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2025年8月29日 (金)

墓地の六面幢(小金井市緑町)

小金井市緑町二丁目にある共同墓地(緑町共同墓地)は明治時代の地図にもある古い墓所である。この辺りは当時は小金井村下山谷という地域で、桑畑の広がる農村地域で、集落は現在の北大通りに沿って並んできた。その集落の北側にあるのがこの墓地である。

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墓地は鉄扉が閉まっており、施錠はされていなかったが、中に入るのははばかられると思い外から撮影した。その対象はこの明治20年(1887)造立の地蔵六面幢である。六面幢は六地蔵の代わりに置かれることが多いように思う。基壇には「念仏講中」の文字と、二子石工俣松五郎の銘が見られる。

場所 小金井市緑町2丁目5番地先

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2025年8月26日 (火)

北関野八幡神社の庚申(小金井市関野町)

北関野八幡神社(関野八幡神社)は江戸時代の中期、享保年間の創建。当時はこの辺りを関野新田と呼んだようだが、小金井市の武蔵野台地のあちこちに新田のつく地名が残っており、武蔵野の林を切り開いて農地を開墾した当時の人々の苦労が感じられる地名である。

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北関野八幡神社はこの関野新田の鎮守で、もとあった場所から昭和18年(1943)に移転したという。その場所は小金井公園の東門あたりだというから、現在の武蔵野市桜堤にあたる。戦前までは桑畑などが広がる農地だったが、太平洋戦争直前には地図が真っ白になっており、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業で小金井大緑地が造られた。

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境内社の中で本殿並みに目立つのが、脇にある猿田彦神社。頑丈な堂宇の中に祀られている。堂宇の前にある御影石の石柱には、「寄進 平成14年6月 庚申堂壱棟 内田雪雄」とあるので比較的新しい堂宇である。

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堂宇の中には一基の駒型庚申塔が祀られていた。これが猿田彦神社の御本体だろうか。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、延享3年(1746)7月の造立。関野八幡神社の創建とほぼ同年代である。庚申塔には「奉刻彫青面金剛供養」「武刕多摩郡関野新田願主」の文字がある。

場所 小金井市関野町1丁目5-2

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2025年8月23日 (土)

仙川上の馬頭観音(小金井市梶野町)

梶野通り沿いに流れる水路は仙川の上流。通りの西側を北に向かって流れていた仙川は、二本松の庚申堂の少し先で、通りの東側に位置を変える。この流程は江戸時代から変わらない。

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まるで水路に架かる橋のようだが、水路は道路の反対側から道路を潜って流れてきて、ここで再び90度向きを変えて北流する。橋の名前は特になさそうだ。この水路のドン付きに石造りの角柱がある。実はこれが馬頭観音なのだが、普通に歩いているひとはまず存在に気付かない。

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南側の面には「馬頭観世音」の文字の上部が見える。造立年は側面にあり、弘化3年(1846)2月である。左面を見ると「南・・」とあるので、昔とは90度向きを変えているようだ。文字が埋まっているので資料を確認すると「南 いし原 そめや ふちう道」とあるらしい。昭和40年当時はまだ読めたという。梶野新田の講中が造立したものだそうだ。

場所 小金井市梶野町4丁目20番地先

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2025年8月20日 (水)

市杵島神社の参道の庚申堂(小金井市梶野町)

東小金井駅から梶野通りを北に進むと、東京電機大学中学・高等学校の先に二本松が見えてくる。二本松の脇に庚申堂があり、この堂宇は川の上に基礎を築いて建てられている。この小さな水路は成城学園前から野川に注ぐ仙川の上流で、武蔵小金井駅の北にある山王稲穂神社辺りが水源とされる。

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梶野通り沿いの仙川に架かる橋はこの西側にある梶野市杵島(いちきしま)神社の参道の始まりになっている。この神社はこの辺りの新田開発が始まった享保17年(1732)の創建で、この辺りは当時は梶野新田と呼ばれた地域。境内社のひとつに猿田彦神社があり、それがこの川の上に立つ庚申堂である。

