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2025年9月28日 (日)

笠松坂の庚申塔(東久留米市南沢)

南沢通りは西東京市の六角地蔵尊交差点で所沢街道と分かれて北上、東久留米市内で黒目川を渡り大圓寺までの通り。落合川を渡る橋の名前が毘沙門橋だが、少し南に落合川支流の立野川という細流があり、その川を渡る橋が笠松橋である。笠松橋を過ぎると上り坂になり、これが笠松坂。

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笠松坂の坂名の由来がこの場所で、坂上の松の形が笠のようだったという説と、在原業平の笠懸松の説がある。古今和歌集で有名な在原業平は野火止台地に暮らし、草むらに京から呼び寄せた姫と逃げ込んだり、一服休憩で松の枝に笠を懸けたという。坂上のこの場所は大きな塚になっており、その上には庚申堂がある。

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堂内にあるのは立派な笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、元禄7年(1694)8月の造立。「奉造立庚申供養為二世安楽」「武刕南沢村 本願 四宮徳右衛門 同行17人施主敬白」の文字がある。この地域では庚申講が盛んで、昭和末期にもまだ庚申講が開かれていたようだ。この庚申は北向の庚申でご利益が高いとも言われている。

場所 東久留米市南沢2丁目21番地先

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2025年9月25日 (木)

神明橋畔の石仏(東久留米市中央町)

落合川は4㎞ほどの支流で、東久留米市八幡町を源流に黒目川に合流、黒目川はやがて新河岸川に流下し、赤羽の岩淵水門で隅田川(荒川)に注ぐ。落合川を渡す橋のひとつに神明橋がある。すぐ北には南沢神明社という神社がある。氷川神社系列で旧神明山地区の鎮守である。

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神明橋の南側に大きな庚申塔が祀られている。今は中央町だが昔は南沢村神明山という地名であった。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保18年(1733)9月。側面には「庚申待供養塔 南沢村内神明山」と書かれており、講中拾六人とある。

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並んでいる角柱型の石柱は石橋回国供養塔。正面には「石橋日本回国供養塔」とあり、造立年は宝暦10年(1760)霜月(11月)。吉田重兵衛、山下伝兵衛の銘とともに念仏講中三十人とある。側面には「武州多摩郡南澤邑神明山」の銘があるので、回国供養と石橋供養を兼ねて神明橋の架橋記念に建てられたものだろう。現代に暮らす人々にはピンとこないが、橋や坂や峠は世界の境界であり、魔物なども出入りするという感覚が昔の人にあったため、特に橋は供養の対象となったようだ。

場所 東久留米市中央町3丁目11番地先

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2025年9月22日 (月)

坂の地蔵さま(東久留米市中央町)

小金井街道が落合川の源流に近い弁天橋を渡るところから少し南の三叉路の頂点に地蔵堂がある。通称「坂の地蔵さま」と呼ばれているらしいが、小金井街道の緩やかな坂に坂名はないようだ。この分岐点は江戸時代からの分かれ道で、まっすぐ南へ進むと府中、左の道は江戸へ続く道だった。今は左の道も六仙通りといい、イオンモール東久留米の手前まで続いている。

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祀られている丸彫の地蔵菩薩は、明和5年(1768)2月の造立で、「願主円西」の銘がある。円西は少し南にある所沢街道沿いの松本家の地蔵にも彫られていた名前で、当時は村の中心的な僧侶だったのだろうか。

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地蔵の基壇には、「念仏講中 右大山道 左江戸道」とあり、分岐の道しるべの役目を果たしている。「武刕多摩郡前澤村 ふちう(府中)まで三り」とも記されている。前沢村の中心は弁天橋の北側にある前沢宿で、江戸時代末期の規模は114戸、人口550人程度の村だった。徳川家臣であった米津家の領地で、幸町にある菩提寺米津寺(べいしんじ)には米津家の大名墓所がある。

場所 東久留米市中央町5丁目10番地先

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2025年9月19日 (金)

中新田通りの庚申(東久留米市八幡町)

東久留米市八幡町と中央町の境界は都道の小金井街道である。南には旧道の所沢街道と新道の新所沢街道が交差している。小金井街道に交差するもう一つの村道が中新田通りという道。小金井街道から西へ20mほど中新田通りを進んだ角に庚申塔がある。

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写真(上)の右側が中新田通りである。きれいにフェンスで囲まれた境内を持つ庚申塔だが、2023年まではここに桜の巨樹があり、その樹の足元に庚申塔があった。庚申塔の向きは東向きでこれは変わっていない。

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庚申塔は笠付角柱型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。青面金剛の頭部は蛇のとぐろになっていて宇賀神のようだ。造立年は寛政4年(1792)2月で、「武刕多摩郡前澤村新田 講中20人」の銘がある。ちなみに「武刕」の刕は「州」と同じ意味の漢字で、江戸時代の石仏では武州を武刕と書いたものが多い。

