旧上保谷村の上宿と大門、旧田無市谷戸の宮山にはかつて四軒寺と呼ばれた真言宗の寺院があった。宝樹院、宝晃院、西光寺とこの如意輪寺である。宝樹院・宝晃院は現存、西光寺は合併で総持寺になった。如意輪寺は明治25年に焼失し、寺の記録が失われたため、創建は不詳。

朱塗りの山門をくぐって境内に入ると意外と広々としている。光明山というのはこの寺の正式名称が光明山福生院如意輪寺という山名を表す。山門をくぐった先に本堂があるが、その左手前の大きな欅の木の下にコンクリート製の堂宇があり、庚申塔が1基祀られている。

笠付角柱型の庚申塔だが、もとは如意輪寺より50mほど北の辻(保谷市泉町2丁目16)に立っていたものである。昭和46年(1971)に移設された。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は宝暦4年(1754)8月とある。紀年に並んで「武刕新座郡上保谷村」の銘がある。左側には「奉造立庚申尊像 諸願成就之所 大門施主8人講中」とあり、左右下部には道標を兼ねて「西所沢道、南府中道、東江戸道」と刻まれているので南面していたはず。

墓所入口にあったのは3基の石仏と説明版。3基とも西武新宿線東伏見駅の北に通っている富士街道沿いにあったもの。左の高い角柱型のものは巡礼塔で寛政4年(1792)で45度ずれて右正面が地蔵菩薩の面である。左正面には「奉拝礼坂東西国秩父聖跡・・楽善願円満處」の文字と願主名、右正面には地蔵の下に「南無・・躰地蔵尊聖跡二世安楽善願成就處」、裏面には「・・新座郡上保谷村下柳沢」の銘がある。中央の笠付角柱型庚申塔は日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄14年(1701)10月。「武州新倉郡上保谷村柳沢・・」の銘と左右に道標を兼ねる文字がある(これよりひがしはねりま道、これより西は田無町)。元の場所は富士町2丁目11。右の角柱は回国供養塔で宝暦3年(1753)7月の造立。これも富士街道沿いにあったもので元の場所は富士町2丁目11。「奉納大乗妙典六十六部日本回国之所」とあり、武刕新座郡上保谷村の銘がある。

墓所入口の本堂寄りにあるのが七体六地蔵。これは形式としては宝樹院の六地蔵、大卵塔墓地の七体六地蔵と共通している。造立年は安永8年(1779)8月で、中央のみが坐像である。坐像の基壇には三界万霊とあり、大卵塔墓地のものが安永4年で、ここのものが安永8年なので、宝樹院のものもおそらく同年代だと思われる。

墓所に入ったところに並んでいたのは4基の石仏。左端は丸彫の地蔵菩薩立像で、享保17年(1732)9月の造立。高さは2.1m以上ありとても大きなものである。基壇には「奉造立地蔵尊壹躰」とあり武州新座郡上保谷村の銘がある。一結講中104人とあり、左面には明和5年に亡くなった童子の名が刻まれているので、子安地蔵・延命地蔵として拝されていたのだろう。その隣は舟型光背型の地蔵菩薩立像で、元禄12年(1699)9月のもの。「奉・立地蔵菩薩尊像」の文字と「上保谷村願主岩崎勘兵衛」の銘、そして、「一結之同行14人也」の文字がある。右の大きな角柱型の石仏は馬頭観世音菩薩で、天保4年(1833)4月の造立。田無市にあったものらしい。その足元右端には小さな馬頭観世音(角柱型)があり、こちらは明治4年(1871)2月のもので、願主秋本角次郎の銘がある。
場所 西東京市泉町2丁目15-7
東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)
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