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2025年7月30日 (水)

庚申塚通りの庚申塔(小金井市貫井南町)

庚申塚通りを西に進むと三叉路+脇道の変形五差路がある。この西側の角に簡素な堂宇があり、中には古い庚申塔が祀られている。おそらくこれが庚申塚通りの名前の由来だろう。

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この辺りが昔の小金井村貫井坂下集落の中心だったようだが、庚申塔は村境にあることが多いがここは皆が集まる場所に立てられたものと思われる。また道しるべを兼ねているので分岐に立つのは自然なのだろう。

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摩滅が激しく読めない文字も多いが、資料を参照すると、正面には「絶三尸罪(ぜっさんしざい)」とあり、台石には「貫井村講中」の文字がある。塔自体は櫛型角柱型で、右には「右 小川すな川道」、左には「左 こくぶんじ道」と書かれている。造立年は寛政6年(1794)11月で、それほど古いものではないが、小金井市指定の有形民俗文化財になっている。

場所 小金井市貫井南町4丁目11-42

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2025年7月27日 (日)

庚申塚通りの地蔵堂(小金井市貫井南町)

庚申塚通りを西に歩くと、辻の角に堂宇が立っていた。格子戸をのぞいてみると中には地蔵菩薩がある。この辻をまっすぐ北に進むと野川を渡って貫井神社に突き当たる。新しい道っぽいが、わずかにカーブしており、古い道だとわかる。

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堂宇の中の地蔵菩薩は丸彫の地蔵菩薩立像で、台石には「地蔵供養本願・・」とある。造立年は享保8年(1723)10月で、その下にも文字は続いていそうだが賽銭箱?の陰になって見えない。

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おそらくは古くから貫井坂下の人々に信仰されてきた地蔵尊なのだろう。江戸時代にはこの辺りから西にある庚申塚の三叉路辺りに多くの民家が並んでおり、この庚申塚通りが当時の村の主要道路だったことがわかる。

場所 小金井市貫井南町4丁目19-9

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2025年7月24日 (木)

閻魔堂墓地の六地蔵(小金井市貫井南町)

貫井南町を東西に走る庚申塚通り。庚申塚通りの名前の由来は分岐点にある庚申塔だが、それ以外にも石仏が点在している。この辺りの昔の地名は貫井坂下。現在でもマクドナルドの傍にあるバス停の名は「貫井坂下」という名前である。

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庚申塚通りに入って間もなく閻魔堂墓地がある。閻魔堂がどれか確認できなかったが、閻魔堂の中には複数の仏像が保存されているらしい。墓地の入口には、古い六地蔵があった。造立年は文化12年(1815)。墓所には文政12年(1829)の馬頭観音もあるようだが見つからなかった。

場所 小金井市貫井南町4丁目19番地

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2025年7月21日 (月)

橋場下墓地の石仏(小金井市前原町)

武蔵小金井駅から南へ伸びる都道15号線が霊園通りと分岐してまもなくかなり細くなった野川を渡る。そのすぐ先に変則的な交差点があり、南西の一角に墓地がある。この墓地は橋場下墓地と呼ばれている。おそらく小字では橋場という地名があったのだろう。

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都道側に数段の階段の入口がある。入るとすぐ左手に大きな堂宇があり、石仏が3基並んでいる。左端(都道側)の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像は正徳4年(1714)8月造立。「奉造立念仏供養有無二縁尊」「武刕多摩郡府中領小金井村」の銘がある。隣は丸彫の地蔵菩薩坐像だが頭部は欠損している。造立年は明和5年(1768)4月で「奉納四国西国坂東秩父供養塔」の文字が基壇に刻まれている。

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堂宇の右端には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、安永3年(1774)11月の造立。「武刕多麻郡府中領小金井村講中」の銘がある。

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堂宇を背にして、都道側の塀沿いに複数の石仏が並べられている。その中に珍しいものがある。写真の駒型の線刻で描かれた庚申塔である。造立年は宝永5年(1708)で、青面金剛像は確認できる。「奉造立庚申并百万遍念佛供養所」の文字もある。線刻は極めて珍しいもの。小金井村の村人12名の講中によるもので、しっかりとした保存をしてほしいものである。

場所 小金井市前原町5丁目16-26

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2025年7月18日 (金)

金蔵院墓地の庚申塔(小金井市中町)

