸時代後期には下総関宿藩と下総宇都宮藩の藩主の下屋敷となって、おそらくは関宿藩の久世家の庭園として築庭されたものだろう。

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明治時代になると三菱財閥の岩崎彌太郎が別邸として購入。回遊式庭園を完成させた。関東大震災で設備は壊滅状態になったが、岩崎家は敷地の一部を東京市に寄贈し庭園公園となった。池にはスッポンが沢山棲息しているようで、イシガメやクサガメと一緒に甲羅干しをしている。

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庭園の南東に築山がありその近くに石仏群として複数の石仏が集められている。何となく琉球の亀甲墓(かーみなくーばか)に似ている。これらは岩崎家が築庭したときに出土したと説明板にあるが、時代は様々である。中央の大きな阿弥陀如来は僧侶の供養塔で墓標のようである。造立年は延宝7年(1679)7月。左手前は馬頭観世音座像で、安永3年(1774)2月の造立である。右側にある板碑型の庚申塔は上部が半分欠損している。造立年は寛文10年(1670)と古く、三猿とその下に蓮華が描かれている。

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左後ろ、馬頭観音の陰にあるのは正面に「庚申塔」と書かれ、台石に三猿が陽刻された文字塔の庚申塔である。造立演んは文化12年(1815)10月と刻まれている。江戸時代のものだが紀伊国屋文左衛門時代だとすると享保年間(1716~1736)の江戸文化最盛期で時代が前後する。掘り出された状況が不明なので、元はどうだったのか皆目見当がつかない。

場所  江東区清澄3丁目3-9

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2023年5月12日 (金)

富岡八幡宮の庚申塔(江東区富岡)

日本語の地名や命名は日本人でも分からないくらい微妙な違いがあることがしばしば。四谷と四ッ谷(駅名はツが入る)、市谷と市ヶ谷(これも駅名はツが入る)、丸ノ内と丸の内(地名はので地下鉄はノ)など枚挙にいとまがない。富賀岡八幡宮(とみがおか:江東区南砂)と富岡八幡宮(とみおか:江東区富岡)もそれに似ている。ただ規模は富岡の方が大きい。

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富岡八幡宮は江戸時代に富賀岡八幡宮から深川に移った経緯で、かつての場所は元八幡(富賀岡八幡宮)と呼ばれ、こちらは深川の八幡様と呼ばれてきた。宮司の身内殺人事件で世間をにぎわしたのもこちらの神社である。しかし江戸時代から町民市民に親しまれてきた八幡様で、そんな事件はどこ吹く風で賑わっている。

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大鳥居をくぐってすぐ左手に、尊敬する伊能忠敬の像がある。佐倉から江戸に出てきて門前仲町(当時の黒江町)に居を構え、寛政12年(1800)にここ富岡八幡宮から蝦夷地への旅が始まった。御年50歳の時である。おそるべし人物だと思う。

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本殿の右手に回り込み、七渡神社(弁天様)の端の手前に針塚と並んで大きな板碑型庚申塔が祀られている。正面中央には大きく三猿が陽刻されており、その下には願主名と思われる記述が並んでいる。その他の文字は判読できないが、下部には蓮華が描かれている。1983年に区の文化財に指定されているが情報は少ない。江戸時代初期のものだろうと思われる。

場所  江東区富岡1丁目20-3

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2023年5月10日 (水)

富賀岡八幡宮の石仏(江東区南砂)

江東区南砂にある富賀岡八幡宮は深川の富岡八幡宮の元宮。富岡八幡宮はいろいろと有名で、神主の身内の殺人事件が起こったのは2017年のこと。しかし深川の八幡様として江戸時代から庶民に慕われている神社である。その富岡八幡は元々ここに在ったのを寛永年間(1624~1643)に深川に移転、跡地を元八幡として現在に至る。

