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2025年5月31日 (土)

西蔵院の石仏(府中市是政)

西蔵院は府中市是政にある真言宗の寺院。甲州街道府中宿の中心地から是政の渡しへ向かう街道筋にあり、創建は不詳ながら延宝3年(1676)に現在地へ移転して中興したとされる古刹。

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西蔵院は是政の中心的な寺院で、特徴的な山門を有している。山門をくぐると正面には本堂、左手には地蔵堂が建っており、右手には鐘楼がある。本堂に向かって左手が墓所になっており、その入り口周辺に石仏がある。

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まず本堂脇にある背の高い石塔が目に入る。正面には「奉納大乗妙典経六十六部供養塔」とあり、造立年は宝永5年(1708)仲春上旬と書かれているので2月だろう。側面には「奉納庚申供養同行十二人」の文字があり、庚申講中によるものか。高さは1.4mほどある。

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その先にある堂宇に祀られているのが背丈よりも高いくらいの丸彫の地蔵菩薩立像。基壇には寛保3年(1743)12月の造立年が刻まれている。「奉供養寒念仏」の文字があり、寒念仏供養の祈願に造立されたもの。

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また、墓地入口に横置きされていたのは、角柱型の庚申塔。笠付角柱型だったと思われるが笠は欠損している。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は貞享2年(1685)4月とかなり古いもの。西蔵院がこの地に移転して間もないころのものである。資料によると右側面には「奉供養庚申講 同行11人」、左側面には紀年と横山平左衛門、大久保三郎兵衛の銘がある。

場所 府中市是政3丁目35-10

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2025年5月28日 (水)

竜泉寺の石仏(府中市是政)

府中市の南にある是政は古い集落で、江戸時代からかなりの人口があった。大國魂神社や武蔵国府のあったところから南へ下り多摩川を是政の渡しで越える重要な街道筋で、多摩川を渡る手前の集落なのでたいそう賑わっただろう。是政には二寺があり、大きいのは西蔵院で小さいほうが竜泉寺である。

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竜泉寺は今もこじんまりとした寺院だが雰囲気はすこぶる好みである。真言宗の寺院で創建は不詳。近くにある是政八幡神社の別当だったという。山門を入るとすぐ左手に堂宇があるが、いったん本堂にお参りする。本堂の脇にも堂宇がある。

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堂宇の中には古そうな舟型光背型の地蔵菩薩立像が祀られている。造立年は寛文13年(1673)2月で江戸時代初期のもの。「武州玉之郡是政村念仏講 願主男女39人 同願主 男女75人」とあり、是政村の規模を感じさせる。堂宇の手前にある燈籠も古いもので、竿部に「武州多摩郡是政村念仏講」とあり、造立年は延宝4年(1676)3月と刻まれている。地蔵菩薩像の3年後である。

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山門の前に戻り、山門脇の堂宇を拝する。左の山状角柱型の地蔵菩薩像はどうも本体のみ再建のように見えるが、側面には文化10年(1813)の紀年が刻まれている。しかし古い資料には紀年はないので、寺伝に従って書き加えられたものだろうか。基壇には「念仏講中」の文字がある。右の長身の丸彫の地蔵菩薩立像は寛保4年(1744)2月の造立で、基壇正面には「西國同行12人 坂東同行16人 奉納供養仏」とある。側面には「子育地蔵 念仏講中志衆中」「武州多摩郡是政村」の銘が刻まれている。

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山門を出て西側に数歩歩くと、寺の塀の凹みに笠付角柱型のが祀られている。これもまた年季の入ったもので、正徳3年(1713)2月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、側面には蓮が描かれている。三猿の下にある文字は資料によると「武州是政村同行6人」とあるらしいが、念仏講中に比べて庚申講中は小規模だったのかもしれない。

場所 府中市是政3丁目26-1

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2025年5月25日 (日)

柳坂下の馬頭観音(府中市清水が丘)

京王線東府中駅から競馬場方面へ下る坂は柳坂。もとは農道だったが、東京競馬場開設に伴って拡幅された。柳坂から西に延びるハケ(崖)上のいきき道を進むと眼下に瀧神社があり、有名な騎手らの奉納色紙や欅の巨樹がある。柳坂からいききの道が分岐する角に覆屋がある。いききの道というのは青梅奥多摩から筏で多摩川を下り、江戸に材木を供給したのち多摩川左岸を戻った筏道である。

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覆屋の下には3基の馬頭観音が祀られている。左の馬頭観音が一番古く、右が一番新しいが、傷みが激しくて見た目ではどれが古いのかわからない。左端の櫛型角柱型の馬頭観音は万延元年(1860)12月の造立。正面に「馬頭観世音」の文字がある。中央は駒型の馬頭観音で、明治15年(1882)8月の造立。剥離しているが三面の馬頭観音像があり、側面には「伊藤忠蔵立」とある。