小金井神社の前の通りは薬師通り、この道を神社から西に向かうと200mほどで墓所の入口がある。ここは金蔵院の墓所だが訪問時は閉まっていた。墓所内には小金井小次郎の墓というのがあるが、名士ではなく、「小次郎は旧下小金井村名主関家の次男で、関東一円に勢力を持った大親分。流刑先の三宅島では持ち前の義侠心から島民のために井戸を作ったり、自由の身になって再び島を訪れて木炭の製造を指導したりした。」という変わり種のやくざだろうか。

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墓所の入口が開かないので、小金井市指定の庚申塔を門扉から探してみたら、右の方に2基の石仏が並んでおり、その右側がそれだと分かった。墓所の訪問はなかなか難しい。

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左の地蔵菩薩像は不詳。右が市指定文化財になっている寛文六年庚申塔。上部が欠損している。主尊は地蔵菩薩像で、江戸時代初期には多い。造立年は寛文6年(1666)10月。「武州多麻郡付中領(府中の意)小金井村」「奉納庚申供養二世安楽所」という文字がある。地蔵本体の下部に三猿が彫り込まれている。

場所 小金井市中町4丁目11-10

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2025年7月15日 (火)

路傍の地蔵堂(小金井市中町)

小金井市のハケの道は野川の北側(左岸側)にあり、高低差が15m~20mの崖が続いている。何度かこれまでも出てきたが、国分寺崖線の一部で、大昔の古多摩川が削った河岸段丘である。このハケの道沿いには湧水も多く、地表面の土層の下には富士山の火山灰が層をなし関東ローム層を形成、その下には水を通しやすい武蔵野礫層、さらにその礫層の下には粘土層があって、この礫層の下部(粘土層の上)を地下水が通っている。

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ハケの道は江戸時代から明治大正にかけて青梅の木材を多摩川を筏で流して六郷に運び、そこから戻る職人たちの街道でもあった。そのため路傍の石仏も多い。白伝坊の坂とおお坂(中念坂)の間に道幅が変化するところがあって、そこに鉄骨とコンクリートで造られた覆屋がある。

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覆屋の中には舟型光背型の地蔵菩薩立像とみられる石仏がある。上部には阿弥陀三尊像の種子が刻まれている。右脇に文字があるがまったく読めない。後ろにあるのは昔の石仏の基壇と思われる。文字があるが、舟型の地蔵との間がくっついていて読めなかった。従って造立年も不詳である。

場所 小金井市中町1丁目9-5

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2025年7月12日 (土)

観音坂の子育観音(小金井市中町)

国分寺崖線の坂は様々で面白いが、比較的広くて新しい坂のひとつに観音坂がある。もともとはハケの坂と呼ばれていた坂道で、坂の西側にある渡辺家がもともと「ハケの家」と呼ばれていたことからハケの坂と呼ばれていたが、小金井市の公募で観音坂という名前が付いた。

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坂はカーブを描きながらかなりの傾斜になっているが道幅は広めである。坂の西側、観音様の裏手崖上が渡辺家らしい。明治の地図をみるとカーブしておらずかなりの急坂だったようだ。

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斜面には広い覆屋が造られており、その中には子育観音が祀られている。子育観音は別名子安観音とも呼ばれるが、一般的には江戸時代以降の民間信仰で仏教の教軌に捕らわれない自由な作風である。基壇には「子育観音」の文字のほか、「渡辺善一、キミ、建之」の文字や、昭和46年(1971)1月8日の造立年が刻まれていた。

場所 小金井市中町1丁目12-1

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2025年7月 9日 (水)

下小金井村地蔵尊(小金井市中町)

小金井市中町2丁目の路地裏の角地になかなか立派な地蔵堂がある。「下小金井村地蔵尊」と説明版には書かれている。『ここに置かれている地蔵尊、庚申塔は、その昔この南の江戸道(今の連雀通り)中念坂の分離点西側の三角地にお祭りしてあったもので、中山谷部落の農民が信仰する仏様・・・』とある。

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江戸時代から近年にかけてこの辺り、野川左岸は中山谷と呼ばれた地域で、江戸道は現在の都道134号線(連雀通り)で三鷹の牟礼につながっていた。面白いのは牟礼のこの江戸道沿いも中山谷と呼ばれ、同じ地名だったことで、それは偶然かもしれない。中念坂はおお坂とも呼ばれる坂で、連雀通りと薬師通りの分岐の三叉から下る。明治末期までこの三叉路に地蔵堂があり、念仏講が行われており、中山谷の念仏講から中念坂の名前が付いたもの。

