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2024年5月30日 (木)

円照寺の石仏(稲城市大丸)

稲城市大丸にある円照寺は臨済宗の寺院。創建年代は不詳だが、天正15年(1587)に中興したという記録がある。円照寺境内の本堂前の池は昔は湧水によって水が満ちていたというが今は水は出ていない。稲城市の公式チャンネルでこの円照寺にまつわる「舌を抜かれたお獅子」という言い伝えがあってYouTubeになっている(5分余りです)。

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日本の昔話はいささかシュールだったり残酷だったりする。盗みはいけないという戒めも含んでいるのだろう。円照寺は丘陵の迫る傾斜地が境内で、本堂は安永8年(1779)の改修らしい。寺の入口には2基の石仏が祀られている。ひとつは二十三夜塔、もう一つは庚申塔である。

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右は自然石の二十三夜塔。前面に「廿三夜塔」とあり、基壇に當村講中とある。脇に安政4年(1857)12月の造立年と「現月隣炷薫拝書」の文字。左は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれ、青面金剛はショケラを持っている。側面には享保8年(1723)3月の造立年と、「奉建立庚申供養為二世安楽」の文字。反対側には「円照寺現住泰然座主」「武刕多摩郡大丸村」の銘が刻まれている。

場所  稲城市大丸851  map

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2024年5月28日 (火)

帝釈天王庚申塔(稲城市大丸)

JR南武線南多摩駅の近く、自動車用品店の駐車場にポツンと立っている石塔がある。医王寺の石仏で前述したが、南多摩駅にはかつて大きな露頭があり、また駅寄りも多摩川側のエリアは「砂場」という地名。法面が養生されたこの露頭は稲城砂層という地層で昭和40年代から継続して採掘が行われてきた痕跡である。

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露頭とは反対の東側の道路脇に立つ石塔には「帝釈天王擁護庚申塔」と書かれている。裏面を見ると昭和27年(1952)8月の造立とあり、吉野伊太郎建之と刻まれている。前の道路は実は古い道で、是政の渡しに向かう道。昔は南多摩駅付近が川岸のこともあった。

場所  稲城市大丸942  map

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2024年5月26日 (日)

医王寺の石仏(稲城市大丸)

稲城市大丸(おおまる)にある医王寺の後ろにはJR南武線から望める広大な露頭があったのだが、近年法面工事が行われ地層が見えなくなってしまい残念に思う。とはいえ災害対策としては必要な工事なので致し方ない。ちなみに南多摩駅というのは新しい駅名で、昔は大丸駅という駅名であった。地形図を見ると、この大露頭が出来たのは戦後まもなくの頃らしく、おそらくは土砂を採ったのだろう。

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医王寺は道路面よりも数m高い。蓮光寺を経て関戸に至る道は昔からある峠越えの道なので、道路拡幅時に高低差が出来たのだろう。また昔の地図では医王寺は新大丸交差点の辺りにあったようだから、少し移動したのだろうか。この医王寺は一向宗(浄土真宗)であった寺院を元文2年(1737)に天台宗に改宗して開山した寺院で、一向宗時代の創建年は不詳。

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本堂向かって右手の墓所入口に新しい六地蔵があり、その脇に古い丸彫の地蔵座像が並んでいる。左の大きな方の地蔵の台石正面には「賢者全栄塔」とある。造立年は文政5年(1822)。右の地蔵は稚児を抱いている。こちらは嘉永3年(1850)9月の造立である。

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地蔵の後ろには笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は正徳6年(1716)2月と刻まれている。正面には「奉納庚申供養二世祈所」と書かれ、側面には「武列多摩郡大丸村」の銘がある。

場所  稲城市大丸1417  map

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2024年5月24日 (金)

大山福地地蔵尊(板橋区大山町)

板橋区大山町の商店街ハッピーロード大山は昔ながらの商店街だが、最近は周辺にマンションも増えて風景が変わってきた。東武東上線大山駅からハッピーロードを西に進むとアーケードが切れたところで川越街道に出る。

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アーケードの終わりの交差点が大山西町交差点だが、そこを北に向かうとすぐに綺麗な玉垣が現れて、大山福地地蔵尊がある。手前に丸彫の新しい地蔵尊があるが、そちらは「お身洗い地蔵尊」というらしい。近年のものである。奥の頑丈な堂宇に祀られているのが大山福地地蔵尊。現在の者は昭和26年(1951)に再建されたものである。

