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2024年6月29日 (土)

京王線ガード下の石仏(稲城市矢野口)

京王相模原線の京王よみうりランド駅の改札を出て、高架下を120mほど歩くと都道124号線よみうりランド通りに出る。北側は平坦だが南側はかなりの坂道になって山の中に入っていく。この山の上によみうりランドがある。よみうりランドに上って行く道はかつての大山道、大夫坂と呼ばれた坂がずっと続いている。

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よみうりランド通りの横断歩道の向こう側に堂宇が見える。西から本郷根方通りが繋がる角にある。2022年までは交差点の中央に向いて建っていたが、最近堂宇が建替えられ駅の方を向いている。堂宇の中には4基の石仏が祀られていた。

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向かって右端には角柱型の石塔。何の供養塔なのかは分からない。「諸・・当施主為二世安楽」の文字があり、造立年は延享元年(1744)8月。矢野口村の銘もある。続く丸彫の地蔵菩薩像の台石には「奉彫刻地蔵尊」の文字があり、享保年間のものらしい。念仏講中によるもの。

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左後ろにある角柱型の石仏は庚申塔。摩滅が相当に進んでいて文字はほとんど読めない為、造立年も不明である。日月、青面金剛像、三猿が彫り込まれているのは確認できる。

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左手前にあるのは上部が欠損した庚申塔。下部のみで、青面金剛像の裾と三猿が見てとれる。三猿の下には願主銘があり、右には「・之口村」の文字。おそらくは矢野口村を意味しているのだろう。

場所 稲城市矢野口2459 

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2024年6月27日 (木)

矢野口1241の庚申塔(稲城市矢野口)

調布市から多摩境に続く幅の広い都道19号線。矢野口で府中街道(川崎街道)と交差する矢野口交差点から260mほど南西の路地にある庚申社には立派な鳥居があり、路傍の石仏としては異例に広い境内を有している。

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小さな堂宇の後ろにはその何倍もの大きさの社務所らしき建物。おそらく祭礼の用具が納められているのだろう。それだけ地元では慕われてきた庚申様ということだろう。地元では猿田彦尊としてお祀りの対象になっているようだ。

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堂宇の中に祀られているのは笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は享保7年(1722)10月とあり、摩滅は著しいが「奉造立庚申供・・」の文字が見える。庚申堂の少し北側を流れる小さな水路は昔からの小川で、高度経済成長期以前は田んぼの広がる地域だった。

場所  稲城市矢野口1241

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2024年6月25日 (火)

矢野口下宿庚申堂(稲城市矢野口)

矢野口上宿の庚申塔のところで説明した鶴川街道(現車道)に面して庚申堂がある。コミュニティバスのバス停矢野口下宿にあるのが2棟の堂宇。

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江戸時代から明治にかけては下宿上宿と区別していたようだが、明治後期以降の地図では宿という集落としてまとまっている。この庚申堂の周辺が宿集落の中では最も民家が集まっていた地域であった。

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右の堂宇には駒型の庚申塔がある。新しいもので、日月、青面金剛像が陽刻され、基壇に三猿が見られる。造立年は大正6年(1917)5月建之とあり、「願主 原田新蔵」の銘がある。新しいと言っても100年は超えているのだが。

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左の堂宇には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は弘化2年(1845)4月建之とある。台石には「女念仏講中」の文字があるらしいが確認できず。手前にある三角石は炉台代わりかよくわからない。

場所  稲城市矢野口1199

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2024年6月23日 (日)

矢野口上宿の庚申塔(稲城市矢野口)

矢野口にある宿という字名には上宿と下宿が見られる。かつての街道筋は旧川崎街道があり、矢野口の渡しを越えてくるのが鶴川街道であった。鶴川街道は今も矢野口を横断しているが、今の車道は昭和に入ってから開通したもので、大正期までは曲がりくねって宿の集落を抜けていた。

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現在はどう見ても裏通りになっているが、実は大正時代まではこの庚申塔のある道が鶴川街道であった。横切る水路を光背にして小さな覆屋が建っている。手前には手水鉢があり昭和51年に原氏よりの寄贈とある。

