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2023年12月30日 (土)

染屋不動尊と観音(府中市白糸台)

旧甲州街道と東郷寺通りが交差するのが不動尊前の交差点。交差点の南側には染屋不動尊がある。染屋という地名の由来は、調布(手作りの布)を染めたところで、鎌倉時代には染殿というものがあったらしい。それからこの辺りは染屋と呼ばれた。今はほぼ白糸台辺りである。

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この染屋不動尊の宝物殿内には国宝の阿弥陀如来像があるらしい。厳重に施錠されていて覗く隙間もなく、拝観することは叶わなかった。この阿弥陀如来像は銅造で鎌倉時代の弘長元年(1261)に上野国八幡庄にて造立されたという。新田義貞の守護となったりしたが、江戸時代に入り多摩川洪水の為染屋に移されたもの。国宝の観音様は拝めなかったが、染屋不動尊の向かいに堂宇があり、観音像が祀られている。

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時代はかなり新しいもののようである。聖観音像の左には女性の戒名が記されている。右側には「交安観世音菩薩」とあるので、この交差点で事故があったのが所以かもしれない。年代等は不明である。

場所  府中市白糸台1丁目11-11 (向かいの観音は白糸台1丁目14番地先)

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2023年12月28日 (木)

品川道上車返村庚申塔(府中市白糸台)

江戸の百万人マーケットで度々起こる大火の度に家を建て替えるニーズの為、青梅、奥多摩地方から材木を筏にして多摩川に流し、六郷土手辺りで荷揚げをしたのち、人夫(変換で出ないのでもしかしたら差別用語か)が山に帰るために辿った帰り道の街道が品川道である。別名筏道とも呼ばれており、田園調布辺りから東府中駅で旧甲州街道に合流するまで繋がっている。

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西武多摩線白糸台駅の南西に第四小学校があり、その南東角に駒型角柱型の庚申塔がある。文字のみの庚申塔で、青面には大きく庚申塔、左側面には道標として「東品川 西府中 道 上車返村」と刻まれている。

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造立年は現在の石塔は昭和3年(1928)3月だが、これは再建年。元あったものは嘉永6年(1853)4月だったという記載もある。東府中から飛田給迄の品川道は江戸時代の前期には甲州街道としても使われていたらしい。ここはまさにその区間で、1600年代には多くの人々がこの前を往来していただろう。その当時にもさらに先代の庚申塔があったのではないかと想像する。

場所  府中市白糸台1丁目58番地先

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2023年12月26日 (火)

白糸台駅前の馬頭観音(府中市白糸台)

西武多摩川線の白糸台駅の駅前の植込みにひっそりと立つ馬頭観音がある。白糸台駅はかつては北多摩駅という駅名だった。多摩川線の中では基地的な駅になっている。1917年(大正6年)に多摩川線が出来た時は武蔵境から北多摩駅までの区間で、ここは終着駅だったが、2年後に延伸された。

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興味深いのは、一つ北にある駅名が多摩駅なのに南隣りのこの駅が北多摩駅だったのは何故だろうという疑問。調べてみると、北隣の駅は多磨墓地駅という駅名で後年開業したが、2001年に多磨駅と改称した為、混乱するという理由で駅名を改め、昔からの地名白糸台駅にしたのだという。なんだかドタバタな感じがする。

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植込みの中の馬頭観音は昭和4年(1929)12月19日建之と裏側に刻まれている。相談人や発起人の名前もあり、黒御影石に刻字を施したもの。資料によると、この周辺には昔馬車営業の馬持が多かったという。すぐ北には旧甲州街道、すぐ南には品川道が通っていたからであろう。

場所  府中市白糸台2丁目72番地先

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2023年12月24日 (日)

西武多摩川線踏切の庚申(府中市白糸台)

旧甲州街道と西武鉄道多摩川線が交わる踏切の傍に庚申塔がある。西武多摩川線は西武の中でも長閑なローカル線のひとつで、多摩川左岸の是政とJR中央線の武蔵境の間を走っている。なぜか京王線との繋がりが悪く600m(約8分)ほど歩いて白糸台駅と武蔵野台駅を乗り換える。ひとつ西の京王線多磨霊園駅で乗り換えても歩く距離は殆ど変わらない。それでも多くの人がこの間を歩いている。昔は畑の間を歩いていたのだが、最近では民家がかなり増えた。