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堂宇は立派なもので、中には笠付角柱型の庚申塔が1基。格子には絵馬がいくつも掲げられている。扁額の位置には可愛く「庚申塔」と描かれた飾りがあり、地元の人々に親しまれている様子が伝わってくる。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝暦2年(1752)9月と刻まれている。新田開発盛んな時代だろう。右側面には「武刕多摩郡梶野新田講中」と書かれている。昔の民家は梶野通りよりも一本東側を南北に走る玉川上水の分水(梶野分水)沿いに並んでいた。この梶野分水は築樋(つきどい)で用水路として少し高い位置に築かれており、仙川を渡る樋の橋もあったようだ。用水路の下流は深大寺(調布市)まで伸び深大寺用水となって流れていた。

場所 小金井市梶野町4丁目12番地先

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2025年8月17日 (日)

太陽寺の石仏(小金井市東町)

太陽寺は東小金井駅から富士見通りを東に500mほど進んだところにある。太陽寺という名前が珍しい。真言宗の寺院で創建は昭和27年と新しい。南関野集落の有志によって建立された。

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新しい寺だが古い石仏もある。本殿前にあるこの六地蔵、見た感じは多少バラバラ感があるが大きさは概ねそろっている。造立年は不詳だが、供養対象の仏様の没年が刻まれている。一番古いのが右端だろうか、天保13年(1842)、天保12年(1841)の紀年がある。一番新しいのは一番左で、安政6年(1859)の行年。他もこの18年の間に入っている。

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六地蔵の近くにあった石仏は右が舟型光背型の地蔵菩薩像で、こちらは年不詳。大きいほうの地蔵菩薩立像は安永6年(1777)3月の造立である。門前の富士見通りは江戸時代からある村街道で、太陽寺の辺りは下染屋という小字だった。南関野はもう少し南の連雀通り筋の小字である。

場所 小金井市東町3丁目18-6

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2025年8月14日 (木)

栗山通りの馬頭観音(小金井市東町)

JR中央線東小金井駅を南に進む。ちょっとした商店街になっていて、栗山通りの表示がある。栗山というのはここから南へ800mほど下ったあたりを東西に走る連雀通りを中心として栄えた集落の名前である。一方、北に栗山通りを進むと1㎞余りで五日市街道と玉川上水に至る。今はない地名だが、通り名に残っているのは何となくうれしい。

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商店街の南の方に一本松があり、その前に堂宇がある。中をのぞいてみると舟型光背型の石仏が祀られている。尊像の下部には「馬頭観世音」と書かれているが、尊像そのものは聖観音である。側面にある造立年は、昭和7年(1932)9月とあり、比較的新しいもののようだ。

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石仏は丁寧に作られた立派なもので、昭和のものとしては質が高い。裏面には文字があり、「東京市街野方願主西浦家」と書かれているらしい。ということはここ(栗山)の物ではないのだろうか。

場所 小金井市東町4丁目38-28

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2025年8月11日 (月)

パールセンターの石仏(杉並区阿佐谷南)

JR中央線阿佐ヶ谷駅から南に延びるアーケード商店街が阿佐ヶ谷パールセンター。夏には阿佐ヶ谷七夕まつりで賑わい、シャッターの閉まった店舗がほとんどない活気ある商店街である。この商店街の中ほどの辻に石仏が祀られて大切にされている。

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撮影は賑わう昼間を避けて朝だったのでまだ石仏の場所を提供している建物の店舗は閉まっていた。この場所は明治時代に杉並村だった頃は村の主要道の交差点だった。パールセンターを南へ下ると青梅街道に出る。北に向かうと世尊院や神明宮のある本村。左の石仏は舟型光背型の地蔵菩薩像で、元禄4年(1691)の造立。痛みが激しいが「奉造立念仏講石塔一基二世安楽所」とあり、「武刕阿佐ヶ谷村」の銘のほか願主名がいくつか見られる。

