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2025年4月28日 (月)

本宿共同墓地の石仏(府中市西府町)

府中市西府町にある本宿共同墓地は現在は5000㎡ほどの面積だが昔はもっと広かったらしい。古い地図を見ると寺院の記しがあるが、この寺の境内と墓地だったのかどうかは分からなかった。新府中街道側の門から入ると目の前に対のイチョウの巨樹がそびえている。

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銀杏の根元には庚申塔と燈籠が立っていた。銀杏の向こう側にある念仏堂には古い板碑なども保存されているらしく、最も古いものは弘長元年(1261)のものだという。元寇よりも前で、鎌倉幕府で北条氏がまだ強い勢力を持っていた5代目北条時頼の時代。

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庚申塔は笠付角柱型で、青面金剛像、三猿の図柄。庚申塔としてはかなり古く延宝3年(1675)の造立。側面には「本宿村」の文字と願主名が見られるがかなり摩滅している。もとは甲州街道沿いにあったという。

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無縁仏塔の前に並ぶ六地蔵は享保17年(1732)8月の造立。丸彫の地蔵で、「六地蔵念仏供養同行19人」の銘がある。「武州多麻郡本宿村」と書いてあるはずの香炉は見当たらなかった。

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六地蔵の右に並ぶ丸彫の地蔵菩薩像は宝暦8年(1758)8月の造立。正面に「三界万霊」とあり、「村助力女中」「本宿願主瑞如」の文字があるようだ。右の座像は顔が後補されているようで、出所不明。

場所 府中市西府町3丁目4

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2025年4月25日 (金)

熊野神社裏の庚申(府中市西府町)

国道20号線(甲州街道)に面した府中熊野神社は、江戸時代初期の創建。江戸時代は今の南武線西府駅の近く、府中五小の東側にあったが、安永6年(1770)に現在地に移転した。神社裏には不思議な形状をした大きな武蔵府中熊野神社古墳がある。7世紀の飛鳥時代のもので、上が円形、基壇が方形の二段構造になっている。

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熊野神社の西側で甲州街道につながっている道は古い道で、三又を北上すると国分寺市へ、北西に進むと谷保村を経て立川へ伸びている。その三叉路に覆屋があり、中には3基の庚申塔が祀られている。中央後部にある自然石は「猿田彦大神」と書かれたもので、延享2年(1745)の紀年と並んで明治23年(1890)の記述もある。延享2年に造立されたものを、明治に再建したと考えるべきだろう。

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左手前は角柱型の庚申塔で、日月は見えないが青面金剛像があり、地面部分を除くとかすかに三猿らしき痕跡が見える。この庚申塔の造立年は天明2年(1782)で、見えない左側面には「ちちぶミち、子ノ権現道」とあるらしい。子ノ権現は飯能から秩父へ向かう国道から細い山道を登ったところにある大きな草鞋を祀った小さな神社である。もしかしたら他の土地から移設されたものかもしれない。右の駒型の庚申塔はかなり削られていて、「庚」の文字しか確認できない。どれも交通事故で損傷されたものだろうか。

場所 府中市西府町3丁目37-13

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2025年4月22日 (火)

畑の題目塔(西東京市北町)

西東京市を東西に走る都道25号線、南北に走る新しい伏見通りとの交差点から西へ250mほど進んだところに、ローソンがある。ローソンの角を西に渡った区画は一面の畑で、そのローソン寄りの角に1基の石塔が立っている。

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石塔の前にあるのはゴミか供え物か不明(ごみの可能性のほうが高そう)。この都道と交差する道は、下保谷と北道、そして栄町の町境になっている。かつてはこの辻の少し南に小川が東流しており、練馬区西大泉で白子川に合流していた。今はローソンの東側に暗渠が残っている。ここの古い地名は下保谷村坊ヶ谷戸である。

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石塔は角柱型の題目塔で、「南無妙法蓮華経法唱壱阡部成就」とある。かつての下保谷村は日蓮宗の村であったので、この題目塔も古くからあったもの。造立年は正徳4年(1714)とある。摩滅して読めないが資料によると「武州新倉郡下保谷講中27人」とあるようだ。昔は題目を延々と唱えて、それを成就するとこのような成就塔を建てた。この題目塔も車にぶつかられたりして相当傷んだという。開発を免れた貴重な石塔である。

