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2024年10月30日 (水)

天神通りの庚申堂(稲城市坂浜)

天神通りは平尾杉山神社から稲城の坂浜に抜ける道で、古くからの村街道である。東側には高勝寺通り、西には小田良通りがあり、この3本の道は明治時代初期の地図にも山間を抜ける道として存在した。それぞれ三沢川沿いに降りると布田道(江戸道)に合流している。

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平尾側からそこそこの勾配で上って行った天神通りが坂上に達するあたり、道路わきにブロックで盛土した塚があり、小さな堂宇がある。その中には一基の石仏が祀られていた。この辺りの昔の小字は後原(うしろっぱら)と言ったようだ。小田良からの小道が天神通りに出合うところにこの塚がある。

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堂宇の中には舟型光背型の庚申塔が祀られていた。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。文字はまったく見られないが、素材が御影石だし、近年のものだと見受けられた。稲城市の資料を調べてみると、この場所の石仏は馬頭観音として記録されていたが、造立年は明治33年(1900)建之とあるらしい。しかし形は角柱とあるので、それに置き換わった新しいものなのだろうか。

場所 稲城市坂浜3丁目13-1

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2024年10月27日 (日)

光仙大菩薩文字塔(稲城市坂浜)

坂浜4丁目の比較的新しい戸建て団地の一角、学園通りと小田良(こだら)通りの交差点に小さな堂宇がある。平成の終わりころ、開発の折にこの交差点の一角に堂宇が建てられ、そこに石仏が祀られた。少し前まではこの辺りは何もなく豊かな自然の里山だったようだ。

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堂宇の傍にはこの石仏の由来が書かれた板がある。「約300年前の宝暦年間に、全国修行の尼僧がこの地に立ち寄ったが、悪い風邪に罹り倒れてしまった。村人たちは小屋を建てて看病したが亡くなったので丁寧に葬った。その後誰ということもなく百日咳に罹った時にはこの祠にお茶を上げ、そのお茶を病人に飲ませると必ず咳が治ると言われ、百日咳の神様と呼ばれた。咳が治ったお礼に茶碗を備える風習が起こり、今でも堂宇の中には沢山の茶碗が所狭しと並んでいる。

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櫛型角柱型の石仏の正面には「光仙大菩薩」とあり、天保4年(1833)3月の造立年がある。側面には「大塚新右エ門 同 三良左エ門」の願主名がある。小さな石仏だが、200年近く前に百日咳から回復した人かその家族が建立したものだろう。

場所 稲城市坂浜4丁目24-1

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2024年10月24日 (木)

小田良墓地の石仏(稲城市坂浜)

稲城市のうちでも比較的標高の高い小田良(こだら)地区、現在は坂浜が住居表示となっている。ほんの十数年前まではほぼ里山と呼べるような棚田のある日本の原風景だった地域が巨大な戸建て団地になった(小田良土地区画整理事業)。谷あいである谷戸エリアが90mほどの標高だが、小田良の丘は120mを超え、その一角が稲城ふれあいの森として残された。

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その森の入口にあるのが小田良共同墓地。歴史が深いのか墓地の中には古い板碑などもあって、見た目近代的な小規模墓地には珍しい石仏も見かける。その墓地の擁壁の上に堂宇とならんで石仏が祀られている。これらの石仏は開発以前からこの辺りにあったらしい。

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手前にある舟型光背型の地蔵菩薩像は文字がどこにもなく、造立年も不詳。ただ見た感じはそれほど古い時代のものではないと思われる。その右の櫛型角柱型の石仏は馬頭観音。造立年は昭和10年(1935)10月、「施主 高橋耕作」と書かれている。

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堂宇の手前にあったのがこの不思議な形をした馬頭観音である。なんとなく毒キノコのカエンダケに似ている。造立年は明治37年(1904)2月で「施主 大塚新右エ門」の銘がある。小田良の里から牛馬を使って作物を運ぶとなると、坂浜の谷を流れる三沢川沿いまで下り、鶴川街道を北東に進んで矢野口の渡しあたりで多摩川を渡り甲州街道を目指したのだろう。

