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2024年1月31日 (水)

連雀通りの地蔵(三鷹市下連雀)

都道134号線通称連雀通りは古い道。江戸時代からの街道筋で、玉川上水の北には五日市街道、南に連雀通り、さらに南には人見街道が東西を結んでいた。下連雀は東側、上連雀が西側になる。明暦の大火で江戸の街を出た神田連雀町の商人たちがお鷹場の原野を開墾して定住したのが村の始まり。江戸時代の名付パターンで京都に近い方を上、遠い方を下とした。

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連雀通りに面した角に覆屋があり、2基の地蔵が祀られている。交差する南北の道も昔からの道で、この辻あたりは昔は通筋と呼ばれた。堂宇の中の地蔵菩薩はどちらも丸彫の地蔵である。

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左の地蔵は享保15年(1730)11月の造立でかなり傷んでいる。基壇の文字は「日本廻国六十六部」とあり、「武刕多摩郡下連雀村」の銘がある。右の地蔵は享保15年(1730)10月のものを、昭和13年(1938)11月に再建したものである。こちらも「日本廻国六十六部 下連雀村」と刻まれている。

場所  三鷹市下連雀7丁目6-32  map

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2024年1月29日 (月)

童心居の庚申塔(武蔵野市御殿山)

井の頭自然文化園は1905年に渋沢栄一が御料地の一画を皇室から拝借して、非行少年を収容する養育院感化部(後の井の頭学校)を創設した地。第二次世界大戦直前に井の頭学校が移設されると小動物中心の小規模な動物園として開園。昭和17年の事である。そして『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』などなど多くの童謡を捜索した野口雨情が大正時代に吉祥寺に住んでいた時の居宅を昭和33年(1958)に公園に移設したのがこの「童心居」である。

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その童心居の脇にある竹垣のふもとに自然石の庚申塔が祀られている。灌木に紛れて見失いがちだが、面白い形の庚申塔である。

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面には大きく「庚申」とあるが土中に「塔」の文字があるかもしれない。裏面には寛政12年(1800)の造立年が刻まれている。ここに入るには400円の入園料が必要だが、私はおじいさんなので半額の200円であった。

場所  武蔵野市御殿山1丁目17-6  map

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2024年1月27日 (土)

井の頭辻の地蔵(三鷹市井の頭)

井の頭弁財天の本堂である大盛寺の南の辻の覆屋に丸彫の地蔵菩薩が祀られている。井の頭弁財天から階段を上って南西に向かう道と井の頭自然文化園から南東に延びる井の頭公園通りが出合う辻である。写真は側道だが、井の頭公園通りも通り名が付いているが車がすれ違うのも大変な狭い道。

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堂宇の中にある地蔵は高めの基壇に載っている。正面には「三界万霊有無両縁蠢動含識菩提也」とあり、右には「導師大盛寺賢者法印春芳堂」とあり、左面には「念仏講中男女▢▢」の文字がある。

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地蔵菩薩の造立年は明和4年(1767)10月である。今は細い道だが、江戸時代は井の頭弁財天から牟礼を通り、甲州街道の烏山に繋がる街道であった。井の頭恩賜公園はその名の通り東京都(当時は東京市)が大正2年(1913)に皇室から下賜した公園で、大正6年(1917)に開園している。

場所  三鷹市井の頭4丁目25-6  map

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2024年1月25日 (木)

井の頭弁財天の石仏(三鷹市井の頭)

井の頭公園の池の西の端にあるのが井の頭弁財天。天慶年間(938~946)に関東源氏の源経基がここに弁財天を安置したのが始まりとされる。弁財天の周辺では関東ローム層上を流れてきた地下水が湧き出すようすを見ることもできる。この水が井の頭池の池尻から神田川となって両国橋で隅田川に出合う。

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手前の石橋(太鼓橋)も古いもので、文化10年(1817)5月に造られた。多少の補修はされて来たのだろうが、200年余り経ってもしっかりしているのは江戸時代の建築土木の技術と言えそうである。石橋で境内に及ぶように、弁財天は池の中の島にある。

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弁財天脇にある七井不動尊の太刀持ち露払いの位置にある石仏のひとつが、この角柱型の庚申塔。正面に「庚申」とあるだけで造立年等は分からない。

