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2024年7月29日 (月)

旧渡船場道の馬頭観音(稲城市矢野口)

多摩川に39ヶ所もあった渡し船、そのうち常設の渡し場の一つが矢野口の渡しである。現代はダムがあって中下流域の川の水量は少ないが、昔は遥かに多かった。それで渡し船が必要になる。また作物を都心に届ける道のひとつとしてほとんど橋と同じ機能を有していた。

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現在の多摩川の右岸の土手から50mほどの丁字路にはなんと13基もの馬頭観音が祀られている。資料によるとこれ以外にもあったようだが現在は13基である。多摩川の西で生産した作物を都心へ運ぶのに牛馬が活躍した江戸時代中期から昭和初期にかけて、馬頭観音は沢山造られた。

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中心にある立派な馬頭観世音菩薩は三面六臂の見事な彫りで、稲城市では最古の馬頭観音菩薩である。造立年は文化13年(1816)3月で、「武州小沢郷谷野口邑(矢野口村)」の銘が記されている。台石には周辺の村々の名前があり、石工は内藤新宿追分の甚蔵。記された村名を上げると、長沼村、大丸村、百村、坂浜村、黒川村、小ノ路村、細山村、高石村、平生村、栗木村、金程村、万福寺村、古沢村、五力田村、片平村、上麻生村、下麻生村、上菅ヶ村、押立村の19か村。広域にわたって矢野口の渡しが使われていたのだろう。

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残りの12基は多摩川側から順に説明。最初は小さめの駒型の馬頭観音で大正5年(1916)9月の造立。願主は小泉金吾。2番目は表面が剥離しているが「馬頭観世音」の文字があったらしい。明治27年(1894)3月に矢野口村の小沢文吉が建立。3番目も駒型で、明治25年(1892)1月に笹久保国太郎願主で建てられたものである。

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4番目も駒型で、明治44年(1911)9月に願主城所▢右ヱ門による建之。次の小さめな角柱型は中折れと剥離が酷いが、明治年間(年は読めない)2月に加藤氏により建立。左の少し大きめな角柱型の馬頭観音は昭和3年(1928)9月に角田義縁が立てたもので、これは左から5番目のものとペアで造られたものらしい。

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主尊の大きな馬頭観音の左隣にはこれもやや大きめの角柱馬頭観音。大正14年(1925)4月の造立で、「坂浜村、矢野口村、長沼村、生田村の馬持中」が中心になって建てたもの。左から5番目の角柱は右から6番目のものとペアで、昭和3年(1928)9月に建立で、施主がこちらは小澤由五郎となっている。右から4番目は駒型の馬頭観音で、造立年は明治38年(1905)5月。施主は小沢文吉とあり、多摩川側から2番目と同じで11年新しい。

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左端の3基は小型の馬頭観音。右は角柱型で大正15年(1925)11月造立、と思いきや側面に昭和2年(1927)12月建之原田藤蔵と書かれている。中央は昭和20年(1945)9月に角田辰蔵氏が建てたもの。第二次世界大戦終戦の年である。最後、一番左の馬頭観音は新しいもので昭和32年(1957)9月に矢野口の長谷川雅治氏が建立したものである。

場所  稲城市矢野口400

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2024年7月26日 (金)

欄干橋の延命地蔵(稲城市東長沼)

稲城市の常楽寺から多摩川の方角に下ると三沢川が流れている。欄干橋でこの三沢川を渡ったところに一段高くなった水屋のような地蔵堂が立っている。

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覆屋の側面には説明板がある。「この地蔵菩薩は江戸時代中期の明和元年(1764)に武州多摩郡長沼村の願主29名によって建立されました。」とある。台石には多くの願主名が刻まれており、「武州多摩郡 小沢庄 長沼村 惣村中」と刻まれている。造立年も明和元年▢月とあるが、月の部分が読めない。

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この地蔵菩薩、昔は三沢川の流れが数十m多摩川寄りにくねっており、その当時の欄干橋のたもとに祀られていた。その後土地区画整理事業が入って、1990年頃に三沢川の流路が現在のような直線に変えられた時に、現在の場所に移転した。地元では延命地蔵と呼ばれ、番場地蔵講という講中に今も守られている。

場所  稲城市東長沼2109

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2024年7月23日 (火)

常楽寺の石仏(2)(稲城市東長沼)

稲城市東長沼の常楽寺の続きである。石仏は墓所に上る道の周りに散り散りに祀られている。六地蔵から馬頭観音の前を通り過ぎると、左手の重にの中に稲城市が立てた説明板があり、その下に地蔵菩薩がある。

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舟型光背型の地蔵菩薩像は、庚申講中による建立。この石仏は地蔵菩薩像としても庚申塔としても稲城市で最も古いものである。造立年は寛文4年(1664)3月。「念仏供養想衆十人庚申供養想衆七人」とある。「長沼村下新田」の銘があるので、多摩川の低地に広がる村人たちによるものだろう。