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文化文政の頃というから1800年代の初め頃、この辺りが山中村と言われていた時分に、お福と呼ぶ女行者がこの地に棲み付き、多くの庶民の難病や苦業を救った。お福の死後も周辺の人々が慕って、地蔵尊を築いたのが先代の大山福地地蔵尊である。かつては参詣者が絶えなかったと言われる。

場所  板橋区大山町54  map

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2024年5月22日 (水)

仲町の庚申塔(板橋区仲町)

川越街道から北上する古道鎌倉街道の途中に大きなサミットというスーパーマーケットがある。その南角の向かいに小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。仲町というのは最近の地名で、ここは山中村と上板橋宿の境あたりになるだろう。

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堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されえ、主尊の左手にはショケラが下がっている。右側面には「奉造立庚申供養塔敬紀」の文字、左には造立年があり、宝暦6年(1756)2月とある。下部には願主名があるようだが、確認はできなかった。資料によると、小宮姓、山本姓、高橋姓が多いようだ。

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江戸時代以前もここから100mほど南に川越街道が通っており、そこから少し下った位置になる。おそらく別述の轡神社の道標ももともとはこの辺りにあったのではないかと推測する。

場所  板橋区仲町21  map

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2024年5月20日 (月)

轡神社の石仏(板橋区仲町)

板橋区仲町の西側を南北に走る古い道はかつての鎌倉街道と言われている。石仏の多い専称院から南下すると200mほどで小さな神社がある。名前を轡(くつわ)神社という。創建年代は不詳だが、徳川家康の乗馬の轡(くつわ)を祀ったとも、馬蹄を祀ったとも言われる神社。昔は轡権現社と呼ばれていたらしい。

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この神社は百日咳に霊験あらたかな神社として知られ、参拝者も多かったという。神社の境内の南角には明治4年(1871)10月建立の角柱型の道標があり、「是より二丁 轡神社道」とあるので、これは二丁(218.8m)という距離から川越街道の辺りにあったものだろう。

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もう一つの石塔は櫛型角柱型の巡拝塔である。「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」とあり、造立年は寛政2年(1790)3月。「轡大権現社建立 初戸谷村 山中村 下板橋宿」の銘がある。江戸時代は川越街道からこの旧鎌倉街道に入って轡神社にお参りする人も多かったのだろう。

場所  板橋区仲町46  map

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2024年5月18日 (土)

金子家の馬頭観音(板橋区仲町)

板橋区仲町は東武東上線大山駅と中板橋駅の間にある地域。明治時代の地図を見ていると、仲町を第1コーナーと第2コーナーに見立てたような競馬場が描かれている。実は明治41年(1908)に開場した板橋競馬場で、一周1マイルの距離があった。しかし2年後には廃止となり、目黒競馬場に統合された。

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現在の仲町あたりはかつては山中という字名であった。さらに江戸時代に遡ると、豊嶋郡下板橋宿山中村という村名になる。現在の豊島病院通り沿いには複数の路傍の石仏がある。その中でも一番山中の集落に近いのがこの金子家の馬頭観音である。競馬場と何らかの関係があったのかは分からない。

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頂部が欠損しているが舟型だろうか。三面六臂の馬頭観音が描かれているが、摩滅が酷く文字はまったく読めない。堂宇のお宅は金子家。今も綿々と馬頭観音を守っておられるようだ。

場所  板橋区仲町32  map

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2024年5月16日 (木)

延命子育地蔵尊(板橋区中板橋)

東武東上線中板橋駅のホームから北側に見える寺院が曹洞宗の福泉寺。埼玉県の坂戸に創建したのは寛保年間(1741~1744)で、昭和17年(1942)に中板橋に移転した。福泉寺が移転してくる前、この場所には石神井川の水を利用した「遊泉園」というプールがあったらしい。当時の地図を見ると東上線の北側におむすび型のプールがあったようだ。

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その遊泉園プールがあったので、現在の中板橋駅の場所には臨時停車駅が出来た。それが昭和8年に常設されて中板橋駅となったという近代史である。昭和17年に福泉寺と共に移転してきた、門前の延命子育地蔵尊は、一時中板橋の商店街に移設され、それをきっかけに縁日が始まったりして中板橋の発展と共に信仰を厚くしてきた。

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地蔵菩薩は丸彫の半跏像で、説明板には延享3年(1746)10月とあり、台石右側に刻まれている。造立年の脇には講中150人、当寺三世孤峯とも書かれている。正面には「万霊塔」、左面には「願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成仏」の文字がある。

場所  板橋区中板橋29

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2024年5月14日 (火)