場所 西東京市北町1丁目1番地先

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2025年4月19日 (土)

題目庚申塔(西東京市下保谷)

西東京市の下保谷の西の端、道を渡ると栄町になる保谷一小角の交差点の北東角に石塔が立っている。この交差点は昔からの道の交差点でもあり、古い小字としては西側の栄町には中島、入西、入道、入南などがあり、東側の下保谷には西松木、東松木があった。

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ブロック塀に囲まれて車から守られている石塔には「南無妙法蓮華経」の文字があり、その下に「庚申塔」の文字がある珍しいもの。右面には「天下泰平国土安全」の文字があり、左面には寛政10年(1798)の造立年が刻まれている。昔は塔身の上部が少しだけ出ていたが、道路拡幅工事の際に発掘したもの。

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下保谷村は日蓮宗の村で、そのために題目に加えて庚申塔の文字があるこのような庚申塔を造立したのだろう。台石には下保谷新田の農民が本村の講中に加入しているのがわかるらしい。講中列名の後尾に「新田」の5人の名前がある。日本人はこのように違うものを一つに習合させるのが得意な民族であると感心した。

場所 西東京市下保谷2丁目1-1

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2025年4月16日 (水)

又六石仏群(西東京市住吉町)

尉殿神社から住吉地蔵前を北上すること400m、都道と地蔵通りが交わる五差路の北の角に覆屋が立っている。信号機の上には「又六地蔵」の文字がある。横切る道路が地蔵通りという名前なのは、又六地蔵に因むものだろう。

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現在は西東京市住吉町だが、昔はこの辺りが又六、東に行くと入道、入東、入西、入後、入南など、「入」の付いた地名(小字)が散らばっており、この「入」の文字が意味するものが何なのかが気になった。堂宇は交通事故から守るためか、ブロック塀で囲まれている。

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中には5基の石仏が祀られている。中央に六地蔵幢があり、左に庚申塔が2基、右に地蔵菩薩像が2基という並びである。中央の六角の六地蔵幢が又六地蔵の主尊と思われる。造立年は安永5年(1776)2月。基壇は四角形で本体と下の笠が六角、最上部の笠は四角である。おそらく最上部の笠は本来のものではないとされている。又六の念仏講中による造立である。

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左側の庚申塔のうち、左端は舟型光背型か駒型か微妙で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「武州新座郡上保谷村講中17人」の銘と、世話人名がある。上部には「奉造立庚申塔」とあり、寛政10年(1798)4月の造立年が見られる。右の板碑型庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立庚申像二世安楽攸」「上保谷村 本願 池野谷仁左衛門一緒之同行12人」と刻まれている。造立年は元禄10年(1697)10月である。

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右側の2基のくし形角柱型の地蔵菩薩像は全く同じ大きさなのでおそらく対として造立されたもの。側面をみるとどちらも明治30年(1897)11月の造立で、どちらにも「北足立郡上保谷村 又六講中30人 世話人保谷新造、保谷六蔵、池ノ谷金太郎」の銘がある。手前に小さな地蔵坐像があったが詳細不明である。

場所 西東京市住吉町3丁目18-19

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2025年4月13日 (日)

住吉地蔵(西東京市住吉町)

西東京市を南北に走るいくつかの都道があるが、都道36号線は昔からの幹線道路で戦後開通した道だが、その後の多摩地区の人口増加に伴い東側に広い都道234号線(伏見通)が開通して旧道的な道になった。如意輪寺から北上すると、水神である「ジョードノ」と呼ばれる尉殿権現を祀る尉殿神社がある。尉殿神社と書いて「じょうどのじんじゃ」と読む。おそらく日本に尉殿神社はここだけだと思う。

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もともとあった尉殿権現は、江戸時代初期に上保谷村の尉殿神社と田無村の田無神社に分かれたので田無神社とは兄弟社だろう。都道側の玉垣の間にブロックで造られたしっかりした堂宇があり、地蔵が祀られている。住吉地蔵と名付けられた比較的新しい角柱型の地蔵菩薩立像である。

