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2025年1月31日 (金)

駒井通りの地蔵(狛江市駒井町)

狛江市駒井町を東西に抜ける駒井大通りという道がある。見た感じ近年の開発による道路のように見えるが、実は古くからある駒井の幹線道路で、登戸の渡しから駒井を抜けて宇奈根、鎌田へつながる道であった。多摩川の河原のような場所を通るのでほぼ平坦で、微高地でわずかに曲がる程度でとても古道には見えないのである。

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駒井大通りに狛江六小南という交差点があり、その南の角に覆屋がある。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られていた。地蔵の本体のみ新しいように見えたが、狛江市の1978年の資料によると、その時にはすでに再建後だったらしい。卒塔婆には「駒井北向き地蔵尊供養」とあった。

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江戸時代から変わっていないであろう基壇には、「奉造立地蔵大菩薩」とあり、右面には寛政5年(1793)10月の造立年が、右面には「武州多摩郡駒井村 願主 秋元磯右ェ門 高橋三右ェ門 念仏御詠歌講中」の文字が刻まれている。

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覆屋手前の道路ギリギリに建てられていた石柱も時代が古そうである。左側面には「寛政5年(1973)10月」とあるので、地蔵菩薩と同じ時に建てられたもののようだ。右側面には「武州多摩郡・・願主 秋元磯右ェ門 高橋三右エ門」とあり、地蔵の基壇と同じである。地蔵堂の標柱として建てられたものに違いない。

場所 狛江市駒井町3丁目13-11

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2025年1月28日 (火)

緒方三小通りの石仏(狛江市緒方)

緒方の垣根に鎮座する文字庚申塔の丁字路を南へ下る。この道のくねり方はいかにも昔の道という雰囲気がある。まもなく三小通りに丁字路でぶつかるが、その丁字路の塀に祠があり、石仏が祀られている。

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最初は交通安全のお地蔵様かと思ったが、近づいてみてみるとどうもそうではないようだ。残念ながらかなり風化が進んでおり、判別が難しい。この丁字路の三小通りもそれに出合う道も古道で明治初期から地図にある。三小通りは品川用水の田中橋から、ここを通って駒井の河原に抜けている。

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像形からすると地蔵菩薩像ではなさそうである。全体的な形は観音っぽい。左手に持っているものが何なのかがカギになる気がするが、そこがわからない。路傍の石仏は私のようなただの趣味人にはその正体がわからないが、それがまた魅力でもある。

場所 狛江市緒方1丁目4-7

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2025年1月25日 (土)

伊豆美の馬頭観音道標(狛江市中和泉)

狛江市を貫いていた筏道は、六郷土手で青梅奥多摩からの材木を紐解いて納品した筏乗りが山に帰るのに通った道である。狛江市内には複数の筏道ルートがあるが、その中でもメインだったのが狛江駅前の駄倉橋から伊豆美神社を通るルートで、分かれた道が合流するY字路には石仏が祀られている。

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三叉路の頂点にあるのは大気汚染総合測定室という建物らしいが、昭和時代の文献にも同じ名前の建物をランドマークにしている。このブログをご覧になっておられる方からここに石仏があるという情報をいただいて見に来た。実はすぐそばの伊豆美神社には何度かお参りに来ているので、完全なる私の見落としであった。

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石仏はかなり摩滅と崩壊が進んでいて判別が難しいが、狛江市の資料によると、三面六臂の馬頭観世音菩薩らしい。造立年は文政10年(1827)11月で、文字もいくつも刻まれていたらしいが今は読めない。

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脇にあった丸石のモニュメントに、馬頭観音道標に書かれていた文字がアルミニウム板にあった。「右 地蔵尊、渡し場道」「左 江戸青山 六郷道」反対側には「西 府中道」とある。資料では地蔵尊は「当村地蔵尊」で、渡し場は「玉川(多摩川)渡し場」というのが石仏の文字。また「武州世田ヶ谷領 上和泉村 願主 石井奥右衛門」の銘があったようだ。

場所 狛江市中和泉3丁目4-10

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2025年1月22日 (水)

千手院の石仏(狛江市東野川)

狛江市東野川にある千手院は三嶋山覚東寺という名。創建年代は不詳だが、江戸時代には存在したらしい。すぐ北を流れる多摩川の支流の野川は昔は千手院の南側を東に向かって流れていた。都道114号線にある御台橋は当時の野川の橋の名称である。明治時代の地図には千手院の南側に水車もあったようだ。