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庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄である。造立年は享保6年(1721)2月と書かれている。尊像右には「奉供養庚申講 武州多摩郡谷野口村」とある。左右には蓮華が描かれており、下部には8人の願主名、賀山、原田姓が多い。

場所  稲城市矢野口958

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2024年6月21日 (金)

宿三谷の石仏群(稲城市矢野口)

JR南武線矢野口駅から線路沿いに矢野口南武線通りを西に進む。500m余りで旧川崎街道が線路高架下をくぐって矢野口南武線通りと絡み合う。この辺りを昔の字名では「宿(しゅく)」といい、小字を三谷と言ったらしく、今も宿三谷公会堂や宿三谷児童公園にその名が残っている。

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写真の通りは旧川崎街道。その路傍に真新しい堂宇と石仏がある。5年前にも訪問したことがあるが、その時は古い堂宇だった。(下の写真)

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堂宇内にあった説明には、今年令和6年(2024)1月に改築したらしく、「原田實、原田三郎、原田誠二」と原田家の方の名前があった。まだ木の匂いが残る真新しい堂宇である。

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川崎街道側にあるのは角柱型の馬頭観音。造立年は刻まれた命日から推定すると、嘉永5年(1852)、安政2年(1855)と嘉永7年(1854)があることから、おそらく安政2年(1855)だろう。道標を兼ねており、右面には「東 河崎道」、左面には「西 八王子道」とあり、「施主原田氏」の銘がある。

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堂宇内には駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、ショケラが陽刻されており、造立年は慶応2年(1866)2月、施主長坂武兵衛とあり、原田氏ではなかった。左面には「天下泰平 東 川崎 西 八王子道」右面には「村内安全 北 府中道」と刻まれ、道標も兼ねている。

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堂宇の奥には2基の馬頭観音があった。左は角柱型の馬頭観音で、大正4年(1915)4月の造立。側面には願主原田織江の銘がある。右の背の低い角柱は上部のみが残った馬頭観音で、文字は「馬」しか読めない。稲城市では馬頭観音は川崎市に近い側に多く、矢野口の渡しの近くの数が目立つ。

場所  稲城市矢野口898

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2024年6月19日 (水)

大聖院の石仏(目黒区下目黒)

山手通りと目黒通りの交差点大鳥神社に隣接する寺院が大聖院。天台宗の寺院で、創建は弘治3年(1557)らしい。隣接する大鳥神社は大同元年(806)の創建だから平安時代初期、それに対して大聖院は室町時代末期ということになる。大鳥神社は目黒村の鎮守で、その隣にあるのは何かの関係があるのだろうか。

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山門を入ると芸術的な像形の本堂がある。ちょっとモダンな感じの寺院である。山門を入って、右の宝塔と本堂の間にあるのがキリシタン燈籠である。昭和時代は「隠れキリシタン」と呼んでいたが、最近では「潜伏キリシタン」と呼ぶらしい。

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キリシタン燈籠は3基並んでいる。切支丹燈籠は別名織部式燈籠とも呼ばれるが、これは桃山時代の茶人古田織部が創案したことに由来するようだ。旧島原藩主の下屋敷が三田千代が崎にあり、屋敷内の小祠に祀られていた。後に大村邸となってもそのままだったが、大正15年(1926)に大聖院に移された。

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山門の左側にあったのがこの立派な「みかえりの阿弥陀道標」である。造立年は宝永3年(1706)で、かつて大聖院が大鳥神社の別当寺であった頃に「みかえりの阿弥陀」と呼ばれる本尊があったが戦災で焼失。この石仏は行人坂を下りて太鼓橋経由で山手通りに出た辻に建てられていたものらしい。正面には「目黒惣ちん守 大とり大明神 みかへりの阿弥陀仏」と書かれており、側面には「これよりみち一町」とある。反対の側面の文字は「南無阿弥陀仏」のようだ。

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その先には珍しい角柱型の石仏がある。宝永3年(1706)3月の造立で、正面には「奉納百観音」とあり、各面に観音菩薩が陽刻されている。百観音を配したこの石仏は巡礼供養塔で、西国秩父坂東の百か所参りのもの。「施主目黒村」とあり8人の願主名が刻まれている。

