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2025年2月27日 (木)

庚申湯の庚申塔(西東京市芝久保町)

西東京市(旧田無市)芝久保町の南の端、向台町との境には石神井川の上流が流れており、町境の街道である府中道が南北に走っている。石神井川を庚申橋で渡り北側の芝久保町に入ったところに「庚申湯」という銭湯がある。戦後まもなくから半世紀以上ここで営業している。都市では消滅が進んでいる銭湯だが、川のほとりにあることが極めて多くここも例外ではない。

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庚申湯は月曜と火曜が休業らしい。銭湯の北側に塚があり、その上には覆屋に守られた庚申塔が祀られている。この庚申塔がもとで庚申湯ができ、石神井川の橋の名前も庚申橋となったのは間違いないだろう。府中道はおそらく江戸時代以前からの村街道だったと思われるが、今の府中道は青梅街道田無から鈴木街道までの道である。

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小高い塚の上にある庚申塔は笠付角柱型で、立派なもの。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄だが、正面には「奉造立庚申講供養為二世安楽」の文字と、「武刕多摩郡田無村芝窪 同行30人」の銘がある。造立年は宝永3年(1706)9月と書かれている。存在感のある庚申塚、庚申塔である。

場所 西東京市芝久保町1丁目13-2

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2025年2月24日 (月)

市民公園前の石仏(西東京市向台町)

西東京市は2001年に田無市と保谷市が合併してできた市だが、今でも市役所機能は田無支所と保谷支所に分かれている。個人的にはこの合併は決して成功とはいえないように思うが、川口市が2011年に鳩ケ谷市を吸収合併したのとは違って、両雄並び立つような状況が今も続いている感がある。個人的には合併が歴史と文化を壊すケースのほうが多いように思う。

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旧田無市は東の旧保谷市に対して、カタカナの「ロ」が「コ」に合体するような市の形になっていて、南側の「コ」の下の棒に近いところに向台町がある。写真の交差点は「市民公園前」という名前だが、南北に走る道は市役所通りといい旧田無市役所に通じる。交差点角北東側のマンション脇の欅の下に覆屋があり、2基の石仏が祀られている。

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左は笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、正面には「奉造立庚申尊」の文字と、寛保3年(1743)11月の造立年がある。側面には「武刕多摩郡 田無村向臺 講中29人」の銘がある。右のくし形角柱型の砂岩っぽい石柱には「奉納大乗妙典供養塔」と書かれ、造立年は寛政7年(1795)10月とある。側面には「武州多摩郡 田無村向台」の銘がある。この覆屋は平成12年(2000)6月に回収されたもので、覆屋脇に御影石の標柱がある。

場所 西東京市向台町4丁目13番地先

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2025年2月21日 (金)

徳洲会病院前の石仏(西東京市向台町)

田無の武蔵野徳洲会病院の南には多摩湖自転車道というもともとは水道道路だった直線の道が走っている。この辺りではこの水道道路筋の北が田無市、南が保谷市で市境であった。東京市の水道なので、都道である。都心に向かって真っすぐに伸びており、境浄水場から先は井の頭通りになる。杉並区の和田堀浄水場が終点。

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水道筋と病院の間に2基の石仏がある。一つは庚申塔、もう一つは馬頭観音である。水道をここに敷設したのは村山の多摩湖貯水池の水を都心に送る目的である。過去の地図を見ると大正時代から昭和前期にかけて造られたようだ。

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右側の大きいほうの石仏は笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿が陽刻されており、元禄14年(1701)10月の造立年があるが、別に文化7年(1810)3月再興の文字もあるので、現存するのは後者の再興されたものだろう。「武刕多摩郡 田無村向台 同行22人」の銘が刻まれている。

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左の馬頭観世音菩薩はシンプルで典型的な角柱型。造立年は天保4年(1833)3月と書かれている。天保4年は天保の大飢饉が起こった年で、全国で百姓一揆や打ちこわしが多発した。そんな時代だが葛飾北斎が『富嶽三十六景』を描いたのも同時代。今年の大河ドラマ『べらぼう』の蔦屋重三郎が活躍した時代から半世紀余り後。武蔵野の作物を運ぶ牛馬を供養したのだろう。

