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2024年3月31日 (日)

品川道の庚申塔(狛江市東和泉)

小田急線狛江駅から南東へ150mほどの場所の古道品川道の分岐点に植込みに巻かれた庚申塔が祀られている。この道は品川道、あるいは筏道とよばれ、江戸の建築材を六郷まで筏に乗って多摩川を下った青梅地方の筏師たちが帰る道筋である。

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狛江駅前から南下した品川道はここで左の方へ進むが、その先は不明瞭である。この辺りは明治時代以前には駄倉と呼ばれたところ。かつては狛江駅のすぐ北側を六郷用水が流れており、用水を渡る橋が駄倉橋といってまだ親柱がある。そこからこの二又までは200mほど。この樹木の下にはかつて3基の石仏があったらしいが今は2基。

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右の駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉庚申供養」の文字。また「武州多麻郡泉村」の銘があり、造立年は正徳3年(1714)霜月と刻まれている。下部の願主名には谷田部姓が多い。左の石柱は猿田彦大神と書かれたこれも庚申塔のひとつで道標を兼ねている。正面には「西ふちう」右には「のぼりと」の文字があり、裏面には「庚申待講中」の文字。これ以外にあと地蔵菩薩坐像が1体あったらしいが見当たらなかった。

場所  狛江市東和泉1丁目7番地先  map

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2024年3月29日 (金)

玉泉寺の石仏(狛江市東和泉)

小田急線和泉多摩川駅前にある天台宗の玉泉寺。山門は駅とは反対側の東側にある。駅側は寺の裏にあたる。鎌倉時代からの鎌倉街道は現在の松原通り沿いに北から、御台橋~田中橋を経て泉龍寺脇を少し東へ回り、水道道路の入口あたりを通って玉泉寺の東側を通っていたので、駅の反対側に山門があるのは当然で、駅がずっと後に出来ただけである。

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玉泉寺の創建は永正元年(1504)、その昔は多摩川の右岸にあり大輪寺と言ったらしいが西暦600年頃の話なので真相はどうだろう。多摩川の左岸(狛江市側)に移転したのが1504年のようだ。東側の山門は閉じていて、隣接する玉泉寺照隈殿の脇の入口から境内に入る。境内に入るとすぐに本堂があり、南側に墓所が広がっている。今となっては駅前が墓所である。境内に入ると山門の脇には霊場を表す石仏群がある。

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色々な観音像や線刻の自然石の石仏が所狭しと並んでいる。なんだか別世界に入ったような感覚になる。そこから山門の裏に行くと、2基の石仏が祀られている。左が丸彫の地蔵菩薩像、右は笠付角柱型の読誦塔である。

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地蔵菩薩像は宝暦13年(1763)12月の造立。基壇には「奉造立地蔵尊像一躰」とあり、脇には「多麻郡世田谷領緒方村 願主敬白」の文字と願主名がある。小川姓が多い。右の笠付角柱型の読誦塔は正面に「奉読誦普門品供養塔」とある。造立年は寛政4年(1792)3月。「武州多麻郡和泉村 本願主 荒井新右衛門」の銘がある。その右手にも小さな馬頭観音等の石仏が多数並ぶ。

場所  狛江市東和泉3丁目10-23  map

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2024年3月27日 (水)

畑の地蔵菩薩(狛江市緒方)

緒方中通り(かつての大山道)の馬頭観音から少し北に歩く。東側は駐車場、西側は畑で、広々とした散歩道である。すぐに畑の側に鉄柵で囲まれた堂宇があるのに気づく。

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いつからこんな頑強な囲いになったのだろうか。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。地蔵菩薩は昭和48年(1973)5月に再建されたもので、「施主 石黒昭平」とある。

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右下に置かれている四角い石は昔の地蔵の基壇である。ここには寛政9年(1797)1月の造立年が刻まれている。「緒方村」の銘もあることから江戸時代後期にはこの辺りは農家が広がっていたのだろう。覆屋の前の道は実は古くからある道で明治時代の初期の地図には載っている。

場所  狛江市緒方3丁目9-16  map

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2024年3月25日 (月)