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墓所入口に気になる石仏を見つけた。上部が欠損しているようだが、見事な見ざる聞かざる言わざるの三猿が彫り込まれている。文字はどこにも見当たらないが、もしかしたら庚申塔かもしれない。

場所  目黒区下目黒3丁目1-3

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2024年6月17日 (月)

油面高地蔵(目黒区目黒)

目黒通りの油面(あぶらめん)交差点で知られる油面の地名は、この辺り一帯が菜種の栽培地で、生産された菜種油は芝増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。そのおかげで油の生産業種に対して免税が行われ、「油免」が「油面」に転じたらしい。また面という文字には村の意味もあるようで、油の取れる村の意も兼ねていたと言われる。

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油面交差点から西に進む道は油面地蔵通りという通り名だが、その由来がこの高地蔵である。現場には「油面子育地蔵尊」とあった。昔この地蔵菩薩は目黒通り(昔の二子道)近くの小高い角地にあった。目黒通りの拡幅に現在地に移転を余儀なくされたのだが、目黒通りにあった頃は基壇が長く2mほどの高さがあったので「高地蔵」と呼ばれた。

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堂宇の外にあるこの石柱が昔の基壇のようだ。正面には「南無阿弥陀仏」とあり下部に「祐天寺道」とある。左には「是より左 九ほんぶつ道」、右には「是より右 ゆうてんじ」とある。堂宇に入れるために、基壇であったこの石塔と、現在の基壇である「六十六部供養」と書かれた石塔を入れ替えたのだろうか。

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造立年については目黒区の資料によると、「・・丙戌五月・・」とあるので、宝永3年(1706)明和3年(1766)文政9年(1826)のどれかだろうとしている。ただ台石には享保18年(1733)7月の紀年があるらしい。この地蔵が目黒区に面して角に立っているとすると、道標の九品仏方面と祐天寺方面は合点する。

場所  目黒区目黒4丁目26-15

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2024年6月15日 (土)

栗山家馬頭観音(目黒区自由が丘)

目黒区自由が丘は昭和中期から近年に渡ってトレンドの舳先にあり続ける街と言えるだろう。昭和後期には松田聖子らのタレントを街で見かけることもあったり、シナボンという外食チェーンの2号線が吉祥寺に続いて開店したりしたが、どちらも2,3年で閉店した。自由が丘駅が開業したのは昭和の初め、当時は九品仏駅という駅名で、2年後に自由ヶ丘駅に改称した。

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そんなオシャレな街の一画にひっそりと守られている石仏もあり、最も駅に近いのが熊野神社の庚申塔。次がこの栗山家の馬頭観音である。自由が丘駅からは数百m離れている。この辺りは昔は谷畑と呼ばれた土地で、谷畑坂の坂名にも残っている。谷畑は少し小高い台地上で、現在駅がある辺りは大正期までは川の周りの田んぼエリアだった。

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駒形の馬頭観音は、大正11年(1922)8月の造立。栗山家はもとは衾村の名家で、江戸時代は代々「年寄」という名主や庄屋を補佐する村の重要な役職を務めた家であった。栗山家のかつての古民家は碑文谷のすずめのお宿緑地公園内に移築されている。

場所  目黒区自由が丘2丁目6-19  

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2024年6月13日 (木)

九品仏名号題目道標(目黒区自由が丘)

東急東横線自由が丘駅の北西700mの通り沿いに覆屋があり、立派な道標付の石仏が納まっている。光背の大きな邸宅の前庭に堂宇を建てて納められているようだ。南から上ってきた谷畑坂の坂上にあたる場所である。

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正面にまず見えるのは赤文字で「左 九品仏江」という文字だが脇の・・・は何を意味するのか不明。右側側面には「南無妙法蓮華経」と大きく書かれ、左側面には「南無阿弥陀仏」と同じような大きな文字で刻まれている。

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上部に乗っかっているのは地蔵半跏像だろうか。造立年がないかと後ろ面を見てみると、寛保4年(1744)12月と刻まれていた。この場所は九品仏浄真寺の700mほど北東にあたる。確かにこの道標を正面に見て左に進むと九品仏に至る。等々力と衾村を結ぶ目黒道(二子道)から浄心寺に向かう道の道標として建てられたものだろう。

