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2024年12月29日 (日)

青木葉天満宮の庚申塔(多摩市落合)

乞田川支流の谷筋にあった集落の地名が青木葉で、現在もその谷筋を南北に通るのが青木葉通りという生活幹線道路である。青木葉通りが落合けやき通りと交差するあたりから少し北西の高台にあるのが青木葉天満宮である。

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麓は住宅街だが、天満宮へは階段を上っていく。高低差は10~15mほどだろうか。社務所のような建物があり、その脇を右に回り込むと裏手に天満宮の本殿がある。天満宮の由来については、寛政6年(1794)に同じく落合にある東福寺の住職が氏子とともに勧請したもの。明治4年の神仏習合で白山神社に合祀されたが、昭和59年(1984)~昭和60年(1985)に区画整理事業で現在地に遷移した。

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社殿の脇に頑丈な堂宇があり、そこには庚申塔が祀られている。ちなみに、江戸時代には五人組という制度があり、落合村では唐木田、中組、山王下、青木葉、上之根(下落合)がその五人組として協力して道普請などしていたようだ。この辺りは江戸時代以前の関東の中心だった府中と鎌倉を結ぶ道、いわゆる鎌倉街道が何本か通っていた相模道ともいわれる道で、青木葉筋がそうだったらしい。

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庚申塔は舟型光背型で、宝永3年(1706)2月の造立。日月、青面金剛像、三猿が描かれている。裏手の山は標高90m程度の広い大地になっていて、団地や公園があるが、開発以前はさらに40mほど高い山の中だった。その山を削って近代化した今、その脇に残る庚申塔は存在感がある。以前、この庚申塔は「別当坂」にあったと説明版に書かれていた。別当坂は少し南にあったようだがその場所は不明。

場所 多摩市落合2丁目24-1

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2024年12月26日 (木)

落合白山神社の石仏(多摩市落合)

落合白山神社は多摩センター駅からパルテノンを過ぎた多摩中央公園の裏手にある。多摩センターにはイオンやサンリオピューロランドなどがあるが、大部分が昔は山だった。乞田川に注ぐ支流の谷あいを青木葉と呼び、そこに白山神社が鎮座していた。創建年代は不詳だが、鎌倉時代からあるという説もある。

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社殿の向こうにそびえるビルはベネッセのビル。多摩センターの開発は1970年代からで、いわゆる団塊の世代が住処を求めて集まったエリアなので、今は神社の七五三に来るのは孫やひ孫の世代。こうして眺めていると、100年後も神社はありそうだが、後のビルはなさそうな気がする。

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社殿の裏手には石仏石塔がいくつかあるが、この土公神が珍しい。丸い自然石で造られたもので、正面には大きく「土公神」と書かれている。造立年は安政5年(1858)2月で、「下落合講中」の銘が刻まれている。開発以前に裏山の頂上にあったものを明治時代に移転したらしい。のちにニュータウンの開発が始まり、神社の境内に落ち着いたようだ。

場所 多摩市落合2丁目2-1

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2024年12月23日 (月)

下落合八坂神社の石仏群(多摩市愛宕)

ここも多摩センター駅から近い。北側の台地上には団地があるが、もとは山を切り崩して作られた住宅地である。1970年頃まではまさに山の中だった場所で、その麓に残るのが下落合八坂神社。創建年代は不詳で、下落合(別名:上之根)の講中が祀ってきた神社で、昭和55年(1980)に多摩ニュータウン開発のため、周辺の社や石仏を集めて祀った。

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向かって右にある建物は下落合地区の集会所になっている。擁壁との間の奥に八坂神社が鎮座しているが、社殿には山王神社・弁天神社・三峰神社・榛名神社・御巌神社・金比羅宮・八幡神社などが祀られている。一番手前の大きな石碑は多摩ニュータウン開発時の移設について記されている。

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一番奥の社殿寄りにある背の高い丸彫の地蔵菩薩立像は宝暦5年(1755)8月造立の回国供養塔。台石正面には「奉納大乗妙典六十六部供養佛」の文字があり、側面には武州柚木領落合施主廻山の銘がある。

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左の覆屋下には合わせて13体の丸彫の地蔵菩薩立像が並ぶ。大きさも微妙に違うのでどの組み合わせの六地蔵なのかがわからない。手前の並びの低い地蔵には慶応3年(1867)の紀年が入っているが、後の列のものには安政8年(1779)や安永3年(1774)、安永8年(1779)の造立年が刻まれている。

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六地蔵群の左端がこの2体で、これらには安永8年(1779)の紀年が見られた。大規模開発があるとそれぞれの石仏の所縁や出所も分からなくなることが多い。上之根にあった六地蔵が含まれているのは情報が残っているがそれ以外はよくわからない。