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堂前にある大きな燈籠の基壇は文化9年(1812)に建てられたもので、農民の守護神「大山石尊大権現」と「榛名大権現」をお祭りした燈籠の下部になる。前述の三叉に建てられたが、土砂崩れに遭い、道路拡張もあって連雀通り(江戸道)の北側に移されたが、昭和45年(1970)に現在地に移転した。

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堂宇内の右端にあるのが笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、文化2年(1805)10月の造立。「講中30人 世話人権八」の銘がある。その隣は地蔵菩薩立像らしいが本体はほとんど見えない。頭部も欠損しているようで、基壇の情報のみになる。享保元年(1716)7月の地蔵菩薩像で、「右国分寺道 左加奈川道」の道標記載がある。堂内の板書きによると基壇のみで本体はいつかしら失われたとあり、明治期に隣の地蔵とともに本体を載せたらしいと書かれている。なお新しい説明版には「左手に錫杖、右手に宝珠を持った地蔵立像で、加茂下忠右衛門他3名によって建てられた」と記載されていた。

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その隣の地蔵が上の写真の右の舟型の地蔵菩薩像である。造立年は庚申塔と同じ文化2年(1805)で、「念仏講中 下小金井村」の銘がある。下小金井村の念仏講によって造られたものだが、これは前述の中念坂の記載からの歴史がわかっているだけに興味深い。左下の小さな舟型光背型の地蔵菩薩像は文字が消されており詳細は不詳である。

場所 小金井市中町2丁目15-40

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2025年7月 6日 (日)

地蔵通りの庚申塔(小金井市緑町)

東小金井駅から西北西に延びる道は地蔵通りと呼ばれる。駅から200mほどで都道247号線と交差するが、その少し先の奥まったところに堂宇があり、石仏が祀られている。訪問時は都立小金井北高校の生徒がたくさん歩いていた。

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この通りが地蔵通りと呼ばれる所以はこのさらに先にある地蔵堂に由来するもので、この庚申堂が由来ではない。堂宇はブロックではあるがしっかりと造られ、2基の石仏石塔が祀られている。平成18年(2006)までは都道との交差点にあったが、道路拡幅工事のためにこの場所に40mほど移転したとある。

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右は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は宝暦元年(1751)11月で、「武刕多麻郡小金井村」と願主21人の銘がある。また「右り 府中みち、ひたり 京とみち」という道標がある。かなりざっくりとしている。左の小さな角柱は巡拝塔で、「奉納 秩父坂東西国 二世安楽供養」の文字がある。造立年は寛政7年(1795)と刻まれていた。

場所 小金井市緑町1丁目1-19

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2025年7月 3日 (木)

滄浪泉園の石仏(小金井市貫井南町)

小金井警察署の南にある滄浪泉園は有料庭園だが入場は100円と安い。明治大正から戦前の政財界人である波多野承五郎の別荘で命名は犬養毅。狭くなったがそれでも10,000㎡ほどの武蔵野崖線の自然を残す庭園として保存されている。園内には湧水もあり、縄文時代から人が住んできた歴史がある。

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滄浪泉園(そうろうせんえん)は国分寺崖線のハケだが、それは武蔵野台地から沖積層の低地へ移るところで、常緑樹と広葉樹の混在する森が土壌を豊かにして湧水環境を作り上げている。そんな庭園内を回遊すると中には3基の石仏が祀られていた。

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まずは角柱型の馬頭観音である。もとは笠付角柱型だが笠欠となっている。造立年は文化8年(1811)11月とあり、「武列多麻郡貫井村中」の銘が刻まれている。

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次は「おだんご地蔵」と名付けられた丸彫の地蔵菩薩立像。造立年は正徳3年(1713)で、基壇には「奉念仏供養」の文字があるので念仏講中によるものだろうか。月がその左にあるのだが摩滅が激しく読み取れないがどうやら9月のようだ。説明書きは感想文のような内容でどちらかというと小学校低学年向きの印象がある。

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最後は鼻欠け地蔵尊という小さな舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は寛文6年(1666)正月と古いもので、「奉納勤庚申構者也」とある。おそらくは庚申講の初期の物だろう。「武列多麻郡貫井村 施主敬白9人衆中」の銘がある。これらの石仏が波多野氏によって集められたのか、あるいはそれ以降に移設されたものなのかはわからない。

場所 小金井市貫井南町3丁目2-28

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