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2024年4月30日 (火)

立野の庚申堂(西東京市保谷町)

古い人間なのか未だに西東京市という名前に違和感を覚える。田無市と保谷市の方がしっくりくる。西武柳沢駅の北東に西武柳沢駅東という五差路の交差点があり、その一角に庚申堂が立つ。南北に延びるのは伏見稲荷通りで江戸時代からの古道、東西に交差するのは富士街道あるいは大山道と呼ばれた古道で、ここは江戸時代からの辻である。

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右にあるのが笠付角柱型の庚申塔。笠は一部欠損している。基壇の石は別ものらしい。宝永6年(1709)7月の造立年があり、「奉造立庚申供養二世安楽所」「武州新倉郡上保谷村」と刻まれている。願主名には日留間姓、名護姓、北島姓がみられ、南の島からの移住者かと思ったが、恐らくそうではないだろう。

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左の櫛型角柱型の石塔は大乗妙典供養塔である。造立年は享保5年(1720)10月で、「奉納大乗妙典六十六部日本廻国所」とあり、脇に「武刕新庫(倉)郡上保谷村」の文字がある。「天下泰平国土安全」は大乗妙典供養塔には高い確率で記載される文字。保谷市の資料を見ると、昔は屋根だけの覆屋だったようだ。堂内には寄付者名の書かれた板があり三面に及ぶ。

場所  西東京市保谷町3丁目8-10  map

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2024年4月28日 (日)

自然石文字庚申塔(西東京市柳沢)

青梅街道の東伏見交差点は五差路である。東西南北の幹線道路以外に北西に向かう道路があり、東伏見稲荷神社の脇を北上する。もともとはこの道が保谷の南北を繋ぐ道で、トンネルで抜ける都道はごく最近の道路である。

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覆屋は道路から奥まっており注意しないと見逃してしまう。手前に踏み石が置かれ、覆屋の向こう側は駐車場である。庚申塔は自然石で上部に向かって細くなっている。基壇はしっかりした角石で出来ているが、基壇に文字は見えない。

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正面中央に大きく「庚申塔」と書かれている。その下には「頓覚清心信士」とあるので、珍しい墓石を兼ねた庚申塔だろうか。施主は金子▢五郎とあるが、この辺りの名家である金子家のご先祖様であろう。造立年は嘉永6年(1853)12月と書かれている。江戸時代はこの辺りで庚申信仰が盛んであったらしい。

場所  西東京市柳沢1丁目5-4   map

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2024年4月26日 (金)

東伏見の夜泣き地蔵(西東京市東伏見)

青梅街道と都道が交差する東伏見稲荷神社の南にある東伏見交差点から、10mばかり北へ進むと通りの東側に堂宇がある。石神井川を渡る少し手前である。

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中を覗いてみると、丸彫の地蔵菩薩像が3体祀られている。文字を探してみたが見当たらない。伝承によると江戸時代末期の文久年間(1861~1864)のものらしい。ここのかつての地名は上保谷村坂下である。

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真ん中の地蔵が一番大きく、左の地蔵が一番小さい。青梅街道拡幅以前は中央の分離帯あたりにあったという。三体とも頭部を欠損していたが、現在地に移した時に頭を再建した。由来の分からない地蔵ではあるが、何故か「夜泣き地蔵」と呼ばれている。

場所  西東京市東伏見6丁目10-10  map

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2024年4月24日 (水)

関前橋の庚申塔(武蔵野市八幡町)

武蔵野市西部の南北を走る伏見通り。東伏見稲荷神社に由来する通り名だが、西武新宿線と東伏見公園をアンダーパスで抜けるようにトンネルが掘られ、渋滞が少なくなった。伏見通りと青梅街道の東伏見交差点から400mほど南に、伏見通りが千川上水を渡る関前橋がある。この南西角にやや広い庚申堂の敷地がある。

