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2024年9月30日 (月)

薬王寺墓地の石仏群(多摩市諏訪)

多摩市諏訪は昭和45年に付けられた新しい町名である。昔の地名は多摩市大字蓮光寺字馬引沢らしい。町名を決めるに際して、この地に諏訪神社があり、古くから集落の中心になっていた。戦後の高度経済成長期に京王相模原線が通り、小田急多摩線も敷設されたが、その二線が並んだトンネルの脇に薬王寺跡がある。小さなお堂があるだけの墓地である。

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堂宇には薬師如来があるらしいが、その裏手の墓所との間に石仏群ともいえるほど沢山の石仏が祀られている。手前にあるのは3基の丸彫りの地蔵菩薩像。左は新しいものらしいが、中央と右は古そうである。ゼニゴケと摩滅で文字が読み取りにくいが、右の地蔵菩薩はおそらく文政10年(1839)3月に念仏講中によって造立されたもの。中央は頭がコンクリートで後付けだが、多摩市の史料に載っていた丸彫りの地蔵と思われる。造立年は不詳。

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樹木の後ろには多くの石仏や板碑があり、中心にあるのが自然石の馬頭観世音。造立年は天保4年(1833)11月で、台石には「南おのち道」「東さかはま道」「北ふちう道」の道標が刻まれ、「当所 講中 施主名」などが記されている。

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馬頭観音の並びと手前脇には合計10枚の板碑が無造作に置かれている。2基は立てて祀られているが、23区内では板碑はほぼ寺の奥に保管されていて見られることは稀なのに、多摩市や稲城市に来るとこんな風に無造作に置いてあるケースが多々ある。板碑は鎌倉時代から室町時代のもので、ここは鎌倉街道が何本か通っていた地域。その時代のものが多いのは自然なのだろう。

場所 多摩市諏訪3丁目12番地

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2024年9月27日 (金)

蓮光寺の道標(多摩市連光寺)

蓮光寺を歩いていて二つの道標を見かけた。道標は石仏と比べてあまり保護されていないように感じる。されど道路上に立っているということはそれなりに護られたとも考えられる。今回の道標のひとつは鎌倉街道早ノ道にある高西寺の近くで見つけた。もう一つは明治天皇所縁の対鷗台公園から大栗川・乞田川合流点の向ノ岡橋の東側に立っている。

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鎌倉街道早ノ道の高西寺の山門から東に入ったところにあるのが上の写真の道標である。おそらく大半は地中に埋まっている。調べてみるとどうやら多摩市の史料に載っている道標らしい。この道標から見た東西南北は合っていた。高西寺方向の西には「西 七生村(高幡日野町ヲ経テ八王子」、南は「南 柿生村黒川… 川和ヲ経テ横浜ニ至ル」、東は「東 稲城ヲ経テ川崎ニ至ル」とあり、北は「北 左側ヲ通行ナサイ」とあり大正9年(1920)4月の建立年と「多摩村青年団 蓮光寺村」の銘がある。川和は都筑区の川和町であろう。史料には場所について「蓮光寺春日神社の前の道を入ったところ」とあるので現在地の周りに間違いはない。

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対鷗台公園から坂道を下ったところにあったこちらの道標は多摩市の史料には載っていない。方角はこの道標も合致している。「北 府中へ」「西 八王子へ」「南 蓮光寺村」「東 船付?」とあるが、まだ桜馬場という草競馬場に人が集まった大正時代はまだ京王線もない時代で、すぐ北の多摩川には関戸の渡しがあったが、東に向かうと稲城大丸の是政の渡しもあった。

場所 多摩市連光寺2丁目27-19(上)/ 多摩市連光寺1丁目4番地先(下)

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2024年9月24日 (火)

旧対鷗荘前の石仏(多摩市連光寺)