武蔵野大学裏の馬頭観音(西東京市向台町)

深大寺街道を南下、ほうろく地蔵、背の高い馬頭観音を過ぎて、田無工業高校と武蔵野大学の境の辻に来ると、武蔵野大学側の角に一基の馬頭観音が立っている。角柱型の馬頭観音は中折れと欠損を補修してあり、文字が読めないところが多い。

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高さは1mほどだろうか。正面上部には馬頭観音の座像が陽刻されている。馬頭観音像の下には、「武列多摩郡田無村向台」「荒井安右衛門、松原三右衛門、講中三拾人」ときざまれている。向台はこの深大寺街道よりも西側、かつての田無市側の地名である。

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造立年は一部欠けているが干支から安永7年(1778)9月のようである。左面右面には道標が刻まれているが側面の傷みがひどいので解読が難しい。「西 府中道」「東 ?」「北 ?」「南 ?」というくらい読めない。

場所  西東京市向台町1丁目10  map

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2024年5月12日 (日)

馬頭観音文字塔(西東京市柳沢)

かつての田無市と保谷市の市境になっていた深大寺街道を青梅街道から五日市街道に向かって南下すると、二つの街道のほぼ真ん中あたりの辻に背の高い馬頭観世音塔がある。

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今はマンションの角の植木に覆いかぶさられるようになっていて目立たないが、この馬頭観音単独で立っていたらさぞかし目立つだろうと思われた。角柱型の馬頭観音の高さは180㎝もある。上部には梵字と「馬頭観世音」の文字があり、脇に天下泰平、風雨順時と刻まれている。

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造立年は文政元年(1818)10月で、「奉供養秩父西国坂東為二世安楽也」とあるので、馬頭観音と巡拝塔の合体か。「武州多摩郡上保谷村新田 願主平井嘉右衛門」の銘がある。下部には道標が兼ねられており、「右 深大寺道」「左 柳沢所沢道」と書かれている。

場所  西東京市柳沢4丁目1  map

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2024年5月10日 (金)

ほうろく地蔵尊(西東京市南町)

青梅街道から南下する深大寺街道は以前は田無市と保谷市の市境であった。深大寺街道の東が保谷市柳沢、西が田無市南町である。斜めに交差する文化通りは西武新宿線の都道ガードから分岐し、南東に延びるが、ほうろく地蔵尊の辻から先は柳沢団地通りと名前を変える。おそらく合併前の地名を引きずっているのだろう。

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植込みもある境内があって堂宇は古いもののしっかりしている。斜めに交差する文化通りは昔は札野道と呼ばれた村道で吉祥寺方面へ伸びていた。堂宇の中には小さな地蔵もあるが他は新しいもののよう。主役のほうろく地蔵は地蔵菩薩半跏像で立てた左足の膝が雨ざらしの時代があったのか凹んでいる。造立年は不詳だが、立派な頭光がある。

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この頭光がほうろく(焙烙)と呼ばれる小さな土製の鍋に似ていることからほうろく地蔵と呼ばれるらしい。文京区向丘の大円寺にもほうろく地蔵があった。由来の全く分からない地蔵だが、相当な年月を経ていることは見てとれる。

場所  西東京市南町1丁目9-9  map

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2024年5月 8日 (水)

上柳沢橋の庚申堂(西東京市柳沢)

石神井川の流程は小金井公園を源頭にし、田無~柳沢~東伏見~上石神井と東流、練馬区板橋区を流れ、王子駅で音無川を備えて間もなく隅田川へ注ぐ25㎞程。柳沢あたりはかなり上流になる。青梅街道の西武柳沢駅南の交差点下を石神井川は流れているが、その手前の小さな橋が上柳沢橋。この橋を渡って南下する保谷二小通りは実は古くからの道で深大寺街道と並走している。

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上柳沢橋の北側に少し大きめの堂宇が立っている。堂宇の扉は頑丈な錠前で閉ざされているが、格子の上部から中に祀られている庚申塔を拝むことができる。中にあるのぼりには「猿田彦大神宮」の文字がある。この庚申塔はもともと青梅街道に面した場所に立っていたが、道路拡幅の為昭和45年(1970)に現在地に移された。

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中には笠付角柱型の立派な庚申塔があるが、やむなく上部と下部を別々に撮影。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛の左手にはショケラが下がる。この近辺でのショケラは珍しい方である。尊像脇には「為奉造立庚申供養二世安楽也」とあり、造立年は宝永5年(1708)11月。願主名は細田姓、岩崎姓、下田姓、都筑姓が複数ある。

