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2023年6月29日 (木)

七曲がりの坂(調布市入間町)

成城から入間町へ下る中央学園通りの途中、百万遍供養塔のところから分岐する道がある。やや急な下り坂になっており、途中で戻るように右に分岐してもとの中央学園通りに出る右と分かれ、さらに下っていく。

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この坂道には「七曲がりの坂」という名前が付いている。実際にはそこまで曲がってはいないが、百万遍供養塔の説明板には「かつてこの辺りは七曲がりの道と呼ばれ、小道であるばかりでなく藪道や坂道が多く、寂しく迷いやすい所であったので、参詣に来る人たちにとって心強い道標であったと思われる」と書かれている。

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分岐する道は上の写真の左の道だと思われ、中央学園通りの先も道の痕跡が続いている(現在は道路ではない)。その先は辨天山という山で宇賀弁財天が祀られている。下った先は野川の支流入間川である。昔の道は坂上からはほぼ中央学園通り筋、坂下は昔と変わらず、分岐の先は辨天の近くで右の崖を上る道(新左エ門の坂)と崖下の道に分岐していたようである。

場所  調布市入間町2丁目

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2023年6月27日 (火)

百万遍供養塔(調布市入間町)

成城学園前から中央学園通りを調布市入間町に下り坂で降りていく。NTT中央研修センターを過ぎた脇道への分岐のところに石柱が立っている。説明板もあり、「百万遍供養塔」の説明が書かれている。

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百万遍というのは、大きな数珠を複数人で輪になって手繰り寄せながら念仏を唱える行事で、無病息災、疫病退散を願う百万遍念仏のことである。京都に百万遍という地名があるが、おそらく念仏講中に由来するのではないかと思う。

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石柱は天明元年(1781)10月の造立。正面には「百万遍供養  是より泉むら 子安地蔵尊25丁」、右面に「右 世田ヶ谷目黒道」、左面に「左リ 江戸四ツ谷道」とあり、裏に紀年と「多摩郡世田ヶ谷領入間村 原念仏講中」とある。現在地から10mほど離れたところから出土したもので、古道としては分岐の辻に立っていたと思われる。

場所  調布市入間町2丁目28-10

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2023年6月25日 (日)

入間山谷の石仏(調布市入間町)

以前に世田谷区と調布市の境の南北のバス通りと中央学園通りの丁字路の北西角近くにあった庚申堂が消えて月兎ソース(株)という会社のビルが建った。プロユースのソースを作る会社のようだ。2015年くらいまでは樹木の生い茂るお屋敷があって、塀の一部に堂宇が作ってあった。今回それがワンブロック南の区画にあることが分かった。

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もとの成城八丁目丁字路からは170mほど南西になる。昔から、南北のバス通りは道筋としてあり、その東側(現在の世田谷区成城)が上ノ台、西側が山谷という集落だった。この辺りは江戸時代から民家が多くあった場所で、その為に路傍の石仏も多い。

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一番右にある舟型光背型の如意輪観音像はなぜか黒く塗りこめられていた。どうも現在の場所に移設されたころに黒く塗られたようである。造立年は元文5年(1740)9月。「奉納念仏供養所敬白」「武州多摩郡世田谷領入間村同行44人」と書かれている。左隣は角柱型の庚申塔で寛政9年(1797)7月の造立。日月、青面金剛像、三猿が陽刻されており、少し茶色い石材を使っている。

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左の2基のうち右側は丸彫の地蔵菩薩像。お地蔵さんは羽織を纏っているので文字が読めず、資料によると造立年は享保7年(1722)10月。前面には「奉納念仏供養攸 敬白」側面には「武州多摩郡世田谷領入間村講中32人」と書かれているらしい。左端の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄。左右に「奉建立庚申」の文字と享保元年(1715)の造立年がある。

場所  調布市入間町3丁目4-1

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2023年6月23日 (金)

八百幸裏の石仏(調布市入間町)

世田谷区成城と調布市入間町の境のバス通りにスーパー八百幸と神戸屋レストランが並んでいる。このスーパー八百幸は音が同じだが、埼玉県を中心に200店舗を展開するスーパーヤオコーとは全くの別会社。地場の新しい高級スーパーである。2016年頃まではジェーソンというディスカウントショップだったが、成城の客層に合わせて好調なのか盛況である。

