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2024年2月28日 (水)

文化会館前の庚申塚(武蔵野市中町)

五日市街道沿いには明暦の大火以降に人々が住み始めた。吉祥寺駅から西に進むと、武蔵野八幡宮あたりが上本宿で吉祥寺宿の西の端。そこから中野田、大野田という古い字名になり、武蔵野市眠文化会館の辺りは大野田と西窪の境になる。現在は武蔵野市役所と三鷹駅を結ぶ道がズレたクランクの交差点になっているあたりから西が西窪である。

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平成後期に祠を新調したらしいが、今でも造形の豊かな庚申塚。明治初期の地図を見てみるとちょうどこの辺りは民家が途絶えたところで、そのおかげで土地があったので文化会館や向かいの図書館などの大きな公共施設が出来たのだろう。

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堂宇に祀られている庚申塔は駒型の文字塔。正面には日月と「庚申塚」の文字がある。右側面には嘉永6年(1853)2月の造立年が刻まれ、左には「施主 森田弥十郎」の銘がある。武蔵野市の歴史は江戸町民の移転が始まりだが、吉祥寺以外にも、武蔵野で最初に村が出来た西久保も、明暦の大火よりも少し前に港区西久保城山町の住民が火災で焼け出され移ってきて開墾した地域である。

場所  武蔵野市中町3丁目5-12  map

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2024年2月26日 (月)

武蔵野八幡宮の石仏(武蔵野市吉祥寺東町)

武蔵野市の五日市街道にある武蔵野八幡宮はもともと水道橋にあった神社。明暦の大火で檀家衆が焼け出されて現在の吉祥寺に移ってきたのと同じように、水道橋付近から現在地に寛文年間(1661~1672)に移転してきた。それいらい吉祥寺村の鎮守として守られてきた神社である。

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水道橋での創建年は延暦8年(789)と伝えられ、奈良時代の末期(長岡京時代)と古い。鳥居の脇には巨樹が見上げる高さにそびえている。その手前、五日市街道から入った参道の左手に石仏石碑が祀られている。

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手前は2mほどもある井の頭弁財天への道標。「神田御上水井之頭辨財天」と記されており、造立年は天明5年(1785)3月。五日市街道から井の頭弁財天へ参詣する人々のために建てられた道標で、昔は八幡宮の対角に立っていたもの。大正時代に道路拡張工事のために井の頭通りと雉乗寺通りの交差する吉祥寺駅前交差点(当時は踏切)に移転。その後、昭和44年(1969)には江戸東京たてもの園にあった武蔵野郷土館に移され、平成20年(2008)に元あった傍の現在地に落ち着いた。

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道標の奥には覆屋があり、笠付角柱型の庚申塔が祀られている。かなり傷みが激しく、文字はほとんど読めない。中折れの跡もあるので戦火に見舞われたのだろうか。青面金剛像の脚がかろうじて見られるのと、その下に三猿の痕跡がある。文字が判別できないので造立年も不詳である。

場所  武蔵野市吉祥寺東町1丁目1-1  map

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2024年2月24日 (土)

安養寺の石仏(武蔵野市吉祥寺東町)

吉祥寺には吉祥寺はない、というのは知られた話である。町名の元になった吉祥寺は本駒込にある曹洞宗の大きな寺院で、室町時代に太田道灌によって開かれた。武蔵野市の吉祥寺の地名は、明暦の大火(1657)に焼け出された門前町の町民が移転する土地として与えられた折に、吉祥寺の信心からその名を村名にしたことによる。

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安養寺は吉祥寺駅の北口を通る五日市街道に面した寺院で、吉祥寺駅からも近い。宗派は真言宗の寺院で、創建は江戸時代初期とされている。おそらく吉祥寺村が開墾されてからの開山だろう。

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参道を歩いていくと山門の手前に古い石仏石塔が並んでいる。一番手前は大きな念仏車。説明板の下にあるのは板碑型の石塔だがどうやらこれは墓石らしい。元禄7年(1694)5月に亡くなった女性を弔っている。その右は馬頭観音と思われるが、大きく剥離してしまっていて詳細は分からない。造立年は大正11年(1922)とあるのが何とかわかる。