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右の笠付角柱型の石仏は庚申塔。こちらも同じ元禄4年(1691)の造立で、 日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。右面には「奉供養庚申講二世安楽攸」の文字がある。杉並区が東京市に併合されたのは昭和7年(1932)だが、パールセンターの通りは鎌倉時代に鎌倉街道の枝道として栄えた筋。南北朝時代には江戸氏一族の流れをくむ阿佐谷氏という豪族がこの辺りを支配して、阿佐ヶ谷の地名があったらしい。大正時代には阿佐ヶ谷駅が開業し、その後多くの文筆家が住む町となった。

場所 杉並区阿佐谷南1丁目34-11

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2025年8月 8日 (金)

連雀通りの庚申塔(小金井市貫井北町)

JR中央線はとても古い路線である。明治時代に開通した自分は甲武鉄道という私鉄で、お茶の水から八王子までを結んだ。明治22年(1889)に立川、八王子までがつながった。そんな中央線を西走すると吉祥寺駅の次が境(今の武蔵境)、その次が国分寺である。随分駅間が長い。連雀通りは昔も今も同じ場所で中央線を横切る(くぐる)。

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連雀通りが中央線の北側になると間もなく、北側の路地角にトタン屋根とブロック塀の堂宇が見える。簡素な堂宇だが、なかなか広い。中をのぞくと駒型の庚申塔が祀られている。造立年は文政5年(1822)11月。日月、青面金剛像、三猿の図柄である。

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基壇の正面には「講中」の文字があり、本体の右側面には造立年、左側面には「武州多摩郡貫井新田」の文字がある。基壇の角には、「西 沙(砂)川道」「南 府中道」「東 江戸道」という道しるべが刻まれている。確かにここで進路を南に取ると府中市の中心部に着く。

場所 小金井市貫井北町5丁目20番地先

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2025年8月 5日 (火)

車屋の坂の庚申塔(小金井市貫井南町)

貫井神社の前のハケの道を西へ少し進むと、右上のハケ(崖)の林を上る道が分岐する。林の上には、貫井不動が祀られた不動堂がある。貫井神社のハケの森は大きな樹木の多い少しうっそうとした雰囲気である。この坂道には「車屋の坂」という名前がある。貫井弁天に通じる道だったので「弁天坂」の名前で呼ばれることもあるらしい。ちなみに小金井市中町にも同盟の坂があるが、私はこっちの方が好み。

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特に覆屋もなく、それでもしっかりとした土台の上に祀られているのが、駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな組み合わせで、野ざらしのわりに右上の欠損を除いては保存状態も良い。造立年は正徳元年(1711)11月と刻まれている。

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尊像右には「奉造立庚申供養」の文字があり、下部には「貫井村 同行拾三人庵主真宥」と書かれている。小金井市の資料には載っていなかったが、意外とこの辺りには未記載のものが多い。一部は小金井市文化財センター(小金井市緑町)に移設保管されているものもある。

場所 小金井市貫井南町3丁目8-7

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2025年8月 2日 (土)

車庫脇の庚申塔(小金井市貫井南町)

野川のほとりから貫井神社に向かう。途中湧水の道という細路地があり、まもなく貫井神社のあるハケの道にぶつかる。ここを右へ行けばすぐに貫井神社がある。

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この丁字路の南西側にあるお屋敷の車庫の脇に、生け垣(網付き)に隠れるようにひっそりと石仏が佇んでいる。みると下部に三猿の痕跡が見られるので庚申塔である。形状は板状駒型のようだ。

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真ん中が凹んでいるのはなぜかわからない。かなりの風雨に摩滅してしまったのだろう。従って文字も読めず、造立年などの情報も分からない。しかし古くからあるもののようだ。

場所 小金井市貫井南町4丁目26-19

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