駐車場角の馬頭観音(狛江市緒方)

狛江市の緒方地区はまだ畑の残るのどかな住宅地である。昭和の終わりころまでは世田谷区の西部もこんな感じだった。東京の宅地開発は恐ろしい速度で進んできたが、人口増加が止まった今、いつまで開発するのか、未来を見据えている者は果たしているのか気になる。そんな長閑な道だが、緒方中通りという通り名がきちんとある。

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駐車場の角にブロックに囲まれて1基の石仏が建っている。後ろにあるのは百日紅の樹だろうか。1基の馬頭観音の境内としてはとても広い。石仏を見てみると馬頭観世音菩薩が描かれており、寛政6年(1794)9月の造立年が刻まれている。

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左側には「緒方村 小川清兵衛」の銘がある。像形は舟型と呼ぶべきか、板駒型の上部が丸いタイプである。主尊は三面六臂。この緒方中通りはかつての大山道で、円住院の石仏で書いた大山道と二本あるうちの北側のルートである。

場所  狛江市緒方3丁目13-14  map

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2024年3月23日 (土)

円住院の石仏(狛江市駒井町)

狛江市の駒井は昔、北が岩戸村、西に緒方村、東は宇奈根村に囲まれた地域で、南を流れる多摩川の洪水に何度も苦しんでいた。ここにはかつての大山詣りの大山道のひとつが通っており、知行院~慶元寺~多摩川の渡しと人々は歩いていた。大山道が複数あるのは、多摩川の氾濫によって時代が異なると流程によって違う場所に道が造られるからである。

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駒井にある円住院は日枝神社と並んでいる。明治初期の廃仏毀釈以前は寺院と神社は一体で僧侶が神社を管理するところも多かったという。1000年も続いてきた神仏習合を明治政府が破壊したのは応仁の乱で京都を焼いたこと以上に日本の損失であった。日枝神社ももとは円住院の鎮守として創建され、江戸時代は駒井村の鎮守、しかし明治4年に分離されている。円住院は天台宗の寺院で、承久3年(1221)の創建という古刹である。

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本堂脇にあった丸彫の地蔵菩薩像、頭は後年再建されたもののようだが、厄除地蔵として祀られている。造立年等の文字は見当たらなかった。振り返って山門に向かうと境内の隅に3基の石仏が祀られている。右の小さな舟型光背型の石仏はひどく傷んでいるが主尊を見る限り馬頭観音と思われる。紀年等は不詳。

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中央は駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は享保9年(1724)12月とある。「武州玉郡世田谷領駒井村施主」とあり、秋本家・古川家・伊庭家の名前が並んでいる。左側の角柱型石塔は狛江市では珍しい二十三夜塔である。市内では田中橋跡の一画に二十三夜塔があった。この石塔の造立年は天保4年(1833)2月で、正面に「廿三夜塔」とある。台石には「講中」の文字と駒井村、宿河原村の人々の銘がある。現在川崎市の宿河原は多摩川の対岸だが、昔は多摩川の流程があちこち変わっていたので、右岸左岸に同じ地名があることが多い。

場所  狛江市駒井町1丁目6-10  map

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2024年3月21日 (木)

慶岸寺境内の石仏(狛江市岩戸北)

慶岸寺は浄土宗の寺院で、世田谷通りの近くにある。創建は江戸時代初期で村民によるもの。かつては津久井道と呼ばれた世田谷通りは成城の河岸段丘を下ると野川を渡り、慶岸寺前。この辺りは岩戸と呼ばれた土地で今も岩戸北という住居表示である。慶岸寺前には昔は多摩川を取水した六郷用水が流れており、次太夫堀公園を経て大田区まで水を供給していた。

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岩戸村では南の寺=明静院で、北の寺=慶岸寺というのが土地の区分けだったという。山門の手前にはかなり摩滅の進んだ庚申塔が立っているが、花を欠いたことがない。おそらく江戸時代中期のものだと推測できるが、青面金剛像と三猿の痕跡しか確認できないほど摩滅が進んでいる。この慶岸寺門前の庚申塔については別述している。

