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2024年11月29日 (金)

地蔵堂の庚申塔(多摩市和田)

高蔵院の東、和田中学通りと庚申塚通りの交差点に少し土盛りした土地があり、地蔵堂が建っている。この地蔵堂は真言宗の高蔵院の境外仏堂で、将軍地蔵が本尊と聞いたが、堂宇内をのぞいてみてもそれらしい地蔵は見当たらなかった。

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狭いながらも居心地の良い境内で、少し高いだけに眺めがよい。この地蔵堂に向かって左の隅、愛宕方面の角にひっそりと1基の庚申塔が立っている。この辺り江戸時代から明治にかけては、この地蔵堂より東が百草村(京王線沿いの百草村の飛地)で西が上和田(あげわだ)村だったらしい。この辺りが丘陵部と大栗川河畔の田んぼとの境で人家が集まっていた。

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庚申塔は駒型で、元禄13年(1700)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、「武列多摩郡…」の銘がある。下部には願主名が刻まれている。何気に300年以上前の庚申塔だが、江戸時代中期の石仏の石質はすこぶる良い。

場所 多摩市和田544-2

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2024年11月26日 (火)

上和田の六地蔵(多摩市和田)

多摩市和田の高蔵院下、和田中学通りと庚申塚通りの出合う交差点のやや高蔵院側(西側)に簡素な堂宇があり、地蔵菩薩が祀られている。交差点角にあるのは地蔵堂で、覗いてみたが特に祀られている地蔵は見当たらなかった。

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堂宇の中に祀られていたのは7基の地蔵菩薩。きれいにされており地元に守られているのがわかる。多摩市の資料には「相沢与吉氏がお守りしている」とあるが、史料は昭和後期のものなので、代変わりしても続けておられるのだろう。7基なのに六地蔵というのは、右手前の1基が別のお地蔵様だからで、こちらは座像である。

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右手前の座像は寛政12年(1800)3月造立のもので、「施主十方一切良生」「浄心法師生国伊勢国 久兵衛」の文字が基壇にある。残りは丸彫りの六地蔵菩薩で、宝暦11年(1761)11月の造立。「女中念仏」「武州多摩郡日野領上和田村」の銘がある。東隣の百草は日野村の飛地だが、ここも造立のころは日野領に属していたのだろうか。

場所 多摩市和田544-2

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2024年11月23日 (土)

高蔵院前の馬頭観音(多摩市和田)

多摩市和田地区は江戸時代は和田村だった。一時期2人の旗本支配になり、中和田と上(あげ)和田に分かれたが、明治時代には再び一つの和田村となった。東側に隣接したのが百草村(日野領百草の飛地)であった。

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上和田の中心になるのが真言宗の高蔵院。地頭であった山中新右衛門が天正年間(1573~1592)に再建したと伝えられる。中和田と上和田は大栗川の右岸左岸に分かれており、その間の大栗川河畔には田んぼが広がっていた。その高蔵院の向いの大きなお屋敷の塀にくぼみがあり、石仏が祀られている。

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石仏は御影石で造られた馬頭観世音菩薩である。かなり新しいものと見受けられた。造立年などは読み取れなかった。御影石は文字を彫り込んでもまず読めない。馬頭観音の周りには光背のように硬貨が供えられていた。

多摩市の史料によると、この地には元から民家の垣根の下に馬頭観音が祀られていたようで、裏には「石坂茂兵衛」の願主名があると記されている。史料の馬頭観音の石質は砂岩とあるので、今ある馬頭観音はその後の再建かもしれない。

場所 多摩市和田672

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2024年11月20日 (水)

庚申塚古墳(多摩市和田)

多摩市和田の野猿街道と都道157号線の丁字路の西にもう一つの丁字路があり、そこから南に延びている道が庚申塚通りという名前になっている。野猿街道から300mほど下ったところで左から総合体育館通りという道が合流するその先にあるのが庚申塚古墳。

