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2024年12月 2日 (月)

百草の庚申堂(多摩市百草)

多摩市百草地区はもともと日野百草の飛地だった。しかし時代を経るにつれ、上和田(あげわだ)、百草、落川と並んだ集落は関係を深めていったと思われる。西の上和田と東の落川に挟まれた百草地区は東西南北300mほどの地区で、その北側中心部には堂宇がある。

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堂宇の手前には赤鳥居がある。後ろのお宅は最近建て替え、古い日本家屋が近代的な建築に生まれ変わった。しかしその手前、辻にある庚申堂(地蔵堂)は昔のままのようだ。新編武蔵風土記稿という史料には、もともと「茂草」と書いたのが江戸時代中頃から「百草」になったと書いてあるようだ。

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左端とその隣は庚申塔である。左は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は明和4年(1769)正月で、「百草村講中8人」の銘がある。右の庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。享保13年(1728)10月の造立でこの堂宇では最も古い石仏である。「奉庚申供養」の文字が見える。また「後原村講中」ともあり、後原は百草地区・落合地区あたりの地名で「うしろっぱら」と読むらしい。

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5基ある真ん中は角柱型の光明真言供養塔。文政11年(1827)4月の造立で、武刕多摩郡百草村の銘がある。「武刕多摩郡百草村元 古名 後原」と書かれているので百草村=後原とみていいだろう。右の角柱型の石塔は「念仏供養塔 講中」と刻まれている。造立年は弘化4年(1847)3月で、小さな集落でもいろいろな信仰があるものだと感心する。

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右端は丸彫の地蔵菩薩立像である。台石には「寒念仏供養」と書かれており、明和4年(1767)4月の造立年が刻まれている。この堂宇は相当古くからあるようだ。古い地図を見ると明治時代にはこの辺りは落川という字名になっている。それが大正期の地図には後原となり、戦後昭和30年代までは後原のまま。ところがそのあとは日影和田という地名に代わり、1970年代には再び百草に戻っている。過去の地形図の問題かもしれないが、興味深い。

場所 多摩市百草1171

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