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2024年8月31日 (土)

有山の庚申堂(多摩市東寺方)

聖蹟桜ヶ丘オーパショッピングセンターの脇から小道を入る。現在は東西に都道20号線(川崎街道)が走り、その南をオーパ横から西へ向かう2車線の道があるが、どちらも新しい道である。昔はその一つ南の路地が東寺方へ向かう村道であった。

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100m余り西に進むと、綺麗な玉石の土台に載せられた堂宇がある。江戸時代から明治時代に積まれたこういう玉垣はいつ見ても見事だと思うが、現代ではその技術を持つ人が稀になってしまったようだ。堂宇の中には2基の庚申塔が祀られている。この辺りは昔、田んぼの中の小さな集落で、東寺方村の中でも有山という数軒の家が集まった離れのような集落だったようだ。

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右の庚申塔は櫛型角柱型と思われるが、中折れが酷い上に摩滅もかなり進んでいる。かすかな痕跡としては日月、青面金剛像、三猿の図柄のようである。多摩市の資料には解読困難とあるが、TATSUさんのサイトで読み解いておられた。「奉建立庚申供養塔」「寛政元年(1789)8月、有山講中」の文字があるようだ。左の駒型の小さな庚申塔は、明治9年(1871)12月の造立で、こちらにも「有山」の文字がある。

場所  多摩市東寺方1丁目8-5

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2024年8月28日 (水)

一ノ宮の地蔵庚申堂(多摩市一ノ宮)

京王線聖蹟桜ヶ丘駅から南へ下ると都道20号線(川崎街道)を横切る。駅ビルの別館オーパ(ショッピングビル)前の聖蹟桜ヶ丘駅前交差点から西へ川崎街道を進み、次の信号で路地を南に入ると、その先の辻に堂宇がある。ちょうど大きなマンションの裏庭のフェンスが堂宇のところだけ凹んでいる。

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堂宇の中には複数の石仏が祀られている。この辺りの古い地名は一ノ宮小字下向田。都道は後に取り付けられた大通りだが、元々この辺りは一面の田んぼで、戦後都道が開通した。ここはそれ以前の村道の辻だったのである。

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中央の丸彫地蔵は御影石製のごく近年のものだが、右の舟型光背型の地蔵菩薩像はそれなりに古そうである。ただし何も文字が確認できない。左の櫛型角柱型の石塔は、多摩市の資料によると庚申塔らしい。造立年は天保8年(1837)で、摩滅しているが「奉造立庚申供養」「武州多摩郡一ノ宮村」の銘があるようだ。

場所  多摩市一ノ宮3丁目4-6

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2024年8月25日 (日)

児童館前の地蔵堂(多摩市一ノ宮)

聖蹟桜ヶ丘にある小野神社は武蔵国一之宮という名前にあるように、中世では関東を代表する神社だった。当時の武蔵国の主要神社は、大國魂神社(府中)を別格として、一之宮がこの小野神社、二之宮があきる野市の小河神社、三ノ宮が埼玉の氷川神社、四ノ宮が秩父神社、と続く武蔵国の代表的な神社だった。その東隣には一ノ宮児童館があり、児童館の前に小さめの堂宇が2棟建っている。

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一ノ宮の地名の由来は当然ながら武蔵一之宮小野神社に帰来するものだが、神社のある地域は多摩川の河原と言ってもいいくらいの多摩川右岸の低地で、多摩川の水面から5mほどしか高くないこの場所に1000年以上も鎮座しているのが不思議である。一ノ宮地区にはかつての低地農地らしく水路や水路跡が縦横無尽に走っている。

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左の堂宇に祀られているのは舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は不詳。文字は摩滅していてほぼ読めないが、多摩市の資料によるとどうやら墓石、あるいは個人的な供養仏のようである。