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八百幸と神戸屋レストランの間には細路地があり、そこを入っていくと八百幸の裏の角にあたる植込みに3基の石仏が立っている。とても無造作に置かれている様子だが、昭和50年代の調布市の資料の写真もほとんど変わらない。明治時代の地図を見てみると、この細路地が点線の道として描かれており、この場所に石碑のマークがある。昔から変わらずあり続けているのである。

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右の舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、尊像の右には「奉納念仏供養攸 敬白」とある。造立年は左にあり、元禄3年(1690)10月。「入間村同行19人」の銘がある。一部欠損している。

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中央の舟型光背型は聖観音像である。調布市の資料では、昭和54年の調査時にはなかったが、その後にどこかから移されて来たものとある。尊像脇には「掲真妙清禅定尼忌位」とあるので墓石だろうか。造立年は寛文3年(1663)とあるが月は消えている。左の舟型光背型の石仏は中央に一猿を配する庚申塔である。日月の痕跡があり、「庚申供養二世成就攸 入間村敬白 同行19人」と刻まれている。造立年は古く、延宝8年(1680)9月とある。

場所  調布市入間町1丁目34-57

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2023年6月21日 (水)

南入間町の庚申塔(調布市入間町)

成城学園前から京王線方面へ北上すると間もなく調布市に入る。南北のバス通りの東側が世田谷区成城、西側が調布市入間(いりま)町だが、大半のマンションには「成城」の名前が付いている。ちなみに英語でマンションというとトランプが住んでいるような大邸宅を指す。日本人が言うマンションはアパートメントハウスである。マンションという呼び方もいささか昭和感があると思うこの頃である。そんなバス通りに南入間町という停留所がある。南入間町という町名はない。

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バス停の10mほど南の路地口に、民家の塀を凹ませた堂宇がある。堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。この辺りは昔は入間町の中でも原と呼ばれた地域。この辻も江戸時代からの道筋の辻である。東に行くと仙川を渡るところで瀧坂道に合流し、上祖師谷の神明社がある。

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庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。造立年は文化9年(1812)10月とある。文字はほぼ摩滅しているが、調布市の資料によると、正面には「西いづみ村ぢぞう道」、右には「北井のかしら、左は「南 ふだ」とあるという。ということはこの庚申塔は現在南向きだが、昔は東向きだったと考えられる。バス通りになった時に路地側に移されたものだろうか。

場所  調布市入間町1丁目24-27

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2023年6月19日 (月)

安養寺の石仏(大田区西六郷)

多摩川の六郷土手の傍にある真言宗の古川薬師安養寺は永伝法印(永禄11年(1568)没)が創建と伝えられるが、山門入って右にある薬師堂は古川薬師堂と言って元々は行基(667~749)が創建とされている。飛鳥時代から奈良時代にかけての話で真偽は分からない。後に出来た安養寺は古川薬師の別当寺となったが、元来古川薬師の方が知名度は高かったようだ。

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山門右にある石柱は古川薬師道道標。延宝2年(1674)の造立で説明板があり、東海道筋から多摩川道に入る分岐点に建てられた道標で、後年区画整理でここに移設したらしい。おそらく今の雑色駅の国道15号線沿いであろう。山門内の右手にある大きな赤茶色の建物が薬師堂で、本堂よりも大きいくらいである。

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本堂脇には、大きな富士講碑がある。建立年の記載はないが江戸時代末期とされている。富士講の名前が多数刻まれており、当時の富士講がいかに盛り上がっていたかが分かる。講中の名前だけでも100近くある。

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本堂前に在る一対の大きな燈籠は、念仏講中の寄進による供養燈籠で、同行42人とある。造立年は元禄3年(1690)1月。「荏原郡六郷領古川村願主…」の銘がある。民間の寄進としては大きなもので、当時の東海道による経済的なうるおいがあったのだろうか。

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2基の庚申塔が無縁仏群にあると聞いていたが、無縁仏群は整理されておりいくら探してもわずかな墓石だけで庚申塔は見当たらなかった。墓所の奥には六地蔵幢が祀られていた。この六地蔵幢は享保17年(1732)11月の造立で、現當二世安楽とある。

場所  大田区西六郷2丁目33-10

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2023年6月17日 (土)

宝幢院門前の石仏(大田区西六郷)