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現在の都道はほぼ大昔の鎌倉街道と重なっている。御台橋は鎌倉街道の橋なので相当昔からあったはず。昔は上覚東、下覚東に分かれており、京都に近いほうを上覚東、遠いほうを下覚東と呼んだ。覚東は昔は学堂で何らかの学び舎があったという説もある。また覚東と重複して小足立という地名もあり、古い豪族である強頸(こわくび)氏の館=強館(こわだち)から小足立になったという説がある。

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本堂から墓所に通じる通路脇に六地蔵の堂宇がある。地蔵菩薩は近年の再建ものできれいだが、もともとは寛政13年(1801)2月の造立。願主は鈴木嘉右衛門、内田勘左衛門らとされる。古い六地蔵はかなり傷んでしまったので平成2年(1990)10月に平成天皇即位を記念して再建したと記されている。

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その隣にある堂宇には舟型光背型の阿弥陀如来像が祀られている。これは古いもので、寛文8年(1668)正月の造立とある。覚東の念仏講中が祈念して建立したもので、「念仏講中男女46人」の銘がある。裏には栗山五右衛門の銘があるらしい。

場所 狛江市東野川2丁目4-2

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2025年1月19日 (日)

東野川墓所の石仏(狛江市東野川)

狛江と仙川を結ぶ都道114号(松原通り)にあるスーパーいなげや狛江東野川店の隣にやや広い墓所がある。この辺りは覚東というのが以前の地名である。いなげや側にある出入口は閉じられていたので、門の外側から石仏を拝ませていただいた。

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入口のすぐそばに覆屋がある。その下には3基の石仏が並んでいた。一番右の道路側にあるのが板碑型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、寛保3年(1743)の造立年がある。正面には「青面金剛供養塔」の文字のほか「小足立村願主 庚申講中敬白」とあり、下部にある願主名は大半が栗山家、そして残りが田中家であった。

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中央の丸彫の地蔵菩薩立像と左の地蔵菩薩はともに近年の再建と思われるが、基壇や資料には再建前の情報がある。大きいほうの地蔵菩薩には「奉建立延命地蔵」「女中念仏講」の文字とともに、寛延元年(1748)9月の造立年が刻まれている。左の地蔵の基壇は読めなかったが、資料によると「奉造立延命地蔵」の文字と、「施主小足立村 栗山半兵衛」の銘、そして享保5年(1720)11月の造立年があるようだ。

場所 狛江市東野川2丁目20-16

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2025年1月16日 (木)

愛宕神社の庚申塔(多摩市愛宕)

多摩市愛宕はもともと山だったところを開発してできた住宅地。現在も一等三角点の標高は134.7mで、その尾根筋にある愛宕神社は北側の谷あいよりも40mほど高い。そのためバス通りから神社に行くには長い階段を上ることになる。

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息を切らせながら階段を上りきると社殿がある。庚申塔があるのは社殿に向かって左の奥、道路との間のネットに張り付くように立てられている。訪問時、1基だと思っていた庚申塔が2基あって、それもまた驚いたことであった。元からあったほうは舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。宝永2年(1705)3月の造立で、「庚申供養」の文字と「武列多摩郡和田村」の銘がある。

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多摩市の資料にもなかったもう一つの庚申塔は角柱型の文字塔。「庚申供養塔」の文字があり、右面には天明元年(1781)6月の造立年が刻まれている。左側には「上和田領 石坂〇〇 日吉〇〇」の文字が見られた。調べてみたが、多摩市内のほかの地域にも天明元年の庚申塔はない。しかし上和田領とあることから愛宕から北側に広がるエリアに元からあったものだろう。

場所 多摩市愛宕1丁目64

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2025年1月13日 (月)

高橋家墓所の石仏(多摩市乞田)

現在の多摩市乞田は乞田川の流域の地名だが、元来乞田川は蛇行していたので、明治時代以来左岸(北側)が乞田、右岸(南側)が平戸という字名だった。1970年代に多摩センター周辺の大規模開発が進み、乞田川も直線に付け替えられた。今は少しさびれ始めたニュータウンという様子だが、鎌倉時代から南北に鎌倉街道が通る交通の要衝だった。