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右の堂宇に祀られているのは角柱型の庚申塔で中折れが痛々しい。表面もかなり剥離が進んでいる。元は笠付角柱型だったと思われるが笠はない。痕跡として日月、青面金剛像、三猿があったと思われる。造立年は堂内の説明板によると寛延4年(1751)、実際に右側面に刻まれていた。左側面には「武列多摩郡一之宮村」とある。この庚申塔は昔は京王線と都道20号線の踏切のところにあったが、都道の拡幅工事でこちらに移設された。

場所  多摩市一ノ宮1丁目18-7

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2024年8月22日 (木)

西向庚申(多摩市永山)

多摩市永山は多摩センターと同じく高度経済成長期に開発されたベッドタウンである。1970年以前は山あいの集落で、乞田川の流程は蛇行しており、駅の北側にある日本医科大学多摩永山病院の辺りも山の中だった。ここには昔、村道が通っており、その道沿いには庚申塔があったらしい。

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現在は駅近ということで中層のマンションが並んでいる。乞田川に向かってはどの道も下り坂で、駅からは標高で20mほど下る。その坂のマンションの間に堂宇があり、西向庚申が祀られている。呼び名とは異なり堂宇は東向きになっているが、その経緯が書いてある。

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黒御影石に刻まれている文章は「多摩ニュータウン計画に伴う東京都区画整理が実施され、元来西向であったものをやむを得ずこの向きに鎮在することになりました。ここに之を記す。昭和55年11月吉日」とあることから、1980年頃の移転であろう。日月、青面金剛像、三猿の駒型庚申塔で、「奉造立町庚申供養諸願成就所」の文字と共に「乞田村瀧止」ともある。坂を下りきったところには「滝の上公園」があるが、おそらく無関係。昔の地形図ではこの辺りの乞田川は曲がりくねって両岸が崖になっていたようで、支流の小さな流れがその崖に落ちていたのかもしれない。

場所  多摩市永山1丁目12-11

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2024年8月19日 (月)

永山橋の地蔵堂(多摩市乞田)

多摩センターから永山を流れる乞田川。唐木田付近を水源にして約6㎞で聖蹟桜ヶ丘付近で大栗川に合流しやがて多摩川に注ぐ小河川。京王・小田急永山駅の近くの永山橋は橋の上にバス停がある珍しい場所。この永山橋のたもとには地蔵堂がある。

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地蔵堂は永山橋の方を向いている。方角的には東向きである。覆屋の中には、地蔵が2基と庚申塔が1基祀られている。手前にある黒御影石の大きな香台に「都市計画の為に此処に移転す、昭和50年10月吉日」と刻まれている。乞田川は以前は蛇行を繰返した流程だったが、都市開発で真っすぐな流路に付け替えられた。多摩センター周辺の開発が進んだ高度経済成長期の時代である。

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左から舟型光背型の地蔵菩薩で、「地蔵菩薩 武刕多摩郡乞田領内 念佛講 施主女十五人」とあり、庚寅とあるので、造立年は宝永7年(1710)か明和7年(1770)の3月。中央は笠付角柱型の庚申塔で、享保7年(1722)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「武刕多摩郡乞田村」の銘がある。右は角柱型の地蔵菩薩で、文政7年(1824)12月のもの。こちらも「武刕多摩郡乞田村」の銘がある。乞田村は江戸時代の村で、明治になってから南多摩郡多摩村の一部となった。

場所  多摩市乞田1426

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2024年8月16日 (金)

沓切坂の庚申塔(多摩市関戸)

多摩市役所の中を通る道がバス通りに下る坂は沓切坂(くっきりざか)と呼ばれている。古い地図を見るとやはりバス通りがかつての鎌倉街道(大山道)で、多摩市役所に上る沓切坂は明治以降はサブルートのようである。ただそれ以前はこちらが鎌倉街道のルートだったようで、あまりの急坂に馬の沓(くつ)あるいは轡(くつわ)が切れたことからついた坂名。