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江戸時代は海岸に立つ神社であったが現在は海岸は遥か沖合まで埋め立て地で広がり、そこに出来たのが昭和を想起させる夢の島である。安藤広重作の『砂村元はちまん』でその風景を見ることができる。本殿の後ろに回り込むと、いくつもの石仏石碑と富士塚がある。

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2基あるものの対っぽくない燈籠は享保8年(1723)9月の建之で古いもの。施主若者中とあるが、江戸時代の青年団のようなものだろうか。中央のおむすび型自然石の巡拝塔は文政2年(1819)7月のもので、月山・湯殿山・羽黒山の巡拝供養塔。右の大きな自然石の石塔は昭和9年(1934)3月の出羽三山供養塔である。

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本殿真裏の富士講富士は立派なもので、江戸時代末期の天保年間に山吉講という富士講が築山したもの。この富士塚は元々北30mほどのところに土山として築かれたが、昭和8年(1933)の水害で崩壊してしまったので、昭和37年(1962)に今の場所にコンクリートで固めて再建された。

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砂町富士塚の裏側(東側)の参道に1基の庚申塔が立っている。元々は駒型だろうか、日月は見えないが、青面金剛像と邪鬼が確認できる。造立年は宝暦6年(1756)▢▢吉日とあり、月は不明。かなり摩滅が進んでいる。

場所  江東区南砂7丁目14-18

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2023年5月 8日 (月)

平野神社の石仏群(足立区平野)

足立区平野にある平野神社。屋敷神のような小さな神社である。もともとは50mほど北にあった庚申堂がもとで、現在の境内に神社が出来たのは昭和39年(1964)と極めて新しい。しかし由緒は江戸時代、享保5年(1720)に平野郷の守護として住民の祀るところとなっている。

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平野は村々の飛地の集まりであったので、鎮守というものがなかった。ここから南は小右衛門新田で小右衛門稲荷神社があり、北の栗原村には栗原氷川神社が鎮守となっていた。神社のない時代を何世紀も経てきた平野の人々が庚申様を集めて庚申堂を立て平野神社として祀ってきたが、庚申様は神様ではないという意見が出て、昭和56年(1981)に伊勢の猿田彦神社から神様を勧請して平野神社が出来たという変わり種の神社である。

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神殿と玉垣の間に石仏がいくつも並んでいる。一番手前にあるのは角柱型の読誦塔である。上部に「奉読誦」とあり、その下に「普門品一千部供養塔」と書かれている。造立年は弘化4年(1847)7月。左の駒型で不動明王が印刻されているのは成田山供養塔で、こちらは文久2年(1862)9月の造立である。

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石仏群の中央には角柱型の庚申塔がある。上部に日月、正面には大きく「青面金剛」とあり、下部に三猿が彫り込まれている。造立年は文化14年(1817)正月とある。左側面には「平野講中」と書かれている。

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その先の2基はともに庚申塔。右の庚申塔は上部に日月、中央に「青面金剛」とあり下部には三猿。造立年は安永4年(1775)3月である。正面脇には「講中八人」の文字もある。左の少し小さい庚申塔は時代が遡り享保年間(1716~36)のもの。中央に「奉▢養庚申二世安楽」と書かれているが年は欠損していて読み取れない。左には10月とあり、「同行十二人」の文字もある。下部には三猿が彫り込まれている。

場所  足立区平野1丁目6-7

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2023年5月 6日 (土)

増茂商店裏の庚申堂(足立区中央本町)

足立区中央本町は言わずもがな近年の地名だが、この足立区役所のすぐ北のエリアは元々「小右衛門新田」という村であった。南には嶋根村、西には桑原新田、東が保木間村である。環七通りと国道4号線が交差する梅島陸橋から南へ下り最初の交差点を東に折れると、もう何年も閉まったままの増茂商店があり、その角に小さな庚申堂が立っている。

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年期は入っているもののしっかりした堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔。造立年等は記されていなかった。資料によると右には「庚申講中」とあるらしいが見えない。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。