場所 西東京市向台町3丁目5番地先

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2025年2月18日 (火)

茶面不動尊(板橋区東山町)

板橋区東山町には古刹長命寺がある。その長命寺から南へ300mあまり、石神井川のすぐ近くに一本松が立っており、その下に堂宇がある。この辺りは昔は上板橋村、石神井川は今とは異なって蛇行していたが、川越街道沿いの長命寺脇から南へ下り、長崎村に向かう道が石神井川を渡る地点は江戸時代とさほど変わっていない。

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堂宇の南側に石神井川が流れているが、堂宇の脇のガードパイプのある小道はかつては石神井川の水を引いていた用水の跡のようだ。昔の道は茶面不動尊からまっすぐに北につながる道である。堂宇の手前には両脇に石柱があり、堂宇脇には「茶面不動尊」と彫られた標石が立つ。その標石には「敷地買収 尊堂新築 記念碑」とある。

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堂宇内に祀られているのは不動明王像。優しい顔をしている。台石には「原台宿講中」とあり、寛政9年(1797)3月の造立年がある。脇には「上宿 中宿 下宿 向鋪」とあるが、台宿は長命寺の傍にあった川越街道の集落、そのほかの地名はよくわからない。

場所 板橋区東山町6-8

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2025年2月15日 (土)

公園の馬頭観音(西東京市向台町)

向台中央通りを西へ進んでいくとスーパーのサミット向台町店の先で道筋が南にズレる。クランクにもなっているが三角形の公園を挟んで、レース場のシケインのようになっている。この道に囲まれた公園はおおぞら北公園という名前だが、サミットが出来たころに出来たらしい。

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公園の南西角にあるのが角柱型の馬頭観音菩薩。ちょうどその場所だけフェンスが向きを変え、道路側から拝むことができるようになっている。公園ができる以前にはどこにあったのかはわからない。

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正面には「馬頭観世音」の文字があり、左側面には昭和11年(1936)11月再建と刻まれている。紀年の脇には多数の願主名が刻まれているが、昭和の初期はまだまだ牛馬が運搬を担っていた時代。この東西の道を通って都心に作物を運んでいたのだろう。昔の地名では田無町の中でも上向台と下向台の間にあたる場所で、この場所は交差点が少しずれてクランク状になっていたようだ。

場所 西東京市向台町3丁目5-69

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2025年2月12日 (水)

民家前の供養塔(西東京市向台町)

西東京市向台町、2001年までは田無市向台町は現在も住宅開発が進む地域である。向台中央通りを西に進むといきなりクランクになるところがある。ここは都市計画道路の交差点になる予定で、東西には幅員12mの道路、南北には幅員16mの道路が建設されることになっている。このクランクの場所は交差点には含まれない。

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クランク道路の角にあったのが一本足の笠屋根に守られた駒型の石仏。おそらく昔からこの辺りにあったものだろう。実はこのクランクの道筋は明治時代の地図でも同じクランクである。なぜそうだったのかはわからないが、田んぼや畑の所有の関係でそうなったのかもしれない。明治8年の地租改正図にはこのクランクの道に「幅1間半」とあるので、当時から2.7mの幅員があって牛馬の行き交う道だったようだ。

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駒型の石柱の上部には仏形坐像の陽刻がある。地蔵なのか如来なのか一体何なのかはわからない。見た感じは地蔵菩薩坐像のような気がする。子安地蔵っぽいなと眺めていた。尊像の下には大きく造立年が刻まれており、文政12年(1829)3月と書かれている。当時はこの辺りは上保谷村。古地図には「下向臺」という地名がある。

場所 西東京市向台町3丁目4-55

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2025年2月 9日 (日)

閻魔堂の石仏(西東京市向台町)