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残念ながら文字はほとんど読めない。狛江市の資料にも摩滅が酷くて不詳と記されている。庚申塔を拝んでから境内に入る。本堂の左手に地蔵堂と墓所への入口がある。その脇からは世田谷通りに抜けられる。訪問時外国人女性が同じ石仏を見ていた。私がいろいろ調べているというと多くの質問をしてきたが、共通言語は英語だけでかつお互いにそれほど流暢ではない。地蔵の説明などに四苦八苦した。

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説明の題材になった六地蔵だが、丸彫の六地蔵で、造立年は安永10年(1781)2月と(資料によると)ある。実際の文字は見つけられなかったが、「女中念仏講  奉▢▢六地蔵尊 武州多摩郡岩戸村」とも書かれているらしい。

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六地蔵の向かいにある覆屋は溶けた石仏が複数並んでいる。この中央の地蔵は「塩地蔵」あるいは「塩なめ地蔵」と呼ばれ、横の溶けたような石仏の痕跡は先代の塩地蔵だろう。中央の地蔵はかつて世田谷通りの二の橋近くにあった魚屋の稲毛屋さんの西に在ったが、戦前に道路拡張でここに移設されたということが分かっている。

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墓所の入口に祀られていた2基の舟型の石仏が古いもの。右の舟型光背型の聖観音像は寛文2年(1662)2月。「奉造立念仏供養為二世安楽也 岩戸村同行廿六人」と刻まれている。左の地蔵菩薩は狛江市指定文化財になっている庚申地蔵である。造立年はおなじく寛文2年(1662)2月。「奉造立庚申之歳供養為二世安楽也」「慶岸寺施主八人岩戸村」などの文字が刻まれている。

場所  狛江市岩戸北4丁目15-8  map

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2024年3月19日 (火)

長福寺の石仏(府中市宮西町)

府中市宮西町にある長福寺は珍しい時宗の寺院。時宗は鎌倉時代後期に一遍上人が開いた宗派で踊念仏で知られ、念仏を唱えれば極楽浄土という教義。踊る宗教は世界各地にあるが、脳科学などでは面白いテーゼだと思う。長福寺は寛喜2年(1230)の創建だが、まもなく正応年間(1288~1292)に時宗に代わる。一遍上人の没年が1289年だからちょうどその頃になる。

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なんだか現代にぴったりの教義ともいえそうな時宗だが、長福寺は山門をくぐると六角堂(もしかしたら八角堂)が本堂である。本堂は昭和46年(1971)に再建されている。

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本堂脇にある古い石仏のひとつ、舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文2年(1662)8月の造立。府中市内でも最も古い地蔵菩薩のひとつである。尊像脇には「武州田摩郡府中(領)念仏講供養 同行女十四人」とあるので女念仏講中による建立のようである。

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本堂の前にある丸彫の地蔵菩薩立像の方は、元文元年(1736)10月の造立。玉石のの基壇には「願誉上人 誓蓮社 祐円和尚 当寺廿七世」とある。なお旧甲州街道から山門までは細長い路地だが、もともとの参道だったはず。甲州街道に長福寺の石標がある。

場所  府中市宮西町4丁目18-1  map

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2024年3月17日 (日)

高安寺の石仏(府中市片町)

府中市片町にある高安寺はかなりの古刹である。元は初期の坂東武士であった藤原秀郷(890頃~958頃)の館城で、秀郷は藤原鎌足の七代目。平将門を討った武将として知られている栃木県の武士だが、武士のはじまりのひとりとされる下野国の国司である。その館城を鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏が全国に建立した安国寺のひとつとして再建したのが始まり。当時は臨済宗寺院だったが、江戸時代初期に曹洞宗に代わっている。

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昔は今の何倍もの広さがある伽藍であったようだが、今でもその片鱗は残る。本堂裏手にある秀郷稲荷の脇の崖を下りていくと、「弁慶の硯井戸」がある。かつて武蔵坊弁慶がここの湧水で墨を磨り文を書いたといい、暫くの間弁慶もここに住んでいたらしい。