大田区西六郷にある宝幢院は真言宗の寺院で、鵜の木光明寺の第三世行観という僧が創建したと伝えられる。行観の没年は保元元年(1156)なので、室町時代末期の創建ということになる。極めて大きな寺院だったが明治になって廃仏毀釈でその勢いが奪われたようだ。光明寺がもとは真言宗だったのが浄土宗になったため、真言宗の寺院として開かれたという説もある。

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江戸時代この辺りは高畑村で北に古川村、東に町屋村、八幡塚村という村域だった。明治になってからは六郷村にまとまってしまったようだ。山門の手前右に複数の石仏が並んでいる。庚申塔が1基、地蔵菩薩が6基あるが、左端の庚申塔と右端の丸彫地蔵以外は新しいものである。

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左端の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は貞享元年(1684)10月と書かれている。下部には「六江領ノ内高畑村」の銘がある。主尊右には「庚申者生死長座・・・」と書かれていた。

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右端の少し黒っぽい丸彫の地蔵菩薩像は寛文6年(1666)5月の造立で、「念仏同行 ▢田新一 三十四人」と書かれているので、念仏講中による供養塔であろう。左の地蔵菩薩像は平成9年(1997)9月の新しいものである。

場所  大田区西六郷2丁目52-1

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2023年6月15日 (木)

新照寺阿弥陀堂(大田区南蒲田)

京急蒲田駅の近く、高架化された京急羽田線のすぐそばに小さな寺院がある。真言宗智山派の新照寺は、もともと宝幢院の境外仏堂だった阿弥陀堂の地に昭和60年(1985)に創建した新しい寺院。

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したがって新照寺としてよりも阿弥陀堂としての方が知られているようだ。山門を入るとすぐ右手にしっかりした地蔵堂があり、3基の丸彫地蔵菩薩と1基の庚申塔が祀られている。2基の地蔵菩薩は新しいものだが、左から2番目の黒っぽい丸彫地蔵菩薩は古いものである。台石正面には「三界万霊」左面には2人の戒名があり、それぞれの命日は宝暦2年(1752)4月、寛保元年(1741)5月とある。勿論寺の創建よりもはるかに古い。江戸時代のこの辺りは蒲田新宿村という村であった。

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一番右にあったのは舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄である。造立年は古く、延宝6年(1678)6月と刻まれている。また「六江之内新宿村 同行八人」ともあるが、六江は六郷のことであり、新宿村は蒲田新宿村でまさにこの辺りの地名である。

場所  大田区南蒲田1丁目19-3

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2023年6月13日 (火)

密乗院の石仏(大田区大森中)

大田区大森中は大森警察署前で第一京浜と分岐した産業道路に近い場所に在る古刹。江戸時代この辺りは北蒲田村で、密乗院のすぐ南を呑川が流れていた。現在は蒲田駅あたりからまっすぐに東流し羽田空港近くに流れているが、元は北東に流れて昭和島辺りに注いでいた。この呑川以南が糀谷村で北側が北蒲田村であった。

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真言宗の密乗院の創建は800年前と伝えられる古刹。西暦で言うと1200年代、鎌倉時代の創建である。拝観はできないが、密乗院には延慶3年(1310)と文明6年(1474)の板碑が保存されている(非公開)らしい。当時はこの辺りが海岸だったと思われ、海を臨む寺院だったのかもしれない。山門をくぐり、本堂にお参りして左に進むと、無縁仏群の傍に2基の庚申塔が祀られている。

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左の角柱型庚申塔は正面に「庚申塔」と大きく書かれ、側面に天保9年(1838)11月の造立年が刻まれている。右の駒型庚申塔は、青面金剛像と三猿のシンプルなもの。造立年は元文5年(1740)3月とある。その他の文字は殆ど読み取れないが、資料によると「講中」という文字に並んで6人の願主銘があったようだ。

場所  大田区大森中2丁目17-5

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2023年6月11日 (日)

大林寺の道標(大田区大森中)

大田区大森中にある日蓮宗の大林寺は京浜急行梅屋敷駅から東へ400mほど梅屋敷東通りの商店街を歩いたところにある。江戸時代後期は北蒲田村だった地だが、この商店街の通りも江戸時代からある古い道である。江戸時代は東海道の東側に広がる村で民家も集まっていた。

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大林寺の創建は不詳ながら、室町時代にはあったらしく、長享2年(1488)には真言宗の薬王院という寺院だったのが日蓮宗に改宗し池上本門寺の末寺となったと伝えられる。徳川幕府が江戸入りして東海道は急速に発展したが、それ以前から大森のこの辺りには人々が沢山生活していた。袋地の奥には本堂が見え、その周りには広い墓所がある。

