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2025年3月29日 (土)

大卵塔墓地内の石仏(西東京市保谷町)

旧保谷市内を走る関道(せきみち)は練馬区関町につながる古道。行先はおそらく武蔵駅そばの本立寺、関のボロ市で知られる。関道が都道233号線に交わる交差点の西側に広めの墓地がある。

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墓地の前は田柄用水の暗渠である。この位置は関道と田柄用水が合った場所で、それだけでも歴史を感じさせる。墓所の入口は施錠されていて、中に入ることはできなかったが、門扉から七体六地蔵を拝することができる。

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中央の地蔵菩薩坐像の基壇には「三界万霊」の文字がある。すべて同時代の造立で、造立年は安政4年(1857)2月。残りの六地蔵の基壇には、右から「法性地蔵」「宝陵地蔵」「宝印地蔵」「雞兜地蔵」「陀羅尼地蔵」「持地地蔵」とあり、中央の三界万霊の座像は延命地蔵である。願主名などについては、武州新座郡上保谷村のほか、桶久保、下柳沢、上柳沢の銘があるようだ。

場所 西東京市保谷町6丁目22-23

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2025年3月26日 (水)

尾張藩鷹場標杭(西東京市保谷町)

西浦北向地蔵尊のすぐ近くのマンション敷地前にあるのが5基並んだ「尾張藩鷹場標杭」である。享保時代には将軍や大名の鷹狩が盛んになり、上保谷新田を含む武蔵野新田の開発も活発になった。多摩、新座、入間郡の185か村に尾張藩徳川家の鷹場が設けられたという。上保谷村はその東南部分に位置している。

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享保2年(1717)以降、鷹場を囲んで境界線に83本の標柱が立てられ、そのうち上保谷村の村境には計9本の御定杭があった。幕末に鷹場は廃止され、標柱は撤去されたが、上保谷村では5本のみが保存された。それぞれ、柳沢、下野谷、坂上という小字地名の場所にあったものらしい。

場所 西東京市保谷町5丁目16-4

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2025年3月23日 (日)

西浦北向地蔵尊(西東京市保谷町)

西東京市保谷町、以前の地名は保谷市本町5丁目、その前は上保谷村西浦。田柄用水の暗渠の脇に堂宇があり、古い地蔵菩薩が祀られている。多摩川用水から分水したのち田無用水を経て田柄用水に流下し、この地蔵の脇を流れて石神井公園駅付近に向かっている。

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左のコンクリートの蓋がされているのが田柄用水の暗渠である。暗渠をたどる散策も楽しいものだが、今回は石仏探訪なので割愛。堂内にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像で、享保4年(1719)9月の造立。基壇に刻まれているのは造立年のほか、「奉造立地蔵尊念仏講中」「武刕新倉郡上保谷村」の文字に加え、「本願 野口武右衛門 一緒之同行24人敬白」とも刻まれている。田無用水、田柄用水が開削されたのは享保年間らしいのでまさにその時代に造られた地蔵菩薩である。

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上保谷村西浦の地蔵講中が造立したものだが、近年は西浦地蔵講と西浦大山講が共同で祀っている。昔、田無宿が栄えていた頃、こき使われていた飯盛女(吉原以外で宿場などで売春をさせられていた女性たち)が田無宿から北に向かってここまで来た。しかし捕まり折檻されたり、自死したりしたので、供養のために建立したと伝えられる。

場所 西東京市保谷町5丁目12-2

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2025年3月20日 (木)

総持寺の石仏(西東京市田無町)

西東京市田無町にある總持寺は真言宗の寺院で、創建は不詳ながら、江戸時代初期より西光寺としてこの地にあり、明治以降に近隣の密蔵院、観音寺と合併し総持寺となった。現在は片側2車線の青梅街道が近くを走っているが、もともとは総持寺の門前の東西への道が青梅街道だった。

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総持寺の門前町ともいえる街並みがかつての青梅街道田無宿の中心である。かつて山門の前には田無用水が流れており、やすらぎのこみちとして今は暗渠化され遊歩道になっている。江戸時代の青梅街道の幅員は5間(9m)あり、にぎやかな通りだったことが想像できる。