今はなき対鷗荘の場所は巨大なマンションンになっているが、その南の一角に対鷗台公園という名前の児童公園が痕跡として残っている。園内には「明治天皇行幸所対鷗荘」の石碑が建つ。昭和初期に明治天皇所縁の隅田川河畔の台東区橋場にあった三条実美が建てた別荘で、ここに移築されたのち、観光地となり、戦後は料亭だったようだが、昭和63年(1988)にマンション建設のために取り壊された。

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対鷗台公園の入口の草むらの一角に2基の石仏が立っている。左の大きいほうが馬頭観音で、右の小さいほうは庚申塔である。この公園から東側は古くから向ノ岡と呼ばれた土地で、大正から昭和初期には桜馬場と呼ばれた草競馬が行われた場所である。

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馬頭観音は角柱型で正面に「馬頭観世音」と刻まれ、裏面に天保7年(1836)春正月の造立年が書かれている。台石の正面は「講中」の文字、裏面は連光寺村の銘がある。右の庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、三猿が陽刻されている。尊像脇に「庚申」「蓮光寺村」とあり、造立年は元禄13年(1700)10月と記されている。この庚申塔は多摩市の文化財記録には出てこない。元禄時代の庚申塔も多摩市内には少なく、どこかから移築されたものだろうか。

場所 多摩市連光寺1丁目4番地先

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2024年9月21日 (土)

鎌倉街道早ノ道の石仏(多摩市連光寺)

蓮光寺にある高西寺通りの途中、デイサービスの老健施設となりの角に広めの区画があり、石仏が並んでいる。説明板が備えられていて詳しく記されている。この道はかつての鎌倉街道早ノ道の跡で、軍馬が駆け抜ける軍道だった。また説明によると、この道は当時最大幅12mもあり、古代東海道であったという。

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かつて近くの峰には秋葉神社が祀られ、源頼朝の腰掛の松の伝承や、早道場の小字地名も残っていたという。防人や都人も歩いたという大街道だったとは想像もできない。今は山が崩され住宅地として開発されてしまっているからである。ただこの道にはわずかに古道の雰囲気が残っている。

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この地には2基の庚申塔と、かなり痛みが進み破壊されたような石仏の痕跡が残っている。一番大きな駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿に加えてショケラも描かれている。造立年は享保16年(1731)11月と刻まれている。右側面には「奉造立庚申為二世安楽也」とあり、左側面には紀年とならんで「武州多摩郡蓮光寺村 講中廿七人施主善男子」と書かれている。

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もう一基の庚申塔は角柱型の文字塔で、正面には「庚申供養塔」の文字があり、台石には三猿が陽刻されている。左側面には「武列多摩郡蓮光寺村講中」と書かれ、右側面にある造立年は寛成4年(1792)11月と記されていた。2基の庚申塔の間にある壊れた石仏はおそらく3基ほどで、一つは地蔵菩薩像の下半身のみのものがあり、享保16年(1731)1月の紀年がある。

場所 多摩市連光寺2丁目29-9

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2024年9月18日 (水)

聖蹟記念館前の石仏(多摩市連光寺)

聖蹟と名付けられる施設は天皇陛下が行幸で訪問したところを意味する。例えば東海道品川宿に聖蹟公園という児童公園があるが、ここは江戸時代は江戸に入る直前の大名が一休みする本陣跡で、時代が変わって明治天皇行幸の際の行在所となったために聖蹟公園と名付けられた経緯がある。聖蹟桜ヶ丘の「聖蹟」も同じで、明治天皇の行幸で立ち寄った場所から来た命名である。

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ちなみにこの地の聖蹟に明治天皇が訪れたのはウサギ狩りや鮎漁が目的だったらしい。その後大正天皇も昭和天皇も多摩川でアユの徒歩鵜飼を楽しまれたそうである。聖蹟桜ヶ丘の聖蹟記念館はとても広い桜ヶ丘公園の中にある。その都道137号線上麻生連光寺線側の入口の向かいにある拓魂公苑の入口に2基の石仏がある。拓魂とは満州開拓に所縁のある施設で、戦前のなごりであるといってもよさそう。