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左脇にあるのは舟型光背型の弁財天である。造立年は延宝4年(1676)正月とある。七井不動尊は堂宇の中らしいが、この七井の意味は井戸が七つということ。それだけあちらこちらから水が湧き出しているということである。弁財天はすぐ傍の崖上にある大盛寺(天台宗)の管轄だが、この弁財天が江戸時代から江戸市民の信仰の対象になっていたので、江戸時代以降が隆盛だったのだろう。

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七井不動尊の裏手には3基の地蔵菩薩が並んでいる。右の地蔵は新しいもので、昭和53年(1978)10月建之とある。中央の地蔵菩薩は造立年不詳。左の地蔵尊も造立年は不詳である。ただ左の地蔵については、公園内から掘り出されたものを安置したようだ。

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弁財天横には宇賀神像が祀られている。おそらく正式には「人頭蛇体蓮葉上丸彫像」というのだろう。明和4年(1767)9月の造立で、台石には凄い人数の願主名が刻まれている。江戸町内の多数の商人が寄進をして建てたものなのだろう。この名前を見ても井の頭弁財天が江戸市民の深い信仰にあったことが分かる。

場所  三鷹市井の頭4丁目1  map

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2024年1月23日 (火)

鎌倉街道の庚申塔(府中市本町)

府中本町駅の西側、鎌倉街道であったとされる都道18号線の三小前の南西角に自然石の庚申塔がある。この場所は興味深い場所で、20m東に南北に通る下河原緑道はかつての鉄道軌道下河原貨物線が走っていた筋。多摩川の砂利を運搬していた東京砂利鉄道の廃線跡である。敷設の10年後(1920)には鉄道省が買収し国鉄となった。しかし武蔵野線が開通したことで1976年に廃線となった。

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広い歩道の一画に植込みがあり、その橋に自然石の庚申塔がある。正面には「庚申塔」の文字。裏には文政5年(1822)11月吉日講中とある。下部には本町の願主名があり、善明寺の中興の五十嵐姓や大久保姓、夏目姓がある。

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この庚申塔はもとは本町三叉路角にあったというから、現在で言うと府中街道の大國魂神社西の五差路あたりだろうか。今は本町商店会の道が繋がっている。100年余り前はこの辺りは東西に用水路が伸び、田んぼが広がる下河原と呼ばれた農地だった。

場所  府中市本町3丁目3-1  map

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2024年1月21日 (日)

善明寺の石仏(府中市本町)

南武線と武蔵野線が連絡するJR府中本町駅。鉄道開通以前は南北に府中街道(川崎街道)が通り、東西は古甲州街道(江戸時代初期以前)が通る交通の要衝であったのは同じである。古甲州街道は江戸時代になると大國魂神社の入口を東西に走る旧甲州街道に取って代わっていった。この辺りが中心部であったことは現在も残る府中市役所前の高札場跡から知ることができる。

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善明寺は高札場跡から200mほど南西にある天台宗の寺院。創建年代は不詳だが、かつては大寺だったようだ。山門はちょうど河岸段丘の崖上にあり、眺望はすこぶる良い。現在は比較的こじんまりとした寺院だが、境内はきれいに整備されていて、門前の清水下小路は南武線の線路を見下ろす気持ちのいい散歩道になっている。

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山門をくぐって右手には大きな石仏石塔がある。左の題目塔(名号塔)は慶応2年(1866)2月のもので、正面には面白い字体で「南無阿弥陀仏」とあり、台石には「郷中安全」と刻まれている。右は笠付角柱型の庚申塔。造立年は摩滅して見えないが9月という文字が見える。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、以前は山門の外にあったものを移したらしい。

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更にその奥にあったのが、自然石で造られた馬頭観世音塔。文政11年(1828)9月の造立で、「南無馬頭観音大士」の文字。「本町篤信講中」の文字もある。交通の要衝に位置しているので、馬頭観音は自然な感じ。この馬頭観音ももとは西側の土手上にあったという。

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山門から入って左手にあるのが3基の地蔵菩薩。ひときわ背の高い地蔵半跏像は慶応3年(1867)10月の造立。三界万霊塔でもある。本町の願主名が刻まれ、染屋村の石工によるものらしい。左端の舟型地蔵は摩滅が進んで文字が読めない。中央の舟型光背型の地蔵は墓石、元禄8年(1695)正月の紀年が入っている。

場所  府中市本町1丁目5-4  map

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2024年1月19日 (金)