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小右衛門新田は足立区に数多あった新田のひとつで、岩槻城主の家臣であった渡辺小右衛門という人物が開拓した土地と伝えられる。江戸時代以前の坂東の多くの土地は戦国時代の武士たちが帰農し開拓してきたものが多い。当然開拓すればある程度自分のものになるから、戦国の世が終り平穏な時代が来ると武士がそうなるのは自然の成り行きである。北千住もかつては佐野新蔵胤信の開いた掃部新田(かもんしんでん)であったし、佐野新田も足立区にあった。

場所  足立区中央本町5丁目1-9

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2023年5月 4日 (木)

槐戸地蔵尊(足立区梅島)

足立区梅島2丁目の路地角にある槐戸地蔵尊。「さいかちど」と読む。サイカチは「皀莢、皀角、槐」などいくつもの漢字がある。元々マメ科の植物でフジに似ているが棘が沢山ある。結構な巨木になるらしい。仙台に住んでいた頃、愛子町(現在は青葉区)にサイカチ沼という沼があった。脇の道がドロドロの道で往生しながら走ったことがある。

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数坪の境内を持つ地蔵堂は立派なものである。手書きの説明板が立っている。彰義隊ゆかりの地蔵らしい。上野の山に立てこもり新政府軍と戦った彰義隊の負傷者5人が、梅島2丁目10-5辺りにあった葦の繁みに潜伏した。藪蚊だらけの葦原で傷が悪化しもう命も持たない状態となったが、村人に持ってきた石を立てて供養してほしいと願い出た。村人は願いを聞き入れその石を立てた。

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するとその石は地蔵菩薩に変身し、村人たちは特に皮膚病に霊験あらたかとして「いぼ地蔵」の名でご利益を得たという言い伝えが記してある。舟型光背型の地蔵菩薩像には「小右門新田講中」とあるが正しくは小右衛門新田。造立年は享保4年(1719)9月とあるが、それでは彰義隊の方が150年も後になる。言い伝えの地蔵はこの地蔵ではないのだろう。

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説明板の地蔵の由来は足立区の資料とは異なる物語であった。

『昔此の辺りを槐戸耕地と言いました。南を中沼耕地、東南を長張耕地、道海耕地といい、東を背出し道面耕地と呼んでいました。西に富士山・箱根の山を望める景色の佳い農村でした。明治・大正の頃は村内にまだ八軒の晒屋(さらしや)があり、風に白布がたなびく風景は見事であったそうです。お地蔵さまは享保4年2月、今から279年前花畑の講中が本木の石屋に彫らせたものです。立派に仕上がったお地蔵様を紫薇(さるすべり)そりに載せて数名の有志達が運んでいました。ところがその場所まで来たところ、何故か急に全員の手足が動かなくなってしまいました。これはお地蔵様がこの地をお選びになりここで村人たちを守りたいというご意志を示されているに違いないと解釈し、ここにお奉りしたと言われています。以来お地蔵様による数々の霊験が伝えられています。  平成10年9月吉日 小右衛門新田講中』

場所  足立区梅島2丁目10-6

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2023年5月 2日 (火)

西新井宮本の庚申塔(足立区西新井本町)

別述の西新井宮本の馬頭観音から70mほど南に古道を進むと、2ブロック先の角の塀に堂宇が作ってあり、その中に庚申塔が祀られている。広い庭の戸建の民家の敷地内である。

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化粧ブロックで組まれた堂宇も庚申塔に合わせて駒型にしてある。庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は側面にあり、元文5年(1740)9月とある。

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保存状態の極めて良い庚申塔で、民家の軒先でこれだけのものは多くない。高度経済成長期以前はこの辺りも田畑の広がる農村地帯であった。そういう場所だからこそ江戸時代から代々守られてきた石仏があると言える。

場所  足立区西新井本町1丁目25-33

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