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穏やかな表情の地蔵で、昭和52年(1977)5月の造立。驚いたのは右側面に貼られた銘板に「佐久間阿佐緒」氏の名前があったことである。終戦後に開通した都道36号線を拡幅したが、昭和51年~52年の短い間にここで15件の交通事故が発生した。そこで住吉町会は石仏研究で著名な佐久間阿佐緒氏に製作を依頼、大谷石で優しい姿の地蔵菩薩が氏によって造立されたのである。私の持っている氏の書『東京の石仏』『江戸石仏散歩』は精神的な視点で石仏を見る参考書になった。佐久間氏は1928年生まれだから、ご存命なら96才になる。今年他界した私の義母と同じ年令であることを今回知ることとなった。

場所 西東京市住吉町1丁目21番地先

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2025年4月10日 (木)

横山道の庚申塔(西東京市泉町)

西東京市にある横山道はかつての鎌倉街道のひとつである。この辺りの鎌倉道はいわゆる上道で、鎌倉から町田、府中、東村山を経て所沢へとつながっていた。江戸時代になると、この鎌倉街道を富士大山参りに歩く人も増えたはずである。

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上の写真の左側のみちが横山道(鎌倉街道)。右側の道は地蔵通りと呼ばれるがこれは近年の呼び名だろう。かなり広めの境内を有するこの覆屋の下には、笠付角柱型の庚申塔が祀られている。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立庚申尊像諸願成就之處」と刻まれている。造立年は宝永4年(1707)9月で、富士山宝永噴火の直前。道標を兼ねており、摩滅して読みづらいが、資料によると「北 にうくら道(新座道か?)」「東 江戸みち、南 ふちうみち(府中道)」と刻まれており、下部には多数の願主名がある。岩崎姓がほとんどを占めるようだ。

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覆屋の手前に立つ燈籠も歴史のあるもので、天明6年(1786)に奉納されたもの。元はもっと広い塚の上に祀られていたが、戦後の道路改修で塚は平坦にされ、自動車事故に遭ったりして傷んだらしい。この状態にされたのは、昭和47年(1972)のことで、今も地元の方々に守られている。

場所 西東京市泉町6丁目1-1

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2025年4月 7日 (月)

如意輪寺の石仏(西東京市泉町)

旧上保谷村の上宿と大門、旧田無市谷戸の宮山にはかつて四軒寺と呼ばれた真言宗の寺院があった。宝樹院、宝晃院、西光寺とこの如意輪寺である。宝樹院・宝晃院は現存、西光寺は合併で総持寺になった。如意輪寺は明治25年に焼失し、寺の記録が失われたため、創建は不詳。

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朱塗りの山門をくぐって境内に入ると意外と広々としている。光明山というのはこの寺の正式名称が光明山福生院如意輪寺という山名を表す。山門をくぐった先に本堂があるが、その左手前の大きな欅の木の下にコンクリート製の堂宇があり、庚申塔が1基祀られている。

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笠付角柱型の庚申塔だが、もとは如意輪寺より50mほど北の辻(保谷市泉町2丁目16)に立っていたものである。昭和46年(1971)に移設された。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は宝暦4年(1754)8月とある。紀年に並んで「武刕新座郡上保谷村」の銘がある。左側には「奉造立庚申尊像 諸願成就之所 大門施主8人講中」とあり、左右下部には道標を兼ねて「西所沢道、南府中道、東江戸道」と刻まれているので南面していたはず。

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墓所入口にあったのは3基の石仏と説明版。3基とも西武新宿線東伏見駅の北に通っている富士街道沿いにあったもの。左の高い角柱型のものは巡礼塔で寛政4年(1792)で45度ずれて右正面が地蔵菩薩の面である。左正面には「奉拝礼坂東西国秩父聖跡・・楽善願円満處」の文字と願主名、右正面には地蔵の下に「南無・・躰地蔵尊聖跡二世安楽善願成就處」、裏面には「・・新座郡上保谷村下柳沢」の銘がある。中央の笠付角柱型庚申塔は日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄14年(1701)10月。「武州新倉郡上保谷村柳沢・・」の銘と左右に道標を兼ねる文字がある(これよりひがしはねりま道、これより西は田無町)。元の場所は富士町2丁目11。右の角柱は回国供養塔で宝暦3年(1753)7月の造立。これも富士街道沿いにあったもので元の場所は富士町2丁目11。「奉納大乗妙典六十六部日本回国之所」とあり、武刕新座郡上保谷村の銘がある。