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この坂を新田義貞軍が鎌倉攻めの折に上っている時に馬の沓が切れたという言い伝えもある。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞(元弘3年:1333年)の分倍河原の戦いの時だという説と、足利尊氏を追った新田義興(正平7年:1352年)の説があるようだが、切通しの雰囲気が歴史を感じさせる。写真の右手の切通の上に1基の庚申塔が祀られている。

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林の中にポツンと立っている駒型の庚申塔だが存在感がある。造立年は書かれておらず不詳。日月、青面金剛像、三猿の図柄である。患部には「西念寺」の文字と複数の人名が願主名として刻まれている。

場所  多摩市関戸6丁目15番地先

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2024年8月13日 (火)

熊野神社の地蔵堂(多摩市関戸)

多摩市関戸のかつての鎌倉街道を南へ歩いていくと、熊野神社がある。東側を流れる乞田川は今でこそ真っ直ぐな流れだが、昔は関戸の辺りはくねくねと蛇行した流程であった。この辺りは低地に田んぼ、斜面に果樹園という風景だったようだ。熊野神社の由緒は室町時代の創建で、それ以前の鎌倉時代には街道の関所である木柵の石「霞ノ関南木戸柵」が築かれていた。

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関所の木柵が造られたのは建暦3年(1213)。参道沿いに木柵のモニュメントのような復刻版が並んでいた。熊野神社の創建はそれから200年近く後のことで、それ以来関戸村の鎮守として村の中心であったようだ。熊野神社の参道の北側に大きな覆屋が建っており、内外に石仏が並んでいた。

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覆屋の中に鎮座するのは大きな蓮台の丸彫の地蔵菩薩坐像である。文字は読めなかったが資料によると造立年は寛政8年(1796)4月。基壇のさらに下の土中に埋もれたところに刻まれているらしい。紀年と共に多数の願主名や寺、僧侶の名前が刻まれている。

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堂宇の右側には舟型光背型の庚申塔と不明の塔がある。庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は寛保3年(1742)12月とある。「奉造立庚申供養」の文字が刻まれている。左の塔は何だか分からないが、享保5年(1720)7月の紀年が刻まれている。上の玉石は後に載せられたもので、元は石仏の基壇だったのではないかと思われる。

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その奥には右から馬頭観音、庚申塔、地蔵と並ぶ。馬頭観音は舟型光背型で、安永9年(1780)8月の造立年があり、「良貞院日誠法師 施主 山角定尉」の文字。中央の角柱型の塔は庚申塔である。正面に大きく「庚申塔」、塔の文字は違うが江戸時代にはよくある。造立年は寛政8年(1796)冬とある。基壇には「弎匹猿」の文字で三猿を表している。左の丸彫の地蔵菩薩はかなり傷んでおり紀年などは不詳。個人の供養のための地蔵菩薩だろうか。

場所  多摩市関戸5丁目35-3

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2024年8月10日 (土)

関戸の笠付庚申(多摩市関戸)

多摩市関戸というと現在は多摩川右岸から京王線聖蹟桜ヶ丘駅を含めて、多摩市役所あたりまでと極めて広い地域の地名となっているが、聖蹟桜ヶ丘駅周辺は昔は一面の田んぼで民家もなかった。府中の中河原から関戸の渡しで多摩川を越えて、鶴川村の小野路(今は町田市小野路町)へ山越えする入口が関戸であった。

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現在は関戸橋で多摩川を渡ると広い中央分離帯の鎌倉街道(都道18号)が乞田川沿いを走っているが、本来の鎌倉街道は西側を走る上のバス通り(府中町田線:同じく都道18号扱い)で、関所のあった熊野神社前を通っている。関戸の由来はこの関所だと言われている。熊野神社の450mほど北に昔ながらの玉石の石垣が続き、その上に笠付角柱型の庚申塔が立っている。