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庚申地蔵から鐘楼の方に行くと、こちらにもいくつかの石仏石塔が並んでいる。手前にあったのが駒型の庚申塔。造立年は元禄9年(1698)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。上部に「奉寄進庚申供養」の文字と、尊像脇には「武州多摩郡小沢庄長沼村」とある。よみうりランドのジャイアンツ球場の近くに小沢城址があるので、鎌倉時代に源頼朝の御家人だった稲毛三郎重成の子である小沢氏がこの辺りを支配していた名残りだろうか。

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その先の草の繁みに埋もれていたのが駒型の庚申塔。宝永7年(1710)3月の造立で、日月、青面金剛像、三猿の図柄はシンプル。「奉造立庚申所願成就」「講中」などの文字が見られる。

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草むらに囲まれていたもう1基の庚申塔は舟型光背型のもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は享保2年(1717)11月。「武州多摩郡長沼村」の銘があった。

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少し高い位置にあり、覆屋に祀られていたのがこの庚申地蔵である。前述の稲城市最古の庚申地蔵に次いで、二番目に古いもので延宝8年(1680)2月の造立。これも庚申講中の絡んだ地蔵菩薩像である。「奉供養庚申 武州玉郡長沼村」の銘があり、下部には願主名が刻まれている。これらのほかにも多くの石仏石塔があったが、ここでは主に地蔵と庚申に絞った。

場所  稲城市東長沼2101

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2024年7月20日 (土)

常楽寺の石仏(1)(稲城市東長沼)

京王相模原線の稲城駅は台地の中腹にある。その稲城駅のすぐ北、というよりも感覚的には下(北側が標高が低い)に稲城市役所があり、その間には三沢川が流れている。三沢川よりも少し駅寄りの斜面地にあるのが天台宗の常楽寺。創建年代は不詳で、行基の創建とも慈覚大師の創建とも言われるが、中興されたのは室町時代末期。現在でも大きな寺院である。

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入口には立派な山門がある。山門の右手奥に本堂があり、裏山ともいえる斜面には墓所が広がっている。まずは本堂にお参りしてから石仏を見て回る。

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本堂の左手の墓所の崖下に舟型光背型の地蔵菩薩像がある。宝永7年(1710)造立の供養塔で、「奉納大乗妙典六十六部」の文字がある。願主が長沼村の誉息、施主が下石原村の小澤某とある。多摩川の両岸で協力して造立したのだろうか。

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山門側に戻ると、六地蔵が二列に並んでいる。手前の丸彫の地蔵菩薩立像の六地蔵の方が古く、元文5年(1740)11月のもの。後にも修理をされているらしく、「奉修理天保13年(1842)4月とある。後ろに並ぶ丸彫の地蔵菩薩坐像は文政10年(1827)中秋の造立。「奉再建六地蔵尊 念仏女講中」の文字があるので、文政年間に再建されたのだろう。

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六地蔵の先には大きな角柱の馬頭観音が鎮座している。見まわしてみたが年代等は不詳。おそらく大正時代以降、かなりの確率で昭和の造立ではないかと思う。三面六臂が迫力がある。

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その先には駒型や角柱型の馬頭観音が4基並べられていた。一番左は角柱型の馬頭観音で、明治▢3年3月の紀年があるが、13年なのか23年なのかはたまた33年、43年かは分からない。道標があり「東京へ五里」「小野路江二里卅町」とある。左から二番目は大正2年(1913)3月に遠藤与三郎氏が建之。右から二番目は明治4年(1871)1月に加藤弥三郎氏が願主となって建てたものらしい。

常楽寺にはこのほかにも多くの石仏があるので、別途(2)としてまとめたい。

場所  稲城市東長沼2101

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2024年7月17日 (水)

あかさか庚申地蔵(稲城市百村)

百村の松の台通りが三沢川レベルに下る辺り、上空を武蔵野貨物線が走っている。その貨物線から見下ろす場所に小堂があり、お地蔵様が祀られている。

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覆屋の左にあるのは小さな白山神社。覆屋はかなり傷んでいるが風情がある。境内を支える玉石の石積みもいい。堂宇の中にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像で2mほどの高さがある。台石には「奉造立庚申待供養」とあるので庚申講中による地蔵である。造立年は正徳2年(1712)11月。

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台石には「多摩郡百村」の銘と複数人の願主施主名が刻まれている。資料によるとこの地蔵菩薩はもとは鶴川街道脇にあったという。しかし昔の鶴川街道はこの地蔵の前の道のはずである。何となく疑問に感じた。解釈としては昭和に入って車道が通った後に今の鶴川街道沿いにあったものを移したということだろうか。