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左の自然石の石仏は馬頭観音。造立年は昭和17年(1942)4月で、「馬頭観世音」の文字が表に、裏には「施主 長浜未四郎」の銘がある。右の角柱型の石仏は庚申塔である。文政12年(1829)9月の造立で、かなり傷んでいるが、日月、青面金剛像の図柄が見える。資料によると三猿が土中に隠れているらしい。「武刕多摩郡蓮光寺寺船郷講中」の銘がある。

場所 多摩市連光寺3丁目19-12

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2024年9月15日 (日)

光地蔵尊(多摩市連光寺)

多摩市の東端にある地域が連光寺。東側は稲城市になる。連光寺という地名は蓮光寺と書く場合もあり、江戸以前にその名の寺院があったのではないかと言われている。鎌倉時代の話で、連光寺の場所は川崎街道の走っているあたりだったとの説がある。その南側一帯は山の中であったが、山中の丘陵の尾根筋に人が集まって住んでいる場所があった。古地図では船ヶ台とある。

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米軍施設の南西にあるこの船ヶ台地域には今も民家が多い。その中心となる交差点の脇に堂宇があり、石仏が祀られている。この辺りの標高は150mほどあり、遠く多摩市を眺望することができる。堂宇の脇には黒御影石の石碑があり、「光地蔵尊再造顕之碑」と書かれている。中心となる地蔵尊はどうやら昭和になって再建されたものらしい。

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この地で掘り出された地蔵尊は村人に大切にされてきたが、東日本大震災の時に壊れてしまった。周辺の人々には被害がなかったことから身代わりになってくれたということで、地域住民が財を出し合って再建したらしい。元の地蔵も丸彫りの立像で、安永7年(1778)の造立、多磨郡船郷□、願主拾貳人念仏講中という銘があったようだ。

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地蔵の右わきにあるのは角柱型の供養塔。これも地震の時に壊れたのか幾重にも補修がしてある。正面には「□番□養塔」とあり、明治12年(1879)6月の造立年が刻まれている。長澤家の人々によって建てられたものである。

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地蔵の左脇には2基の石仏があり、手前は櫛型角柱型の馬頭観音。文字塔が多い中で馬頭観音の姿が描かれている。造立年は文政5年(1822)7月で馬頭観音としてはかなり古いものである。「武州多摩郡連光寺村船郷」の銘がある。その後ろの角柱は巡拝塔で、「奉納秩父西國坂東百番供養」とある。造立年は文化14年(1817)10月。「武刕多摩郡連光寺邑 願主 三良右衛門」の銘がある。左側面には二人の戒名と没年があるので、身内の供養と巡拝塔を兼ねたものだろうか。

場所 多摩市連光寺6丁目2-11

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2024年9月12日 (木)

中村家馬頭観音(多摩市関戸)

上の都道(古道鎌倉街道)には石仏など史跡がたくさんある。さすが新田義貞軍対鎌倉幕府軍の戦いや、江戸時代以降の大山道として賑わった歴史が息吹いている。関戸古戦場・下の地蔵から南へ下る(坂は上り坂)と数百mで熊野神社下の上の地蔵だが、その少し手前に大きな旧家がある。

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旧家は中村家という。門のわきには燈籠があり、その横には馬頭観音が立っている。この燈籠は常夜灯で、「秋葉山常夜燈」と呼ばれているもの。この辺りがもともとは関戸村の中心であった。脇にある馬頭観音は80cmほどの基壇の上に建てられている。

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正面には「馬頭観世音」、右側面には明治36年(1903)6月の造立年が刻まれている。左側面には「願主 中村?蔵」とあるが、一文字解読できない。前の道路は旧鎌倉街道だが、江戸時代以前には「鎌倉往還」とよばれ「いざ鎌倉」となると御家人が馬を駆って馳せ参じる道であった。東京都周辺の鎌倉街道は、主に多摩エリアを通っていた上ノ道、品川近くを通っていた中ノ道、千葉から浅草を通っていた下ノ道があったが、ここは上ノ道である。