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庚申塔の周りには燈籠が4基残っている。「常燈明」の文字がある。この前の道はかつては大山道で古道のひとつらしい。江戸時代は大山詣でが民衆の間では盛んで、埼玉県の方から多摩地区へと続く道には大山道がいくつかあるが、大宮から清戸(今の清瀬)、府中を経て、多摩稲城の関戸の渡しを越えて、厚木へというのが埼玉県側からのメインの大山道である。ここはそのルートの傍にあたる。

場所 東久留米市八幡町3丁目14番地先

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2025年9月16日 (火)

三叉路の地蔵尊(東久留米市中央町)

東久留米市中央町にある六仙公園はとても広い市民の公園で、この辺りの昔の字名が六仙だったことに由来する。六仙の西の地区が古くは川南と呼んだらしい。少し南を通る所沢街道に並行した道が前沢村の中心地に向かう北への道と、そのまま西進して所沢街道に戻る道が分岐する三叉路に小さな地蔵堂がある。

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後の三角地帯は中央第七緑地という小さな公園。この地域が川南と呼ばれたのは北に黒目川支流の落合川が流れていたからではないかと思う。現在は東西の道が六仙通りといい、北に向かうほうが神明通りという。神明通りを進んで落合川を渡る橋が地蔵橋という名前だが、この三叉路の地蔵との関係は分からない。というのも橋までは500m近く離れているからである。

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堂内の地蔵菩薩像は本来は舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、なぜか頂部に頭がついているユニークなもの。造立年は享保3年(1718)9月で、紀年の下に「神明山」の文字がある。調べてみると落合川の近くに神明山公園という小さな公園がある。古い地図(大正~昭和中期)を見てみると神明山は落合川の辺りの地名で、今も南沢神明社(旧神明山の鎮守)がある。

場所 東久留米市中央町5丁目3番地先

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2025年9月13日 (土)

松本家の地蔵(東久留米市中央町)

所沢街道(都道4号線)と小金井街道(都道15号線)が交差する前沢十字路から所沢街道を江戸方向へ少し行ったところに松本家がある。裏の畑を合わせると4,000㎡(1200坪)ほどの広い敷地だが、街道側に塀が切れているところがあり、敷地内に地蔵堂がある。通行人が自由にお参りできる形になっている。

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広い堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。造立年は宝暦10年(1760)2月。「奉造立地蔵再菩薩」の文字が基壇にあり、「武刕多摩郡前澤村」の銘がある。右側面には26名の願主名、左側面には30名の願主名が刻まれており、資料によると裏側には「奉納表口9尺、奥行3間 明治15年9月 松本鉄五良」の銘があるらしい。

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興味深いのは地蔵菩薩の後ろにひっそりと別の丸彫の地蔵菩薩像があること。その由緒については全く不明。地元では親子地蔵と呼ばれているようだ。大正14年に松本家がこの堂宇を建て替えたときには講中の世話で芝居小屋を架けて盛大に落成祝いをしたと伝えられる。かつては前沢地区で地蔵講がそうとう盛んだったことが伺える話である。

場所 東久留米市中央町5丁目7-54

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2025年9月10日 (水)

前沢三叉路の庚申(東久留米市前沢)

東久留米市の中では前沢は南部に位置し、南側を小平市(昔は小平村)に接する地域。前沢の北部を所沢街道が東西に走り、村の街道が南北に走っていたがこの南北の道は現在は都道15号線(小金井街道)である。所沢街道に並行して走る村の街道の三叉路が今も新所沢街道の少し南に残っている。

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その三叉路の北側にも南側にも幼稚園がある。三叉路の三角地帯が境内になっており、大きな欅の木と庚申塔がある。かつては榎の大木が手前に2本あったが消えてしまった。2010年頃までは3本の大木が庚申堂を囲むようにしていたが、2015年頃に枯死が進んだ榎が伐採されたようだ。現在は覆屋はなく、庚申塔は野ざらしだが大切に祀られている。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元禄6年(1693)11月とある。「庚申・拾壱人」の文字があるので、11人の講中が造立したものだろう。庚申信仰の中では初期の物である。

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この庚申塔は性格の激しい庚申様として信じられており、戦時中にこの周りの林の樹木を伐った人が急死して畏れられたらしい。のちに講中の中の松本家のおばあさんが覆屋を作って差し上げようとしたが、占いでは「小屋はいらない」と出て造らなかったと伝えられる。それ以来荒れるに任せたらしいが2010年頃までは簡易な覆屋があったので、誰かが立てたのだろう。傍には絵馬が奉納されており、地元ではこの庚申様は、安産、咳止、歯痛などにご利益があるとされ、そのお礼に絵馬を飾っているそうである。

場所 東久留米市前沢1丁目9番地先

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2025年9月 7日 (日)

寛永寺坂の地蔵(台東区上野桜木)

台東区にある寛永寺坂は坂道のところでも紹介した。JR山手線、京浜東北線などの走る線路群を越える跨線橋の台地側に坂道の説明版があるが、大正時代には踏切を越えて崖を上る急坂だったのを、昭和3年に跨線橋にして実質的には本来の寛永寺坂は消滅したことになる。この跨線橋の台地の端に石仏が祀られている。