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山門を入ると左に2基の石塔が立っている。右は延享元年(1744)4月建之の題目塔である。左は区の文化財に指定されている池上道道標の題目塔。元は東海道から分岐して本門寺に至る池上道の分岐点に在ったが、道路工事などで大林寺に移設された。正面最下部に「池上道」、左面に「是よりいけかみ道 拾五丁」、右面には「是与りいけ可みミち 」などと刻まれている。東海道から池上本門寺、品川への分岐点というのが分かる。位置的には現在の梅屋敷駅前の第一京浜を渡る辺りだと思われる。

場所  大田区大森中2丁目7-9

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2023年6月 9日 (金)

民家前の石仏(板橋区富士見町)

関東の庚申塔を詳細精細にレポートされているTATSUさんのサイト「東京都の庚申塔」でこの場所に庚申塔があることを知り訪問した。訪ねてみるとごく普通の民家である。

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バイクの置かれている植込みに数基の石仏が並んでいる。一番右には墓石だが宝暦3年(1753)3月の供養塔、玄関前には舟型光背型の地蔵菩薩像がありこれも墓石だが、寛保3年(1743)と元文2年(1737)の命日が刻まれている。玄関左の植込みにも石仏が並んでおり、一番右が庚申塔である。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、右側に「奉供養 庚申二世安楽」の文字があり、左側に元禄9年(1696)11月の造立年が刻まれている。その左には丸彫の聖観音像や丸彫の地蔵菩薩立像があるが、これは紀年などは分からなかった。

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脇の車庫にも興味深いお宝がある。珍しい鬼瓦の下には舟型光背型の仏形像がある。最初は馬頭観世音かと思ったが沢山の手があることから千手観音の可能性もありそう。道路からの観察なので近寄れなかった。

場所  板橋区富士見町34-10

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2023年6月 7日 (水)

辻の庚申塔(板橋区前野町)

前野町の路地を歩いていると沢山の制服姿の中学生が集まっていた。彼等のいた場所は通りが五差路になっているところで、鋭角な角度の角に建っていた建物が取り壊されて見通しが良くなった石塔を囲むようにして他愛無い会話を楽しんでいた。

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江戸時代、ここは前野村の中心あたり。下板橋宿で川越街道から分かれた富士街道と川越街道の間を走る村道で、中台村に通じる村の主要道だった。清水稲荷を経て中前野(小字)に至ると道が分岐し、志村へ向かう道と中台村への道のY字路だったが、その道筋がここに今も痕跡として残っていてその頂点に角柱型の庚申塔がある。

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住宅取り壊し時に庚申塔が残されたのは喜ばしいことである。辻の中央に面したのが正面で、「奉待大青面金剛 講中 諸願成就所」とある。右側面には「大日道 清水講中 女十四人 世話人 山上いこ」と書かれ、上の写真の左面には「祢里ま道」とあり、寛政12年(1791)11月の造立年が刻まれている。「大日道」というのは長徳寺の大日堂を指しており、長徳寺の坂で少し触れたことがある。昔も今もこの辻で人々が立ち話をするのは変わっていないんだろうなと感慨深かった。

場所  板橋区前野町1丁目23-3

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2023年6月 5日 (月)

清水稲荷の庚申塔(板橋区宮本町)

都営三田線板橋本町駅と本蓮沼駅の間にある清水稲荷、創建年代は不明だがこの辺りが清水村だった江戸時代(後期は前野村)に湧水の傍に鎮座したのがこの清水稲荷の始まりと言われる。この湧水は出井の泉と言われ、子供が飲むと水だが親が飲むと酒になる不思議な泉であったという。

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鳥居の両脇には銀杏の巨樹があり、根回りは6.3mほどもある。樹齢は推定で500年、おそらくは清水稲荷の創建の時代からあったものだろう。鳥居をくぐり本殿にお詣りしたのち、本殿に向かって左の側に並ぶ庚申塔と祠を参拝する。

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中央の大きな唐破風笠付角柱型の庚申塔は元禄13年(1700)10月の造立。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、右面には「右 大日みち」左面には「左 祢里ま道」とある。「武刕豊嶋郡前野村講中建立之」とあるが、資料によると昔は宮本と47番地から清水町75番地に移された後、清水稲荷に来たらしい。右の駒型の庚申楼は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は寛政6年(1794)4月。願主名は高橋姓が多い。