場所 多摩市関戸5丁目12-26

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2024年9月 9日 (月)

佐伯屋敷跡下の馬頭観音(多摩市関戸)

前述の観音寺入り口にあった地蔵堂(関戸古戦場跡)は熊野神社前の地蔵堂を上の地蔵と呼ぶのに対して、「下の地蔵」と呼ばれている。そこからわずかに熊野神社に上ると山手に向かう路地があり、路地の奥はかつての佐伯屋敷跡らしく森と竹藪になっているが、最奥の駐車場の一角にコンクリート土台に立てられた馬頭観音がある。

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摩滅が激しく文字が読み取れないが、山側が正面で「馬頭観世音」の文字が読める。側面の文字はよくわからないが左側面の下のほうには「氏」という字が見て取れる。当初、多摩市の資料にも記載されていない。紀年も読み取れないが馬頭観音であることは間違いない。この場所から裏山を見ると、鎌倉時代の佐伯屋敷は斜面に築かれた館城ではないかと思われる。延命寺もその一角で、この道もサブルートのひとつだった可能性を感じた。

場所 多摩市関戸5丁目25番地先

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2024年9月 6日 (金)

古戦場跡の地蔵堂(多摩市関戸)

多摩市関戸に古戦場跡がある。鎌倉幕府滅亡の主役である新田義貞軍と北条鎌倉幕府の戦いが分倍河原とここ関戸で行われた。関戸古戦場は北条氏に仕えた佐伯氏が館を構えた場所。旧鎌倉街道から小道を上ると時宗の延命寺があるが、その入り口にあたる小道脇に地蔵堂が立っている。

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分倍河原の戦いでは幕府軍が勝利したが、ここ関戸の戦いでは新田軍が幕府軍に勝利を収め、6日後には鎌倉が陥落している。堂宇の中には丸彫りの地蔵菩薩像と角柱の供養塔が祀られている。地蔵菩薩は多摩市でも最も古い時代のもので、造立年は寛文3年(1663)7月。「関戸村 念仏講中」の銘がある。

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右の角柱型供養塔は念仏盟約塔と呼ばれるもので、「永大融通念仏盟約塔」の文字が刻まれている。父母の恩に報いるために「毎月一集、朝暮十遍以上」祈祷したのだろう。それ以外に正月、3月、10月にもそれぞれ13日に行われたようだ。女念仏講中の銘もある。造立年は寛成元年(1789)である。造立には府中の安養寺が関わっていた。

場所 多摩市関戸5丁目23-33

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2024年9月 3日 (火)

大栗橋の道標(多摩市関戸)

府中市から多摩市へは関戸橋を都道で渡るが、100年以上前は関戸の渡しという渡し舟で渡っていた。この辺りで多摩川に流下合流していたのが大栗川で、今の府中街道(川崎街道)が大栗川を渡る向ノ岡大橋あたりで多摩川に注いでいた。都道18号線はこの辺りでは大通りの西にある二車線の都道も同じ18号線として扱われているがこちらは一応旧道で、関戸の渡しだったころからここで大栗川を渡る橋であった。

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その旧道の大栗橋の北側に駐車場があり、その金網のわきに石塔が立っている。造立年は天明3年(1783)冬と刻まれている。正面には「南無観世音菩薩」と書かれており、脇には「右 ふちう道」「左 八わうじ道」とある道標である。

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かなり摩滅しているが文字は読める。この道標はこの位置ではなく昔は北の渡し場道の角にあったという。その場所は特定できなかった。関戸の渡しを過ぎて大栗橋を渡るとここからは山道に入っていく、そんな場所であった。おそらく山のほうから来た旅人が、この道標のところで二股になっていて、左が八王子、右が府中というのを知るためのものだったのだろう。

場所 多摩市関戸4丁目12-12

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