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2024年11月 2日 (土)

高勝寺の石仏(稲城市坂浜)

稲城市坂浜にある岩船山高勝寺は真言宗の寺院。創建は古く、応安元年(1368)で江戸時代には相当大きな勢力を持っていたという。もともと京都仁和寺の末寺だった。本堂裏手にあるカヤの樹は見事な巨樹で幹回り6m、高さ25mある。

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門前の通りは高勝寺坂通りと呼ばれ、高勝寺から南は結構な勾配で標高を上げる。高勝寺の標高はおよそ70mだが坂上は110m以上になる。東側には高級ゴルフ場の東京よみうりカントリークラブが広がる。昭和の東京五輪のころ開かれたゴルフ場だが、それまでは山間の村という雰囲気の土地だったはず。

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前述のカヤの樹は神々しい姿を見せてくれるが、その脇にある宝篋印塔も背丈をはるかに超える大きさで、カヤの樹の大きさ推して知るべしである(資料によると高さ2.2m)。この宝篋印塔は延享元年(1744)11月建立のもので、カヤの大きさを測るのにここに置いたのかもしれない。

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カヤの樹の近くには多数の石仏が並べられている。手前(右端)には舟型光背型の地蔵菩薩立像、造立年は文政3年(1820)10月で「台組念仏講中十人」の銘がある。高勝寺の北に宮ノ台という小字があったがそれと関係があるのだろうか。隣には笠欠の角柱型庚申塔が立つ。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉庚申待二世安楽□」「坂浜之内弦巻村」と刻まれているが、高勝寺の下、三沢川流域の小字が弦巻である。こちらの庚申塔は元禄8年(1695)11月の造立。

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隣は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は右となりと同じ元禄8年(1695)だが2月とやや古い。「坂浜村」の銘と、「為庚供養菩提也」の文字がある。その左は角柱型の庚申塔らしい。かなり傷んでいるが、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は分からないが、右側面に「右 八王子道」、左に「左 大山道」と大きく書かれている。

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その隣も庚申塔と思われる。角柱型で、青面金剛像ははっきりしているがそれ以外は不詳。造立年も分からない。右側面には「右 八王子道」、左側面には「左 お乃じ きそ道」とある。お乃じ=小野路、きそ=木曽だろうが、果たして木曽はどこの木曽なのだろう。左となりの舟型光背型の小さな地蔵菩薩は文字が消えていてわからないがおそらく墓石だろう。

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さらに隣にあるのが角柱型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」の文字があり、文久元年(1861)12月の造立年が刻まれている。施主名は榎本喜右ヱ門と書かれている。問題はその左だが、馬頭観音にも見えるし、庚申塔にも見える。じっくり見ていて悩んだが、稲城市の資料によると庚申塔らしい。「武列多摩郡坂浜村□講中」の文字がある。年代不詳だが、「天」の文字があるので、天明か天保年間だろう。

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その隣は墓石、上の写真の左の駒型の石仏は馬頭観音である。造立年は明治3年(1870)3月とある。願主名は高橋新太良と書かれている。

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一番奥にあったのが、首なしの地蔵菩薩坐像と笠付の石柱。右の地蔵菩薩坐像の基壇には「奉納大乗妙典六十六部」とあり、側面には「岩船山」と高勝寺の山号がある。明和元年(1764)11月の造立で「武州多摩郡坂浜村」の銘がある。笠付の角柱は石坂供養塔。天保14年(1843)2月の紀年が刻まれている。ここには富永という姓が刻まれており、富永家は稲城市の名家である。

場所 稲城市坂浜551

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