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標柱に書かれているのは、「和田の台地には6~7世紀頃の豪族の墓(古墳)が多数造られたが、現在その大部分が地上から姿を消している。この古墳は当時の姿を残す貴重な遺跡である」という説明。庚申塚古墳と石仏はとくに関係はなさそうだが、しっくり合うのも面白い。

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左は庚申塔。おそらくは舟型光背型だったのだろうが、かなりの部分が破損している。確認できるのは青面金剛像の一部と三猿。造立年も不詳である。地元では「いぼとり庚申」と呼ばれてきたらしい。疱瘡に霊験あらたかだったのだろうか。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像も文字が全く読めない。どちらも江戸時代のものではありそうだ。

場所 多摩市和田403-6

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2024年11月17日 (日)

並木稲荷下の地蔵(多摩市和田)

野猿街道(都道20号線)と都道157号線の丁字路は大きな交差点だが、信号機には交差点名がない。「和田」としてもおかしくはない気がするのだが、ここで起きた事故を報告するのは大変ではないかと心配する。交差点名は何かあった時に必須なものなので「多摩二小前」でも「並木公園前」でもいいから付けてほしいものである。

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この丁字路の交差点、脇には小川というか水路が流れている。川の名前は分からない。丁字路の少し聖蹟桜ヶ丘寄りから路地が奥につながっている。竹藪が見える。それを進んでいくと、丸石の擁壁があり、その角に地蔵菩薩がコンクリートブロックに囲まれて立っていた。立っていたというよりは丸石の擁壁に寄りかかっていたというのが正確である。かつてはここに庚申塔もあったらしいが、今はない。

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舟型光背型の地蔵菩薩立像は誰かが危害を加えたものとしか思えなかった。さすがに重くて元に戻すことは不可能であきらめた。失敗して壊してしまってはさらに大ごとになってしまう。地蔵菩薩は文政7年(1824)8月の造立で、「當所念仏講中」の文字がある。擁壁の上にあるのは並木稲荷神社だが、鳥居はあるものの民家のような入口があるだけで、お参りは石段の下で済ませてしまった。

場所 多摩市和田72

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2024年11月14日 (木)

宝泉院の石仏(多摩市東寺方)

多摩市東寺方にある宝泉院は真言宗の寺院。創建年代は不詳、史料には関戸村小名原関戸にあり、江戸時代末期に一ノ宮村の万平という人が地蔵を寄進したという記録があるらしいが、それ以外はほぼ不詳。都道157号乞田寺方線に入口があるが、石仏は大栗川に下る脇道側に並んでいる。

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宝泉院より南と南西の地域がかつての東寺方の集落である。しかし明治時代の地図にはこの場所に寺のしるしはないので、もともと東寺方村の拠り所の草庵のような寺院だったのかもしれない。

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左端は丸彫りの地蔵菩薩立像で、享保4年(1719)2月の造立。右側には「武州多摩郡原(関戸)村」の銘がある。台石正面には「男女燕講中」とあるが燕の意味は分からない。右の丸彫りの地蔵菩薩坐像は安政5年(1858)4月の造立。台座には亀と犬の石像がある、正面には「萬霊」の文字、脇には願主名などが刻まれていた。

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地蔵の右には庚申塔がある。舟型光背型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿にショケラを下げている。前からは見えないが台座には大きな鶏が二羽(二鶏)あるようだ。造立年は明和2年(1765)10月で、「當村念仏講中」の文字があるようだ。右の小さな舟型光背型の地蔵菩薩坐像は明治20年(1887)4月のもの。「慈眼山宝泉院」の銘がある。

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一番右にあったのはかなり摩滅が進んだ大きな石塔の前に黒御影石の新しい「馬頭観音供養塔」。もともと後ろの大きな馬頭観音は天保6年(1835)11月に建てられたもので、「三ケ村講中」の文字がある。川辺にあったものを昭和47年に持ってきたらしい。