場所  目黒区自由が丘3丁目1  

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2024年6月11日 (火)

東光寺の石仏(目黒区八雲)

目黒区八雲にある東光寺には隣の常円寺とペアの大銀杏がある。常円寺の銀杏は幹回り4m、樹高25mの雌株で、東光寺の銀杏は雌株である。東京には有名な銀杏の樹が多い。火事の街でもあった江戸で焼け残る強い銀杏に対する尊敬の念もあったのだろう。

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東光寺は貞治4年(1365)の創建で、世田谷城主吉良治家が早世した息子の供養に建てた寺院。当時は臨済宗だったが、江戸時代に入ってからは曹洞宗に変わった。目黒通りは現在の幹線道路だが、一本裏手の東光寺寄りの曲がった八雲通りがかつての鎌倉街道、江戸時代は目黒道と呼ばれた旧道で、八雲通りには常円寺と東光寺の入口がある。この辺りがかつての衾村の中心地であった場所で、二寺と八雲神社を中心に人々が住んでいた。

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東光寺門前には堂宇があり立派な丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。寺伝によると造立年は元禄15年(1702)9月と伝えられる。基壇の蓮には願主名が刻まれており、時代を経たなかなかの地蔵菩薩である。

場所  目黒区八雲1丁目9-11  map

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2024年6月 9日 (日)

常円寺の石仏(目黒区八雲)

目黒区八雲にある常円寺は日蓮宗の寺院。昔はこの辺りは衾(ふすま)村という地名。常円寺の東に走る柿の木坂通りは向かいの北野天神に因んで天神坂と呼ばれた。天神坂のページで常円寺の大銀杏のことを書いた。

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日蓮宗常円寺の創建は天正18年(1590)。前述の大銀杏は目黒区の保存樹木の第一号。日蓮宗の寺院には石仏は多くないのだが、ここには貴重な地蔵がある。境内の墓地入口に小堂があり、その中に2基の地蔵菩薩が祀られている。

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右の丸彫の地蔵座像は年不詳だが、おそらくは江戸時代中期のものだろう。左の顔だけの地蔵菩薩は、かつて広島市細工町の西蓮寺という寺院にあった子育地蔵で、昭和20年(1945)8月6日の広島市原爆投下で破壊されてしまったもの。爆心地から100mほどの場所だったらしい。その後縁があって目黒区の村山氏によって目黒区に移され、毎年8月6日には法要が行われる。

場所  目黒区八雲1丁目2-10  map

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2024年6月 7日 (金)

市役所通りの石仏群(稲城市東長沼)

JR南武線稲城長沼駅の東側を南北に通る市役所通りの北の端は川崎街道との辻。実は稲城市役所までは800m以上あり、市役所通りはここから市役所前まで続いている。昭和中期までは旧川崎街道が主要道で、この辻は街道筋の要衝であった。

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石仏群は現在は川崎街道ではなく市役所通りに面して並んでいる。一番右手前にある笠付の大きな石柱は、「石尊大権現・青沼大権現」と記されたもので、石尊大権現は大山信仰に基づく神仏習合の神、青沼大権現は水田に関わる神様らしい。造立年は寛政6年(1794)11月で「村中」の銘。右側には「秋葉山大権現」ともあり、これはやはり火事の神様だろう。さらに裏面には「小御岳大権現、榛名山大権現」とあり、この石塔はおそらくは燈籠だったと思う。

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もっとも大きな中央の櫛型角柱型の石橋供養塔だが、造立年は安永10年(1781)2月。「武州多摩郡小沢庄長沼村願主惣村」とある。文字を読んでみたが神仏習合でいろんな信仰が混じり合ったような偈文が書かれている。石橋供養塔の右側には庚申塔、左側には馬頭観音が並んでいる。

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左の馬頭観音は3基。左後ろの角柱型の馬頭観音は明治24年(1891)3月のもので、左面には願主篠𥔎孫右衛門の銘がある。中央手前の馬頭観音は文字がほとんど消えているが、側面に明治29年(1896)5月の造立年がある。右奥も馬頭観音と思われるが摩滅が進みすぎて詳細は不詳。