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写真中央の板碑型の石仏が説明板に書かれている「甲辛供養塔」である。甲辛はおそらく庚申の間違い字だろう。ただ多摩エリアでも最も古い庚申塔のひとつで、寛文5年(1666)12月の造立。当時の代官野村彦大夫により吉祥寺新田の検地を受けた翌年のもの。右の駒型庚申塔は享保4年(1719)の造立で月の部分が中折れで読めない。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「武刕多麻郡吉祥寺新田村」の銘がある。

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本堂の脇には丸彫の地蔵菩薩像が建っていた。寛保2年(1742)11月の造立で、「奉造立地蔵菩薩安楽処」とあり、「無理多磨郡吉祥寺村」の銘がある。境内にはもう1基の庚申塔、寛保元年(1741)造立があるはずだが、見落としてしまった。また吉祥寺に寄った折に探してみたい。

場所  武蔵野市吉祥寺東町1丁目1-21  map

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2024年2月22日 (木)

西向庚申塔(府中市住吉町)

京王線中河原駅の北側にスーパーマーケットのライフがある。その北側の角に沿うように鳥居と堂宇があり、一見神社かと思うが実は庚申塔である。昔は、ライフの北側一帯が中河原の村落だった。真言宗の寺院法音寺の周りに村が広がっていた。

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立派な鳥居と玉垣があるが、立派な黒御影石の説明書きがあり、「庚申とは方位でいうと西南西を示し、お社の向きもこれに倣うものだが、中河原の庚申様は真西を向いており非常に珍しいが、なぜ西向なのかは不明」とある。江戸時代の庚申塔は様々な理由で今ではまちまちな向きになっていることが多い。ライフが建つ以前はどういう向きだったのかが興味深い。

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堂内には2基の庚申塔がある。左の角柱型庚申塔は前面に「庚申供養」とあり、台石には「三疋猿」と書かれている。造立年は文化元年(1804)2月とある。左側には「三組講中」とあるが意味は不詳。右は舟型光背型の庚申塔。造立年は正徳6年(1716)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「同行11人」とある。これ以外にも慶応3年(1867)の燈籠の竿部が境内にあるらしいが見落とした。

場所  府中市住吉町1丁目84-1  map

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2024年2月20日 (火)

下河原墓地の石仏⓶(府中市南町)

下河原共同墓地の石仏については数が多いので二つに分けさせていただいた。こちらは向かって右手の列に並ぶ石仏である。どうも傷みが激しく文字も確認しづらい為、府中市の資料に依るところが多くなる。

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右側が入口になる。一番右は顔が欠損した地蔵菩薩像だが詳細は不明。中央の背の高いのは駒型の庚申塔で一面ゼニゴケに覆われている。造立年は明治17年(1884)4月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。左側に加藤治左ヱ門建之とある。左側の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、造立年は享保10年(1725)3月。「講中17人」の文字がある。

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その先に並んでいたのは、舟型の地蔵菩薩だがこれは墓石のようだ。その隣は角柱型の庚申塔で「庚申塔」の文字の一部が見える。造立年は文化8年(1811)10月で、上部がかなり欠損している。左隣の石仏もほぼ破損と摩滅で不詳。一番左は寛保2年(1742)4月の紀年が見られるが墓石らしい。

現在は墓地の南に幼稚園があり、その向こうにバス通りが通るが、昔はこの墓地の前の道が主要道で、中川原から多摩川河畔の分倍河原古戦場に沿って、東は今は郷土の森になっている芝間に繋がっていた。

場所  府中市南町3丁目51-4  map

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2024年2月18日 (日)

下河原墓地の石仏①(府中市南町)

府中市南町を西に歩く。ふるさと通りにある大きな幼稚園の裏手に回り込むと、水路跡があり、その傍に下河原共同墓地がある。どうも寺に属さない民間墓地のようだ。この地域は多摩川河畔に広がる農地の一画で、このすぐ南の多摩川の河原が分倍河原の古戦場である。鎌倉時代後期、新田義貞が幕府軍を追い詰めて南下、ここで北条氏を打ち負かし一気に鎌倉幕府陥落に進んだ。