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話は旧甲州街道に戻る。西武多摩川線の踏切の脇に、コンクリートの囲いがあり庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、側面には蓮が描かれている。摩滅が激しく、造立年等の情報は全く読めない。三猿の下に願主名が刻まれていて、数名の名があるが、これも半分くらいしか読めない。田中姓が多いようだ。

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庚申塔の右後ろにある石仏はかなり剥離していて、何の石仏かは分からない。左後ろの角柱型の石仏は一猿の座像。像形は分かるが文字などは殆ど読めない。庚申塔のひとつだろう。この場所の住居表示はないのだが、白糸台2丁目8番と10番の間にあたる。

場所  府中市白糸台2丁目8番地先

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2023年12月22日 (金)

観音院の石仏(府中市白糸台)

旧甲州街道と白糸台通りの交差点車返団地入口の北東角にある寺院が天台宗の観音院。創建年代は不詳。江戸時代のこの辺りは下染屋村というところで、甲州街道に沿って人口が多かったエリアである。

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綺麗な寺院で、山門をくぐるとすぐに本堂になる。下染屋の地名の由来が寺の脇にある石碑に記されている。それによると、調布(手作りの布)を染めたところで、鎌倉時代には染殿というものがあったらしい。上染屋と下染屋に分かれたのは江戸時代初期以前と書かれている。

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山門をくぐり本堂にお参りする。手前の庫裏の前に覆屋がある。覗いてみると丸彫の地蔵菩薩が祀られていた。衣の前部に「念仏供養」の文字があるが、資料によると享保4年(1719)9月の造立。「武州多摩郡下染屋村」の銘がある。

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山門からいったん外に出ると、山門に向かって左側に大きな角柱型の馬頭観世音が立っている。造立年は文政4年(1821)2月。基壇には、下染屋村、下車返村、中車返村の各村の願主名が刻まれている。

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山門向かって右には多くの石仏が並んでいた。右端の櫛型角柱型の石塔は正面に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国所願成就所」とあり、「武州多麻郡府中領下染谷村」の銘と、正徳5年(1715)8月の造立年がある。右から二番目と三番目の丸彫地蔵は文字がなく不詳だが、大きい方は府中市の資料にある寛政5年(1793)2月の念仏講中によるものだろうか。中央の大きな舟型光背型の地蔵菩薩は宝永7年(1710)2月の造立で、「奉読誦大乗妙典一千部供養塔」の文字がある。その左は庚申塔で、左端の石仏群は不詳。

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庚申塔は一見駒型かと思ったが、横に回り込むと山状角柱型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄である。尊像右に「庚申供養塔」の文字、左側面には「武州多麻郡下染屋村」の銘がある。右面に刻まれた造立年は、享保3年(1718)2月。大胆でシンプルなデザインの庚申塔である。

場所  府中市白糸台3丁目10-7

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2023年12月20日 (水)

本願寺の石仏(府中市白糸台)

鎌倉時代源頼朝の奥州征伐の帰途、藤原秀衡の守り本尊とされる薬師如来を畠山秀忠に命じて鎌倉に運ばせていた途中、夢告によってこの地に庵を建てて仏像を安置することになった。その際に運んできた車をここで引き返させたことから「車返」の地名が起こったものとされる。

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その草庵が現在の浄土宗本願寺である。ハケの道の崖上にあり、山門の前が河岸段丘になっている。その後何度か再建中興されて、天正2年(1574)に現在のような寺院となった。

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山門に向かって左手にあるのは角柱型の供養塔。「奉納大乗妙典六十六部供養仏」とあり、「武州玉ノ郡府中領車遍村」とあるが、多摩郡車返村のことである。願主は戸井田伝右衛門の銘がある。

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ハケの道の山門の一番手前にあるのが駒型の庚申塔。背後には高くそびえるサイカチとケヤキの巨樹がある。異なる樹種なのだが、根元で合体するようにくっついているのが面白い。庚申塔は寛政12年(1790)8月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、左手にショケラを下げている。台石は新しくなっているが、造立年などは旧台石にあったと資料にあり、武州多摩郡車返村の銘があったようだ。