場所  稲城市百村157

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2024年7月14日 (日)

あかさか庚申塔(稲城市百村)

普寛神社から三沢川下流方向に進み松の台通りに出てから広めの坂道を下る途中、川側にある民家の玄関前に堂宇がある。堂宇の中には庚申塔が祀られている。

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防風林のような森に囲まれた民家の道路側にはトタン屋根を突き抜けた樹木(シラカシっぽい)の根元に堂宇があるのが面白い。おそらく松の台通りの坂道を地元では赤坂と呼んでいたのだろう。

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堂宇の中には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。かなり風化が進んでいるが、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄のようだ。かなり摩滅していて邪鬼と三猿は痕跡のみ。剥離した右側面には文化6年(1809)11月の造立年があったらしい。右側面には「武州多摩郡百村」の文字、台石には前面側面に願主名がたくさん書かれている。

場所  稲城市百村1127

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2024年7月11日 (木)

普寛神社の石仏(稲城市百村)

稲城市百村を流れる三沢川、その左岸は山の斜面になっているが、山の斜面を登る道は古くからあり、今は松の台通りという通り名になっている。三沢川沿いの車道が出来る以前はこの松の台通りから分岐した道が鶴巻への道であった。松の台通りから分岐してすぐに鬱蒼とした林の間を通る。その中にあったのが普寛神社。昔の地図では鳥居ではなく卍マークになっている。

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普寛神社(普寛教会)というのは稲城市で明治時代に始まった御嶽講の集団。「普寛神宮」と書かれた鳥居があるが「普寛教会本部」という石柱もあり、修験者の興した講中らしい不可思議な雰囲気がある。御嶽講は木曽御嶽山信仰のひとつ。

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鳥居の脇を左手に進むと石仏が並んでいる。一番右の小さな石仏は舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛、三猿が描かれている。造立年は元禄11年(1698)11月で、青面金剛の上に「奉造立」、脇に「庚申待供養二世安楽祈」とあり、武州多摩郡百村同行六人の銘がある。隣りの角柱型の石塔は享和3年(1803)8月造立の大乗妙典六十六部日本廻国供養塔。武州多摩郡百村の銘がある。ひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔は嘉永元年(1848)11月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。左手にはショケラが下がる。「多摩郡百村」の文字がある。

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道路側に並んでいる板碑2枚のうち左の板碑はほぼ文字が読めない。上下欠となっているが、資料にも見当たらない。右の上部だけが残っている板碑は、暦應2年(1341)のもので弥陀三尊の種子がある。ちなみに百村は昔、三沢川より北側を川北、南側を川南と呼んでいた。

場所  稲城市百村202

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2024年7月 8日 (月)

北辰妙見尊の石仏(稲城市百村)

妙見寺の参道から分岐して急登する山道を上っていくと北辰妙見尊に至る。山の頂上にある妙見様の標高は95mほど、参道入口からは約50mの高低差がある。妙見菩薩は物理的な立ち位置を示してくれる北極星と同じとされる。鎌倉幕府の御家人である千葉氏は関東に妙見信仰を広めた。北辰=妙見である。

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峯の山道を登り始めてすぐに妙見寺に下りる道を分岐する。ちょっと道草して妙見寺の方に下りてみると、坂の下の方にいくつかの角柱石仏が転がっている。半分は山土に埋もれているが、一基のみはっきりと馬頭観音と分る。明治14年(1881)10月造立の馬頭観音で、側面に願主石井弥五郎の銘がある。

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ここから再び峰の道に戻る。間もなく妙見尊の階段への入口があり、鳥居がある。ここは東京都指定無形文化財の「百村の蛇より行事」という儀式が行われる場所。寛文2年(1662)に疫病が流行した時に始まった。毎年北斗七星になぞらえた百村の村民の中の7人が、萱場から萱を借り出して村人が集まって大蛇を撚り上げると、50m~100mの蛇の姿になる。こんな行事が行われるのがこの鳥居の脇である。

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萱の大蛇の儀式が行われる折に、蛇の頭はこの二十三夜塔のところに置き、胴体は石段を上って山上の社殿に延びていくらしい。この二十三夜塔は自然石の石塔で天保7年(1836)10月に造立されている。裏には紀年と妙見寺良善代建之の文字がある。台石には正面に講中の文字があり、側面には多数の名前が刻まれている。

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少し上にあったのがこの石坂供養塔。造立は文化7年(1810)11月で、かなり風化が進んでいる。坪内源五郎という名前が見られるのと、台石に惣村中の文字がある。

場所  稲城市百村1620

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2024年7月 5日 (金)

妙見寺の石仏(稲城市百村)

