平尾原経塚(稲城市平尾)
稲城市平尾の中央を貫く平尾中央通りに面して三角の土地があり、平尾原経塚と呼ばれている。江戸時代に全国六十余州の霊場を回って写経をしそれを収めた塚である。この塚が造られたのは宝永5年(1708)で、当時はここから20mほど西にあったという。平成4年(1992)に建物建築のために現在地に移された。
明治時代の地図を見ると、平尾中央通りは元からの村の中央通りだったようで、右の斜めの路地も当時は存在し、この路地の先には鳥居のマークがあることから、そこが元の経塚かもしれない。経塚は周りよりも1mほど高く土盛りされており、その上に堂宇が建てられている。
堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。日月は見えないが、青面金剛像と三猿が描かれている。右肩には「奉新造庚申尊供(養)安穏後生清浄」の文字があり、造立年は元禄6年(1693)9月とあるので、経塚の造築以前のものである。
堂宇のそばには角柱型の馬頭観音がある。造立年は嘉永5年(1852)2月で、台石には「馬持中」とあり、右面には造立年が刻まれている。この馬頭観音から左に向いたところには大きな経典供養塔がある。
これが経塚を示すもので、正面には「奉納大乗妙典日本回国」とあり、全面側面には多くの文字が刻まれている。造立年は宝永5年(1708)10月で経塚と同じ時に造られたものである。「武州多摩郡平尾村 導師宝泉寺法印賢星」の銘と、「江戸麻布法菴寺第子 願主深誉伝心」という文字がある。側面には願主名が多数刻まれていた。
場所 稲城市平尾1丁目49-7
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