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庚申塔と山門の間にあった3体の地蔵菩薩。どうも本体はすべて新しいもののようだが、基壇には往年の文字がある。右の地蔵は基壇も新しくなっており、昭和50年(1975)7月再建となっているが、元は享保4年(1719)8月の造立で念仏講中によるものらしい。中央の基壇には、享保4年(1719)9月の造立で、「武州多摩郡上車返村」の文字。左の地蔵の基壇には、安永7年(1778)2月の造立年と、「武州府中領下車返村」の銘が見られた。3基とも念仏講中が建立している。

場所  府中市白糸台5丁目20-3

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2023年12月18日 (月)

車返八幡神社の石仏(府中市白糸台)

府中市東部の甲州街道は江戸時代の初期には今の旧甲州街道ではなく、飛田給駅の近くの飛田給薬師堂で現在残っている旧甲州街道の道筋よりも南側を西に向かっていた。この道は品川道でもあるが、東府中駅まではこの南側のルートが江戸時代初期の甲州街道だった。この品川道よりもさらに南に通っていたのがハケの道、あるいは筏道と呼ばれていた街道で、この道沿いにも歴史的な痕跡が多い。

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おっぽり坂の坂下を過ぎて、白糸台通りの上を越えると右手に大きな銀杏の樹が見えてくる。これが車返八幡神社で、隣接する本願寺が別当寺。鳥居をくぐると、本殿の手前左側に石仏石碑が並んでいる。

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右端の笠付角柱型の石塔は庚申塔。造立年は安永4年(1775)3月とある。府中市の資料によると笠は別物を載せたらしい。正面には「奉造立青面金剛為二世安楽」とあるが、青面が青百となっているのはいかにも江戸時代らしい。

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石塔の下部には複数の願主名が刻まれている。田中、小勝、加藤姓が複数ある。周辺には小勝姓よりも雄勝姓が多くみられたように思う。左の櫛型角柱型の石塔は不詳。

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その先には上部が欠損して下部のみが残された自然石の石塔がある。元々は庚申塔の文字が正面にはあったらしい。裏には嘉永2年(1849)3月の造立年が刻まれている。基壇には「車返村 中分講中」とある。左の上部が欠損した石塔には「庚塚」の文字があり、文中に天保8年(1837)9月の紀年が入っている。

場所  府中市白糸台5丁目20-4

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2023年12月16日 (土)

車返稲荷神社の庚申塔(府中市白糸台)

府中市の東部に車返団地がある。面白い名前だが、鎌倉時代の話に由来している。源頼朝の話だが、この地域にある本願寺に関係するので改めてそこで書きたい。そもそも府中市を東西に走る府中崖線は多摩川の河岸段丘で、昔暴れ川だった多摩川によって出来た地形。かつて江戸の街に木材を供給した青梅の筏運搬者の帰り道に使われた筏道がこの河岸段丘沿いに通っていた為か、興味深いものが沢山ある。

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飛田給駅から西へ向かい最初にあったのは氏子神社と呼ばれる車返稲荷神社。三角形の広い境内で銀杏の巨樹が見事である。鳥居の先には古い水鉢があり、寛政13年(1750)11月の紀年が入っていた。神殿の前には背丈ほどの大きなお狐様の狛犬が一対あるがこれは新しいもののようだ。境内をいったん出て、東側に回ると庚申塔がある。

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この2基の唐破風笠付角柱型の庚申塔は造立から対として造られたものである。両方とも造立年は寛延3年(1750)11月。右は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄でショケラを下げている。左面には「下車返村 講中」の銘がある。左側もほぼ同じ図柄だが、ショケラはなく、青面金剛は合掌であるのと、青面金剛周りが若干異なる。こちらにも「下車返村 講中」の銘がある。保存状態の極めて良い庚申塔である。

場所  府中市白糸台6丁目33-1

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2023年12月14日 (木)

新川八幡社前の石仏(三鷹市新川)

人見街道に面して新川の交差点の少し東に新川八幡社がある。創建年代などは不詳だが、明治時代の地図には鳥居マークがある。建物の奥に回り込むようにして社殿に参拝する。

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鳥居に向かって右に堂宇が一つあり、中には丸彫の地蔵菩薩が祀られている。台石にある文字から、造立年は享保4年(1719)9月、「奉供養地蔵尊」の文字がある。資料によると基壇には「同行講中14人」とあるらしく、地蔵講のものだろうか。