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本堂手前にある無縁仏群の中央には角柱型の三界万霊塔があり、その両脇に古い石仏が主尊として祀られている。左の舟型光背型の如意輪観音像は、元禄2年(1689)霜月の造立で、「武州多麻郡府中番場町善信女、奉造立念仏講衆、為頓証菩提也」と書かれ、下部には同行33人とある。右の舟型光背型の地蔵菩薩像はもう少し古く、天和2年(1682)中秋の紀年がある。こちらは「武州多麻郡府中領番場宿同行23人」「奉造立念仏講衆為顕証菩提也」と刻まれている。

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入口に近いところに観音堂があるが、その前に地蔵菩薩の堂宇がある。延命地蔵尊の旗が複数はためいているが、主尊の丸彫の地蔵菩薩は享保8年(1723)の造立年が刻まれている。この地蔵については府中市の資料にも載っていなかったが、高安寺は意外に古いものがさりげなくある。

場所  府中市片町2丁目4-1  map

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2024年3月15日 (金)

屋敷分浅間神社の石仏(府中市美好町)

かつての甲州街道は府中大國魂神社を過ぎると、片町、そして屋敷分村、本宿と続いていた。現在の分梅通りは江戸時代から、この地域の南北の幹線道路であった。光明院坂から北上すると、甲州街道とのちょうど真ん中あたりに屋敷分浅間神社がある。

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浅間神社の創建年代は不詳ながら江戸時代には既に屋敷分村の鎮守であったようだ。境内の鳥居は嘉永7年(1854)2月の建立年が刻まれており、屋敷分村氏子中とある。この鳥居の手前、北側にある覆屋には複数の石仏が祀られている。

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ひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔が主役だろう。府中で最古の庚申塔で、延宝2年(1674)2月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、「府中屋敷分村」の銘がある。右の角柱型の石塔は普門品供養塔で「奉読誦普門品供養塔」と書かれている。造立年は寛政2年(1790)4月、「武州多摩郡屋舗分村観音会講中」の銘がある。

場所  府中市美好町3丁目42-2  map

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2024年3月13日 (水)

元応の板碑(府中市美好町)

分倍河原の光明院から光明院坂を上る。坂道は南武線の踏切を過ぎてさ緩やかになり、間もなく西側に神社の境内が見えてくる。この神社、現在は八雲神社となっているが、明治初年の神仏習合の時に天王さまの天王宮だったのを政府が改名させた。鎌倉街道に面していることからも、鎌倉時代からあったとされている。

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鳥居には安永7年(1778)3月の造立年があり、當村氏子中と書かれている。本殿は文久3年(1867)に再建築されたらしく、そのすぐ後に天王宮から八雲神社に変わったことになる。神社の東北角の向かいに板碑がある。

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実は板碑もそれを囲んでいる樹木もレプリカである。元は本物の樹木に抱かれるようにして傷みのひどい板碑が祀られていたらしい。年号は元応元年(1319)霜月とある。後醍醐天皇が即位した翌年である。下部脇には「往生十七ヶ年所奉造立地」とある。

場所  府中市美好町3丁目40-16  map

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2024年3月11日 (月)

光明院の庚申塔(府中市分梅町)

光明院は真言宗の寺院。創建年代は不詳だが、鎌倉時代に北条家の家臣小川義継が建立した祈願所が始まりらしい。古い寺院である。光明院の辺りが多摩川の河岸段丘の崖線のひとつになっており、門前の道は光明院坂と呼ばれる坂道である。

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光明院坂は鎌倉街道とも呼ばれる古道で、別名「根っこ坂」とも呼ばれる。これは昔この坂道が荒れていた頃、道の両側に木の根っこが沢山あったことに由来するらしい。坂下は分倍河原で、原稿3年(1333)に新田義貞と北条義家が合戦した地である。

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山門脇に1基の庚申塔が立っている。笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。造立年は元禄10年(1697)7月、側面には「庚申帝釈天  武刕江戸 天野清左衛重有」と刻まれている。また「当寺八代目 法印海誉」の銘もある。これ以外にも、府中市の資料に依ると、享和元年(1801)の笠付角柱庚申塔があるらしいが見当たらなかった。

