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2025年6月30日 (月)

龍源寺の石仏(三鷹市大沢)

三鷹市大沢にある龍源寺は曹洞宗の寺院。旧街道が野川を渡る西側にあり、創建は不詳ながら江戸時代初期と伝えられる。この辺りの小字を坂下といい、野川左岸の少し高くなった段丘上を坂上と呼んだ。高低差は10~15m程度ある。野川の河岸段丘ではなく、多摩川流域を含めた河岸段丘で国分寺崖線の一部になっている。

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山門脇に複数の石仏が並んでおり、この寺は近藤勇の墓所でもあるのでそれを謳う碑もある。山門側から並ぶ3基の石仏は、右から石橋供養塔、庚申塔2基で、石橋供養塔は摩滅がひどく文字が読みづらい。角柱型で「石橋供養塔」「多麻郡大澤村村中 願主箕輪清□」の文字は読めた。造立年も読めないが「2月」の文字は確認できる。

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真ん中の笠付角柱型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、明和9年(1772)11月の造立。「願主箕輪氏講中14人」の銘がある。左の大きな笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれ、基壇や側面に蓮葉が描かれている。造立年は宝永3年(1706)で月は不明。「奉供養庚申待・・・」の文字が見える。

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境内に入ると、大きな江戸時代初期の燈籠の脇に舟型光背型の聖観音像が祀られている。これは日待塔で、「奉紀信日待之供養」の文字がある。造立年は寛文7年(1667)10月と古いもので、大沢村の銘もある。

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山門を出て東側の角には2基の馬頭観音が立っていた。左の大きな自然石の馬頭観音の正面には「馬頭観世音」の文字。裏側に文字らしき痕跡もあるが造立年などは読めない。右の小さい自然石の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」の文字と、明治5年(1872)3月の造立年が刻まれている。

場所 三鷹市大沢6丁目3-11

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2025年6月27日 (金)

殿ヶ谷戸庭園の馬頭観音(国分寺市南町)

JR中央線国分寺駅の南に静かな庭園がある。入場料は若干必要だが、この殿ヶ谷戸庭園は静かで自然も多く保たれた素晴らしい回遊式庭園である。この庭園は国分寺崖線にあり、湧水もある。縄文時代からここには人が住まい、暮らしてきたという。

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湧水を溜めたのかどうかは知らないが、見事な大名庭園のような池と島を施した木立の中の散策が楽しい。湧水量は毎分37リットルもあるらしいので、池の水はおそらくそうだろう。水温は年間通じて15~18度だから、木陰と相まって夏は特に良い。庭園の一角に古い馬頭観音が祀られていた。

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櫛型角柱型の文字塔で、正面には「百万遍成就 馬頭観世音」と記されている。造立年は文政7年(1824)7月、施主は国分寺村の本多氏という。おそらくはここに移設されたもので、もとは国分寺村の道端に祀られていたはず。資料によると庭園は三菱系の貴族院議員の江口氏がここに別荘を持っていたのを、昭和の初めの三菱の社長が買い、庭園を完成させたという。山県有朋が築いた椿山荘の庭を少しコンパクトにしたような素敵な庭園である。

場所 国分寺市南町2丁目16

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2025年6月24日 (火)

三谷神社の石仏(府中市多磨町)

府中市多磨町の大部分は多摩墓地が占めている。明治から大正期にかけて東京市では人口増加で墓地が不足、当時の公営墓地は、青山、谷中、染井、雑司ヶ谷、亀戸の5か所で、府中の多摩墓地が開かれたのは大正12年(1923)であった。多摩墓地の東側を西武多摩川線が走り、この辺りが住居のある多磨町である。

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その多磨町にある三谷神社だが創建は不詳。古地図を見ても神社の印はない。地図に現れるのは戦後である。意外と新しいのかもしれない。すぐ北にはアメリカンスクールインジャパン(ASIJ)があり、神社の周りを英語で雑談しながら通り過ぎるティーンエイジャーが目立つ。ASIJは東京ではここと六本木にある。

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三谷神社の鳥居脇に堂宇があり、石仏が3基祀られている。左端にあったのが駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。上部に「奉供養」の文字がある。右面には「武州多摩郡忍立村新田」の文字があるがこれは「押立」の誤字だろう。ただし押立はここから2~3㎞南なので、移設されたものかもしれない。造立年は享保7年(1722)10月とある。