妙光院の庚申塔(府中市本町)

府中街道に山門がある、安養寺の北側に隣接する妙光院は真言宗の寺院。境内墓地の北側は崖になっており、階段を上ると金毘羅堂。妙光院の境外仏堂らしい。この階段が金毘羅坂と呼ばれている名のある坂道。

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金毘羅堂もかなり古そうな感じだが、このハケ(崖)の上下に境内が広がるのは珍しい。妙光院の創建は古く、平安時代初期の平城天皇の第三皇子である真如法親王によって貞観元年(859)に開山した。京都仁和寺の末寺である。

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府中街道に面した山門は新しくきれいなもの。地形的に興味深いのは山門の南側に水路があるのだが、これは昔からある多摩川の支流。流程を見ているとどうも古い時代の用水路のようである。矢崎村は河岸段丘下の低地の一面田んぼが広がる中にあった村で、この辺りは用水路が張り巡らされていたのだろう。山門から本堂までまっすぐに参道が伸びているが、その途中右手に大きな無縁仏塔群がある。十一面観音がおそらく主尊だろう。その左後ろに、唐破風笠付角柱型の庚申塔がある。

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大きな笠を載せた庚申塔だが、造立年は宝暦5年(1755)5月とある。前面には、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、府中本町矢崎の銘がある。ちょうどこの辺りが江戸時代の矢崎村である。施主かいゑんとあるがこれは僧侶名だろうか。

場所  府中市本町1丁目16-13  map

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2024年1月17日 (水)

安養寺の石仏(府中市本町)

東京競馬場の北東にある天台宗寺院の安養寺。川越の喜多院と同じく慈覚大師(794~864)が開山し、永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。相当な古刹である。山門は西側、東側は駐車場の入口になっている。

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西の山門から参詣するのが正式なのだが、都合で東の駐車場側からお詣りした。東の入口には複数の石仏が並んでいる。

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手前(左)にあるのは笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、元禄10年(1697)10月の造立とある。右側面には「武州多摩郡府中矢崎村」の銘がある。府中市の資料によると、この庚申塔は元都矢崎村1-10の府中街道沿いにあったというので、現在の山門の西に通っている都道府中街道のどこかにあったのだろう。

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右の方には馬頭観音が3基並んでいる。両脇が舟型光背型の馬頭観音で、文字はまったく見当たらない。小さな角柱も馬頭観音で、正面に「馬頭観世音」の文字と施主名が刻まれている。

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本堂前を過ぎて、山門を出たところにあったのがこの一連の石仏。舟型の石仏は摩滅が進んでいて文字がほとんど読めない。左端と左から2番目は不詳。ひときわ大きな舟型光背型の地蔵菩薩はかすかな痕跡からおそらく延宝2年(1674)正月造立のものだろう。資料には「奉造立石地蔵為現当二世願主等敬白」「府中下河原村念仏講中廿三人」と刻まれているとある。右から2番目の角柱は馬頭観音で、平成3年(1991)2月の新しいものであった。

場所  府中市本町1丁目17-10  map

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2024年1月15日 (月)

東京競馬場近くの馬頭(府中市宮町)

府中市にある東京競馬場、荒井由実の『中央フリーウェイ』で「右に見える競馬場♪」と歌われているが、中央自動車道はフリーウェイではなく有料道路である。日本最大の競馬場で20万人近い観客が入る。2位は千葉県の中山競馬場で18万人弱、3位は京都競馬場で14万人強、4位以下はさすがに10万人には届かない。

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そんな競馬場の周辺には馬頭観音が多数ある。スタンドの真北にあるハケ(崖線)の一画に並んでいる馬頭観音を今回は取り上げた。馬霊塔の周りにも多数あり、各競走馬名が刻まれている。上の写真の馬頭観音は10坪ほどの境内に祀られているもので、大正2年(1913)建之。三面馬頭観音が描かれ、台石には大正2年ア月26日に22頭が火災に遭って亡くなったと記されている。

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前述の馬頭観音の後ろの崖にあったのがこの角柱型の馬頭観世音。こちらは昭和34年(1959)10月の建之で、愛馬キンハク号の弔い。レース中の事故で亡くなったらしい。

