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2023年10月31日 (火)

祇園寺の石仏(調布市佐須町)

甲州街道布田にある八雲台小学校の東側から佐須街道の柏野小学校前を結ぶ2車線路は短いながらも祇園寺通りという名前が付いている。天台宗の祇園寺は北寄りの柏野小学校近くにある古刹。戦前まではこの辺りは一面田んぼの広がる地域で、その中の微高地に祇園寺がある。

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祇園寺は深大寺を開創した満功上人が開いたと伝えられ、創建年は天宝勝宝2年(750)というから奈良時代後期。奈良東大寺の大仏建立が天宝勝宝4年(752)だからそれよりも前ということになる。今は多摩地区の長閑な地域だが、当時は東海道は余り使われず、東山道が主要道で分岐して南に下りてくると、現在の府中市周辺が国府があったり、近くに国分寺があったりして、この辺りの方が都会的だったのだろう。

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山門を入って左手に回り込むと古い石仏が並んでいる。上の写真の左の小さな舟型の地蔵菩薩は欠損が多く文字は読めない。右の舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文13年(1673)8月の造立で、「奉念仏供養 同行十四人」の文字がある。

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その右にあるのが舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉納庚申供養 為二世安楽」の文字がある。左側には元禄15年(1702)9月の造立年と、「佐須村」の銘が刻まれている。右側の小さい方は舟型光背型の阿弥陀如来像。造立円は延宝4年(1676)3月の造立で、「道沓禅定門霊位▢為也」の文字と「施主 田中▢」の文字があるのでこれば墓石だろう。

本堂向かって右側には「板垣退助植樹の松」という2本のアカマツがある。明治41年(1908)に秩父事件をはじめとする自由民権運動の犠牲者を追悼する集会が行われ、その時に板垣退助によって植樹されたものらしい。

場所  調布市佐須町2丁目18-1

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2023年10月29日 (日)

田中子育地蔵尊(調布市佐須町)

虎狛神社の裏の道を東へ進む。昔からの道は現在の佐須街道と同じ道筋だが、虎狛神社の南側は昭和30年くらいまでは野川の低地に広がる田んぼであった。琥珀神社を過ぎてすぐにこの裏の道に三角地帯の草地が現れる。

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その中央には覆屋があり、一対の丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られている。基壇正面には「田中子育地蔵尊」と書かれている。裏側から見ると(裏が道路側だが)昭和60年(1985)3月復元とあり、脇に上佐須講中の銘がある。田中の由来はここが田んぼの中だったからである。

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道路と覆屋の間の草の中に古い2体の丸彫の座像の石仏が置いてある。調布市の資料を見てみると、「雑木の生えた60㎡ほどの三角形の土地がある。その中に観音菩薩、阿弥陀如来、地蔵尊など5基がある。」とあるが今はこの首なしの2体のみ。春秋の彼岸には女衆男衆が集まって念仏を上げたようだ。昭和後期に荒れたので、近くの桑田氏が供養していたが、新しい地蔵菩薩を建立して覆屋も建てたと思われる。

場所  調布市佐須町1丁目3-26

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2023年10月27日 (金)

虎狛神社の庚申塔(調布市佐須町)

調布市の野川河畔にある「深大にぎわいの里 調布卸売センター」は地元産の野菜、肉、魚などが売っている人気のマーケット。その前を東西に走る佐須街道を又住橋で野川を越え東進すると、間もなく右手に琥珀神社の森が見えてくる。佐須街道は野川の上流の大沢から甲州街道の金子村(つつじヶ丘)に繋がる街道で、虎狛神社は創建年代不詳。普通コハクは琥珀と書くが、この神社は虎狛と書く。

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訪問時は秋祭りをやっていて賑やかだったが、庚申塔のある側は人通りも少なく静かだった。昔の虎狛神社は虎柏と書いたようだが、なぜ変わったのかは分からない。テーブル状の台の上に駒型の庚申塔が2基並んでいる。右の庚申塔は中折れしており、古いもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、宝暦7年(1757)12月の造立。「(奉)造立庚申待供養」とあり、下部に「講中 佐須村拾五人」とかかれている。

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左の庚申塔は新しいもので、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は昭和51年(1976)10月、佐須氏子中の文字がある。この庚申塔には逸話がある。宝暦の庚申塔は元は道路の向かい側にあったが、ある時車がぶつかり倒壊してしまった。虎狛神社の氏子が復元しようとしたが、上部が見つからない。仕方なく新造しようと考え石屋と話し合って新しい庚申塔を造立した。ところが元の場所に上部があるという知らせが入り、2基の庚申塔が並ぶことになったのだそうである。