場所 多摩市東寺方495

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2024年11月11日 (月)

寿徳寺観音堂の石仏(多摩市東寺方)

東寺方にある寿徳寺観音堂、訪問時は駐車場の外から施錠されていて、観音堂の前にある石仏を望遠で確認するしかなかった。この観音堂は新しいもので、主に葬祭関係の行事に使われている。この観音堂のあたりはかつて大屋敷と言われた土地だという。標柱には「寿徳寺・山神社・観音堂のある谷戸の奥には大屋敷という地名が残り、中世初期の土豪屋敷があったと伝えられる。この付近は昔の多摩の景観をよく残している場所である。」と書かれていた。

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観音堂の正面入り口の左右には3体ずつに分かれた六地蔵があり、上の写真はその右半分である。さらに右の舟型光背型の聖観音像は延享元年(1744)の造立で、「武州多摩郡寺方村」の銘がある。

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対になる向かって左手には残りの3地蔵がある。この対の六地蔵は、安政7年(1860)2月の造立で、「一宮村施主杉本万年」そして「当村廿八人」の銘がある。その左の自然石の石塔は月待供養塔、嘉永2年(1849)に造立されたものである。寺方大屋敷は関戸城の裏手、表側は佐伯屋敷で、そちらは鎌倉街道の本筋にあたる。

場所 多摩市東寺方757

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2024年11月 8日 (金)

寺方大屋敷下の石仏(多摩市東寺方)

京王線聖蹟桜ヶ丘駅の南側には多摩川の支流大栗川が流れており、その右岸左岸が東寺方という地名。その先の丘の上には桜ヶ丘という住宅地があるが、ここはもともとは山の中だった。昭和の中頃高度経済成長期に山は切り開かれ一面が住宅地になった。そこが桜ヶ丘で、その西隣が東寺方である。

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今は野猿街道から多摩市和田で都道が分岐し、町田市につながっているがこの道筋は昔の鎌倉街道につながる村の主要道であった。都道157号線が開通する前は宝泉院から観音院前を経て落川に至る道筋がその道である。東寺方の中心部に入って道が上り坂になると間もなく数基の石仏が祀られているのが目に入る。

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坂下側にあるのが駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は享保8年(1723)11月とある。「武刕多摩郡(東)寺方村 施主」の文字が見られる。元は小川の近くにあったと資料にあるので、昭和年代にこの地に移設されたものだろう。

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その少し上には3基の石仏があり、左の丸彫りの地蔵菩薩立像は天保12年(1841)正月の紀年がある。「当山二拾四世如山 造立」の文字があり首は付け替えたものと思われる。中央の丸彫りの地蔵菩薩坐像は文久3年(1863)2月の造立。「地蔵願主尊」「武刕多摩郡上落川一放庵義宗尼願立之」とある。右の角柱型の石塔は普門品供養塔で、期限2540年という文字が右側面にある。造立年は明治14年(1881)である。

場所 多摩市東寺方760

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2024年11月 5日 (火)

高勝寺旧参道六地蔵幢(稲城市坂浜)

1960年代以前の坂浜はほぼ山里だったようだ。高勝寺から三沢川沿いの鶴川街道に下る道が昔からの道で、1974年に京王相模原線が開通すると、この道は分断されてしまい、まるで水路のような道になってしまったが、これが街道筋から高勝寺へのもともとの参道である。

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この急な階段と狭いトンネルと抜けると樹木に囲まれた道が少し続く。まもなく空が広がり、三叉路になる。山側に進むと個人所有地になる。川側に下ると天神通りに出る。この三叉路の真ん中に六地蔵幢が立っている。

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とても大きなもので、高さは3.2mほどもある。造立年は比較的新しく、安政7年(1860)3月、当山三十四世義雄の銘がある。念仏講中によるもので檀家頭は富永家。基壇には「村中他檀中」の文字がある。