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本堂と社務所の間を抜けて墓地に出ると、すぐに複数の庚申塔や地蔵が祀られている場所に出る。街道の中心だけにいくつもの石仏があったのだろう。左端のひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔は宝永6年(1709)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で「奉造立庚申講為二世安楽也」の文字があり、「武刕多麻郡田無村 同行39人」の銘があり、側面には蓮葉が描かれている。

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その隣にあるのも笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は享保5年(1720)10月、「奉造立庚申尊像二世安楽所」の文字と「武刕多麻郡田無村 27人」の銘が刻まれている。

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その手前の笠付角柱型の庚申塔が一番古く、元禄元年(1688)10月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄。こちらは「奉造立庚申如意信心施主二世安楽所」「同行11人」の文字がある。右隣の舟型光背型の地蔵菩薩像は古いものと思われるが欠損が多く造立年がわからない。「奉造立地蔵菩薩…安楽」の文字が見えるが、あちこちの欠損で読めない部分が多い。

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右のほうには2基の丸彫の地蔵菩薩像があるが文字などで確認できる情報はなかった。角柱型の石柱は「大乗妙典六十六部回国供養」とあり、延享5年(1748)2月の造立年が見られる。また、「武刕多麻郡田無村」の銘もある。

場所 西東京市田無町3丁目8-12

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2025年3月17日 (月)

北芝久保庚申塔(西東京市芝久保町)

西東京市芝久保町は少し前までは田無市芝久保町。青梅街道沿いを西に進むと斜めに鎌倉街道が合流し、さらに200m余り西の交差点にはちょっと奥まったところに堂宇がある。路地の西側はコンビニのローソン、東側はラーメン店で、そのラーメン店の敷地に堂宇が立っている。

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堂宇の中に祀られているのは板碑型の庚申塔で相当古いもののようだ。上部に「為奉造立菩薩也」とあり、日月、二鶏、三猿が描かれている。青面金剛はないので、江戸時代初期のものらしい。造立年を見るとうっすらと、延宝2年(1674)2月とある。下部には「新倉田無村領内」の文字もある。

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三猿の描画は見事である。説明版が立っていて「延宝2年に北芝久保に入植した出百姓18名によって建立され、新田のはずれの標識の役割もあったとある。明治時代の地図を見ると、辺りは一面の桑畑になっている。養蚕業が盛んだったのだろう。

場所 西東京市芝久保町4丁目12-48

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2025年3月14日 (金)

橋場分岐の石仏(西東京市芝久保町)

田無から青梅街道を西進すると漁具のヤスのように3方向に分岐する交差点がある。直進は青梅街道、斜め右が東京街道(江戸街道)、斜め左が都道132号線。どれも古くからの街道である。ちょうどこの辺りが田無町と芝久保町の町境で、青梅街道の北側に流れる田無用水が南の田無用水とこの交差点の場所で分岐していた。

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写真の左の道路が青梅街道、右は分岐する東京街道(江戸街道)で、その間に堂宇が2棟ありそれぞれに石仏が祀られている。この変則交差点の名前は「橋場」といい、用水の橋にちなむもの。ちなみに田無用水が開削されたのは1696年で玉川上水が出来て半世紀後にようやく水の権利が得られたのである。

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左の堂宇には庚申塔、右の堂宇には地蔵菩薩像が祀られている。どちらも季節柄かかなり厚着をしていて文字を読むのに難儀する。当時の青梅街道も東京街道(江戸街道)も広い街道だったから、この場所は交通の要衝である。

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庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。彫はあまり深くない。「奉造立庚申供養為二世安楽也」の文字があり、造立年は元禄13年(1700)10月、同行29人とある。田無用水が出来てすぐの造立である。

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地蔵菩薩像は重ね着の厚着であったが、基壇の文字は読めた。丸彫の地蔵菩薩立像で、正面には「奉造立地蔵尊」の文字がある。ただ左側面には享和3年(1803)10月とあり「芝久保念仏講中」の銘、右側面には享保5年(1720)8月とあり「武刕多摩郡田無村字芝久保講中」の銘がある。おそらく享保に造立されたが、83年後の享和年間に再建されたと考えるのが自然だろう。

場所 西東京市芝久保町4丁目1番地先

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2025年3月11日 (火)

やすらぎのこみちの地蔵(西東京市田無町)