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庚申堂の左脇に由来碑が立っている。この由来碑は春風亭柳昇(春風亭昇太の師匠)が建てたものでここは柳昇の秋本家の土地であったらしい。春風亭柳昇の五代前の建てた秋本家個人のものだったが、疫病が流行し人々が庚申様にお祈りをするようになって信仰を得た。元の場所は現在地とは違っていたが、中島飛行機の工場を建てるにあたり、昭和13年頃こちらに移設されたという。

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堂宇の左にある由来碑のさらに左側に真新しい背丈ほどもある角柱があるが、これは新しい庚申塔で、正面には「庚申塔者為所願成就祈願也」とあり、「施主庚申講中」と書かれている。造立年は昭和61年(1986)1月、柳昇の建てた庚申碑が昭和57年だからそれよりも後である。一方堂宇内にはシンプルな角柱型の庚申塔が祀られている。こちらは文化10年(1813)11月の造立で、「願主 紋左ヱ門」とあるのが、春風亭柳昇の6代前のご先祖である。

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堂宇の右手には2基の石仏がある。どちらも馬頭観音で、左は「〇保〇年〇卯」の字がかろうじて読めるので、天保2年(1831)だろうか。側面に「施主秋本〇〇」の文字がある。右の馬頭観音は紀年等はほとんど読めないが、側面の願主名に「秋本〇〇」「西林〇〇」の銘が見える。これらも秋本家に関係するものなのだろう。

場所  武蔵野市八幡町4丁目14-2  map

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2024年4月22日 (月)

大日如来墓石(西東京市東伏見)

多摩地区を西に延びる青梅街道が、西東京市に入ると東伏見という町名になる。興味深いのは西東京市に入ると「東伏見坂上」という名前の交差点があること。さてはここから西に下って東伏見稲荷の先の石神井川上流の青梅街道橋までを東伏見坂と呼ぶのかという考えが浮かんだ。しかし調べてみても命名された坂道としてはない。ただ坂上と橋との標高差は9mほどあるので、物理的な坂ではある。堂宇の辺りの古い地名は上保谷村下野谷である。

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この東伏見坂上に大きなケヤキの木と共に堂宇がある。ジープのディーラーの隣りである。堂宇の前には複数の燈籠もあり、格子の間から中を覗いてみる。堂内には笠付角柱型の石仏があった。天保3年(1832)11月造立の大日如来像である。資料によると、願主は保谷以左、施主は保谷源蔵で、角柱上部に大日如来が陽刻され、その下に男性女性各一人の戒名と文政9年(1826)11月の没年月があるようだ。

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おそらくは夫婦であろう。施主は保谷家の子孫。元は青梅街道に面して雨露にさらされていたが、当主保谷源蔵氏の祖父源五郎が小祠を建てたという。保谷家は元々練馬の三宝寺の檀家で、大日如来を本尊としてきたらしい。この石仏が、後年保谷市内や練馬の大泉あたりまでの信者がついて参詣されていたという。

場所  西東京市東伏見3丁目8-16  map

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2024年4月20日 (土)

更新橋の庚申塔(武蔵野市緑町)

千川上水は元禄9年(1696)に水戸藩小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草浅草寺への給水を目的に玉川上水から分水された用水路で、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などの町にも給水された。宝永4年(1707)になると流域の練馬周辺の村々からの利水の嘆願が起こり、村々へも農業用水として利用されるようになった。

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千川上水に架かる更新橋のたもとに堂宇がある。本来千川上水の流れは練馬区関町南に属するはずだが、この堂宇の管轄はなぜか武蔵野市緑町となっている。史料についても、練馬区の資料にはここの庚申塔は取り上げられていない。また庚申堂ならば庚申橋となるところが、なぜ「更新橋」なのかも疑問がある。謎の多い場所である。ただ明治大正期の地図を見てみると、町村境界が用水の北側にある時代もある。