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墓所入口の本堂寄りにあるのが七体六地蔵。これは形式としては宝樹院の六地蔵、大卵塔墓地の七体六地蔵と共通している。造立年は安永8年(1779)8月で、中央のみが坐像である。坐像の基壇には三界万霊とあり、大卵塔墓地のものが安永4年で、ここのものが安永8年なので、宝樹院のものもおそらく同年代だと思われる。

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墓所に入ったところに並んでいたのは4基の石仏。左端は丸彫の地蔵菩薩立像で、享保17年(1732)9月の造立。高さは2.1m以上ありとても大きなものである。基壇には「奉造立地蔵尊壹躰」とあり武州新座郡上保谷村の銘がある。一結講中104人とあり、左面には明和5年に亡くなった童子の名が刻まれているので、子安地蔵・延命地蔵として拝されていたのだろう。その隣は舟型光背型の地蔵菩薩立像で、元禄12年(1699)9月のもの。「奉・立地蔵菩薩尊像」の文字と「上保谷村願主岩崎勘兵衛」の銘、そして、「一結之同行14人也」の文字がある。右の大きな角柱型の石仏は馬頭観世音菩薩で、天保4年(1833)4月の造立。田無市にあったものらしい。その足元右端には小さな馬頭観世音(角柱型)があり、こちらは明治4年(1871)2月のもので、願主秋本角次郎の銘がある。

場所 西東京市泉町2丁目15-7

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2025年4月 4日 (金)

宝樹院の石仏(西東京市泉町)

西東京市(旧保谷市区域)泉町にある宝樹院は真言宗の寺院。旧地名としては、宝樹院の南が西浦、西が上宿、東が大門で、宝珠院はその中央にある。創建は江戸時代中期で、最初は上宿にあったが、昭和6年(1931)に当時は小字大門であった現在地に移転した。

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住宅街に静かにたたずむ寺院だが、戦前まではのどかな農村地帯だった。住宅が増えたのは戦後高度成長期に入ってからである。移転以前の上宿にあった宝樹院の写真があるが、茅葺の少し大きな農家のような佇まいで、江戸時代の寺院のほとんどはこういう感じだったのだろうと思わせる。

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本堂に向かって右手には立派な覆屋があり、六地蔵が祀られている。造立年は江戸時代だが詳細不明。実はこの六地蔵は本来七体六地蔵だったという。戦災で破壊され、ばらばらになってしまった。戦後中折れしたりしている地蔵を集めて六地蔵を再現したが、もう一体はしばらく見つからなかった。住職がサツキを植えようと境内を掘った時にその一体の半分が見つかったという。農村にも爆撃が行われた昭和20年の破壊は恐ろしいものである。

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本堂前を左に曲がると、くし形角柱型の巡礼塔が立っている。造立年は宝暦8年(1758)6月。「奉納四国西国坂東秩父現当為二世安楽」の文字が刻まれ、左面には施主中村嘉兵衛の名前。右面には願主直了妙圓法尼という戒名があり、尼僧の供養も兼ねているものだろうか。中村家はこの地の名家である。

場所 西東京市泉町2丁目7-25

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2025年4月 1日 (火)

丸彫青面金剛像(西東京市泉町)

旧保谷市泉町の辻にある堂宇には珍しい丸彫の青面金剛像がある。この辺りは南北に榎ノ木通りが走り、南東から関道が合流してくるところで、昔から四方八方からここに道が集まる場所で上保谷村の中心地である西浦という地名だった。ここには村の高札場もあったそうだ。

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角にある堂宇は立派なもので、「青面金剛尊」と書かれた扁額が掲げられている。堂内の青面金剛像は丸彫で、足元には踏みつけられた邪鬼がおり、その下の基壇には二鶏、三猿が彫り込まれている。造立年は正徳4年(1714)11月で、資料によると「右内本願 瀧島五郎兵衛」の銘が左に、右には「武刕新倉郡上保谷村 庚申講中18人」、背面には「八丁ほり 松屋町いつミや 三郎左衛門作」の文字があるらしい。

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もともとは六腕だったが、空襲で左腕がなくなってしまったという。青面金剛像はなんとなく愛嬌のある顔をしており、人々から親しまれていたことを想像できる。

場所 西東京市泉町2丁目3-2

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