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右の駒型の馬頭観音が一番新しく、大正8年(1919)4月の造立。正面には「馬頭観世音」の文字があり、側面には「願主 古川廣□」の銘がある。この辺りは、国分寺崖線のハケの道の散歩にも最適なエリアである。

場所 府中市清水が丘2丁目8番地先

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2025年5月22日 (木)

法音寺の石仏(府中市住吉町)

京王線中河原駅の近くにある法音寺は真言宗の寺院。創建は不詳だが江戸時代からあったようだ。境内に墓地がないので、どこか近くにあるのだろう。

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江戸時代から明治にかけて、中河原駅周辺は小さな集落が集まっており、文字通り中河原の小字だった。その集落の真ん中に法音寺があったようだ。門前の道は古い道で、甲州街道から南に延びた枝街道のひとつ、この先で関戸の渡しで多摩川を渡り、多摩市関戸につながっていた。

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本堂の近くにはあまり多くの石仏はないが、写真の普門品供養塔はくし形角柱型で文化11年(1814)孟春(1月)の造立である。上部には千手観音坐像が彫り込まれ、法音寺第九葉法印亮如の銘、そして台石に講中の文字と多数の願主名がある。

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隣にあったのは珍しいもので鶏霊供養碑とある。造立は昭和18年(1943)1月で、高野伴資の銘と石工府中本町桑田守蔵の名がある。裏側には多数の願主名が刻まれていた。

場所 府中市住吉町1丁目47-2

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2025年5月19日 (月)

正光院の石仏(府中市住吉町)

住吉町にある正光院は真言宗の寺院。中央自動車道と新府中街道(都道18号線)の北西角にあるが、古い地図を見るともともとはこの辺り一面の田んぼで、正光院の境内は中央自動車道の南まで広がっていたと思われる。創建は江戸時代中期で、この辺りの地名は小野宮といった。

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小野宮の地名の由来は正光院の南西、中央自動車道の反対側にある小野神社に由来すると思われる。小野神社の創建は10世紀だから千年以上も昔のこと。古すぎて想像を超える。正光院に戻って、山門をくぐる。正面に本堂があるが、左を向くと観音堂が建っている。その観音堂の前に2基の庚申塔がある。

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右の角柱型の庚申塔は「庚申講中」の文字だけのシンプルなもの。造立円んは享保19年(1734)11月とある。左の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。こちらの造立年は宝暦10年(1760)11月。「小野宮講中」の銘がある。

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観音堂と本堂の間に石仏が並んでいる。右端の角柱には「光明真言百万遍供養塔」とある。嘉永元年(1848)11月のもので、「講中 発起智教尼」とある。左の大きな石仏は薬師如来坐像で、天保2年(1831)3月の造立。正面には「光明広大功徳巍巍」の文字、「内藤氏女」の銘がある。

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薬師如来の左には六地蔵がある。文化8年(1811)5月の造立である。施主名には内藤喜左衛門母の銘があるが、詳細は不明である。

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六地蔵の左には舟型光背型の地蔵菩薩立像。後ろの石仏は近年の物のようだ。手前の地蔵菩薩は明和4年(1767)5月の造立で、「村男女講中」の文字が刻まれている。

場所 府中市住吉町3丁目2-11

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2025年5月16日 (金)

間嶋の庚申塔(府中市四谷)

間嶋(あいじま)は府中市四谷二丁目と住吉町三丁目あたりの古い小字地名。かつては本宿村の小名であったが、そのまた昔は関戸橋の西、今の中河原駅の西側にあった集落が多摩川の洪水で移転を余儀なくされ、一部がこの地に来たものらしい。民家の奥まったところに間嶋神社がある。寛文11年(1671)の大洪水で流されて移転してきた人々の鎮守である。

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間嶋神社の少し南の道がクランクになっており、その角隅に一基の庚申塔がポツンと立っている。間嶋神社の南側が暗渠になっており、かつてその用水路が住吉町と四谷の町境だが、江戸時代はこの辺り全体が間嶋だったようだ。現在の庚申塔の位置は四谷二丁目になる。

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庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保20年(1735)9月で、「奉供養庚申」の文字が刻まれている。大洪水に流されてから60年余り後の造立だが、間嶋集落として定着して講を組むに至った時代なのだろう。

場所 府中市四谷2丁目56-1

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2025年5月13日 (火)

四谷橋場地蔵(府中市四谷)

府中市四谷にはかつての農業用水が多数、開渠・暗渠として残っている。日進四谷通りと東大山道の交差するひばり幼稚園角交差点周辺にも何本も開渠が残る。日進四谷通りは近年の道路だが、それ以外は昔の農道や村道が残るので、まっすぐな道は少ない。