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堂宇は施錠されていて、格子の隙間から庚申塔を拝む。堂内には3基の庚申塔があった。中央にある大きな駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄らしい。前掛けで見えない。造立年は安永4年(1775)11月で、「武刕多摩郡」の銘の他、「右 府中道」「左 深大寺道」とあり道標も兼ねていたようだ。

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左脇にある舟型光背型の石仏も庚申塔らしく青面金剛の顔が見える。その下は確認できない。時代的には少し新しいもののような感じがある。

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右側には小さな水鉢と、その後ろに角柱型の庚申塔がある。小さいものである。これも青面金剛像は見てとれるが、胴から下がどうなっているのかは分からない。一番大きな庚申塔については、堂宇の前に在る説明板には、「もとは三郡橋(今は無い)の傍らにあった」とあり、「正面には天下泰平の文字があり、側面には西窪村の下田伊右衛門他の銘、正面下部には吉祥寺村片居木清▢他の銘があり、この庚申塔は西窪村と吉祥寺村の共作である」と記されている。

場所  武蔵野市緑町3丁目2番地先  map

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2024年4月18日 (木)

長久寺の石仏(三鷹市大沢)

三鷹市大沢にある長久寺は真言宗の寺院で、慶長3年(1598)の開山。幼稚園を併設している。東八道路と天文台通りの交差する天文台北交差点から少しだけ南に下ったところにある。

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広い境内は平日は幼稚園児の遊び場にもなるのだろうか。その境内をまっすぐに進み本堂を拝んだ後、すぐ左手にある石仏群を拝観する。

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右から、六角幢の六地蔵塔、丸彫の地蔵菩薩が2基、笠付角柱の庚申塔と小さな庚申塔、説明板の左には鷹場標石が並ぶ。右端の地蔵六面幢は明治25年(1892)11月の造立。大小の丸彫の地蔵菩薩像は紀年が確認できない。

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隣りの笠付角柱型の庚申塔は大きいもので、造立年は元文4年(1739)11月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。「奉守護(講)庚申供養」の文字が見られる。すぐ左脇の角柱型の小さな庚申塔は、明和7年(1770)10月の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、「導師長久寺現住賢泰」「大澤村講中」の文字がある。元は国立天文台の構内にあったものらしい。左の板碑型の石仏は不詳。

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脇には何の変哲もない石柱があるが、これは三鷹市の指定史跡となっている鷹場の標柱で、「従是東西北尾張どの鷹場」と書かれている。鷹狩りは日本では古くから行われており、江戸時代になって三鷹周辺は徳川家の鷹場として守られてきた。牟礼野(井の頭公園周辺)や大沢の辺りがその地域で、この標柱は将軍家の鷹場と御三家尾張藩の鷹場の境にあった標柱。元の位置は不明らしい。

場所  三鷹市大沢2丁目2-16  map

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2024年4月16日 (火)

山野庚申塚(調布市深大寺北町)

調布市の北の端にある地域の古い地名が山野である。2分も歩けば三鷹市野崎に入る。少し西にある国立天文台の東側を走る天文台通りは昔は野川の支流が流れ下る谷筋でワサビを栽培していた。当時の南北の道は、野崎八幡に向かうかつての深大寺道(現在の武蔵境通り)と、山野地区の真ん中を通る道筋で古くからの鎌倉街道と呼ばれる道。後者の道筋近くにあるのが山野庚申塚である。

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上の写真の左の道は南にある宿神明社から北進する道で、庚申塚の先で主要村道に合流していたが、実は庚申塚前の道が鎌倉街道のようである。武蔵野の道は今でも古道が残っていて、微妙な曲がりがあるので面白い。

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公園のようだが何の施設もない三角空き地の北寄りに覆屋があり、大きな庚申塔が祀られている。江戸時代中期のもので、徳川吉宗が新田開発を奨励して開墾されたひとつがこの地域である。昔はもっとたくさんの高い樹木があったが今は灌木が多い。