場所 稲城市坂浜4丁目35

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2024年10月21日 (月)

平尾原経塚(稲城市平尾)

稲城市平尾の中央を貫く平尾中央通りに面して三角の土地があり、平尾原経塚と呼ばれている。江戸時代に全国六十余州の霊場を回って写経をしそれを収めた塚である。この塚が造られたのは宝永5年(1708)で、当時はここから20mほど西にあったという。平成4年(1992)に建物建築のために現在地に移された。

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明治時代の地図を見ると、平尾中央通りは元からの村の中央通りだったようで、右の斜めの路地も当時は存在し、この路地の先には鳥居のマークがあることから、そこが元の経塚かもしれない。経塚は周りよりも1mほど高く土盛りされており、その上に堂宇が建てられている。

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堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。日月は見えないが、青面金剛像と三猿が描かれている。右肩には「奉新造庚申尊供(養)安穏後生清浄」の文字があり、造立年は元禄6年(1693)9月とあるので、経塚の造築以前のものである。

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堂宇のそばには角柱型の馬頭観音がある。造立年は嘉永5年(1852)2月で、台石には「馬持中」とあり、右面には造立年が刻まれている。この馬頭観音から左に向いたところには大きな経典供養塔がある。

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これが経塚を示すもので、正面には「奉納大乗妙典日本回国」とあり、全面側面には多くの文字が刻まれている。造立年は宝永5年(1708)10月で経塚と同じ時に造られたものである。「武州多摩郡平尾村 導師宝泉寺法印賢星」の銘と、「江戸麻布法菴寺第子 願主深誉伝心」という文字がある。側面には願主名が多数刻まれていた。

場所 稲城市平尾1丁目49-7

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2024年10月18日 (金)

下平尾地蔵堂(稲城市平尾)

稲城市平尾は山の上に開かれた住宅地。今も都県境にあたるが、昔は生田村、柿生村との境であった。杉山神社の辺りを上平尾、新百合ヶ丘方面に下ったエリアを下平尾といった。上平尾と下平尾では標高は20mあまり上平尾のほうが高い。道路は緩やかな坂道になっている。今は都県境に近いところを平尾中央通りが通っているが、昔は一本西の通りが村道だった。

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下平尾の旧道にあるのが下平尾地蔵堂。なかなか立派な祠堂である。堂宇の中には4基の石仏が祀られている。平尾の地名の由来は「比較的平らな土地を(ヒラ)と呼び、(オ)は低い土地を指すらしい。麻生川とその支流によって開けた広い谷で農業が盛んだった。堂宇内は左の2基が庚申塔、右の2基が地蔵菩薩である。

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左端の庚申塔は舟型光背型、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。青面金剛像の顔が大きいのが珍しい。造立年は正徳甲午年とあるので正徳4年(1714)9月、「奉建立青面金剛尊像」の文字がある。下部の願主名はほとんど石井姓。隣の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、文化元年(1804)4月の造立。「下平尾村 願主石井平蔵」の銘がある。

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右から二番目の地蔵菩薩立像は享保9年(1724)4月。資料によると、基壇には多くの文字が刻まれ、「原宿村」の文字が複数ある。右には「是より右江戸道 左ふちう道」と道しるべになっているほか、左には「南無阿弥陀仏回国□二世安楽」、裏には「奉納大乗妙典六十六部」の文字があるらしい。原宿村がどこなのかはわからないが、上平尾と下平尾の間に「原」という小字地名があったようだ。右の地蔵菩薩坐像は文化6年(1809)12月造立で、台石には「四国西国秩父坂東供養塔」の文字、左には「平尾村 施主石井伊兵衛」の銘がある。

場所 稲城市平尾2丁目10-3

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2024年10月15日 (火)

宝蔵院門前の庚申塔(稲城市坂浜)