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六地蔵の左にあったのは舟型光背型の地蔵菩薩立像で、造立年は元禄10年(1697)11月とここでは最も古いもの。「奉造立地蔵菩薩念仏供養□也」「武州多摩郡柚木領落合村」の銘がある。その左隣は舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。造立年は享保5年(1720)11月で、講中25人の文字がある。手前の角柱は明治5年(1872)の石橋供養塔。

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次にあったのが比較的珍しいタイプで、角柱型の聖観音像である。造立年は嘉永5年(1852)8月で、「武刕多摩郡下落合村 藤原正臣」他の銘がある。聖観音の彫り込みが若干下手なのが愛嬌がある。

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一番道路側には3基の角柱型の石仏。右奥が馬頭観音で、正面には「馬頭観世音」の文字、文久元年(1861)11月の造立。これも元は上之根にあったらしく、「世話人落合村中 願主 同勇治郎」の銘がある。手前の角柱は明治5年(1872)の石橋供養塔で、左後ろの石柱には「道祖神」の文字がある。造立年は安政3年(1856)9月で、「當所神之根中 」の文字が見られる。

場所 多摩市愛宕4丁目14

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2024年12月20日 (金)

瘡守稲荷宮の石仏(多摩市山王下)

多摩センター駅の北側には森が広がっている。もともとこの辺りは山深い土地だった。多摩センター地域の住宅開発に伴い、1974年に京王相模原線が多摩センターまで延伸、一方小田急多摩線は翌年1975年に延伸してきた。京王線がその先の南大沢や橋本、小田急線が唐木田まで伸びるのはそれから十数年後のことである。

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山王下の住宅地の一角に山に登る長い階段がある。この辺りの高低差は20m余り、広い階段を上っていくと小さな神社がある。稲荷神社である。消えかかった説明版を読む。「此の場所に祀られて居る稲荷神社、地蔵尊等は、多摩ニュータウンの事業用地として都に買収され、昭和47年に移転されたもの」とある。稲荷神社は小泉家により元文5年(1740)に創建されたもの。瘡守稲荷というのは、昔は疱瘡(天然痘)がしばしば流行り、治癒の霊験があったことから付いたのだろう。

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稲荷神社の手前に近代的な堂宇があり、丸彫の地蔵菩薩立像が4基並んでいる。右端は、享保5年(1720)8月造立の岩船地蔵尊。岩船地蔵は海の近くにあることが多いが山の中である。基壇が船っぽいが違う気もする。右中の地蔵菩薩は天保6年(1835)6月の造立で、願主小泉清八氏の銘がある。左中は慶応2年(1866)11月の造立で、これも願主は小泉氏。そして左端の新しい地蔵は昭和62年(1987)3月に小泉治助氏が建之とある。山王下のこの辺りは小泉氏のテリトリーだったようだ。

場所 多摩市山王下1丁目9-4

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2024年12月17日 (火)

山王下の石仏(多摩市山王下)

京王多摩センター駅の北側、都道158号線より北側が山王下。新しい地名かと思いきや、古くからある落合村の小字が山王下だった。昔、この辺りがほとんど山の中だった時代に、山の上に山王社があったことに由来する。山王社は近江国の日吉神社の山王権現を祀り、都内では江戸三大祭りの赤坂山王神社の祭りが有名。

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駐車場の脇にブロック塀が切れたところがあり、そこに堂宇が切ってある。堂宇の中には2基の石仏があり、左が庚申塔、右が道祖神である。庚申塔は元禄2年(1689)3月の造立で多摩市内で2番目に古い庚申塔。文字塔で上部に日月、下部に三猿が陽刻されている。「奉庚申供養為二世安楽」の文字が見られる。

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右の角柱型の道祖神は正面に「道祖神」と大きく書かれている。造立年は安政2年(1855)8月で、「山王下講中」の文字がある。ブロック塀になっても守られていることに感謝したい。

場所 多摩市山王下1丁目14-3

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2024年12月14日 (土)

秋葉神社の石仏(多摩市中沢)

小田急多摩線唐木田駅と多摩センター駅の間、現在の住居表示は中沢だが、その大部分は府中カントリークラブというゴルフ場。中沢の東端を小田急多摩線が走っている。小田急の走る谷あい(唐木田谷戸)からは40mほど高いところにゴルフ場が広がっている。古い地図を見るともともとはゴルフ場の中に切れ込んだ谷筋の集落を中沢と呼んでいたらしい(中沢谷戸)。