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少し西側にももう一つ覆屋があり、そこには庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。側面には蓮葉が見られる。造立年は元禄5年(1692)10月で、「奉供養庚申講中」の文字がある。足元にあるのは丸彫の地蔵菩薩で2体の子供があることから子育地蔵として祀られたものだろう。覆屋外の自然石は明治43年(1910)3月彼岸に建立された法会供養碑で、新川宿組中とある。

場所  三鷹市新川6丁目3-6

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2023年12月12日 (火)

墓地の石仏(三鷹市新川)

都道110号人見街道は古くからの街道で、三鷹市で仙川を野川宿橋で越えた先の街道沿いにブロック塀と万年塀に囲まれた墓所がある。特に何の表札もないので、どこの寺の境外墓地なのかは分からない。ただ明治時代からここに墓地があるのは古い地図から見て間違いない。

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江戸時代この辺りは街道筋の宿場の外れだったようで、明治時代までは一面桑畑だったようだ。覆屋の中に祀られていたのは、丸彫の地蔵菩薩坐像。造立年は寛政8年(1796)12月とある。基壇正面には「奉建立地蔵菩薩二世安楽」と書かれ、右側面には造立年と「念仏講中29人」、左側面には「武州多摩郡野川村 領主 鈴木作右衛門」の銘がある。

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すぐそばにあった地蔵菩薩六角幢もなかなか立派なものである。ところが意外と新しく、造立年は明治17年(1884)10月。基壇には「奉建立六地蔵尊」とあり、「北多摩郡新川村」の銘と多数の女性名が並び「女念仏講中」の文字が見える。

場所  三鷹市新川6丁目28番地

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2023年12月10日 (日)

塀の庚申塔(三鷹市新川)

三鷹市新川の仙川左岸に丸池公園という広い公園がある。公園内に勝淵神社がある。この神社は柴田勝家の孫である柴田勝重が、大坂夏の陣ののちに上仙川村、中仙川村付近を所領とした。勝重は祖父勝家から与えられた兜を水神の森に鎮めて勝淵神社をそこに建立したと伝えられる。

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勝淵神社の裏手(北側)の道を西に進み稲荷橋で仙川を渡ると角の家の塀の凹みに庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔で、擬宝珠も残っている立派なもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、側面には蓮葉が描かれている。

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側面には文字も刻まれているが、中折れしているので文字が切れている。三鷹市の資料も参考にすると、造立年は享保元年(1716)霜月(11月)と左面にあり、「武州多麻郡上仙川村講中22人 永成村裏鎮護神敬白」の文字があるらしい。右面には「奉拝立庚申尊天伏攸 得無上楽宗念寺記元」と書かれているようだ。

場所 三鷹市新川3丁目21-16

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2023年12月 8日 (金)

新川三丁目の石仏(三鷹市新川)

三鷹市新川は野川支流の仙川の上流部の流域の地名。明治初期、野川村と上仙川村が合併した際に新川村と名付けられたのが始まりで、後に三鷹村大字新川となり、三鷹市新川に至る。給田から北西に走る都道117号線の交差点新川三丁目の西側に道の分岐がある。江戸時代から明治にかけてこの田有は谷端と呼ばれた土地で、仙川の左岸にあたる。谷端の名前は仙川に架かる橋の名前に残っている。

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分岐している細い方の道が昔からの道筋である。周辺はかつては桑畑が広がっており、農家では養蚕が盛んだったのだろう。この分岐の南側に大きなお宅があり、その塀の凹みに石仏が祀られている。

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暫く見入ってみたが何の石仏なのかが分からない。何かの座像である。資料を確認しても不明とある。右側面には「志ん大寺ミち」、左側面には「東▢ごうミち」と書かれているようだ。右は深大寺道だろう、左はわからない。個人宅にこういう石仏が現代まで守られているのは嬉しいことである。

場所 三鷹市新川3丁目6-1

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2023年12月 6日 (水)

苦楽院地蔵堂(三鷹市中原)