稲城市坂浜地区はかつての山の上に広大な住宅地が開発されており、昭和時代とは全く異なる風景になっているが、三沢川流域の谷筋に降りると昔の風景があちこちに残っている。道路も整備が遅れ、かつての一間半(2.7m)規格のままの道も多い。そんな坂浜地区の三沢川左岸の斜面にあるのが宝蔵院。

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真言宗の寺院で創建は1500年代というから戦国時代である。関東北部から鎌倉へつながる道がいくつもあったためか、古くから人が住む谷筋で、宝蔵院の前の細い道もかつては布田道、あるいは江戸道として甲州街道の調布市布田と町田市小野路を結んでいた。この宝蔵院の門前脇に小さな赤い鳥居のある庚申堂が建っている。

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堂宇の中には2基の庚申塔がある。左は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保13年(1728)11月で、右脇には「奉供養庚申塔」の文字がある。右の庚申塔は駒型で、こちらも日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は享保20年(1735)11月とある。この2基の庚申塔はなぜか稲城市の石仏資料には掲載されていない。どこかから移設されてきたものだろうか。

場所 稲城市坂浜2995

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2024年10月12日 (土)

上谷戸の庚申塔(稲城市若葉台)

稲城市にある上谷戸の読みは「かさやと」といい、知らないとまず読めない。三沢川の支流の上谷戸川が細々と流れ、上谷戸大橋通りという大きなアーチ橋の下には親水公園や水車もある。1990年代に南多摩尾根幹線道路が出来て宅地造成が進んだが、それまでは稲城市でも最も山奥という雰囲気の地域だった。

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上谷戸川は深い谷を形成しており、大橋の上と川床では30m以上も高低差がある。谷の集落はまだ昔の名残をとどめているお宅が多く、崖上の上谷戸通りの一角に2坪ほどの敷地で庚申塔が祀られている。

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祀られているのは笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、青面金剛像は左手にショケラを下げている。右側面には寛政6年(1794)3月の造立年、左側面には「坂浜村庚申講中」の文字がある。基壇には多くの願主名(計17名)が刻まれており、正面には「上谷(かさやと)日待講」の銘、そして加藤姓6人、榎本姓5人、高野姓3人ほかが刻まれていた。

場所 稲城市若葉台1丁目1-18

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2024年10月 9日 (水)

押立神社の庚申塔(府中市押立町)

府中市押立町にある押立神社は慶長年間(1596~1615)に山城国稲荷大神(現在の京都伏見稲荷大社)の分霊を多摩川の辺りに祀ったのが始まりで、正法年間(1644~1648)の洪水で流されたので、今の場所に移されたという。ということは押立町が稲城と分離したのはそれ以前なのだろうか。

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訪問時は祭礼の準備中で賑わっていた。400年間も続いたお祭りだが、日本全国それ以上の歴史をもつ郷土の祭りも多い。未来に向かって残してもらいたいものである。神社の鳥居は東向きに開いているが、この前の道が押立通りで、南側に東西に延びる道が昔からの多摩川の左岸の道である。

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鳥居の脇にぽつんと立っているのは庚申塔である。もともとは笠付角柱型であったのがわかる。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、側面には享保14年(1729)2月の造立年が刻まれていた。右側面には「奉造立庚申供養」の文字、左側面の造立年脇には「武州多摩郡府中領押立村」の銘がある。

場所 府中市押立町4丁目31-15

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2024年10月 6日 (日)

龍光寺の石仏(府中市押立町)

府中市押立町にある龍光寺は天台宗の寺院で、創建は不詳ながら寛永年間(江戸時代初期)にはあったとされる。深大寺の末寺で、当時から多摩川の河畔に立つ寺院だった。

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山門脇には本村神社があり、こちらは明和年間(1764~1772)の創建。奉行の川崎氏が神殿を開発し祀ったもの。押立の本村にあるので本村神社とした。山門から本堂はすぐ、割にこじんまりとした境内である。

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本堂の左手には自然石で造られた二十三夜塔がある。造立年は天保3年(1832)夏6月と刻まれている。龍光寺の銘のほか、奉行だった家系だろうか川崎家が4人、願主名にある。江戸時代はこの地域だけは男性のみの月待講だったのか男性名だけである。