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石仏は3基あって、中央の舟型地蔵菩薩立像は宝暦3年(1753)3月の造立。左の小さな舟型地蔵は文字が確認できず、ただ脇に「石敢當(いしがんとう)」と書かれた石碑がある。石敢當は中国福建省発祥の魔物除けの民俗で、坂道や橋などの境界から魔物が入るのを防ぐ意味があるようだ。右の石仏は地蔵ではなく聖観音菩薩。造立年は貞享元年(1684)とあるのでかなり古いもの。江戸時代はこの崖上はすべて寛永寺の境内地で、崖下は金杉村。まさに聖俗の境界である。

場所 台東区上野桜木1丁目15番地先

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2025年9月 4日 (木)

広尾の庚申塔(港区南麻布)

手前ネタを暴露すると今年(2015年)の夏は4人の小学生の孫たちとのスケジュールで散策ままならず、それ以上に余りの酷暑で昼間は身の危険を感じて散策などできなかったため、8月に至っては一度も石仏巡りに行くことができなかった。自分の少年時代は3~4度は低かったと記憶しているが、AIに聞いてみると

江戸時代の夏の気温(推定値)

  • 最高気温:おおよそ 27〜28℃前後
  • 夜間の気温20℃前後まで下がることが多かった
  • 猛暑日(30℃以上):ほとんど存在せず
  • 真夏日(30℃近く):数日程度とされる

この時代は「小氷期」と呼ばれる寒冷期の後半にあたり、現在のような都市化やヒートアイランド現象もなかったため、気温は自然のままに近く、川や海からの風が町を涼しくしていたそうです。

という答えが返ってきた。シーボルトは江戸で34.4度の最高気温を記録したということもあるが、かなり気温は低かったようだ。

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というわけで古い散策の記録(2015年)から引っ張ってきた写真で、上の写真は港区の広尾稲荷神社。社殿の天井には江戸時代の画家高橋由一の天井墨龍図がある。弘化2年(1845)1月に青山から麻布一円を焼いた青山火事によって社殿を焼失したが、翌々年に再建している。その時に描かれたもので、なかなか素晴らしいものである。そして神社の隣にあるのが庚申堂で、こちらには古い庚申塔が3基並んでいる。

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手前の手水鉢も庚申講中によるものらしく、三猿が描かれ「塔前」「庚申」の文字がある。造立年は元禄8年81695)11月。後ろに並ぶ庚申塔は左が笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。ショケラの痕跡もあり、元禄9年(1696)11月の造立。「庚申供養一結衆志」「現当二世安楽也」の文字がある。中央も笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。少し古く元禄3年(1690)10月の造立で、同じく「庚申供養一結衆志」「現当二世安楽也同行17人」の銘がある。右は摩滅して年代不詳だが、説明版によるとさらに古いものらしい。笠が小さい笠付角柱型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。こちらも「庚申供養一結衆〇」「現当二世為安楽也」の銘がある。

江戸名所図会によると当時の広尾は笄川が渋谷川に合流する低地で、ススキの原が広がり、草摘み、虫取り、月見などで江戸町民が行楽地として親しんだ土地。三代家光や八代吉宗らがこの原で鷹狩を楽しんだ。そんな時代のものが今もここにあるのが感動ものである。

場所 港区南麻布4丁目5-61

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2025年9月 1日 (月)

大嶽神社の新旧地蔵(小金井市緑町)

連雀通りが武蔵野市境町で二股に分かれ、やや北西方向に延びるのが富士見通り。この道筋は江戸時代からの道で、中央線の東小金井駅を過ぎると地蔵通りと名前を変えてさらに西に延びていく。東小金井駅から1㎞ほどで地蔵通りは終わる。

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東小金井駅から500mほど西進したところに小さな神社がある。小さな社に不似合いな鳥居が立っている。これが大嶽神社である。西多摩郡桧原村の大嶽神社を勧請したもので、第二次世界大戦末期に創建した。当時までこのあたりは小金井村下山谷という集落で、隣組で火除け盗難除けの神様を分祀、社殿は終戦後に千葉県茂原市の農村修練場にあった廃社を移築した。

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神社の角にブロック造りの覆屋があり、2基の丸彫地蔵菩薩立像が祀られている。本来は1基だが、左が古い地蔵で右が新しく再建された地蔵。新旧が横並びというのは珍しい。右の地蔵は平成17年(1009)に建てられたものだが、左の地蔵は寛政6年(1794)の造立である。小金井村下山谷の念仏講中46人によるもので、願主は清水右衛門、鴨下佐吾兵衛。この土地では百万遍の儀式が江戸時代中期から平成元年(1989)まで続いていたという。台石には「右 ふちう 大山みち」とあり、地蔵の前の道が大山詣の参詣道だったことがわかる。

場所 小金井市緑町1丁目3-31

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