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その右には背の高い丸彫の地蔵菩薩坐像。弘化3年(1846)10月の造立で、基壇には「三界万霊 講中」の文字と、よし、つま、たき、くりという女性名らしきものが見られる。右の舟型の地蔵菩薩立像は文政3年(1820)8月のもの。「念仏講中13人」「武州多摩郡府中領押立村新田 願主 文右衛門 源蔵」の銘がある。調べてみるとこの辺りは「押立山谷」と呼ばれた土地で、多磨町全体がそうだったらしい。ただ明治大正の地図を見てみるとほぼ武蔵野の林地である。桑でも植えていたのだろうか。

場所 府中市多磨町1丁目37

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2025年6月21日 (土)

二枚橋の坂馬頭観音(小金井市東町)

中央線武蔵境駅から府中是政の間を走る西武多摩川線。多摩地区のローカルな西武線の趣きが楽しい。途中西武多摩川線が野川を渡るあたり、之川沿いの武蔵野公園とICU(国際基督教大学)の間を走るのだが、線路に沿って二枚橋の坂がある。二枚橋は昔、野川に架かっていた橋の名前で、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の舞台になった道。

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その道の途中、西武線の線路の土手に一基の石仏がある。笠付角柱型の馬頭観音である。文政5年(1822)造立のこの馬頭観音は二枚橋の坂のシンボルのような気がする。上の写真は2025年のものだが、下の写真は2017年のものなので、草の生え方が異なっている。また昭和30年代の写真を見ると、ここには2本の松の木が道しるべのように立っていた。

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ここに馬頭観音があるのは、その昔この辺りが「捨て場」と呼ばれる場所で、無縁の人や牛馬や犬などの亡骸を捨てた場所であったためである。江戸時代はこういう捨て場があちこちにあった。当然ながら今の都心部にもあったという記録がいくつもある。

場所 小金井市東町5丁目12番地先

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2025年6月18日 (水)

関野天神社の石仏(小金井市東町)

三鷹市から西に連雀通り(都道134号線)を進み、田中屋を過ぎて200mほどすると、通りの北側に関野天神社がある。関野町はずっと北にある小金井公園の辺りの地名だが、3㎞程離れた連雀通り辺りは関野新田村の飛地だったらしい。

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現在の地名は東町なので東町天神社ともいうが、もとは関野天神社の名で享保7年(1722)以来、この飛地の鎮守であった。関野天神社の入口脇、道路に近いところの草むらの中に2基の石仏(石塔)が祀られている。

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ひとつは笠付角柱型の庚申塔。笠は何度も落っこちたのか角が取れている。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は童顔である。左面に延享4年(1747)11月の造立年がある。右面には「宝刻彫青面金剛 武刕武蔵野南関野新田講中」とあるので、この辺りは江戸時代には南関野新田と呼ばれていただろう。

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もう一つは角柱型の石橋供養塔。造立年は文久3年(1863)9月とある。「関野新田世話人 氏子中 鴻田源蔵」の銘がある。昔は連雀通りの北側沿いに農業用水が並行して流れていた。この辺りは南を流れる野川よりも十数m標高が高いため、北を流れる玉川上水より分水していたようだ。貫井北町で分水し、武蔵小金井駅を流れ、駅南から連雀通り沿いに下る用水があり、それに架けられた石橋を供養するものだろう。

場所 小金井市東町2丁目12-8

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2025年6月15日 (日)

田中屋の庚申(小金井市東町)

小金井市東町はその名の通り小金井市の東の端にあり、その東は三鷹市井口になる。三鷹から小金井市に入ってすぐに田中屋という酒屋があり、その店前に自然石の庚申が祀られている。ちょうど東町一丁目のバス停の傍になる。

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おそらくこの田中屋は歴史のある酒屋だろうと思う。この都道134号線は古い街道筋で、田中屋の辺りは江戸時代から民家が集まっていた。街道の北側には用水路が流れていたので、少し東にはのぼり湯という銭湯も残っている。水路があるところに昔は銭湯が営まれていたものだ。

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自然石の庚申塔は正面に「庚申神 講中」の文字がある。裏面には明治4年(1871)8月の造立年と、「世話人 田中太右衛門」の銘があり、この太右衛門氏は田中屋のご先祖ではないかと思う次第。

場所 小金井市東町1丁目44-25

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2025年6月12日 (木)

富士見通りの庚申堂(武蔵野市境南町)

連雀通りは三鷹市牟礼から国分寺市本多へ続く近代の街道。武蔵境駅から南へ下ると、連雀通りの前に富士見通りを越える。なぜ富士見通りの名前になったのかはわからない。この辺りは北も南も東も西も標高60mちょっとで、尾根道ではないので、富士山が見えるかどうかは疑問である。この富士見通りの辻に大きな庚申堂がある。