場所  府中市分梅町1丁目13-1  map

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2024年3月 9日 (土)

光明院下の石橋供養塔(府中市分梅町)

府中本町駅から西進する都道18号線が京王線をくぐると200mほどで民家脇の駐車場にポツンと立つ石橋供養塔のある場所につく。と言っても歩いているとつい見逃してしまいがちな位置にあるので、分倍碑のある変形交差点の手前というのが目安である。

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民家の生垣の脇、駐車場の端に立つ薄っぺらい片岩の石碑には、「石橋供養塔」と大きく彫られている。造立年は慶応4年(1868)3月とあるが、この半年後には江戸時代が終焉し明治時代に変わるという激動の時代である。

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右下には「常久邑 願主 関田勘右衛門 世話人 分梅中」と書かれている。左側には「玉河や 和らきあひし 石の橋 かたく世わたる 分ばいの里 勇月」という句が刻まれていた。日野橋の下流で取水した用水は谷保、西府と流れ、都道18号線の筋を流れ府中本町駅から現在の競馬場方面に流れていた。

場所  府中市分梅町1丁目27-3  map

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2024年3月 7日 (木)

鈴木街道入口の文字庚申(西東京市新町)

五日市街道が千川上水にぶつかる武蔵野大学前、その保谷(西東京市)側に大きな石塔が建っている。この辺りの以前の地名は「上保谷新田しらし窪」というらしい。高さが2m以上もあるので、すぐに存在が判る。南西に折れる五日市街道から分かれてまっすぐに続く新田の集落への道(鈴木街道)の入口にある。

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正面には「庚申塔」「天下泰平 五穀成就」とある。右面には「武刕新座郡上保谷邑 願主新田中」、左面には天明4年(1784)9月の造立年が刻まれている。下部には道標が刻まれており、右は「小川 村山道」、正面は「北 たなし きよせ 川こゑ とこ路さハ」「東 江戸道」、左側面の文字は「左 ぬちう(府中)砂川 八王子」と書かれている。昔からこの場所に在ったと考えていいだろう。

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石塔の下部、基壇すぐ上には三猿が陽刻されている。この庚申塔、五日市街道の改修によっていったん武蔵野女子大の構内に移され、昭和54年(1979)に現在地に戻された。この場所は江戸時代から五差路で、交通の要衝だった。

場所  西東京市新町1丁目2-6  map

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2024年3月 5日 (火)

千川上水石橋供養塔(武蔵野市八幡町)

都心から五日市街道を西進すると吉祥寺の先約3kmで武蔵野大学前の交差点になり、千川上水沿いに南西に方向を変える。この辻は江戸時代からの辻で、かつての五日市街道はここから少し先の柳橋までは上水の南側、それより先は北側を通っていた。千川上水は最初の神田上水、そして玉川上水(1654)の後に掘削された用水路のひとつ。小石川周辺への水の供給を目的に造られた。

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五日市街道と千川上水が接続するここには古くから井口橋という橋が架けられており、補修されながら大切に守られてきた。木橋だった橋が石橋に架け替えられたのは天保12年(1841)8月でその時の石橋供養塔が右の背の高い石塔である。千川上水も幕府予算では足らず、民間の私費を加えて完成したので、その主要な家に幕府は「千川」の苗字を与えた。

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石橋供養塔の隣りには角柱型の庚申塔も祀られている。文字塔で日月の下に「庚申塔」と刻まれており、造立年は天保11年(1840)2月。「願主」の文字はあるが名前はない。詳細は不明である。造立年が千川上水に石橋を掛けた前年であること、ここが保谷新田と関前村の境であったことからこの辺りに建てられたものだろう。現在は千川上水が武蔵野市と西東京市の市境になっている。

場所  武蔵野市八幡町3丁目8-11  map

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2024年3月 3日 (日)

延命寺の石仏(武蔵野市八幡町)