場所  板橋区宮本町54-1

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2023年6月 3日 (土)

根村氷川神社の庚申塔(板橋区双葉町)

中山道と環状七号線の交差点板橋本町から少し西に行くと裏手に氷川神社がある。かつての中山道沿いは下板橋宿で、そこから村道を入っていった辺りが根村という字の集落であった。下板橋宿の一画という感じだが、そこにあるのが根村氷川神社である。

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長い参道があり、歴史を感じさせる。創建は応永年間(1394~1427)で大宮の氷川神社から勧請され、下板橋宿上宿の鎮守として崇敬されてきた。神々しい参道を歩いていくと、二の鳥居の山門の先、本殿の少し手前に複数の石仏が祀られている。

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本殿に向かって左側にあったのがこの駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が陽刻され、造立年は宝永7年(1710)8月とある。尊像脇には「庚申供養為現常二世安楽之也」「施主下板橋」と書かれている。左側面には「是より右祢りま道」とあるが右側面は読めない。

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向かいの樹木の間には大きめの駒型の庚申塔が立っている。日月の下に「庚申塔」と彫り込まれ、造立年は安永5年(1776)12月である。左側面には「中山道板橋宿上講中」とあるので、下板橋宿上宿の講中だろうか。

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やや山門よりにあったのがこの2基の庚申塔。左は角柱型で、台石に三猿が彫られている。正面には「庚申供養塔」の文字と、延享元年(1744)11月の造立年があり、「根村欽誌」とある。狭い左側面には「講中拾三人 二世安楽所」と書かれていた。右側の小さい方は舟型光背型の庚申塔で、青面金剛、邪鬼、二鶏が描かれているが、邪鬼はかなりわかりにくくなっている。造立年は元文3年(1738)11月と刻まれていた。

場所  板橋区双葉町43-1

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2023年6月 1日 (木)

金剛院の石仏(豊島区長崎)

豊島区長崎、西武池袋線椎名町駅のすぐ北にある金剛院は真言宗の寺院。創建は不詳ながら江戸中期に現在地に移転してきたという。隣りには長崎神社もあり、駅前とは思えない静かな環境になっている。当然ながら金剛院は別当寺。

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写真奥の山門をくぐると金剛院の境内になる。左ののぼり旗が並んでいるのは長崎不動尊。その後ろのビルの左の森が長崎神社である。長崎神社はかつての長崎村の鎮守で、金剛院は中野にある宝泉寺の末寺であった。

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山門をくぐると、不思議な石碑とその後ろにならぶ2枚の板碑があった。手前に「指し石」という立札があった。古代の日本では、占いの為に石を持ち上げ天に差し出して吉凶を占ったという。こんな大きなものはとても持ち上げられない。後ろにある板碑は、金剛院の説明によると、永享12年(1440)6月のもの。左が阿弥陀三尊像、右は阿弥陀如来の線刻が描かれている。

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板碑の向かいには無縁仏塔があり、その頂上にある主尊がこの舟型光背型の聖観音像。造立年は宝永5年(1708)11月で、「奉納大乗妙典六十六部」「四国西国秩父坂東」「武州豊嶋郡長崎村寛心」とある。すぐ近くにはドラえもんの像がありその後ろに神々しいブロンズ?の像がある。「まんが地蔵」というらしい。トキワ荘にちなんだもの。

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山門近くには2基の庚申塔と1期の馬頭観音があった。右の大きなものは以前には長崎3丁目の観音堂にあったもの。笠付角柱型で「奉供養庚申講中二世安楽所」とかかれその下に三猿が陽刻されている。正面左右の下部には多数の願主名が刻まれており、造立年は元禄15年(1702)9月とある。左の笠付角柱型の庚申塔は元から寺にあるもので、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。こちらも多数の願主名が刻まれている。造立年は宝永4年(1707)11月である。後ろの自然石の馬頭観世音は明治14年(1881)5月のものである。

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山門前にある長崎不動尊の門前にも古い舟型光背型の地蔵菩薩像があった。造立年は寛政五8年(1796)8月とあり、「念仏供養」「北・下板橋道、南ほりのうち道」という文字が見られ、道標として立っていたと思われる。江戸時代には南北に村道があり、金剛院はその要衝だった。南に行くと堀ノ内妙法寺、北に行くと中山道の仲宿である。

場所  豊島区長崎1丁目9-2

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