場所  調布市佐須町1丁目14-3

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2023年10月25日 (水)

池上院の石仏(調布市深大寺元町)

深大寺にある神代植物園は元々は戦国時代の館城跡である。越後の上杉と小田原北条氏の戦いの中で、扇谷上杉氏が築城した、武蔵野台地の突端にある平山城。そんな兵共が夢のあと、深大寺の南参道は野川河畔から池上院の前を通り、坂を上って深大寺に続いている。

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池上院は天台宗の寺院で深大寺の寺中寺である。しかし深大寺からはかなり離れているが、深大寺の南参道の門番のような役割なのだろう。深大寺の創建は奈良時代だが、池上院は江戸時代の初期には深大寺の塔頭としてあったようだ。光背の段丘の斜面には墓所が広がっている。本堂は普通の民家のような質素ないで立ち。

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本堂手前には墓石を含めていくつもの石仏が並んでいる。一番手前にあるのがこの六角の地蔵幢。造立年は嘉永4年(1851)春とある。それぞれに地蔵が彫られ「三界万霊」と書かれているのが正面だろうか。石工登戸▢三▢とあるので、登戸の石工が彫ったもののようだ。

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その脇に墓石の地蔵や観音像が並んでいるが、一番左の石仏には三猿があった。主尊は地蔵菩薩像だが、右に「為庚申供養二世安楽也」とあるので庚申地蔵である。造立年は延宝8年(1680)正月と古く江戸時代初期のもの。

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本堂寄りにある大きな角柱型の石塔は馬頭観音である。造立年は嘉永3年(1850)。正面には「馬頭観世音菩薩」の文字があり、右には「右 石原道」、左には「左 小島 布田道」と刻まれている。道標も兼ねていたようだ。元の場所は、御塔坂下バス停近くだったという。中央高速道路の傍である。

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馬頭観音の右には櫛型角柱型の地蔵菩薩像がある。これは明治20年(1887)3月のもので、数人が造立したもののようだ。そういえば小生の祖父も明治20年代生まれの人だった。そうして時代を見返すとそう遠い時代ではないようにも感じるから面白い。

場所  調布市深大寺元町2丁目12-1

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2023年10月23日 (月)

宿神明社の庚申塔(調布市深大寺元町)

神代植物公園の西側、武蔵境通りと植物園に挟まれた一角にあるのが宿神明社。宿というのは深大寺周辺の地域の古い地名である。かつての深大寺村は宿、山谷、又住、野ヶ谷、絵堂の5つの地域から成っていた。南側の国分寺崖線(多摩川支流野川の河岸段丘)を上ったエリアである。

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宿神明社は別名を深大寺神明社ともいうが、創建は不詳。もともとは宿集落の鎮守として村人が大切にしてきた小社である。本殿の右手には稲荷神社があり、その手前に庚申塔が立っている。後ろの網の向こうは神代植物園だが、神代の名は明治以降の呼び名で新しい。

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庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は元文5年(1741)10月である。青面金剛の右には「奉納庚申塔」の文字があり、左側面には「武州多摩郡 府中領深大寺村 講中拾三人」と刻まれている。宿集落の比較的少人数で協力して造立したものだろうか。

場所  調布市深大寺元町5丁目32-2

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2023年10月21日 (土)

古八幡社の庚申塔(三鷹市大沢)

三鷹市にある国立天文台は大きな丘の上の森である。その南には野川が流れている。この野川周辺には気持ちのいい公園や、歴史に関係する施設や崖(はけ)の道などがあって散策に良い。天文台の南の野川に架かる八幡橋の至近に古八幡社がある。

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この古八幡社は、大沢八幡神社のかつての場所と伝えられる。その大沢八幡神社は慶長3年(1598)に長久寺境内に移っている。大沢八幡神社も長久寺も国立天文台の北にある。江戸時代の初期に、移っていった八幡神社の後を神社として民が守ったのだろう。その鳥居の手前に笠付角柱型の庚申塔がある。

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日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「▢庚申供養二世安楽」と書かれている。造立年は元禄14年(1701)10月とある。下部には 新倉▢▢、
世田谷領大沢村の銘があり、7人の願主名が刻まれている。

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笠付角柱型の庚申塔から数m東側には駒型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元禄7年(1694)霜月(11月)と書かれている。正面尊像脇には「奉供養庚申講中」の文字があり、下部には「世田谷領大沢村」の銘がある。左右下部には願主銘があるが埋もれていて読めなかった。

場所  三鷹市大沢5丁目1-16

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2023年10月19日 (木)