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堂宇後部の下の方に穴が開いており、そこから何やら石塔らしきものが見える。回り込んでみると駒型の庚申塔がその穴の前に立っていた。日月はなく、青面金剛のみ。ただしこの青面金剛もショケラを下げている。この庚申塔には「小傳」以外の文字がなく、造立年等も不明だが、旧保谷市の資料では最近の造立とされている。「小傳」の傳は現物は手偏、意味は堂内の庚申塔に対して小さい方というくらいの意か。ショケラ伝説は興味深く、小鬼説、女人説、人魚説など多彩である。

場所  西東京市柳沢2丁目19-15  map

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2024年5月 6日 (月)

柳沢庚申塔(西東京市田無町)

ちなみに西武柳沢駅を知る人はこの柳沢の読みが「やぎさわ」で西東京市の地名柳沢の読みも分るのだが、そうでないとなかなか「やぎさわ」とは読めない。もともと柳沢の東側には青梅街道の柳沢宿があり、多くの旅籠や店が並んでいた。前述の高野山道標の向かいに立つのが柳沢庚申塔という大きな石塔なのだが、この庚申塔は元々100mほど西にある青梅街道と所沢(秩父)街道の分岐点にあった田丸屋の前にあったもの。

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田丸屋があった場所には看板だらけのビルがあったがそれも取り壊され今は戸建の民家が立っている。大きな笠付角柱型の庚申塔は青梅街道の歩道に囲いに囲まれて立っていた。屋根はなく野ざらしである。この庚申塔は道標も兼ねており、交通の要衝であった場所からの移設だが、ここもまたかつての交通の要衝である。

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日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保8年(1723)10月。前面縁には「奉供養庚申待 武刕多摩郡田無村」の文字、側面には蓮葉が描かれ、「是より左リ あふめミち 為二世安楽也」とある。道路側には「是より右 はんのふ道」とあるので、青梅街道と秩父街道の分岐点を指していることは明らかである。

場所  西東京市田無町2丁目22-10  map

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2024年5月 4日 (土)

東高野山道標(西東京市田無町)

青梅街道が西武新宿線のガードをくぐった先で、富士街道(ふじ大山道)と出合う辻の保谷寄りに堂宇がある。堂宇の中には「弘法大師」と書かれた石柱が立っている。中折れしているが補修してある。

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この石塔は「東高野山道標」と呼ばれる。東高野山というのは関東地方で東の高野山と呼ばれて信仰の厚かった練馬区高野台にある長命寺のことである。青梅街道を来た人、富士街道を来た人が、東高野山長命寺に立寄るのは十分あった話だろう。

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石柱には文字があるがいささか読みづらい。造立年は嘉永7年(1854)8月で、左面に「東高野山道 是よ里廿四丁」とある。だいいしのもじは読めないが、資料に依ると「田無村、練馬江三里、府中江二里半、所澤江三里、青梅江七里」とあるようだ。田無市と保谷市が合併して西東京市になる以前はこの堂宇の少し東側に市境があった。

場所  西東京市田無町1丁目12-1  map

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2024年5月 2日 (木)

六角地蔵尊(西東京市保谷町)

西武柳沢駅の北側を東西に延びるかつての富士街道(ふじ大山道)が線路に最も近づいたところに堂宇がある。堂宇の後ろには西武新宿線の線路が通っている。この踏切の道は細道で車は通れない。しかしこの道はかつての深大寺道という古道で、榎ノ木通りという通り名があり、武蔵野大学前で複数の街道を束ねる。

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踏切手前の堂宇には背丈ほどもある六角地蔵幢が祀られている。それぞれの面に地蔵菩薩が陽刻された六角柱で、造立年は寛政7年(1795)9月とある。この辺りは今は西東京市保谷町だが、昭和の頃は保谷市本町、それ以前は上保谷村西浦という土地だった。かなり薄れているが、「武刕新座郡上保谷村」の銘と願主の野口家の名前がある。

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説明板があり、「つやという女性と、光山童子の菩提を供養する為に、野口助右衛門と秋本十右衛門が江戸市ヶ谷田町の石工角田屋に注文して建立。富士街道と深大寺道が交差するところに立ち、道標を兼ねており、毎月西浦地蔵講が供養している」と書かれている。西浦というのは昔のこの辺りの字(少し北の地域)。資料に依ると、「西ハ大山道、北ハ▢▢道、東ハねりま道、南ハ志んたい寺道」という文字があるようだ。

場所  西東京市保谷町4丁目7-21  map

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