五日市街道に面した延命寺は真言宗の寺院。五日市街道沿いの寺院の例に漏れず寛文12年(1672)という江戸初期、明暦大火後の創建である。街道沿いの間口が狭く奥行の深い土地割から、近くの源正寺もこの延命寺も門前から奥の墓所まで250mを超える奥行がある。江戸時代はもっと奥行きが深かったかもしれない。

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入口から本堂までは50m以上あるが、その途中の西側、関前八幡社との間の塀を背にいくつもの石仏が並んでいる。余談だが延命寺も各地で見かける寺名だが、寺数では第15位で235寺を数えるという。1位は観音寺(839寺)、2位は光明寺(595寺)、3位は西光寺(575寺)だそうである。

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一番手前の堂宇に祀られていたのはこの舟型光背型の勢至菩薩像。この石仏は二十三夜塔である。勢至菩薩の脇に「二十三夜講中」と刻まれている。昔、月待の講中で二十三夜の月をめぐって徹夜して祈り食事をした。月齢としては下弦の月で月の出がほぼ真夜中。当時は月は勢至菩薩の化身と信じられていたことから二十三夜塔には勢至菩薩像が多い。残念ながら造立年は見当たらない。

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その先にあったのは2基の比較的新しい庚申塔。どうも御影石で出来ているような感じである。左は舟型光背型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、元禄9年の紀年があるが昭和55年の再建である。右の笠付角柱型の庚申塔も同じく昭和55年の再建で、こちらは青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。側面に元文4年の紀年がある。

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上の昭和の再建庚申塔の元になる庚申塔がこの2基で、舟型光背型の庚申塔は中折れした上に上部が欠けている。日月、青面金剛像、三猿の図柄でこちらには邪鬼はない。元禄9年(1696)11月の造立年が刻まれている。右の笠付角柱型は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は元文4年(1739)11月とある。その右の櫛型角柱型の供養塔は天明5年(1785)7月のもので、「念仏講中 無縁法界」と書かれている。

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その先の堂宇に祀られている丸彫の地蔵菩薩も時代を経ていそうな雰囲気で、脇に2体が控えている。基壇の文字を見ると、享保5年(1720)孟秋(7月)とある。「奉念仏講中」の文字も見られることから念仏講中によるものである。

場所  武蔵野市八幡町1丁目1-2  map

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2024年3月 1日 (金)

源正寺門前の石仏(武蔵野市緑町)

源正寺は浄土真宗の寺院で、五日市街道沿いにある。現在の住居表示は緑町だが、昔の字名は西窪。西窪は現在では西久保の地名として残っていて、五日市街道の南側一帯が西久保である。源正寺の創建は寛文3年(1663)と伝えられ、当時の地名は武蔵野西久保新田村。五日市街道沿いの寺院はほぼ寛文年代に開山しているので、その頃に新田開発が行われたのだろう。

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江戸時代の初め、武蔵野市辺りは将軍の御鷹場や幕府の萱刈場で庶民は住めなかった。やはり明暦の大火(1657)の後に武蔵野の開墾が急速に進んだ-。寛文年間辺りから、吉祥寺村、西窪村、関前村、境村が開墾された。西窪村は寛文2年(1662)に開村している。移転前は港区虎ノ門辺りの愛宕山の西側の土地であった。西窪の移転は明暦の大火ではなく慶安3年(1650)の火事によるで、吉祥寺よりも少し早い。

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門前には2基の大きな庚申塔が祀られている。左の笠付角柱型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は元文3年(1738)とあるが月の部分が読めない。「奉供養庚申待・・・二世安楽也」とあるが一部摩滅している。右の舟型光背型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、宝永7年(1710)霜月(11月)の造立。「奉寄進庚申供養為二世安楽」「武刕多摩郡西窪新田村」の文字が刻まれている。最初に移転してきた世代の孫あたりが造立したものだろう。

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少し後ろの方に回り込むと、高さ2mを越える角柱型の馬頭観世音塔がある。台石正面には「願主 井口八良兵衛 岡田吾良吉」の銘がある。右側面に造立年があり、文政13年(1830)10月と記されている。江戸時代末期には五日市街道を行き交う牛馬が多くいたのだろう。

場所  武蔵野市緑町1丁目6-7  map

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