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地蔵六角幢から少し降りて、天神通りに出る傍に笠付角柱型の道標が立っている。この辺りは小字では並松と呼ばれていた場所。道路側には「西 東京道」、裏には「稲城村青年団」、左面には「左 生田村」、裏側は確認できなかった。おそらく建立年があるのだろう。雰囲気的には明治から大正にかけてのものだと思われる。

場所 稲城市坂浜556

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2024年11月 2日 (土)

高勝寺の石仏(稲城市坂浜)

稲城市坂浜にある岩船山高勝寺は真言宗の寺院。創建は古く、応安元年(1368)で江戸時代には相当大きな勢力を持っていたという。もともと京都仁和寺の末寺だった。本堂裏手にあるカヤの樹は見事な巨樹で幹回り6m、高さ25mある。

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門前の通りは高勝寺坂通りと呼ばれ、高勝寺から南は結構な勾配で標高を上げる。高勝寺の標高はおよそ70mだが坂上は110m以上になる。東側には高級ゴルフ場の東京よみうりカントリークラブが広がる。昭和の東京五輪のころ開かれたゴルフ場だが、それまでは山間の村という雰囲気の土地だったはず。

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前述のカヤの樹は神々しい姿を見せてくれるが、その脇にある宝篋印塔も背丈をはるかに超える大きさで、カヤの樹の大きさ推して知るべしである(資料によると高さ2.2m)。この宝篋印塔は延享元年(1744)11月建立のもので、カヤの大きさを測るのにここに置いたのかもしれない。

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カヤの樹の近くには多数の石仏が並べられている。手前(右端)には舟型光背型の地蔵菩薩立像、造立年は文政3年(1820)10月で「台組念仏講中十人」の銘がある。高勝寺の北に宮ノ台という小字があったがそれと関係があるのだろうか。隣には笠欠の角柱型庚申塔が立つ。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉庚申待二世安楽□」「坂浜之内弦巻村」と刻まれているが、高勝寺の下、三沢川流域の小字が弦巻である。こちらの庚申塔は元禄8年(1695)11月の造立。

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隣は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は右となりと同じ元禄8年(1695)だが2月とやや古い。「坂浜村」の銘と、「為庚供養菩提也」の文字がある。その左は角柱型の庚申塔らしい。かなり傷んでいるが、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は分からないが、右側面に「右 八王子道」、左に「左 大山道」と大きく書かれている。

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その隣も庚申塔と思われる。角柱型で、青面金剛像ははっきりしているがそれ以外は不詳。造立年も分からない。右側面には「右 八王子道」、左側面には「左 お乃じ きそ道」とある。お乃じ=小野路、きそ=木曽だろうが、果たして木曽はどこの木曽なのだろう。左となりの舟型光背型の小さな地蔵菩薩は文字が消えていてわからないがおそらく墓石だろう。

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さらに隣にあるのが角柱型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」の文字があり、文久元年(1861)12月の造立年が刻まれている。施主名は榎本喜右ヱ門と書かれている。問題はその左だが、馬頭観音にも見えるし、庚申塔にも見える。じっくり見ていて悩んだが、稲城市の資料によると庚申塔らしい。「武列多摩郡坂浜村□講中」の文字がある。年代不詳だが、「天」の文字があるので、天明か天保年間だろう。

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その隣は墓石、上の写真の左の駒型の石仏は馬頭観音である。造立年は明治3年(1870)3月とある。願主名は高橋新太良と書かれている。

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一番奥にあったのが、首なしの地蔵菩薩坐像と笠付の石柱。右の地蔵菩薩坐像の基壇には「奉納大乗妙典六十六部」とあり、側面には「岩船山」と高勝寺の山号がある。明和元年(1764)11月の造立で「武州多摩郡坂浜村」の銘がある。笠付の角柱は石坂供養塔。天保14年(1843)2月の紀年が刻まれている。ここには富永という姓が刻まれており、富永家は稲城市の名家である。

場所 稲城市坂浜551

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