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墓地の真ん中に地蔵堂があるが新しい地蔵が祀られている。ところがその手前に、沢山の庚申塔が左右にずらりと並んでいるのである。今回は向かって左列のもの。一番手前は大きな笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、享保13年(1728)正月の造立。かなり摩滅しているがもしかしたら鬼はあったかもしれない。三猿は埋まっている。資料では「奉造立申供養為二世安楽也 下河原村」とあるようだ。右隣りの石仏は窪みに尊像があったと思われるが欠損していた。

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その隣には上部に地蔵半跏像が彫られた大乗妙典六十六部供養塔。「奉供養大乗妙典六十六部」とあり、「勢州田丸領勢子村」とある。勢州とは伊勢のこと。伊勢の西に田丸城址がある。右にあるのは舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、宝暦4年(1754)2月の造立年がある。

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更に奥に進むと、上の写真の左の石仏は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており。造立年は享保11年(1726)3月とある。加藤家中心の願主名。中央のゼニゴケの少な目だが上部欠損の舟型光背型の庚申塔は文字が赤く塗られている。造立年は正徳6年(1716)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。右端は寛延2年(1749)3月造立の舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており。資料によると「武州多摩郡下河原村 庚申講中・・所願成就」の文字があるようだ。

場所  府中市南町3丁目51-14  map

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2024年2月16日 (金)

加藤家供養塔(府中市南町)

府中市南町を歩いている時、下河原通りのとある万年塀の脇に石塔があるのを見つけた。個人宅の敷地だが、舗道から何も遮るものもないので、御参りさせていただいた。

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奥に回って文字を読んでみると、「百番観世音菩薩、四国八十八ヶ所 供養」とあり、造立年は文政10年(1827)8月とある。施主は加藤嘉左エ門である。観音霊場巡礼供養は近畿三十三ヶ寺を巡るのが平安時代末期に主流になり、続いて西國三十三ヶ所、鎌倉中期になると坂東三十三ヶ所、そして室町時代には秩父三十三ヶ所の札所が成立した。秩父は後に一ヶ寺加えて三十四ヶ所となったので、三十三ヶ所ふたつと秩父を合わせるとちょうど百ヶ所になるという訳である。

場所  府中市南町4丁目7-3  map

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2024年2月14日 (水)

芝間稲荷の庚申塔(府中市南町)

郷土の森のある府中市南町5丁目、6丁目あたりは昔は芝間と呼ばれた地域だった。西側の4丁目は下河原という地域。こういう古い地名が消えて〇丁目となっていくのは残念でならない。

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芝間稲荷神社の創建は不詳。この辺りの村々は多摩川の洪水があると近くの別の場所に移転するという歴史を辿っている。洪水と共に歴史の記録も消えた可能性が高い。この稲荷神社の一画に庚申塔がある。

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左の舟型の庚申塔は日月、青面金剛像の図柄で、下部や基壇に三猿を探すも見当たらない。造立年は文化7年(1810)11月とある。「芝間講中」による建之。右の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿と多く描かれているが、造立年が分らない。どちらの願主名にも、林姓、小林姓が多い。

場所  府中市南町6丁目46-1  map

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2024年2月12日 (月)

府中郷土の森の石仏(2)

郷土の森にある石仏の後半。まずは前述の庚申塔の裏手にある、まいまいず井戸を訪ねた。まいまいず井戸と呼ばれるのはここだけではなく、武蔵野台地に多く掘られた井戸の一種である。直径数mから数十mの大きな穴を掘削し、火山の河口のようにする。窪地の底が出来てそれからようやく井戸を掘るのである。

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井戸に下りる道は渦巻き状に造られているので、かたつむり=まいまいということでまいまいず井戸である。武蔵野は広義には多摩川と荒川の複合扇状地で、台地の標高よりも数m~十数m低いところに地下水脈が流れている。昔の武蔵野に暮らす人々はこの地下水脈を掘り当てて生活用水にしていたのである。

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まいまいず井戸を出て南に向かうと人工河川がある。小川だが古の雰囲気を再現している。流れを越えて少し上るとその先には樹木園が広がっている。その入口の角に笠付角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、正徳3年(1713)11月の造立。「奉造立庚申宝塔武州多麻郡府中領之内人見村同行25人」とある。元は若松4丁目にあったらしく、多摩墓地の南、人見街道沿いだろう。