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府中と八王子を結ぶ都道158号線から一本入った裏道の擁壁下に高橋家の墓所がある。時代の流れを忘れたような区画で、一段高い敷地には複数の石仏があり、低いほうには墓石と板碑群がある。

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一番奥の擁壁手前には大きな3基の石仏。左は弘化4年(1841)10月造立の角柱型馬頭観世音菩薩。「武刕多磨郡 乞田村 貝取村」の銘がある。乞田村の南東に隣接するのが貝取村である。中央は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿、さらにショケラも描かれている。造立年は享保7年(1722)10月。「武刕乞田村」「奉信敬青面金剛転禍為福」の文字がある。右は自然石の「土公神」で造立年は弘化4年(1841)11月。

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向かって右側に並ぶのは、背の高い丸彫の地蔵菩薩が最左にあり、台石には享保4年(1719)8月の造立年と「岩船地蔵念仏供養 同行男女三百弐拾人余」「武刕多摩郡柚木領乞田村」の文字がある。隣の小さいほうの丸彫地蔵菩薩は台石が傷んでいるが、資料によると文化2年(1805)8月の造立。右から弐番目の角柱は馬頭観音で、造立年は天保11年(1840)11月。「願主有山常八」とある。一番右の小さな角柱も馬頭観音である。造立年は慶応4年(1868)7月で明治維新の年。小磯氏の銘がある。

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一段低い高橋家の墓地の奥には多数の板碑が祀られている。一か所にこれだけ集められているのは極めて珍しい。主に1300年代の板碑のようだが、重ねるように立てられており、確認はできなかった。

場所 多摩市乞田1082-2

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2025年1月10日 (金)

峰岸家の石仏(多摩市豊ヶ丘)

京王(小田急)永山駅と多摩センター駅の間の住宅地に忽然とあった石仏。現在はまっすぐな流程になっている乞田川だが、昔はこの辺りを曲がりくねりながら流れていた。もともと乞田というのは乞田川の左岸で右岸(南側)は平戸という小字だったようだ。

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石仏があったのは峰岸家というお宅の一角。後ろに東屋があるが、こちらは井戸場のようだ。きれいに囲われて整備された区画には3基の石仏が並んでいる。一番右の五輪塔のような石仏はなんだかわからない。中央にあるのはひどく摩滅した石仏だが舟型光背型である。主尊が何なのかはわからないが、後ろに「どうそじん(道祖神)」と書かれた札が立っている。

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左の大きなものは笠付角柱型の庚申塔である。日月と三猿が描かれている。正面中央には「奉造立庚申供養講中安全所」の文字がある。側面には、享保18年(1733)11月の造立年があり、「武刕多摩郡乞田村之内平戸」の銘がある。ここの昔の小字は平戸である。

場所 多摩市豊ヶ丘1丁目3-15

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2025年1月 7日 (火)

麦花塚(多摩市貝取)

府中市と町田市を結ぶ都道18号線は多摩市を南北に走る幹線道路。京王永山駅(小田急永山駅)の西を通っており、瓜生川沿いに広い道が走るが、昔も府中道、大山道と呼ばれた街道が走っていた。多摩村から山の中を通って鶴川村へ続く街道である。小田急多摩線、京王相模原線に近い街道脇に民家1軒ほどの敷地を持つ塚がある。

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この塚は麦花塚(ばっかづか)と呼ばれ、多摩市で大規模な土地区画整理事業が行われた昭和後期に周辺にあった石仏を集めたもののようである。時代が変わっても古いものを一掃せずに取り込んでいく日本人らしさを感じる。果たしていつまでこの日本人の心が残されていくのか不安な時代になってきたが、無くなることはないと思っている。

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手前の堂宇には大小の石仏があり、右の小さいほうは舟型光背型の阿弥陀如来像。造立年は古く、寛文13年(1673)2月と刻まれている。「武州柚木領郡宇龍村 奉造立寒念併同行八人 願主安西」の銘がある。左の大きなほうは舟型光背型の地蔵菩薩。こちらはさらに古く寛文8年(1668)10月の紀年がある。「武蔵柚木領郡宇龍村同行十七人」の銘があるが、宇龍村は瓜生村のことである。

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奥にある石仏群の一番右にあるのが舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄で、造立年は宝永2年(1705)10月とある。「武州柚木領瓜生村同行」の文字があり、前述の石仏から一世代進んで瓜生村の漢字は変わっていた。