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四谷用水の脇に塀を凹ませて覆屋が建っている。この用水に架かる橋は「火の見(ひのみ)橋」という橋で、この用水には下河原大堀という名前がついていた。昭和初期まで橋のたもとに火の見櫓があり、消防用具が置かれていた。覆屋の両脇には燈籠が残っており、右の燈籠は宝暦11年(1761)11月で「奉建立石灯籠一基」とある。左の燈籠はもう少し古く、万延2年(1749)3月の造立で「奉納南無地蔵大菩薩」の文字がある。施主市川善兵衛の名があるので、新田開発をした市川家の子孫だろう。

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堂内の地蔵は丸彫の地蔵菩薩立像で、台石の文字が読めないので資料を参照。造立は宝暦11年(1761)11月で右の燈籠と同じ。「奉造立地蔵尊像」の文字や願主名が刻まれているらしい。

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堂の左側の隅に折れた角柱があり、文字を読むとと「奉造立石橋・・・」とある。造立年はこれも宝暦11年(1761)11月で、おそらくは火の見橋を石橋として架けたときに建てられたものだろう。

場所 府中市四谷2丁目54-5

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2025年5月10日 (土)

四谷三叉路の馬頭観音(府中市四谷)

府中市にある四谷という地名は江戸時代以前からある古い地名。一説には、家が四軒あったので四ツ屋、そこから四谷となったという。江戸時代以前の多摩川は暴れ川で、四谷も何度も洪水に遭っている。それでも江戸時代には市川上之宮内匠という人物が地域を開墾して新田を切り開いている。

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その後江戸時代中期には市川家の子孫がさらに新田を開発、四谷用水を開削して豊かな農地になった。中央自動車道の南北にあった田んぼの多くはほとんどが宅地に変わったが、張りめぐらせた用水の跡はあちこちに残っている。この場所は江戸時代から三叉だったようで、四谷の集落はここから南に広がっていた。

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明治時代までは牛馬が農業には不可欠で、この三叉路にある馬頭観音はもともと近くにあった用水脇にあったものをここに移したらしい。飼っていた馬が火災で亡くなったので供養に建てたと伝えられる。正面には「馬頭観世音」の文字、造立年は明治39年(1906)11月。側面には「四谷 施主市川氏」の銘があり、明治期になっても江戸時代初期に四谷を開いた市川氏の子孫たちが村を支えていたのだろう。

場所 府中市四谷2丁目24番地先

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2025年5月 7日 (水)

甲州街道本宿常夜灯(府中市本宿町)

国道20号線甲州街道と新府中街道の交差点は本宿交番前という交差点名。その南西角には本宿交番があり、西側のおうちDEPOというホームセンターと交番の間の敷地に古い燈籠が立っている。燈籠には「秋葉大権現常夜燈」とあり、本宿村講中の銘がある。造立年は寛政4年(1792)11月である。

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二百余年前から甲州街道を照らしてきた石灯籠のようだが、後ろの説明版に当時の状況が書かれている。『甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並が出来たのは17世紀半ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだという。ついに本宿村では講を作り、遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政4年この地に常夜燈を設けた。村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し、毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点して無事を祈り隣へと引き継いだ。爾来一世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが、太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。』

場所 府中市本宿町2丁目22-22

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2025年5月 4日 (日)

八兵衛地蔵(稲城市大丸)

南武線の多摩川サイドを並走する大丸南武線通り。南多摩駅と稲城長沼駅のちょうど真ん中あたりに駐車場ではないが駐車場のように整備された道路わきの設備があり、その一角に堂宇がある。

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コンクリートの基礎の上に建てられたしっかりした堂宇で、その中には丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。この地蔵は「八兵衛地蔵」と呼ばれ、文字などは見られないが明治初年の造立と伝えられる。

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堂宇の柱に打ち付けてある木札には「大丸河原方講中八兵衛地蔵堂」と書かれていた。大丸地区の女性の間では昔こうした信仰が盛んで、かつ今は南部線沿いだがすぐ南には古くからの川崎街道が通っており、田んぼの間に民家が散らばるような農村だった。

場所 稲城市大丸482

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2025年5月 1日 (木)

大丸谷戸川橋畔の石仏(稲城市大丸)

府中街道(都道)と城山通りが交差する大丸交差点。北西角には医王寺があり、南西には大丸公園がある。この公園内を流れているのが谷戸川という小さな流れで間もなくという距離で多摩川に注いでいた。この交差点を西へ進むと聖蹟桜ヶ丘へ向かう。

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広い歩道脇、大丸公園の東端の一角に2基の石塔が立っている。右の笠付角柱型の石塔には「奉納大乗妙典六十六部供養」とあり、「武州多摩郡大丸村」の銘がある。造立年を探したが見当たらない。

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左の大きな角柱型の石塔には「馬頭観世音」の文字が大きく彫り込まれている。稲城市内でも二番目に古い馬頭観音で、造立年は文政13年(1830)3月と書かれている。台石の正面には「当村講中」の文字があり、側面には岩井姓、松本姓などの願主名がある。

場所 稲城市大丸1125-50

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