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左の駒型庚申塔は享保6年(1721)7月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。「奉建立庚申供養塔」「神代村講中七人」の銘がある。中央も駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が描かれており、正徳5年(1715)11月の造立。「野崎村、深大寺村山野、深大寺宿」の地名が読める。右の少し尖った駒型庚申塔は享保4年(1719)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「奉供養庚申」「深大寺村庚申講中 同行拾五人」とある。

場所  調布市深大寺北町6丁目8-19  map

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2024年4月14日 (日)

武蔵境通りの聖観音(調布市深大寺北町)

調布と三鷹を結ぶ都道武蔵境通りは野川の御塔坂橋から南方向も北方向も緩やかな上り坂。川を渡る地点が一番低いのは当然だが、野川から北方向の坂が「御塔坂」である。ところがなぜか南の坂の上にある交差点が「御塔坂」となっていていささか紛らわしい。さて、北に向かい御塔坂を上ると、御塔坂は通称小坂という坂になり、やがて平坦な武蔵野台地上の道になる。

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紛らわしい御塔坂交差点は中央自動車道をくぐる辺りにあるが、1.4㎞ほどの畑と駐車場に面した広い武蔵境通りの西側の歩道脇に覆屋がある。質素な小屋の中には笠付角柱型の石仏が祀られている。この石仏は聖観音菩薩のようであるが、石塔に刻まれた年号が万治3年(1660)3月と極めて古いものである。

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近くにあったバス停は「深大寺北町」となっていたが、次のバス停は「山野」と古い地名になっている。バス停名は土地の歴史を残すことが多い。この石仏は畑の地主の加藤家の先祖が江戸時代初期に建てたもので、墓石ではあるが貴重なもの。昭和前期までは浅間神社の観音とともに毎年8月の縁日の主尊であったという。

場所  調布市深大寺北町7丁目27-7  map

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2024年4月12日 (金)

浅間神社の石仏(調布市深大寺北町)

調布市にある神代植物公園の少し北、拡幅されてきれいな幹線道路になった武蔵境通り(都道12号線)に面して建つ深大寺富士嶽浅間神社は神社としては珍しく新しいもの。創建は明治14年(1881)で、江戸時代後期から盛んになった富士講が主体となったもの。

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比較的さっぱりとした境内なのは新しさゆえなのだろう。鳥居はなく、入口の左右に自然石の石塔があり「富士嶽浅間神社」とあるが、その石塔には明治17年(1884)12月の紀年が入っている。この新しい神社の境内に創建以前の石仏があった。

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比較的珍しい笠付角柱型の聖観音像である。造立年は安永2年(1773)10月で、「武州多摩郡深大寺村山野」の銘がある。基壇には願主や施主の名前と、「講中拾四人 名主 浅田平蔵」の文字があった。以前は道路の西側(向かい側)にあったものを浅間神社に移したらしい。

場所  調布市深大寺北町1丁目38-3  map

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2024年4月10日 (水)

辻の庚申塔(調布市深大寺北町)

諏訪神社から南西に続く道は古くからの村道。諏訪神社は野ヶ谷という谷地の右岸に立つ神社で、現在もこの辺りは少し標高が低い。かつてはこの谷地全体に田んぼが広がり、諏訪神社より高い所には桑畑が広がる農村地帯であった。その南西への村道がもう一つの北西から南東への村道と交差する場所に庚申塔が立っている。

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この辻は確かに視界が悪く出合頭の事故も多そうな場所で、その為か交通安全ののぼりが立っている。祀られている庚申塔は駒型で、寛延元年(1748)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。尊像右には「庚申供養塔」、左には造立年があり、下部には「深大寺村講中 三十人建之」の文字がある。

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昔は野ヶ谷の十字路で通行人の目印になっており、昭和前期には覆屋があり馬頭観音もあったという。裏の地主の渡辺家が守り続けているらしい。それが300年近く経っても良い保存状態である理由なのだろう。後ろにある小さな地蔵菩薩坐像は昭和16年(1941)5月の建之。他には特に刻まれていない。