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最初の馬頭観音の左には自然石で造られた馬頭観音がある。造立年は明治43年(1910)6月。下部には陰刻の馬姿が3頭見られる。これら以外にも周辺には沢山の馬頭観音があるが、さすがに多すぎて一部しか紹介できない。

場所  府中市宮町3丁目21番地先  map

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2024年1月13日 (土)

京所道の庚申塔(府中市宮町)

普門寺から大國魂神社へ西進、ちょうど中間地点辺りの交差点の北西角に角柱型の庚申塔が立っている。西の方を眺めると大國魂神社の東の鳥居が見える。この辻を北に行くと新宿庚申塔の分岐点に繋がっている。この辻は江戸時代からあり、当時から民家が集まっていたようだ。

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京所道というのは、甲州街道が慶安年間(1648~1652)頃に開通するよりも以前、江戸から甲州への街道だったという古道である。品川通りが旧甲州街道に合流する東府中駅あたりから、今の旧甲州街道の少し南を東西に走り、大國魂神社の社前を通っていた。京所と書いて「きょうづ」と読む。

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ただし庚申塔は比較的新しいもので、造立年は大正4年(1915)3月建之と刻まれている。山型角柱型で、中折れしているがこれは戦災によるものだろうか。台石には「京所」とある。

場所  府中市宮町2丁目10-8  map

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2024年1月11日 (木)

普門寺前の庚申塔(府中市宮町)

京所道と競馬場正門通りが交差する普門寺前交差点の北西角に古い石塔がポツンと立っている。真言宗の普門寺はこのはす向かいにあり、目の薬師として知られている。

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歩道の植込みに設置されているのは板碑型の古そうな庚申塔。造立年は延宝8年(1680)と実際に古いもの。文字は摩滅でほとんど読み取れないが、部分的に解読できるところもある。

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「▢▢庚申▢結▢▢▢」の文字があり、八幡宿の銘がある。中折れしているのは戦災だろうか。中折れの上下には願主名が多数記されている。資料によると、普門寺境内の一隅にあったとされるので、本来の場所は分からない。八幡宿はこの交差点から北側に広がる宿場名である。

場所  府中市宮町2丁目25-11  map

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2024年1月 9日 (火)

普門寺前の塚(府中市八幡町)

小金井街道と旧甲州街道が交わる八幡宿交差点。かつての府中八幡宿の名を残した交差点名である。実は都道としての小金井街道はここが終点で、これより南は競馬場正門通りになる。次の普門寺交差点の手前のライオンズマンション府中第二の脇に塚が残っている。

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比較的広い塚で、Google Mapには庚申塚とあるが、庚申ではない。敷地の奥の方に一基だけ立っている。舟形光背型の石仏で、中央には釈迦如来と思われる主尊が描かれているが、印相が釈迦如来とは違う気もする。

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中央には「奉書写大乗妙典釈迦坐像」とあり、造立年は元禄4年(1691)2月。「武州多摩郡府中新宿」の銘が刻まれている。法華経では石経塔とよばれる石仏らしく、この下には書写された法華経が納められているのだろうか。

場所  府中市八幡町1丁目16-5  map

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2024年1月 7日 (日)

新宿庚申塔(府中市府中町)

甲州街道沿いの村々は調布の西の飛田給を過ぎると、下染屋、車返、上染屋、常久を経て、府中に入る。府中の中では八幡宿、新宿、本町、番場宿があり、次の宿場は日野宿である。新宿というのは各地にあるが、府中の東側の入口にあたる。

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本来の甲州街道は京王線の線路よりも200mほど南を通っていた。この辺りは明治以前は桑畑の中だった。現在セブンイレブンがあるこの分岐点は江戸時代からの分岐点で右の道を行くと小金井の前原につく。その先は埼玉県の志木まで続いたようで、志木道の名前が残っている。明治時代初期の地図には桑畑の中のこの分岐に石塔のマークがあるので、場所は昔から変わっていないはずである。

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覆屋に祀られているのは山状角柱型の大きな文字庚申塔で、「庚申塔」の大きな文字と新宿講中の字が見える。造立年は嘉永5年(1852)2月である。基壇には「此方 ふじ大山道」側面には「此方 田なし」などの地名があり道標でもあったようだ。願主名のほかに、染屋石工与市の名前もある。

場所  府中市府中町2丁目2-5  map

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2024年1月 5日 (金)

府中駅前の庚申塔(府中市宮町)