青梅街道から久米川街道へ曲がってすぐに、馬頭観音の堂宇と相対するように野ざらしの地蔵菩薩像が立っている。久米川街道と交差する小道は「やすらぎのこみち」という遊歩道で、かつては青梅街道の北側に流れていた田無用水の暗渠である。

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やすらぎのこみちに対して、青梅街道の南側にあるのが「ふれあいのこみち」でそちらも田無用水の暗渠。古地図ではどちらも水線だが、青梅街道の幅員は5間(約9m)もある広い街道で、久米川街道は3間(5.45m)と狭いながらも牛馬が往来できる広さ。地蔵には摩滅して読めないが、「右 くめ川 をんだ 左 をめ」とあったらしい。古地図を見ると久米川街道は青梅街道と並行して久米川へ至っていたようにも見える。

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地蔵菩薩はくし形角柱型で陰刻に彫り込んである。造立年は安永8年(1779)で、おそらくは青梅街道と久米川街道の分岐点にあったものではないかと思う。青梅街道と南北それぞれの田無用水までの20~50mが街道筋の地割による奥行で、細長い土地だったことがわかる。

場所 西東京市田無町7丁目2-1

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2025年3月 8日 (土)

田無上宿の馬頭観音(西東京市田無町)

青梅街道が府中道と交差するのは田無町5丁目交差点だが、そのすぐ西に丁字路があり北に延びる道がある。道路には「久米川街道」とあるが、いささか困惑。というのもこの先は久米川ではないからで、このまま道なりに進むと西東京市(旧田無市)西原町で街道が終わる。丁字路だから南にはつながっていない。

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久米川街道の謎は解けなかった。1階に動物病院のあるマンションの裏手に小さな堂宇があった。堂宇の中には角柱型の馬頭観音が祀られている。正面には「馬頭観世(音)」と書かれている。造立年は天保15年(1844)。

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上部には馬頭観世音の座像が陽刻されている。以前は道路向きに堂宇があったようだが、訪問時は青梅街道の方向(南向き)になっていた。

場所 西東京市田無町7丁目1-6

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2025年3月 5日 (水)

田無上宿の庚申塔(西東京市田無町)

青梅街道と府中道がぶつかる交差点は西東京市田無町の中央にある。かつては都心から来た青梅街道が柳沢(やぎさわ)で所沢への道と分岐し、總持寺前を経てここに至った。どちらかというと田無宿の中では西のはずれに当たる。おそらくは京都に近いほうなので上宿と呼ばれたのだろう。位階が訪問看護ステーションになっているマンションの角、ちょうど府中道と青梅街道がぶつかるところに堂宇が設けられている。

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堂宇の中は暗くて狭いが、庚申塔と巡拝塔が祀られている。左の角柱型の石塔が巡礼供養塔で、正面には「奉納百箇所供養」の文字がある。造立年は安永5年(1776)8月とある。石塔正面上部には如意輪観世音と思われる仏様が陽刻されている。

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右側の笠付角柱型の庚申塔はかなり摩滅が進んでいる。上部から日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、そして下部に三猿が見て取れた。造立年は分からない。右側面には「是より府中道」とあるらしいが、暗くて確認できない。

場所 西東京市田無町4丁目19-8

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2025年3月 2日 (日)

南芝久保庚申塔(西東京市田無町)

府中道が西武新宿線を渡る踏切の北側に覆屋があり、大きな庚申塔が祀られている。庚申塔は田無町の東の端にある。庚申塔の背後にある大きな建物はシチズン時計の本社。1936年にこの地に工場が出来、当時は工作機械の生産、戦時中は兵器製造などを行った。戦後は時計の製造がほどんどになっており、現在のシチズン時計の拠点である。

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庚申塔の堂宇はシチズン時計の厚意で建てられたもの。田無市(西東京市)の基盤産業の役割を果たしている。祀られている庚申塔は大きなもので、笠付角柱型。日月、青面金剛像、二邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。邪鬼が2頭というのは珍しいもので、青面金剛は左手に大きめのショケラも下げていた。

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尊像脇には「奉造立庚申尊像」の文字。造立年は延享2年(1745)9月で、今年の大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎はこの5年後に生まれている。まさに江戸が華やかなりし時代で、多摩の農村もそれなりに豊かになっていた時代だろう。「武刕多摩郡田無村芝久保 講中38人」という銘もあり、それだけの人口があったと思われる。

場所 西東京市田無町6丁目1-12

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