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萩のトンネルを潜るとその先には旧越智家住宅が移築されている。ハケ(崖線)の下にあった農家で、武蔵野の屋敷森の雰囲気を残してくれている。越智家住宅の前には古い舟型光背型の地蔵尊がある。造立年は寛文10年(1670)と月古いもの。元は府中競馬場前駅近くの普門寺にあったらしい。「尊容一躯二世安楽所施主部首府中新宿念仏講中34人」という文字があるようだがかなり薄れている。

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その先の田んぼの手前にあったのが写真の石橋供養塔。但し下部に三猿が陽刻されている。造立年は享保19年(1734)3月で、「供養石橋」の文字の脇に「武州多摩郡下染屋村」の銘がある。この供養塔は、旧下染屋の水田のあぜ道の小石橋脇にあったらしい。

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石橋供養塔の前の田んぼの脇にあったこの道標は大正12年(1923)建立の道標。元の場所は押立5丁目とある。調布市との市境の近くである。博物館がリニューアルオープンしたら再訪したい。

場所  府中市南町6丁目59  map

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2024年2月10日 (土)

府中郷土の森の石仏(1)

府中市は関東の「府」の中心として遥かな昔から武蔵の中心であった。律令時代から武蔵国の国府が置かれていた土地で、江戸が中心になったのは遥か後の時代、江戸時代に入って徳川家康が入府してからである。多摩川に近い府中市の南部に郷土の森という施設があり、その中心は郷土の森博物館。ただし2024年は5月末まで改修の為休館となっている。

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旧府中町役場の角で西に折れ、次の郵便局の建物を左に曲がると、裏手にポストがあり、その向かいに馬頭観音が立っている。三面の馬頭観世音座像が正面に描かれており、後ろには嘉永3年(1850)11月の造立年がある。基壇の世話人の文字の下には多くの願主名が刻まれている。元は府中町2丁目の小金井街道の辻にあったらしい。

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少しだけ南に進むと、左の梅の木の下に舟型光背型の庚申塔が立っていた。日月と三猿だけの庚申塔で、天和元年(1681)11月の造立と古いもの。正面には「奉建立右意趣者庚申待為供養」とあり、「武州車返村」の銘がある。この舟型庚申塔は元は白糸台5丁目の八幡神社にあったらしい。

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まいまいず井戸の手前にあったのがこの3基の庚申塔。左の駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保9年(1724)11月。「奉造立青面 播主武州多摩郡中車返村」の銘があり「金剛為二世安楽也」の文字がある。中央も駒型庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は元文4年(1739)11月で、「奉造立青面金剛為現当両益成」「武州多摩郡車返村講中」とある。右の小さい庚申塔も駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は元文3年(1738)11月。「青面金剛為二世安楽」の文字と、武州多摩郡車返村講中の文字は隣りと同じ。この3基の庚申塔も白糸台5丁目の八幡神社にあったもののようだ。

場所  府中市南町6丁目49  map

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2024年2月 8日 (木)

井口八幡入口の庚申塔(三鷹市井口)

都道の新武蔵境通りは随分と広くてきれいな幹線道路になった。歩道も広く、自転車との住み分けが出来ている。この南北を貫く街道はもともと江戸時代からあった街道である。江戸時代に開墾された井口の鎮守である井口八幡があり、その入口のビル前に堂宇がある。

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井口八幡神社は井口新田開発に伴って元文元年(1736)に創建された。入口の堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。こうして個人の信心によって守られている石仏は特に魅力がある。庚申塔の造立年は文化6年(1809)9月と刻まれている。

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駒形の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、この辺りでは珍しく左手にはショケラを下げている。「上連雀井口新田施主講中」の文字があり、石質に難がありそうなのにしっかりと守られてきた感じがする。

場所  三鷹市井口1丁目10-7  map

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2024年2月 6日 (火)

井口院の石仏(三鷹市上連雀)

連雀通りの神明社の脇の参道を進むと井口院に入る。真言宗の寺院で、中野宝泉寺の末寺。連雀周辺を開拓した石神井村の井口八郎左衛門春重が宝泉寺の和尚を迎えて寛永12年(1672)に開山した。

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山門をくぐると正面に本堂があるが、その手前に弥勒菩薩坐像が祀られている。この弥勒菩薩は文政11年(1828)3月の建立で、下連雀村、上連雀村、野崎村、深大寺新田、井口新田の人々が、雨乞いの為に建てたものである。