府中は大化の改新以来武蔵国の国府が置かれた地で、いわば関東の中心地のような場所であった。国府の置かれた土地ということで府中となったほど歴史がある土地で、京王線府中駅の駅前には延々と天然記念物指定のケヤキ並木が並び、この参道を南へ行くと間もなく大國魂神社に至る。大國魂神社の創建は西暦111年という社伝なので、1900年余りの歴史がある。

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ケヤキ並木の中に、近年再開発で新しくなった街のなかで異彩を放つように堂宇があり、庚申塔が祀られている。堂宇の中には2基の庚申塔があり、右の庚申塔は比較的原形をとどめているが、左の庚申塔は文字も全く読めないほど摩滅している。

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右の庚申塔は、櫛型角柱型で天保7年(1836)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、台石には「武州安達郡鳩谷宿 願主 松坂屋八太郎」の銘が入っている。安達郡は足立のことで、鳩谷宿は今の鳩谷であろう。なぜここにと思うが、そこは府中である。石工は新宿追分の石工甚蔵の名前がある。左の庚申塔は台石に三猿の痕跡が見てとれるが不詳。資料によると、正面には「庚申塔」の文字、そして台石下段には「講中」「右 小金井道」とあり、造立年は文政10年(1827)10月とあったらしい。こちらは府中由来のもののようだが、なぜにこれほどまで摩滅したのかは分からない。

場所  府中市宮町1丁目100番地先  map

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2024年1月 3日 (水)

溝合神社の庚申塔(府中市小柳町)

府中市小柳町は京王線多磨霊園駅の南側、多摩川河畔までの地域。街の北部を東西に走るのが筏道。この筏道沿いに寺院や石仏が点々とある。ちょうどこの筏道は、多摩川の河岸段丘にあり、ハケの道とも呼ばれる。ハケとは崖のことである。新しい9中通りを橋で越えて、少し坂を下ると五差路に出る。この五差路から北に昇っていく坂道(写真左)が庚申坂である。

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鳥居の右の道は筏道(ハケの道)。その間にこんもりとした区画があり、溝合神社と呼ばれているが、祀られているのは2基の庚申塔である。神社として祀られている祭神は猿田彦大神なので、庚申塔で間違いないのだろう。

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左のかなり傷んだ石仏はおそらく舟型光背型の庚申塔だったと思われる。日月は摩滅で消えかかっているがかろうじて見える。青面金剛像は認められるが三猿は痕跡のみである。補修はコンクリートで行われており、細部は不明。造立年も不詳である。右の駒型庚申塔は大正6年(1917)3月に造立されたもので、日月、青面金剛像、三猿の図柄である。側面に「小田分中 同青年中」の文字がある。

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境内には「庚申石橋供養塔」と書かれた石碑がある。山状角柱型で、文化10年(1813)12月の造立。右面には「念仏講中 庚申講中」の銘があり、左には「石橋講中」と「小田分村 願主 細野‥、馬場」の銘が刻まれている。小田分村というのは、ハケの道よりも南側の低地にあった農村で、昔の領主が小田姓であったことからついた名前らしい。

場所  府中市小柳町2丁目59番地先

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2024年1月 1日 (月)

丸石の庚申(府中市清水が丘)

東郷寺通りが9中通りに交差する多磨霊園駅北交差点から北へ15mほどのところにコンクリートの堂宇に守られた自然石の庚申塔が立っている。二つの通りと東西の道が絡まって小さな三角の区画を作っていて、4件の家がある。その一角である。この変な道の絡みは江戸時代から続いている本来の道の交差点で、甲州街道の南側の一画としては交通の要衝だったのだろう。

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この辺りはかつては染屋の西側の小さな村で常久村(つねひさむら)という地域だった。それ以前は多摩川沿いだの是政あたりにあった集落が洪水で流失、段丘上のこの地に移ってきて常久村を形成したらしい。この辺りで多摩川の洪水で移り住んだ話は多い。現在中央自動車道が走っている辺りは度々多摩川の洪水に見舞われた地域である。

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庚申塔は丸い石で、河原の石と思われる。正面には「庚申」、左には「おし立船ば道」、右には「府中道」とある。台石には常久村の文字があり、嘉永元年(1848)の建之と記されている。多数の男性名(苗字無)が並んでいる。移転してきた人々の名前だろうか。

場所  府中市清水が丘3丁目22-21

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