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石橋供養塔右手前にある2つの石仏はともに庚申塔である。左の小さい方は駒型の文字塔で、上部に日月があり、「奉造立庚申供(養)」の文字、その左右に享保5年(1720)10月の造立年と、「武刕多摩郡府中領・・」の文字がある。右の上部欠損した庚申塔はおそらくは舟型だったように見える。青面金剛像と三猿が確認でき、右に「庚申供養所」、左に元禄5年(1692)2月の造立年と、「武刕多摩郡長沼村」の銘が見られる。また「高雄山七里八丁」とあるのは高尾山か。反対側には「大山道」とある。

場所  稲城市東長沼590  map

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2024年6月 5日 (水)

上新田の庚申堂(稲城市大丸)

多摩川右岸の古道である旧川崎街道を川下方向に歩いていると、赤い堂宇の前に鳥居のある神社のような建物がある。頑丈な二重扉になっていて大きな閂(かんぬき)があり施錠されている。と思ったら閂を止めている南京錠は閉じていなかった。しかし開けるのは忍びないのでそのまま拝観した。

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鳥居は新しいものだが、鳥居の右後ろにある手水鉢は明治34年(1901)の紀年があった。赤い堂宇の前には大きな香炉台があり、その香炉台の正面には三猿が彫り込まれている。

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この香炉台は昭和9年(1934)のものらしい。三猿が陰刻風に彫られているのと上部の香炉台の直線基調がアンバランスで面白い。香炉台には稲城市東長沼の銘もあるようだ。

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格子の隙間から庚申塔を撮影しようとしても奥の格子が邪魔してうまく撮れなかったが、資料に依ると駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保11年(1726)で「奉供養庚申 大丸村」の銘があるようだ。

場所  稲城市大丸173  map

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2024年6月 3日 (月)

上新田の庚申塔(稲城市大丸)

幹線道路の川崎街道(県道9号線)と並走するのはJR南武線で、その南武線と絡み合うように多摩川の下流に向かって繋がっているのが昔からの川崎街道。府中街道とか八王子道の別名がある。この道すがらにはいくつもの石仏石塔がある。

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稲城長沼駅の北西の旧川崎街道の丁字路の駐車場脇に、極めて立派な土台の上に載った小さな駒型庚申塔がある。摩滅が甚だしくて文字は全く読めない。日月、青面金剛像、三猿の面影がわかる。造立年は当然分からない。ここから先、川崎方面に向かってはこの旧川崎街道沿いに数百メートルおきに石仏がある。

場所  稲城市大丸236  map

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2024年6月 1日 (土)

山崎通りの石仏(稲城市大丸)

円照寺前から山裾を南東に向かう道が山崎通り。古くから丘陵の裾に延びる道である。近年宅地開発が進み丘陵の上は向陽台という大きな街になっているが、1980年頃までは丸々山であった。低地の山崎地区から斜面を登って向陽台に向かう天神山通りと、山崎通りが交差するところに小さな墓所がある。

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以前はいささか鬱蒼とした雰囲気の崖に切り開かれた墓地だったが、最近とてもきれいに改修された。まるで新築民家のようなフェンスの裏側には小さな墓苑がある。階段を上ると左側にある御影石の堂宇に、地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。ここに地蔵と庚申塔が祀られた経緯が下部にあり、「道路拡大小路の為稲城市より償金を受取り善意と信仰により須恵ハツエ氏の協力を得てこの地に地蔵堂を再建し供用する(昭和40年5月)」とあるが、これは以前の木造の堂宇のことだろう。左端に「令和6年春彼岸改修」とあるのがこの御影石の堂宇にした時だと思われる。

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庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は元文5年(1740)3月、「奉建立庚申供養」の文字と「武刕多摩郡大丸村」の銘がある。庚申塔の下の基壇は実は右の丸彫地蔵菩薩の基壇であったもので、堂宇をこじんまりとしたのでこういう組み合わせになったようだ。その基壇には享保12年(1727)3月の造立年と文字が見える。「奉霊〇〇地蔵〇〇・・・念仏講中」とあり、ゼニゴケで読み取れない。資料に依ると「奉造立地蔵大菩薩二世安楽 武州多摩郡大丸村念佛講中」と書かれているようだ。

場所  稲城市大丸68  map

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