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小田急多摩線の線路の傍にあるのが秋葉神社。秋葉神社と言えば防火の神様である。道路よりも数m高い境内だが、昔はさらに10mほど高かったという。天明2年(1782)の勧請で、三本松に住んでいた古狐を焼き殺してしまったことから、上落合に火事が次々起きたため、遠州の秋葉神社から火伏せの神として勧請した。上落合全体(山王下、中組、唐木田)で祀っていた。

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本殿は小さな神殿だが、境内には複数の石仏が祀られている。堂宇内の一番左にあったのが、丸彫の地蔵菩薩立像。宝永6年(1709)10月の造立とあるので秋葉神社の勧請よりも古い。この地にはそれ以前に地蔵院という地蔵堂があって、そこにこれらの石仏が祀られていたという。「奉供養大乗妙典一千部読誦之処父母菩提也」「施主 武州柚木領落合村 川井氏」の文字がある。川井家は多摩市の古い名家のひとつである。

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その右には六地蔵ならぬ七地蔵が並ぶ。おそらく一つは六地蔵に含まれない。六地蔵の造立年は天明2年(1782)11月で、秋葉神社の勧請と同じ年である。かなり風化が進んでいる。

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堂宇の右には角柱板型の庚申塔がある。文字塔で中央に「庚申塔」とあり、下部に三猿が陽刻されている。造立年は寛政11年(1799)10月とある。「施主 峰岸□右衛門」のほか、川井姓、進藤姓、井上姓、小泉姓の名が刻まれている。

場所 多摩市中沢2丁目18-1

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2024年12月11日 (水)

唐木田稲荷神社の石仏群(多摩市唐木田)

小田急多摩線の終着駅唐木田。終着駅というのは何となく風情がある。もっとも唐木田駅の先には広い車庫があるので終点感は若干薄い。唐木田というのは昔からの字名で、一説には中国の唐王朝滅亡の折、阿倍仲麻呂の子孫が亡命した王女を助け、王女が暮らしたのがこの唐木田だという。なんだかシャレみたいな話だが、真偽は不明。

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唐木田駅から電車車庫を見下ろしながら西に進むと唐木田稲荷神社がある。神社の多くは小高い場所にあるが、ここは周辺と高低差がない。昔は道筋からかなり高かったのが、宅地開発で谷が均されてしまったのだろう。鳥居をくぐると正面に社殿があり、社殿に向かって右手に石仏や小祠が並んでいる。

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写真の右は秋葉山供養塔。秋葉山は火を収める神様で、本宮は静岡県天竜川沿いの山の上。40年ほど前に天竜スーパー林道が開通したときに訪問したことがあるがとんでもない山中である。しかし火防の神様として全国に1,000社以上の末社を持つ。この供養塔、おそらくは燈籠だったのではないかと思われる。造立年は寛政11年(1799)9月で、「秋葉大権現」の文字と側面には「施主横倉与兵衛」の名がある。左は角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、寛政12年(1800)10月の造立。こちらも施主は横倉与兵衛である。

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本殿の向かって左手には大きめの堂宇があり、多摩ニュータウン造成時に周辺から移設された多数の石仏が祀られている。右端手前は舟型光背型の地蔵菩薩立像で、宝永5年(1708)2月のもの。「奉念仏供養同行12人」の文字がある。後ろは像容からすると大日如来像だろうか。こちらは寛政3年(1791)9月の造立で、やはり横倉与兵衛が願主である。寛政年間は間違いなく横倉与兵衛なのだろう。

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続いて左にはおそらく聖観音像だろうと思われる舟型光背型の石仏。左となりは薬師如来だろうか。この辺は年代がわからないが、資料によると横倉与兵衛の銘があるらしいので、寛政3年(1791)頃の可能性が高い。横倉与兵衛は当時のこの辺りの豪農横倉家の当主。横倉与兵衛は文化9年(1812)に85歳で他界したというが当時としてはかなりの長寿である。

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その左には舟型光背型の相対道祖神がある。寛保元年(1741)6月の造立で、「道祖神 道中安全祈同行10人」の銘がある。これも横倉姓がある。左は比較的初期型といえる庚申塔で、シンプルな文字塔の下部に三猿が陽刻されている。造立年は宝永5年(1708)2月で、「奉待庚申供養」「同行6人」とある。ここの石仏は同行人数が少ないが、横倉家を中心にかなりの財を有していたのではないかと思われる。

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一番左端にあったのがかなりあからさまな男根型の金精様(魂勢宮と書かれている)で、もともと慶応3年(1867)に造られたものがあったが、それを昭和52年(1977)に再建している。手前の台座に女性が腰かけると子宝に恵まれるとされていたようで、その様子を記録したものを見てみたいと思うが、さすがに見当たらない。