亀塚稲荷の板碑群(港区三田)

三田の尾根筋を走る二本榎通り、その最初の坂道が聖坂である。今回の訪問は土曜日の昼過ぎだったので、区立三田中と普連土学園の生徒たちがたくさん歩いていた。元は古い東海道だけに、時代を感じる道筋である。普連土学園とクウェート大使館の間に小さな稲荷がある。面積的には2~3坪といった程度。

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これが亀塚稲荷である。亀塚はここから300mほど西にある亀塚公園内の古墳だが、この稲荷については創建年代不詳、太田道灌の守護神のひとつでもあったようだ。亀塚については『更級日記』(菅原孝標女:1008~1059)に書かれているという白亀の神が起源であるらしい。この亀が霊石に変化したものが亀塚古墳の上にあるという。昔はこの聖坂筋からは品川湊が見渡せた。

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境内の隅に5枚の板碑がある。左手前は摩滅が激しく紀年等不詳。左の後ろの板碑には延文6年(1361)の造立年が見える。中央奥の一番大きな板碑には正和2年(1313)8月の年号がある。右手前の板碑は港区で最古らしく、文永3年(1266)12月の造立。その後ろの板碑はよくわからない。どれも小さめの板碑だが、都心部にこれだけのものがこうして置かれているのは珍しい。以前の在り処は不明だが、近所にあったものとも上大崎にあったものとも言われ諸説ある。

場所  港区三田4丁目14-18

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2023年10月17日 (火)

玉鳳寺の石仏(港区三田)

私の好きな坂道のひとつ、港区三田の幽霊坂の中腹にあるのが曹洞宗の玉鳳寺。港区にはもう一つ高輪の幽霊坂があるが、一般に知られているのは三田の幽霊坂である。高輪台地を古川(渋谷川)が削った崖線を上る。幽霊坂付近は二段坂になっていて、踊り場にあたるところの丁字路脇に玉鳳寺がある。

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三田高輪エリアには江戸時代から寺院が多数ある。高輪には25寺前後、三田には40を超える寺がある。江戸時代から芝、三田、高輪は寺院の集中地であった。玉鳳寺は曹洞宗寺院で質素な造りである。慶長4年(1899)に八丁堀に創建した玉鳳寺は寛永13年(1636)に江戸城の拡張工事の為現在地に移転した。

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山門脇に化粧延命地蔵尊がある。おしろいを塗りたくったようで真っ白になっている。造立年等は不明。通称おしろい地蔵と呼ばれている。まだ寺が八丁堀にあった時代に、八丁堀地蔵橋畔に捨てられていたものを当時の住職が修復し、白粉を塗って祀った所、和尚の顔の痣が消えたということから、人々が自分の身体の不具合の場所に白粉を塗って祈願するようになったという。

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山門をくぐるとすぐに数基の石仏が並んでおり、その一番左に興味深い初期の庚申塔がある。櫛型角柱型の石塔に三猿だけが掘り出されているもので、上部に「青面金剛」の文字がある。造立年は延宝8年(1680)で年代としては三田に移転してからのもの。庚申信仰初期のものである。

場所  港区三田4丁目11-19

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2023年10月15日 (日)

泉岳寺の石仏(港区高輪)

泉岳寺は曹洞宗の寺院だが、禅寺に似合わず華やかさを感じるのは赤穂浪士の墓所への観光客がひっきりなしにやってくるからだろう。参詣者が本堂にお参りしているケースはほとんどなく、皆墓所へ向かう。因みに創建は慶長17年(1612)に外桜田(現在国会議事堂などがある辺りだろうか)に創建、寛永年間の火事で現在地に移転した。

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泉岳寺には立派な山門があり、元々総門、中門、山門があったが海側にあった総門は今は無い。写真は山門で、天保7年(1836)に再建された入母屋造の素晴らしいもの。同様の門は芝増上寺の三解脱門がある。中門と山門の間に高級っぽい懐石料理のお座敷紋屋泉岳寺店がある。コースで2~3万程度らしい。

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紋屋泉岳寺店の入り口前、山門の手前に大きな石仏が2基立っていた。見事な石仏である。右の舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文9年(1669)2月のもの。「為玉窓盛金童女」と刻まれているので墓石だろう。左の聖観音像は寛文7年(1667)仲春(2月)のものである。こちらは戒名などはなく、偈文らしきものが刻まれている。

場所  港区高輪2丁目11-6

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2023年10月13日 (金)

高輪神社の庚申塔(港区高輪)