稲城市百村(もむら)にある妙見寺は天台宗の寺院。創建は不詳ながら、天平宝字4年(760)あるいは天永3年(1112)などの説があり、山上の妙見尊を含めて古くからこの地に根付いた寺院である。場所は京王相模原線の稲城駅から西へ向かい、武蔵野貨物線と京王線をくぐったところが入口になる。武蔵野貨物線は殆ど地上に姿を見せない上に、ここでは京王線との交差という珍しい場所。

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真っ直ぐ参道の坂道を上っていく。線路からは標高15m以上を上がって行く。途中左に妙見尊への山道が分岐する。まっすぐに進むと妙見寺の山門がある。立派な山門である。山門をくぐると右手に本堂がある。

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本堂とは反対の妙見尊の山の側にいくつかの石仏が集められている。奥にあったのは、2基の庚申塔。左の笠付角柱型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、宝暦12年(1762)10月の造立年がある。右側面には「武州多摩郡百村庚申待講中」と書かれている。右の駒型の庚申塔の方が古く、寛延4年(1751)10月の造立。こちらは日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「奉造立庚申供養」の文字がある。

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庚申塔の手前にあるのがこの丸彫の地蔵菩薩坐像。台石の左に文化13年(1816)の造立年と「施主 松本和助」の文字、右面には女性の戒名と「俗名 武兵衛妻 行年75才 いち」とある。しかし前面には「四国西国坂東秩父 供養塔」の文字があり、墓石ではなさそうである。

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その近くにあったこの舟型光背型の地蔵菩薩像は戒名の書かれた墓石だが、紀年を見ると寛文12年(1672)11月と刻まれている。江戸時代の初期のものであるが、状態はかなり良い。

場所  稲城市百村1588

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2024年7月 3日 (水)

威光寺の石仏(稲城市矢野口)

稲城市矢野口にある威光寺は真言宗の寺院。創建年代は不詳だが1600年頃とされる。以前有名だったのは境内の弁天洞窟で、照明もなくとても雰囲気のある洞窟だったらしいが、現在は閉鎖されている。

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威光寺の後背は山である。その斜面の横穴墓(古墳)に洞窟を掘ったのは明治時代の初めで、神仏分離令のあとに出来たもの。戦時中は防空壕にもなったのだろう。素晴らしいものらしいので再公開されたらぜひ拝観したいものである。ちなみに威光寺の参道入口の標高が45mで、後背の山は103mある。斜面には墓所が広がっている。

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本堂前には5基の石仏石塔が並ぶ。一番左は弘法大師の座像で造立年は不詳。「奉造立弘法大師尊像」とあり、昭和4年5月の紀年と昭和9年の紀年があるから、昭和初期のものであろう。四国霊場の巡拝記念の供養塔である。左から二番目は「陸軍血清馬如来塔」と書かれたもので、昭和20年(1945)7月、南多摩郡稲城村矢野口 小沢粂五郎建之とある。中央は後述の庚申六面幢。右から2番目は「鶏霊供養碑」とあり、昭和39年(1964)秋彼岸建之とある。鶏の供養塔は珍しい。一番右は丸彫の地蔵菩薩で、昭和19年(1944)6月の建立である。

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中央の庚申幢はとても珍しいもので、笠付の六角幢になっている。正面には「奉供養庚申待為現当二世悉地成就攸」と書かれ、脇に貞永元年(1684)12月の造立年がある。藤原能成(よしなり)というのが願主名。この庚申塔は、昭和13年頃、寺の近くの山頂の塚にあったものを寺内に移転したという。藤原能成という人物は江戸時代初期にこの辺りの領主であった旗本、加藤太郎左衛門能成とされている。

場所  稲城市矢野口2411

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2024年7月 1日 (月)

威光寺入口の庚申塔(稲城市矢野口)

京王よみうりランド駅前から太夫坂を上る。かつては大山道であった道は快適な車道になっている。傾斜は切土盛土で緩やかになっているものの、徒歩で上るのは少し難儀である。丘の向こうによみうりランドの観覧車が覗いている。

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威光時の入口に堂宇がある。この庚申堂を目印に左に曲がると威光寺の参道に入る。堂宇の側面には堂宇を移転修理した時の奉納者名が書かれており、平成31年(2019)2月の紀年がある。見た感じの堂宇は2,30年は経っていそうな様子だが、雨風が厳しいのだろう。実はそれ以前は道路向きではなく、観覧車の方向に向かって堂宇が建っていた。

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堂宇の中には笠付角柱型の庚申塔があるが、格子を通してなので一部しか写らない。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、側面には明和元年(1764)12月の造立年。また「武州多摩郡矢野口村根方講中」の銘がある。根方は京王よみうりランド駅周辺の昔の地名。ここから山越えで津久井道に向かうプチ難所だったと思われる。

場所  稲城市矢野口2410

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