場所 多摩市唐木田1丁目13-4

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2024年12月 8日 (日)

庚申神社(多摩市桜ヶ丘)

多摩市桜ヶ丘にある庚申神社は興味深い神社である。ほぼ神社らしくなく小ぶりな社務所のような建物があって、その脇を裏手に回り込むと堂宇が二つ、一つは稲荷神社の祠でもう一つの大きいほうが庚申神社の小堂である。ご神体はというと庚申塔が祀られている。

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東側の斜面の上に庚申神社があるが、現住所は桜ヶ丘となっている。しかしこの神社から東が桜ヶ丘で写真の左手の石垣は落川である。昔は東寺方から貝取へ抜ける山道街道であった場所。桜ヶ丘という住居表示のエリアは昭和前期までは山そのもので、昭和中期から開発が始まり今では丘の上の広大な住宅街になっている。

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庚申様の堂宇をのぞいてみると中央にご神体の庚申塔が祀られている。山型板状というのか、駒型と舟型の中間的な外観。青面金剛像と三猿が描かれており、造立年は元禄14年(1701)10月と古いものであるが保存状態は極めて良い。森沢姓、新倉姓ほか無苗字の願主名が左右に刻まれている。

場所 多摩市桜ヶ丘3丁目42

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2024年12月 5日 (木)

落川の石仏群(多摩市落川)

バスに乗っていて幹線道路わきに堂宇があるのをふと見かけた。あとでそこに立ち寄ってみようと思い訪問した。都道157号線乞田東寺方線という広くて新しい道に、和田原通りが出くわす角に質素な堂宇がある。落川という地名は日野市にもあって、京王線百草園駅周辺だが、どうもこっちが落川村の飛地であったらしく、隣接する百草と同じようだ。

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堂宇はトタン製だが大切にされている雰囲気を感じる。堂宇の中には4基の石仏が祀られていた。左端は角柱型(と思われる)の地蔵菩薩立像で、資料によると安永10年(1781)4月の造立年が刻まれているようだ。摩滅が進んでいるのでもしかしたら駒型だったのかもしれない。

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左から2番目は巡拝塔のようだが上半分がなくなっている。資料では天保13年(1842)8月の造立で「四国・西国・秩父・坂東仏閣拝礼塔・大山道」の文字があるらしい。明治時代の地図を見ると都道157線は当時から村をつなぐ幹線道路だったようで、その道が大山道だった可能性が高い。右から2番目は舟型光背型の地蔵菩薩だが文字は全く読めない。一番右の石塔はまったく不明のものだった。

場所 多摩市落川1370-8

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2024年12月 2日 (月)

百草の庚申堂(多摩市百草)

多摩市百草地区はもともと日野百草の飛地だった。しかし時代を経るにつれ、上和田(あげわだ)、百草、落川と並んだ集落は関係を深めていったと思われる。西の上和田と東の落川に挟まれた百草地区は東西南北300mほどの地区で、その北側中心部には堂宇がある。

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堂宇の手前には赤鳥居がある。後ろのお宅は最近建て替え、古い日本家屋が近代的な建築に生まれ変わった。しかしその手前、辻にある庚申堂(地蔵堂)は昔のままのようだ。新編武蔵風土記稿という史料には、もともと「茂草」と書いたのが江戸時代中頃から「百草」になったと書いてあるようだ。

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左端とその隣は庚申塔である。左は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は明和4年(1769)正月で、「百草村講中8人」の銘がある。右の庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。享保13年(1728)10月の造立でこの堂宇では最も古い石仏である。「奉庚申供養」の文字が見える。また「後原村講中」ともあり、後原は百草地区・落合地区あたりの地名で「うしろっぱら」と読むらしい。

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5基ある真ん中は角柱型の光明真言供養塔。文政11年(1827)4月の造立で、武刕多摩郡百草村の銘がある。「武刕多摩郡百草村元 古名 後原」と書かれているので百草村=後原とみていいだろう。右の角柱型の石塔は「念仏供養塔 講中」と刻まれている。造立年は弘化4年(1847)3月で、小さな集落でもいろいろな信仰があるものだと感心する。

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右端は丸彫の地蔵菩薩立像である。台石には「寒念仏供養」と書かれており、明和4年(1767)4月の造立年が刻まれている。この堂宇は相当古くからあるようだ。古い地図を見ると明治時代にはこの辺りは落川という字名になっている。それが大正期の地図には後原となり、戦後昭和30年代までは後原のまま。ところがそのあとは日影和田という地名に代わり、1970年代には再び百草に戻っている。過去の地形図の問題かもしれないが、興味深い。

場所 多摩市百草1171

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