港区高輪の高輪神社はビルの間の参道を入っていく。側道からの出入りも可能だが、やはり正面から鳥居をくぐってお参りしたい。高輪神社の創建は明応年間(1492~1501)と伝えられ、当時は稲荷神社であったという。明治10年(1877)に高輪3丁目にあった八幡社を合祀、昭和に入ってから高輪神社と改名した。

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参道を進み、鳥居をくぐると階段を上る。数m高い檀上に本殿がある。江戸時代は現在の第一京浜の神社前が東海道で、反対車線側はもう品川湊の海の中であった。海岸の波打ち際近くに参道があったのである。階段上の本殿の左に高輪太子宮があり、本殿との間の隙間を覗くと、立ち入りが出来ない裏庭に庚申塔がある。

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説明板があるのだが、拝観不可というのは過去によからぬ人物がいたということだろう。庚申塔は笠付角柱型のようだが笠欠になっている。日月、青面金剛、三猿の図柄で、資料によると貞享3年(1686)8月の造立らしいので、かなり古いものである。太子宮の前には区の有形文化財になっている力石なども見られる。

場所  港区高輪2丁目14-18

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2023年10月11日 (水)

東禅寺の石仏(港区高輪)

高輪にある東禅寺は臨済宗の寺院。江戸時代の末期安政6年(1859)には境内にイギリスの公使館が置かれ、ラザフォード・オールコックが着任した。ちなみに同年アメリカの公使館は元麻布の善福寺に置かれタウンゼント・ハリスが駐在していた。幕末の激動の中にあった寺院である。

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東善寺の三重塔の脇の横の出入口を出ると、墓所手前の辻に石仏が並んでいる。右に続く細い坂道は無名の坂で、木漏れ日の中を歩く魅力的な道で桂坂に出るが、かなり都心ローカルな場所なので住民には迷惑をかけないようにした方が好ましい。角には10基ばかりの石仏があるが、大半は墓石。

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右端の大きな櫛型角柱は線刻で仏形が描かれており、宝暦11年(1761)6月の紀年が刻まれている。心空禅法上人と書かれているので、僧侶だろうか。中央の大きな丸彫の石仏は左が地蔵菩薩で右が聖観音のようだが、頭部は後年付け替えたものらしい。三界万霊とあるが紀年などは不明。ひっそりとした静かな空間である。

場所  港区高輪3丁目17-3

 

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2023年10月 9日 (月)

高輪のゆうれい地蔵(港区高輪)

駅の不思議で知られるのは、目黒駅は品川区上大崎にあり、品川駅は港区高輪にあるという話である。高輪は概ね山手線と国道1号線に挟まれた地域で、真ん中を南北に走る二本榎通りは江戸幕府以前の東海道の本筋である。

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品川駅西口あたりにいくつかのプリンスホテルが群れを成して建っているが、その裏手の二本榎通りにあるのが浄土宗の光福寺。創建年代については分かっていないようだが、相福寺という名で創建し、明治13年に芝の源光寺を合併して光福寺となったようだ。お化け寺の異名があるがこれは境内にあるゆうれい地蔵が由来らしい。

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ゆうれい地蔵は単体で覆屋の中に祀られている。舟型光背型のおそらくは地蔵菩薩像であろう。子安地蔵として信仰されており、品川沖の海中から発見されたこの地蔵が亡くなった母の代わりに子供を育てたという伝説がある。また門前町の一軒の飴屋に毎日雨の日でも傘もささずに飴を買いに来る母子がいて、店主が後をつけるとこの地蔵の前に辿り着いたという話もある。

場所 港区高輪3丁目14-30

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2023年10月 7日 (土)

塀の凹みの馬頭観音(調布市西つつじヶ丘)

西つつじヶ丘3丁目と4丁目の境は面白い地形をしている。ある通りを境に2~3mの高低差があって、それに沿って道が走っている。どう見ても河岸段丘なのだが、野川のそれだとすると少し距離と方向が違う気もする。国土地理院の陰影地形図で確認すると、やはり野川の河岸段丘のようである。昔は野川も暴れ川だったに違いない。

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その河岸段丘と思しき道の脇に長いブロック塀があり、その一ヶ所が凹んでいてその中に馬頭観音が祀られている。正面には「馬頭観世音」とあり、左面に昭和12年(1937)春彼岸の造立年が刻まれている。また遠藤吉太郎という願主名もある。

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調布市の資料には次のように書かれている。『施主吉太郎の妻フミ(明治34年生まれ)の話によると、吉太郎の父信吉老が病気がちで、女行者に診てもらうと「お馬様を手厚く祀れ」と言われたので、馬頭観音を刻み祀ったという』と記載されている。こういうナマの記録を聞くと時代が繋がるような気持ちになる。