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山門をくぐってすぐ、左側に地蔵堂がある。中には沢山の地蔵菩薩が祀られている。中央の大きな丸彫の地蔵菩薩は享保6年(1721)9月造立。基壇は見えなかったが資料によると、「再建施主念仏講中、武刕多摩郡蓮雀前新田村念佛講中、奉供養為二世安楽」とあるらしい。六地蔵は明治5年(1872)~明治6年(1873)の造立で、「上蓮雀村元井口新田」の銘がある。

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六地蔵の左手前には2基の地蔵菩薩があるが、手前の地蔵菩薩は子育地蔵尊で、昭和12年(1937)秋彼岸の造立。「子相田鉄五郎氏在世中百万遍ノ念仏称名發履‥」とある。この地蔵は昭和6年に往生した妻を想って建立したものらしい。右の地蔵は詳細不明。

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向かって右手前にも2基の地蔵がある。左の大きい方は新しいもので幼児を抱いている。昭和52年(1977)6月の建之で、「追福供養」とあり2名の戒名がある。右の地蔵は詳細不詳。

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地蔵堂の左側には複数の馬頭観音が祀られていた。左端の新しい三面八臂の馬頭観世音菩薩は詳細が分からない。その右にある1mほどの自然石平板の石碑も馬頭観音で、こちらは大正10年(1921)11月の造立。馬名は敷島、そして朝日という名がある。施主は加藤長次郎。

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右奥の2基も馬頭観音。左の隅丸角柱型の文字塔「馬頭観世音」は大正3年(1914)7月のもので施主名は齋藤由五郎とある。右の角柱型の馬頭観音は明治8年(1875)3月の建立。上連雀村井口新田の銘がある。明治初期の地図を見ると、当然井口院も神明社もあるが、連雀通りには民家が並び、その後背は畑地が広がっていた。とれた農産物を牛馬で都心に運んでいたのだろう。

場所  三鷹市上連雀7丁目26-26  map

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2024年2月 4日 (日)

神明社の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹市の中央部を東西に走る連雀通り、新しく開通した武蔵境通りとの塚交差点の少し東に上連雀神明社がある。練馬区関町の井口家の分家である井口権三郎という人物がこの辺りを開墾し連雀新田を開いた。そして村の鎮守として寛文12年(1672)に創建したのが上連雀神明社である。

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比較的新しい神社ではあるが、それでも350年は経っている。祭神は天照大神だが、隣の井口院が別当寺となっている。どちらも同時期に創建している。江戸時代は上連雀村という村名だったが、明治時代は塚交差点の辺りは二ツ塚、その西側が井口という地名だったようだ。神社の前の連雀通りに面して堂宇がある。

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堂宇の中には2基の庚申塔が祀られている。右の小さい方は舟型の庚申塔で摩滅と欠損がある。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は宝永3年(1706)11月。かすかに「武刕多摩郡・・」「為現当二世安楽也」の文字が見える。左の大きい方は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。頭上に蛇を載せる。「奉供養庚申待 為現当二世安楽也」とある。「武刕多摩郡上連雀村」の銘があり、多数の願主名がある。

場所  三鷹市上連雀7丁目26-24  map

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2024年2月 2日 (金)

コープ脇の庚申塔(三鷹市下連雀)

連雀通りを西へ進む。通りの北側に黄檗宗(おうばくしゅう)禅林寺がある。江戸時代に始まった宗派で、この寺には森鴎外や太宰治の墓所がある。門前は禅林寺前という交差点。禅林寺の向かいにはコープとうきょう下連雀店があり、この一角に庚申塔がある。

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防空壕のような頑丈な堂宇に祀られているのは舟型の庚申塔である。青面金剛、三猿が見てとれるが、文字は摩滅していて読み取れない。かろうじて「庚申供養」の文字と「11月」という文字が見える。造立年は不詳。

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少し西に南北に走る三鷹通りがあるが、昔はこの庚申塔の脇で禅林寺の山門を見て西に曲がり、すぐに北に折れるのが道筋であった。道筋が変えられたのは昭和の後期である。

場所  三鷹市下連雀7丁目16-22  map

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