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本堂脇を入ると墓所の手前に石仏が並んでいる。一番左にあったのは、宝暦8年(1758)10月造立の回国供養塔。正面には「日本回国供養塔」とあり、「武州多摩郡押立村 清水市左衛門」の銘がある。右のくし形角柱型の石仏は馬頭観音。一面のみの馬頭観世音菩薩が陽刻されており、造立年は文化4年(1807)11月とある。

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首なしの小さな丸彫り地蔵を挟んでその先はくし形角柱型の大乗妙典回国供養塔。造立年は明和6年(1769)8月で「生国羽州置賜郡尊岡村 願主円心」とある。尊岡村は聞いたことがないが、置賜の小国に泉岡村という村があったらしいのでそこかもしれない。隣の上部欠損した舟型光背型の地蔵菩薩像は造立年が欠けているため不明だが、「4月 武州多摩郡押立村敬白」の文字があり、「奉造立地蔵尊一体ため念仏供養二世安楽也同行」の文字があるので念仏講中によるもの。右の背の高い丸彫りの地蔵菩薩像は享保4年(1719)9月の造立で、こちらの台石には「奉造立地蔵菩薩 武州玉郡念仏講中敬白女人」の文字がある。

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山門と本堂の間に戻ると目立つのは3基の大きなくし形角柱型の読誦塔。右の日陰になっているのが延享元年(1744)中秋彼岸の供養塔で、中央は寛延3年(1750)2月の造立、左は宝暦5年(1755)2月のもので、3基とも川崎家によるものである。

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山門内側の隅にあるのが丸彫りの地蔵菩薩坐像。造立年は文政4年(1821)6月で、基壇正面には「地蔵大菩薩」の文字。左側面には「信心老若男女二世安楽也」とあり、これもまた川崎家によるものであった。

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山門の外側の植込みにあったのがかなり風化の進んだ笠付角柱型の庚申塔。造立年は宝永元年(1704)2月とあり、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「奉供養庚申」「施主講中十八人 武州世田谷領押立村」の銘がある。明治初期の地図をみると押立村は割と大きな集落で、稲城村から押立の渡しを経て甲州街道を通って江戸へ向かう往来の重要な拠点だったことがわかる。

場所 府中市押立町4丁目35-2

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2024年10月 3日 (木)

押立町の地蔵堂(府中市押立町)

広域の話になるが、多摩川の右岸と左岸に同じ地名がある例がいくつもある。世田谷区等々力と川崎市等々力、世田谷区宇奈根と川崎市高津区宇奈根、調布市布田と川崎市多摩区布田などがあるが、押立もまた府中市押立町と稲城市押立とがある。これらは概ね多摩川が暴れ川だったために、かつては一つの地域だったものが引き裂かれたようになったためである。ただし明治時代以降の流程は変わっていないので、江戸時代以前に分かれたものだろう。押立は川の流れで自然堤防が出来たことに由来するなど諸説ある。

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府中市側の押立町の路地に覆屋があり、その中に2基の石仏が祀られている。周辺に新しい道が沢山出来ているが、実はこの小堂の前の道が江戸時代から続く道で、この先の多摩川土手から渡し舟が出ていた。下流には矢野口の渡し、上流には是政の渡しがあったという。昭和初期にはほぼ使われなくなったが、二つの押立が結ばれたのは21世紀直前のことで、中央自動車道から分岐した稲城大橋がそれである。

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左の丸彫りの地蔵菩薩像は寛政元年(1789)10月の造立で、「押立本村女念仏講中」の銘がある。右の石仏は馬頭観世音が陽刻されている角柱型の馬頭観音。三面六臂の馬頭観音で、嘉永3年(1850)2月の造立である。側面に「世話人 高木惣右エ門 横田弥右エ門」と記されている。江戸時代にはこの前の通りを多くの人々が往来していたのだろう。

場所 府中市押立町5丁目7-1

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