中原の庚申塔の向かいには墓所があり、春清寺の境外墓地で苦楽院と名付けられている。墓所の前の道は古い道で、是より東側には多くの村人が住み中仙川と呼ばれた地域。墓所の南西端に道に向かって開いた堂宇があり、地蔵菩薩が多数祀られている。中央の丸彫の地蔵菩薩坐像は宝暦4年(1754)2月の造立で、「中仙川村75人」の銘がある。

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丸彫の地蔵菩薩が手前に2基、後ろに3基あるが、手前の左右は享保4年(1719)11月のもの。どちらも「武刕多摩郡府中領中仙川村」の銘がある。後ろの3体は、右と中央が宝暦4年(1754)2月、左が享保4年(1719)11月のものなので、元は享保4年の六地蔵だった可能性がある。何らかの理由で欠けると新しい地蔵を建立してきたのだろう。すべての地蔵の台石に府中領中仙川村とあるので、歴代大切にされたものと思われる。

場所 三鷹市中原3丁目6-19

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2023年12月 4日 (月)

石造庚申供養塔(三鷹市中原)

三鷹市立中原小学校脇を入り進むと中嶋神社の裏手に出る。中嶋神社は周辺の神社を集めた神社で、境内には厳島神社、須賀神社、稲荷神社などの境内社がある。神社の裏の路地を出て、そのまま南に進み、突き当りを右に折れると次の角に庚申堂がある。

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なかなか頑丈なコンクリート製の堂宇である。住居表示の脇に説明板がある。三鷹市の指定文化財らしい。「この庚申塔は三鷹市域で最も古いもので、青面金剛が像として刻まれる初期のものです。」とある。

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堂宇の中にあるのは舟型の庚申塔で、日月はなく、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は寛文6年(1664)11月。「奉造立所宝塔為庚申供養也 願主23人」の文字がある。資料によると、「願主33人 中仙川村」の文字もあるようだ。

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堂宇の手前にある2本の石柱を見ると、手前の低い方の石柱はこの堂宇の寄進碑で、「寄進土地庚申堂」とあり、昭和38年(1963)9月30日の日付がある。右奥の角柱は燈籠の竿部のようである。「奉納御宝前」の文字があり、寛政10年(1798)11月の建立と書かれている。

場所  三鷹市中原4丁目16-27

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2023年12月 2日 (土)

春清寺の石仏(三鷹市新川)

三鷹市新川にある春清寺は曹洞宗の寺院。通常禅宗系の寺院は石仏が少ないが、ここは豊富である。創建は江戸時代初めの慶長7年(1602)で、中興の柴田三右衛門は柴田勝家の子孫と言われる。柴田勝家と言えば織田信長の重臣で信長の妹のお市の方の二番目の主人。清須会議にも参加した。

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山門をくぐると正面に本堂があり、右に小ぶりな三重塔がある。三重塔の右手には幼稚園がある。とてもきれいな寺院である。本堂手前の左側に鐘楼と堂宇がある。

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堂宇の右側には駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、明和4年(1767)仲春(2月)の造立年が刻まれている。左側面には「神仙川村東講中9人」の銘がある。

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庚申塔の隣りにあるのは3枚の板碑。右の大きな板碑は上部が欠損している。摩滅が進んでおり戒名が2つ見られるが紀年等は分からない。左奥の背の高い板碑は「逆修」の文字があり、造立年は貞和5年(1249)2月とある。その手前に立てかけてある小さな板碑は文字不詳。

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板碑の左にあるのが舟型光背型の地蔵と角柱型の石柱。舟形の地蔵は顔の部分が凹んでいる。右肩上には「南 ぢんだいじ道」とあるが風化が進んで読めない。どうも庚申地蔵らしい。造立年は宝暦6年(1756)で、左の角柱は明治20年(1887)の馬頭観音である。以前は300mほど南東の三叉路にあったものだという。

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隣りにあるのは地蔵六面堂である。比較的新しいもので、造立年は明治16年(1883)霜月(11月)とある。三界万霊塔のようだが、明治時代のものとしては質の良い地蔵六面幢である。

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鐘楼の脇には珍しい草木供養塔が立っていた。かなり新しいものである。造立年は平成15年(2003)2月。平成以降のものでぼちぼち見かけるようになったが、古いものは山形県にほとんどがある。

場所  三鷹市新川4丁目4-22

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