場所  調布市西つつじヶ丘4丁目32-2

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2023年10月 5日 (木)

清教寺の石仏(調布市菊野台)

京王線柴崎駅から南へ進むと、200mほどで品川通りに出る。品川通りが調布市、狛江市で忽然と出てくるのだが、この品川は東海道品川宿の品川を指している。江戸時代以前、国府のあった府中の大國魂神社から多摩川の国分寺崖線に沿って大田区の六郷や品川湊を結んでいた道だったことからこの名がついた。世田谷区では筏道とも呼ばれている。

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品川通りを渡るとすぐに清教寺の入口がある。この辺りは江戸時代は大町村と呼ばれていた地域である。清教寺は特に大きな本堂があるわけでなく普通の民家のような感じ。天台宗の寺院で創建年代は不詳。入口付近に覆屋があり、その中に複数の石仏が祀られている。

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入口側の堂宇には2基の庚申塔がある。右の少し上部が欠けた駒型の庚申塔は、宝暦6年(1756)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「庚申待供養」「大町村 女講中 拾一人」とある。左の駒型の庚申塔は、享保7年(1722)霜月(11月)の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。「奉造立供養仏金剛 大町村 施主八人」と刻まれている。

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奥の堂宇には六地蔵と中心となる地蔵菩薩像。主尊仏も六地蔵も造立年は分からない。中央の地蔵の前には「奉真読念仏百万遍」とあるが、資料によると脇に「今世後世能引導」「武之府中大町村講中」とあるらしい。六地蔵については特に文字は見当たらなかった。

場所  調布市菊野台3丁目34-2

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2023年10月 3日 (火)

妙圓地蔵(調布市菊野台)

調布市菊野台の国道20号線に面してキテラタウンという商業施設がある。昔はボーリング場で、近年クロスガーデンという商業施設になり、最近キテラタウンになった。隣接する調布自動車学校は小生が免許を取得した自動車学校である。国道側にあるのがPCデポで、その一角に小祠がある。

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屋根の下には角柱型の地蔵菩薩像がある。上部が欠損していたものを近年補修したようだが、私が見る感じではもとは舟型光背型だったのではないかと見えた。したがって櫛型角柱型にしたのにはいささか違和感がある。この地蔵菩薩、実は妙圓地蔵という由緒あるもの。

『妙圓は若くして金子村(現在の菊野台)の新助に嫁いだが、恵まれない境遇の上に両眼を失明した。その後自ら悟るところあって尼になり、寿量妙圓と号した。そして村人の為に毎日路傍で鉦(かね)を叩き、念仏を唱え続け、多くの人々から受けた浄財を元に、この地に彼岸の地蔵菩薩像を建立した。その後も地蔵の傍で妙圓は加持祈祷を行い、念仏を唱え続けた。妙圓の加持祈祷は村人に霊験あらたかであった。

妙圓は自分の死ぬ費を予告していたが、実際には予告の翌日、文化14年(1817)10月29日に安らかに他界した。里見八犬伝の作者滝沢馬琴が妙圓を紹介したたため江戸市中で有名になったという。』

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地蔵菩薩の造立年は文化2年(1805)10月で、三界万霊の文字と紀年がある。台石には「金子村 願主妙圓」と刻まれている。長い間頭部がなかったのを昭和62年に地元の有志が修復して現在に至るという。

場所  調布市菊野台1丁目32-1

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2023年10月 1日 (日)

柴崎駅入口の地蔵(調布市菊野台)

国道20号線でもある甲州街道には複数の地蔵菩薩があり、さすが旧街道筋と感心する。京王線柴崎駅北口から北に進み、商店街の大町通り沿いに歩くとすぐに国道20号線の柴崎駅入口交差点に出る。西の角には牛丼のすき家があり、北の角は森田園という石材造園会社がある。この森田園の角に地蔵がある。

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割合に大きな舟型地蔵菩薩である。頭部が欠損しており、顔面も損傷を受けているが、どう見ても地蔵菩薩像である。文字も一部欠損しているが、右には「奉建立地蔵菩薩」の文字があり、左には武州多摩郡金子村の銘に続いて、宝暦▢▢とあるので、宝暦年間(1751~1764)の造立であることは間違いない。

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年も月も欠けてしまって分からないが、欠損した施主名の最後に「妻」の文字がある。女講中によるものだろうか。国道の脇にこういう地蔵が残されているのは極めて素晴らしいことだと思う。

場所  調布市菊野台1丁目46-1

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