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頑丈に作られた庚申堂の中に祀られているのは、笠付角柱型の庚申塔が1基のみ。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝暦2年(1752)11月とある。「堺邑講中9人」の銘があるが、堺=境、邑=村だろう。

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さすがに保存状態はよく、玉垣は平成11年3月に新しく作られたもので、堂宇脇に庚申講中が立てた説明版がある。要約すると「この庚申塔は先祖がこの地を開拓した頃に建立。(中略)この庚申堂は昭和7年11月に新しく建てられ、昭和39年に屋根を銅板葺にし、平成11年には玉垣の新調と建物補修を行った」とある。

場所 武蔵野市境南町3丁目25-4

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2025年6月 9日 (月)

等々力八丁目石橋供養塔(世田谷区等々力)

世田谷区の中でも閑静な住宅街が広がる等々力。その地名は世田谷区側のみならず、神奈川県川崎市側にもあり、かつては東京ヴェルディの本拠地であった等々力競技場がある。多摩川の右岸左岸にはこのように同じ地名があるケースが多い。それだけ多摩川が暴れ川で古来幾度となく流程を大きく変えたことを想像できる。

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等々力八丁目の住宅地の辻に覆屋があり、上部に地蔵菩薩坐像を陰刻した角柱の石仏が祀られている。地蔵の下には「奉造立石橋供養為先祖□」と刻まれている通り石橋供養塔である。左面には安永9年(1780)8月の造立年が刻まれているが、正面脇には明和7年(1770)12月の紀年がある。おそらく明和7年に亡くなった橋を架けるのに尽力した人を、10年後に供養したものだろう。側面には「願主当村小池惣助」の銘がある。

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ただこの辺りに石橋があったのかがいささか懸念に感じられた。古地図を調べてみると、この辺りはかつて等々力山谷という小字で、玉川郵便教の東側に小さな湧水池があり、そこから小沢が南流していたようだ。また少し東西に離れて眺めるとこの供養塔あたりが2~3m低くなって谷底になっているのがわかる。

場所 世田谷区等々力8丁目19-7

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2025年6月 6日 (金)

どやの坂下道祖神(府中市白糸台)

道祖神は道の神とされ、境界を守り、悪いものを払う神と信じられてきた。ドウソジンのほか、ドウロクジン、サイノカミなどとも呼ばれ、庚申塔とも少し似た存在でもある。観光的には安曇野の道祖神などが有名だが、全国のあちこちに現存している。また単体のもの、双体、文字塔、石祠など複数の形態がある。

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どやの坂は府中市白糸台の多摩川河岸段丘にかかる坂道で、坂名の由来は不明。どやの坂を下った辻にあるのは角柱型の道祖神、隣には上部が折れて無くなった古い道祖神がある。この坂下から多摩川側は昔はほぼ田んぼだった。ここが集落と田んぼの境だった。

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左の新しい道祖神は再建の物。正面に「道祖神」と大きな文字があり、側面には平成3年(1991)12月の造立年と井出源次郎の銘、そして「上車返」の文字がある。右の古いほうには「□□返村」の文字が見えるが、府中市の資料には正面に「道祖神」の文字と、側面には「村上分中」とあると記載されており、違うものだろうか。

府中市白糸台4丁目26番地先

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2025年6月 3日 (火)

三叉路植込の庚申塔(府中市是政)

府中宿大國魂神社から南下して多摩川の是政の渡しに至る街道筋、今も都道筋で中央自動車道の高架をくぐった先に大丸街道の旧道が少しだけ都道を離れる区間がある。分岐には大丸街道の碑があり、「大丸街道の名は、この道が大丸村へ通じる道だったことに由来します。この道は川崎街道の旧道です。是政木橋完成(昭和16年)まで対岸へは是政渡しを利用したものです。」と書かれている。

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都道から分岐した旧道は100m足らずで再び都道に戻るが、その途中で南へ分岐する道がある。その三叉路に広めの植込みがあり、その一角に覆屋があり庚申塔が祀られている。山状角柱型の庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字がある。

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側面には文化7年(1810)5月の造立年と、上基壇には「武列多摩郡是政村」の銘が刻まれている。下の二段は新しいもののようだ。その下の基壇の以前のものには願主名や石工の名前があったようだ。

場所 府中市是政3丁目51番地先

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