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日月、三猿、二鶏の図柄の笠付角柱型の庚申塔。造立年は古く寛文13年(1673)2月の紀年がある。「奉建庚申之人族七人」「武刕多麻郡関戸」「申三匹鶏二羽」の文字が見られ、下部には苗字のない願主名が複数ある。以前はここに地蔵などもいくつかあったらしいが今は庚申塔1基のみである。

場所  多摩市関戸5丁目30-37

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2024年8月 7日 (水)

新田橋地蔵堂(稲城市矢野口)

弁天通りを京王よみうりランド駅に向かって歩いていくとやがて三沢川に達する。この辺りの三沢川の流程は昔からほとんど変わらない。矢野口の渡しから続く弁天通りは昔の大山道である。大山詣での武蔵国の人々が沢山往来したことだろう。

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新田橋はコンクリート橋だが欄干は木製になっており、かつての大山道だった頃の名残りを感じさせてくれる。ちょうどこの橋を渡った向こう岸に堂宇が見える。堂宇の中には地蔵菩薩が2基祀られている。左の地蔵菩薩坐像は基壇の石が少しずれていてバランスが悪そうだが、下手をすると100㎏を超える地蔵菩薩像なので容易に直すことはできそうにない。

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左の地蔵の造立年は宝暦5年(1755)9月。「念仏橋供養」の文字がある。「武州多摩郡矢ノ口村」の銘がある。右の地蔵は造立年など一切不詳である。昔の街道に立つ石仏はやはりそれらしい魅力を感じられる。

場所  稲城市矢野口2240

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2024年8月 4日 (日)

地蔵菩薩と銀杏の樹(稲城市矢野口)

府中街道の矢野口交差点のすぐ南東の交番の後ろに銀杏の古木が立っている。いかにも古木らしい樹幹は黒く焦げたような感じがする。雌樹らしく銀杏が実る。銀杏という樹木は2億5千万年前の古生代に現れた種が今も生存している貴重な植物。ダーウィンも銀杏を「生きた化石」と呼んだそうだが、日本に入ってきたのは室町時代。

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銀杏の樹の傍には比較的大きめの覆屋があり、丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。地蔵菩薩の造立年は正徳3年(1713)10月。「法華経一字一石 供養施主当村中 同行」の文字がある。地蔵の前で府中街道に交差する弁天通りはかつての矢口渡からの大山道。

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この辺りは昔は塚戸と呼ばれた土地で、道路拡幅以前は府中街道(川崎街道)の南側にあった。それを銀杏の樹と一緒に多摩川側に移したのが昭和3年(1928)のことである。

場所  稲城市矢野口432-1

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2024年8月 1日 (木)

菅堀の石橋供養塔(稲城市矢野口)

府中街道(川崎街道)と多摩川原橋を渡る都道19号線の交差する矢野口交差点の少し登戸寄りに一部用水路が暗渠から開渠になるところがある。菅堀といい、大丸用水の一部で、府中街道は昔からの街道筋と変わっていないがその街道脇に掘られた用水路である。二ヶ領用水などと同じ江戸時代初期に掘削されたようだが詳しくは分かっていない。

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菅堀の脇の植込みに立っているのが石橋供養塔。大丸用水は九ヶ村組合(大丸村、長沼村、押立村、矢野口村、中野島村、菅村、上菅生村、五反田村、登戸村)によって管理されていたが、村同士の水争いは絶えなかったようだ。用水路とはいえ昔は相当な水量があり、橋がないと到底渡ることが出来ないほどだった。府中街道と交差するこの弁天通りは江戸時代からの古道で、ここにきちんとした橋が架けられたのを記念して建てられたものだろう。

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造立年は文政4年(1821)正月。正面には石橋供養塔とあるが、側面の文字は植込みで見えないので資料を参照。願主は加山八良右衛門とあり、右面には「北 江戸 東 川崎 道」とあるが北は矢野口の渡しを渡って江戸に繋がる意味だろう。左面には「南 大山 西 八王子道」とあるが、この道は大山参詣の道としても使われていた。

場所 稲城市矢野口432

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