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こちらのマンボウのような自然石の石碑が麦花塚の所以のものである。表に貝取出身の麦花という歌人の和歌が、裏には多摩・町田市域の歌人三十名の和歌が刻まれている。明治14年(1881)に麦花自身が建之したもの。かれは貝取村で刀鍛冶を営んでいた歌人で、まだ日本が貧しい時代にあってもゆとりある人生を歩んだのだろう。

場所 多摩市貝取1丁目18-3

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2025年1月 4日 (土)

大シラカシと庚申塔(多摩市貝取)

多摩市貝取は乞田川に流れ込む支流沿いに東の支流(瓜生川)には瓜生という地名、西の支流(貝取川)には貝取という地名が付いていた。その二つの支流の間には山があったが、住宅開発で一大団地群となった。貝取の中でも谷の最も奥にあたるあたりに今は市立青陵中学校があり、そのすぐ北に都営団地がある。団地の敷地の中には武蔵野を思わせる林も多く残っている。

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林の中には1本の大きなシラカシがある。その足元には2基の庚申塔が祀られており、傍に説明版が立っていた。「この大シラカシは樹高、枝張り共に約15mに及び、樹齢100~150年と推定されています。もともと大福寺の峰続きの山腹にあったものを、ニュータウンの造成を進める中で移植保存され、昭和56年にこの地に移されたものです。」と書かれている。

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続いて庚申塔の説明があり、「この庚申塔はもと部落内の辻にあったものですが、そこを馬を引いて通ると、馬が暴れたり、馬に乗って通ると落馬したので、この大木の根元に移して祀られたそうです。」とある。右の駒型の庚申塔は宝永元年(1704)10月の造立で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「武州多摩郡柚木領貝取村同行12人」の銘がある。左の角柱型庚申塔はかなり傷んでいる。資料によると文字塔で「奉講庚申供養塔」と書かれているようだ。造立年は元文5年(1740)中秋、「講中貝取村」の銘がある。

場所 多摩市貝取2丁目14地先

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2025年1月 1日 (水)

貝取の石仏群(多摩市貝取)

多摩市の南部にある貝取地区は現在貝取という地名で、隣接する永山や豊ケ丘が昭和の新地名なのに対して以前からある地名だという。とはいえ貝取の地名の由来は不詳で、一説にはこの一帯が昔馬の放牧地で、飼取が訛ったものともいわれるが定かでない。また明治時代の地図にはこの辺りは「瓜生」という字名で、今も通りの西が貝取小学校、東が瓜生小学校のエリアである。

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小川流ラーメン貝取店の駐車場裏の擁壁上に沢山の石仏が並んでいる。以前から若干減っているらしいが、目の前の大通りは今も鎌倉街道と呼ばれる古くからの主要道であるから、ここに石仏が並んでいるのは自然なことだろう。上の写真の左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は寛保元年(1736)10月の造立で、武州多摩郡小野路村の銘があり、「奉光明真言弐百万遍十方諸人二世安楽」の文字。右の駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄。元禄7年(1694)3月の造立である。「奉造立庚申塔 二世安楽也」と書かれている。

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草いきれを感じる斜面の植生がまだ元気な時期に訪問してしまったが本来なら冬枯れして石仏が隠れていない時期が望ましいのだろうが、致し方ない。3基目は舟型光背型の地蔵菩薩立像、造立年は不詳だが「奉立万人諸供養・・、小野路村」の文字がある。右のほぼ草に隠れているのも舟型の地蔵菩薩立像で、宝永2年(1705)9月の造立。「奉造立以念仏供養〇〇也」の文字がある。

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その右には駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、元文元年(1736)の造立、月の部分は読めない。「奉造立庚申供養為二世安楽也」の文字がある。その右の少し小さい角柱は明治9年(1876)3月の題目塔で「南無妙法蓮華経」と「別所瓜生講中」の文字がある。

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唯一丸彫の地蔵菩薩立像は右から二番目。文字が見えないが、資料によると明和年間のもので11月とあるらしい。一番右の草に隠れている角柱は庚申塔で、明和6年(1769)10月の造立。文字塔で「庚申供養塔」とあり、道標を兼ねている。「右 〇〇田、大山道、左かな川道」の文字があるようだ。

場所 多摩市貝取3丁目10-2

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