場所  調布市深大寺北町4丁目1-1  map

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2024年4月 8日 (月)

諏訪神社の庚申塔群(調布市深大寺東町)

調布市の北の端、東八道路沿いにあるJAXAの脇の道を南へ下ると500mほどでこじんまりとした諏訪神社がある。諏訪神社の創建年代は不詳ながら、深大寺村の野ヶ谷にあり多聞院が別当寺を務めていた神社。

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本殿手前にある手水鉢は文政2年(1819)9月の建之年が刻まれている。手前の石鳥井の先には二つ木製の鳥居があり、その奥に本殿がある。石鳥居と次の鳥居の間に5基の庚申塔が祀られている。

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入口側から、まずは左側の駒型の庚申塔。造立年は元禄8年(1695)2月とあり、日月、青面金剛翁、邪鬼、三猿の図柄で、その下に願主名が刻まれている。右隣りは同じく駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。こちらは享保10年(1725)11月の造立。下部には「武刕多摩郡野谷村 同行18人」と書かれ、上部には「奉供養庚申像為二世安楽」の文字がある。左隅に鶏が居るが、右隅の鶏は補修で消されてしまっている。

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3基目の庚申塔は残念ながら上部が完全に欠損している。おそらくは駒型の庚申塔だったのだろう。青面金剛像の胸から下、その下に三猿が見える。その右には「庚申供養二世安楽為菩提」の文字、左側の文字はほとんど読めないが、左側に造立年があったようだ。右の舟型光背型で下部に三猿を描いた庚申塔は主尊が阿弥陀如来。造立年は延宝4年(1676)10月と極めて古いもの。

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一番奥にあったのはこの諏訪神社の古い庚申塔群の中でも最も古いもので、寛文6年(1666)霜月の造立である。主尊は地蔵菩薩像で下部に三猿が描かれている。もうほとんど読めないが資料によると「奉造立庚申」「願主 念仏女人 同行十人」とあるらしい。

場所  調布市深大寺東町8丁目1-3  map

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2024年4月 6日 (土)

GS脇の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹市役所前交差点の北西角にあるエネオスのガスステーション、都道121号線と都道110号線が交差する。東西に走る都道110号線はかつての人見街道である。辺りは100年前には人見街道沿いに桑畑が広がっていた地域で、南通と呼ばれた地域の東の端にあたる。

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このガソリンスタンドの南西角に石仏が祀られている。近代的なものと古いもののコンビネーションがいささか違和感を感じさせるが、守られている感じがあってよいと思う。右の小さな石仏は頭部が欠損した地蔵菩薩坐像である。何も文字がないのでいわれは分からず。

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左の庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。右面には元文2年(1737)10月の造立年、左面には「講中拾二人」のもじが刻まれている。

場所  三鷹市上連雀8丁目4-5  map

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2024年4月 4日 (木)

玉川上水脇の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹駅北口ロータリーから西に延びる玉川上水沿いの桜通りが都道121号線と交差する欅橋の交差点の南西角に立派な堂宇がある。玉川上水に架かる欅橋は現在も交差点脇にモニュメントとしての橋の欄干がある。この辺りは昔は堀合(ほりあわい)と呼ばれた土地。

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面白い堂宇で、北向に半分が開口しこちらには庚申塔がある。東向きに開口している都道側には出羽三山供養塔がある。東側にまわり出羽三山供養塔を見てみると、シンプルな角柱型の石塔で、「奉納 月山 湯殿山 羽黒山観世音 西国四国秩父坂東」とあり、「清明和順 當村行者伊助」の銘。造立年は嘉永4年(1851)3月である。基壇には「武蔵国 多摩郡 蓮雀村」とある。

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この石塔は小林家の先祖である伊助という行者がおり、出羽三山、坂東、秩父、西国、四国を廻った。出羽では狼に襲われ、松の木の登って唱を唱えて助かったので、帰って来てから欅橋の脇に観音の石碑を建立したという風に伝えられている。江戸時代にはまだ日本にはそこそこの数のオオカミが居たということであろう。