西東京市向台町(むこうだいちょう)は少し前までは田無市向台町だったが、2001年に田無市と保谷市が合併して西東京市となった。私は東西南北を安易につけるような土地の命名は愚だと思っているので、残念でならない。まだ田無保谷市のほうがはるかにいい。五日市街道から鈴木街道の道は古い道だが、向台町を東西に走る向台中央通りも昔からあった農道を広くした道のようだ。

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西東京市立田無第四小学校の向かいに向台墓地がある。路地を挟んで比較的新しい閻魔堂(十王堂)があり、境内には古い石仏が祀られている。閻魔堂(十王堂)は延享2年(1745)10月に開かれた小堂で、江戸時代は寺子屋が開かれたりして集落の中心的な存在だった。閻魔堂の中には閻魔様が祀られている。

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閻魔堂の向かって左奥にあったのは笠付角柱型の庚申塔。庚申塔の前には自然石の一面を磨いた石碑があり、「庚申霊」の文字があるが意味は分からない。庚申塔は享保6年(1721)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「奉造立青面金剛尊 田無村」とある。また「武州多摩郡講中23人」という文字もある。

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道路寄りには2基の石仏があり、右の石仏は舟型光背型の聖観音像。「日本回国六十六部供養塔」とあり、造立年はゼニゴケで読み取りにくいがおそらく庚申塔と同じ、享保6年(1721)3月と思われる。左の丸彫の地蔵菩薩像については文字がほとんど読めず不詳。閻魔堂(十王堂)が開かれるより前の石仏が境内にあるということは、閻魔堂以前にはどこにあったのか気になるが、知る由もない。

場所 西東京市向台町2丁目13-14

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2025年2月 6日 (木)

招魂塔(西東京市新町)

五日市街道の武蔵野大学前交差点から真西に延びる道がある。標識には鈴木街道と書かれている。西東京市(保谷)と小平を結ぶ古い街道である。享保9年(1724)に小平の鈴木新田の開発に伴って開通した街道のため、鈴木街道という名前になったようだ。江戸時代には「江戸往来」とか「鈴木道」という名前だったが、近年は鈴木街道となっている。

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鈴木街道を西に150mほど進んだ南側に細長い墓所がある。その一番道路側には鉄囲いがあり、「招魂塔」が祀られている。説明版には「品川県社倉門訴事件の犠牲者の慰霊碑」とある。明治の初め、東京都が品川県だった時に、品川県が強行した社倉米の金納化に対して、武蔵野新田12ケ村の農民が明治3年(1870)正月10日深夜に集団門訴を決行したが、弾圧され多くの犠牲者が出たのを供養する目的で建てられたようだ。

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大きな角柱型の石塔で、正面には「招魂塔」背面には明治12年(1879)9月の建立年月があり、「武蔵国新座群上保谷新田 平井伊左衛門」の銘がある。明治の初期はまだならず者のような国や県の政治で多くの血が流れた。世の中では明治維新をきれいごとに語る傾向があるが、実は秩父事件やその他の事件のように、底辺の人々がこういう目に遭うことが多い時代だったことを忘れてはならない。

場所 西東京市新町1丁目2番

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2025年2月 3日 (月)

一の橋の石橋供養塔(狛江市岩戸南)

喜多見から狛江市にかけての世田谷通りの脇にはかつて川が流れていた。見た目は川だが六郷用水である。別名次太夫堀とも呼ばれる。もともとは野川の流程を用水路にしたもので、現在の野川は昔の野川とは大部分が違い場所を流れている。一の橋は世田谷通りの昔の名である津久井道(登戸道)の橋である。

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かつての六郷用水はちょうど上の写真の横断歩道の部分だったと思われる。ここに橋を架けたことで、石橋供養塔を建立したのだろう。角柱型で正面上部には弘法大師が彫り込まれている。造立年は文政6年(1823)6月とある。弘法大師像の下には「石橋供養塔」と書かれている。

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さらに下部には、「西 登戸 府中道」とあり、左側面には「北 ほりの内 高井戸道」「東 六郷 江戸道」とある。右側面には「武刕多摩郡世田ヶ谷領岩戸村」「南 〇〇道」などの文字もみられるので、道標としての役割があったようだ。

場所 狛江市岩戸南1丁目4-11

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