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北側正面に回ると立派な笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保14年(1729)7月。「奉納庚申供養」の文字と紀年がある。側面には「武列多摩郡上蓮雀村」の銘と、多数の願主名が刻まれている。

場所  三鷹市上連雀1丁目2-1  map

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2024年4月 2日 (火)

泉龍寺の石仏(狛江市元和泉)

小田急線狛江駅北口の駅前に在る泉龍寺は、奈良東大寺の別当良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れたのが始まりで、天暦3年(949)には天台宗の寺院となったとされる。中世の戦乱で荒廃したが、安土桃山時代末期の天正18年(1590)に曹洞宗の寺院として再建した。本堂は宝永3年(1706)築、鐘楼門は天保15年(1844)築と貴重な建築である。

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境内の空間は駅前とは思えないほど静寂で、山奥の寺院のような雰囲気がある。山門をくぐると正面に鐘楼門、その先に本堂がある。本堂までの参道の左右に多数の石仏が祀られている。

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本堂に向かって最初に右側にあるのが笠付角柱型の廻国供養塔である。なかなか大きいもので1.5mほどの高さがある。正面には「有縁無縁三界万霊等」とあり、右面は「奉納大乗妙典六拾六部所願成就為師之」、裏には「武州多麻郡泉村拾人・・・」とあり、造立年は宝永4年(1707)10月とある。

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その先にあるのは六地蔵と主尊。主尊は台石と合致しているのかは不明だが、台石には「奉納六十六部供養」「願主 泉村 石井佐平次敬白」と書かれ、造立年は元文2年(1737)11月。六地蔵は宝暦6年(1756)11月の造立で、右から畜生道、餓鬼道、地獄道、修羅道、人道、天道と並んでいる。

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参道の反対側にはさらに多くの石仏が並んでおり、手前から四番目が駒型の庚申塔。造立年は貞享3年(1686)10月と古いもので、主尊がまだ青面金剛になりきっていない時代であったためか、上部に日月があり烏帽子着衣の合掌一猿像が主尊である。「武州多麻郡泉村 同行廿人」と刻まれている。右の舟型の地蔵菩薩は上部が欠損、造立年は元禄元年(1688)10月とこれも古い。「奉造立這箇尊像念仏講供養」の文字がある。

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その先にある丸彫の地蔵菩薩像は享保19年(1734)10月の紀年がある。「念仏供養」「講中男女42人」「武列多麻郡泉村 願主谷田部某」の銘がある。右の角柱型の石塔は寛政4年(1792)3月の読誦塔。正面には「奉読誦普門品供養塔」と書かれている。左側に「武州多麻郡和泉村 本願主 荒井新右衛門」の銘がある。江戸時代は「多摩郡」を「多麻郡」と書いたものが狛江には多い。

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その隣にある櫛型角柱型の石塔は主尊が欠損しているが聖観音と思われる。側面には願主名が刻まれている。右の丸彫の地蔵菩薩像は背中に寛文7年(1667)正月という紀年が刻まれており、泉龍寺の石仏でも最も古いもののひとつ。背中に「為宝珠院殿梅林貞香大姉増長仏是也」と書かれている。

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本堂の左手、墓所の手前にあったのが地蔵菩薩坐像。正面には「有縁無縁三界万霊塔」とある。造立年は文化11年(1814)8月。施主については泉龍寺の僧侶のようである。

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最後は比較的新しいものだが、東京都内にも10基あるかどうかという草木供養塔。最近植木組合などによって徐々に増えてきたが、これは昭和61年(1986)4月に狛江造園組合によって建てられたものである。資料によるとまだまだ墓所にも古い石仏が沢山あるようだが、さすがに墓所は今回は遠慮させていただいた。

場所  狛江市元和泉1丁目6-1  map

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